2020年1月26日日曜日

「自ら同行される主」

出エジプト記33:12-23

一緒には行かない
 「あなたはわたしに、『この民を率いて上れ』と言われました」。今日の聖書箇所はこのモーセの言葉から始まりました。確かに神はモーセに「この民を率いて上れ」と言われました。どこに?約束の地にです。「カナンの地」、主がイスラエルに約束された「乳と蜜が流れる土地」にです。

 かつてモーセがミディアンの羊飼いであった時、神は燃える柴の間から「モーセよ、モーセよ」と呼ばれました。そして、モーセに言われました。「見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。また、エジプト人が彼らを圧迫する有様を見た。今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ」(3:9‐10)。そのように、当時エジプトの奴隷であったイスラエルの民をエジプトから脱出させ、彼らを率いて約束の地に導き入れることを求められました。確かに主は「この民を率いて上れ」とモーセに言われたのです。

 しかし、ここでモーセが言っているのは、あの初めの時の話ではありません。この33章の初めに書かれていることです。話の流れは以下のとおりです。

 イスラエルの民はモーセに率いられてエジプトを脱出し、荒れ野へと導かれました。彼らは荒れ野を旅してシナイ山のふもとに到着します。モーセは彼らを置いてひとりでシナイ山に登り、そこで四十日四十夜を過ごしました。そのときに「十戒」を与えられたという話が20章に出ております。

 しかし、モーセが山に留まっている間に、人々はモーセの兄、アロンにこのように要求したのでした。「さあ、我々に先立って進む神々を造ってください。エジプトの国から我々を導き上った人、あのモーセがどうなってしまったのか分からないからです」(32:1)。そこでアロンは人々の身に着けている金の耳輪を集め、それで金の子牛の鋳造を造ったのでした。すると彼らは「イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上ったあなたの神々だ」と言い、その前に祭壇を築き、金の子牛を拝み始めたのです。

 これは神に対する冒涜と反逆に他なりませんでした。神は背く民を滅ぼすと言われます。しかし、そこでモーセは民のために執り成し、赦しを求めて言いました。「ああ、この民は大きな罪を犯し、金の神を造りました。今、もしもあなたが彼らの罪をお赦しくださるのであれば……。もし、それがかなわなければ、どうかこのわたしをあなたが書き記された書の中から消し去ってください」(32:31-32)。このようにモーセは自らが滅びることさえ厭わずに、民が赦されることを求めて神に執り成し祈ったのでした。

 その祈りを聞かれた主はモーセに次のように言われました。「さあ、あなたも、あなたがエジプトの国から導き上った民も、ここをたって、わたしがアブラハム、イサク、ヤコブに誓って、『あなたの子孫にそれを与える』と言った土地に上りなさい。わたしは、使いをあなたに先立って遣わし、カナン人、アモリ人、ヘト人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人を追い出す。あなたは乳と蜜の流れる土地に上りなさい。しかし、わたしはあなたの間にあって上ることはしない。途中であなたを滅ぼしてしまうことがないためである。あなたはかたくなな民である」(33:1‐3)。今日の箇所で「あなたはわたしに、『この民を率いて上れ』と言われました」とモーセが言っているのは、このことです。

 神様はここで三つのことを語っておられます。「約束の地に向かって上っていきなさい」。「わたしは使いを先立って遣わす」。「しかし、わたしは一緒には行かない」。約束の地には入れそうです。荒れ野の困難な旅は終わりそうです。そして、とても豊かな土地に入ることができるようです。神様が「あなたは乳と蜜の流れる土地に上りなさい」と言われるのですから。しかも、神様は使いを先立って遣わしてくださる。「使い」とは天使のことです。天使が先立っていくならば、約束の地に入ることはほぼ確実に順調に実現するのでしょう。しかし、そこで主は言われるのです。「わたしは一緒には行かない」。

 目的とすることが幸福の獲得と困難からの解放であるならば、その目的はある意味で実現されるのです。乳と蜜の流れる土地には入れるのですから。荒れ野の旅は終わるのですから。しかし、これを聞いて民は嘆き悲しんだというのです。これを良い知らせとは受け取らなかったのです。「民はこの悪い知らせを聞いて嘆き悲しみ、一人も飾りを身に着けなかった」(33:4)。それは神様が、「わたしはあなたの間にあって上ることはしない」と言われたからです。神が一緒に行ってくださらないことが彼らにとっては悲しみとなったのです。明らかに彼らの内で何かが変わりつつありました。

 もともと彼らは金の子牛を拝んでいた人たちです。これを偶像礼拝と言います。偶像礼拝の問題とは何か。単に神の像を造ることではありません。礼拝の対象には本質的に関心がないということです。そこから何を得られるかということにしか関心がない。礼拝の対象は何だってよいのです。金の子牛でもよいのです。求めているものが得られればよいのです。極論するならば、求めているものが得られれば、神が共にいなくてもよいのです。それがもともとの彼らの姿だったのです。

 しかし今、主が「わたしはあなたの間にあって上ることはしない」と言われた時、彼らは悲しみ嘆いたのです。明らかに何かが変わりつつあった。何が本当に大事なことなのかを彼らは知り始めていたのです。そのような彼らのために、モーセは神に語ります。それが今日お読みした箇所なのです。

一緒に行ってください
 「あなたはわたしに、『この民を率いて上れ』と言われました」。実は、日本語に訳されていないのですが、最初に「御覧ください」という言葉があるのです。そして、これは13節の後半に対応しているのです。「どうか、この国民があなたの民であることも目にお留めください」。ここで同じ言葉が「目にお留めください」と訳されています。あなたはわたしを名指しで選んで、好意を示すと言われました。そのわたしに「率いて上れ」と言われる「この民」とは、「あなたの民」なのですよ、ということを強調しているわけです。「あなたの民」を「どうぞ御覧ください」と。

 そして、わたしに御好意を示してくださるのなら、「どうか今、あなたの道をお示しください」とモーセは神に求めるのです。その「道」とは、神が行かれる「道」です。すなわち、神と共に歩むことのできる「道」のことです。そのような言い方で、要するに「神様、どうぞ一緒に行ってください」と願い求めているのです。

 そこで主は言われます。「わたしが自ら同行し、あなたに安息を与えよう」。その意味合いは明らかに主が自ら「モーセに」同行するということです。モーセとは共にいて「あなたに安息を与えよう」と言われるのです。しかし、モーセにとって大事なのは「わたし」ではないのです。あくまでも「わたしたち」なのです。神が「わたしたち」と共にいてくださることなのです。

 それゆえに、「わたしが自ら同行する」と言われる神に、モーセは言うのです。「もし、あなた御自身が行ってくださらないのなら、わたしたちをここから上らせないでください」(15節)。その意味するところは、「あなた御自身が《わたしたち》と共に行ってくださらないのなら・・」ということです。そして、執拗に「あなたの民」という言葉を繰り返して訴えるのです。「 一体何によって、わたしとあなたの民に御好意を示してくださることが分かるでしょうか。あなたがわたしたちと共に行ってくださることによってではありませんか。そうすれば、わたしとあなたの民は、地上のすべての民と異なる特別なものとなるでしょう」(16節)。

 そして、神は執り成し祈るモーセの言葉を聞き入れられたのでした。主は言われます。「わたしは、あなたのこの願いもかなえよう。わたしはあなたに好意を示し、あなたを名指しで選んだからである」。そのように、神は彼らを「神の民」と見なし、神が彼らと共に歩んでくださることとなりました。

 神の言葉から明らかなように、それはあくまでもモーセの願いを聞き入れたのであって、イスラエルの民が神と共に歩むに値するからではありません。神は一緒に行かないと言われたのです。「途中であなたを滅ぼしてしまうことがないためである。あなたはかたくなな民である」と主は言われたのです。神が共にいるならば、本来なら彼らは滅びるのです。にもかかわらず、彼らが滅びることなく神と共に生き、神の民として歩むことができるとするならば、それは一重に仲保者であるモーセの執り成しのゆえなのです。そして、そこにおいて現された神の赦しと憐れみによるのです。

 ここに見る神とモーセとのやり取りは、神に導かれる民がどのように成立するのか、人が神と共に生きるとはどういうことなのかをはっきりと示していると言えるでしょう。

 人間の手によって造られた金の子牛であるならば、そのような金の子牛によって私たちの在り方が問われることはありません。人間が思い描いた神、人間の心が造り出した神ならば、そのような神によって私たちの在り方が問われることはありません。しかし、それが生けるまことの神であるならば、その御前において私たちの在り方が問われます。私たちが神に背いてきたならば、神が共に歩まれることは、私たちの滅びを意味するのです。

 それゆえに、そこでなお神に立ち帰り神と共に生きようと願うなら、神が自ら同行してくださることを願うなら、それは神の赦しによる以外、あり得ないのです。仲保者モーセの存在とその執り成しとは、そのことを表しているのです。神の赦しなくして、人が神と共に生きる道はないのです。

 その意味において、神と民との間に立って執り成し祈る仲保者モーセの姿は、来るべき完全な仲保者を指し示していると言えるでしょう。十字架において私たちの罪を贖ってくださった神の独り子、今も神の右において執り成していてくださるイエス・キリストです(ローマ8:34)。

 御子キリストが私たちと共にいてくださる。それゆえに御父もまた共にいてくださる。それゆえに第二朗読において私たちが聞いたこともまた実現しているのです。「わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。わたしたちがこれらのことを書くのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるようになるためです」(1ヨハネ1:3‐4)。

(祈り)

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