2019年2月17日日曜日

「正しそうに見えるが何かがおかしい」

ルカによる福音書6:1‐11

何かがおかしい
 今日の福音書朗読は「安息日」の話でした。ユダヤ人の安息日は土曜日です。厳密には、日没と共に日付が変わりますから、金曜日の日没から土曜日の日没までが安息日です。この安息日を守ることについては、本日の第一朗読で読まれました、モーセの十戒の中の第四戒として記されております。「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない」(出エジプト20:8‐10)。

 「いかなる仕事もしてはならない。」――信心深い人たちは、それを文字通り守ろうとしました。何が「仕事」に当たるかを明らかにするために議論を繰り返し、39種類の主要な労働が安息日に禁じられるようになりました。そして、さらにはそれぞれの労働について39の禁止事項が作成されるに至ります。全部で1521の禁止事項。驚くべき細かさです。イエス様の時代にはまだそこまで細かくなかったようですが、禁止事項の中には例えば刈り入れをすることや脱穀をすること、また、通常の医療行為なども含まれていました。

 さて、そのような「安息日」にこんなことが起こりました。「ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは麦の穂を摘み、手でもんで食べた。ファリサイ派のある人々が、『なぜ、安息日にしてはならないことを、あなたたちはするのか』と言った」(1‐2節)。

 他人の畑のものを勝手に食べたら泥棒です。それは「安息日」に限らず、咎められても仕方ないだろうと私たちは思います。しかし、実はこれは許されている行為だったのです。モーセの律法にこう記されているからです。「隣人の麦畑に入るときは、手で穂を摘んでもよいが、その麦畑で鎌を使ってはならない」(申命記23:25)。これは貧しい人たちへの配慮です。旧約聖書の中には、このような暖かい配慮がしばしば見られます。ですから、ファリサイ派の人たちが咎めたのも、彼らが他人の畑の麦を勝手に食べたからではありません。その行為を「安息日」にしたから問題にしているのです。「なぜ、安息日にしてはならないことを、あなたたちはするのか」と。

 つまり弟子たちの行為は、安息日の禁止条項にひっかかったのです。彼らは穂を摘みました。これは「刈り入れ」という労働に当たります。また、麦の穂はそのままでは食べられません。彼らは穂を揉みほぐして食べた。これは「脱穀」および「食事の準備」に当たります。笑い話ではありません。彼らは大真面目にそう思っているのです。そのような安息日に禁止されている労働をどうしてするのか!と咎めているのです。

 それに対してイエス様は言われました。「ダビデが自分も供の者たちも空腹だったときに何をしたか、読んだことがないのか。神の家に入り、ただ祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを取って食べ、供の者たちにも与えたではないか。」ダビデは確かに律法に反することをしたのです。決まりを破ったのです。しかし、神はそのダビデを咎めていないし、処罰もしていないではないか。イエス様はそう仰りたいのでしょう。神様は単にダビデが決まりを破ったということだけに目を留めてはおられなかったのです。

 考えてみてください。イエス様の弟子たちが麦を摘んで手でもんで食べたということは、よほど空腹だったということでしょう。その空腹な人たちが麦を摘んで食べることが安息日律法にひっかかって問題であるならば、彼らが律法違反をしなくていいようにパンを少しでも分けてあげたらよいだけの話ではありませんか。なのに、この信心深い人たちは、彼らの空腹の辛さには全く思い至らない。ただ彼らが決まりを破ったということしか見えていない。

 何かがおかしい。何か変です。しかし、こういうことは、私たちにも身近な話だと思いませんか。人の間違った行為しか見えない。その人の苦しみを思うこともないまま、ただ間違った行為を責めて、咎めて、戒めて。そこから何も善いものが生まれてはこない。そのような私たちの内にもしばしば見られる人間の「何かがおかしい」という部分がより一層見えてくるのが、今日お読みしましたもう一つのエピソードです。別な安息日に起こった出来事です。

心の麻痺した人々
 「また、ほかの安息日に、イエスは会堂に入って教えておられた。そこに一人の人がいて、その右手が萎えていた」(6節)。右手が萎えていたというのは、麻痺していたということです。わざわざ「右手」と書かれているところを見ると、その人の利き腕だったのでしょう。利き腕が麻痺していたら、そうとう不便です。苦しい生活を強いられてきたのでしょう。その人がイエス様によって癒された。手が元通りになった。そのような話です。しかし、今日の聖書箇所の中心は明らかにこの人の癒しそのものではありません。その周りにいた人々とイエス様とのやりとりです。

 周りの人たちに目を向けてみましょう。7節にこう書かれています。「律法学者たちやファリサイ派の人々は、訴える口実を見つけようとして、イエスが安息日に病気をいやされるかどうか、注目していた。」場面は安息日の会堂です。彼らは礼拝のために集まっていたということです。しかし、彼らは神を礼拝する場所で、聖書が朗読されているその場所で、神の言葉を聞いているはずのその場所で、彼らは神のことを思ってはいなかったのです。彼らがそこにいたのは、イエスを訴える口実を見つけるためでした。

 先ほど触れましたように、安息日の禁止事項には医療行為も含まれていました。命が危ない時には安息日であっても、手当をすることが許されていた。しかし、生命に危険がない場合の通常の医療行為は禁じられていました。手が萎えていること自体は命の危険に晒されているわけではありません。しかし、彼らは分かっているのです。イエスはその人の苦しみを見るならば癒すに違いない、と。そうすれば律法違反で訴えることができる。それが、礼拝の場所で、しかも手が萎えて苦しんできた人を目の前にしていながら、聖書に精通していた人たちが考えていたことでした。

 何かがおかしい。何かが変です。イエス様は癒されるべき手の萎えた人を前にしていましたが、イエス様からすれば健常者である周りの人々の方がよほど麻痺した人たちに見えたに違いありません。ただ麻痺しているのが右手でないだけです。心が麻痺した人たち。右手が麻痺しているこの人の方がよほど状態は良かったとも言えます。少なくとも、この人は礼拝するために会堂にいたのであって、手は麻痺していても心は神様に向いていたのですから。

 心の麻痺の方が人間にとってよほど深刻です。ファリサイ派の人たちと律法学者たちにもう一度目を向けてみましょう。彼らの目の前で右手の萎えた人が癒されました。明らかに神の憐れみの業として、その人の右手が癒されたのです。彼らは神の恵みを目にしているのです。その人の喜びも目にしているのでしょう。きっと涙を流して喜んでいたに違いない。しかし、その喜びを目の当たりにしても、彼らは一緒に喜べないのです。何と書かれていますか。「ところが、彼らは怒り狂って、イエスを何とかしようと話し合った」(11節)。神の恵みに触れて喜んでいる人と、一緒に喜ぶことができない麻痺した心。それは右手が麻痺しているよりも深刻です。

安息日の中に
 もちろんイエス様はそのような彼らの心をご存じでした。「イエスは彼らの考えを見抜いて」(8節)に書かれていましたでしょう。イエス様はご存じでした。それゆえに、イエス様はあえてこの人を真ん中に立たせて、癒されたのです。それは「安息日」が何であるかを明らかにするためでした。そして、彼らを「安息日」の中に正しく据え直すためでした。そして、その話が聖書に書かれて今読まれているということは、ここにいる私たちにもそのことが必要だということなのでしょう。私たちもまた、本当の意味で「安息日」の中に繰り返し置かれなくてはならないのです。

 イエス様は言われました。「あなたたちに尋ねたい。安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか」(9節)。イエス様は問いかけます。改めて考えさせるためです。「安息日」とはそもそもいかなる日であるのか。神が望んでおられるのはいかなることなのか。そうです、神が安息日を定められたのは、単に何かを禁ずるためではなかったはずなのです。

 今日は第一朗読で出エジプト記が読まれましたが、安息日の規定は申命記の中にも書かれています。申命記には安息日を守るべき理由について、このように記されているのです。「あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない。そのために、あなたの神、主は安息日を守るよう命じられたのである」(申命記5:15)。つまり安息日とは本来、神様の恵みと憐れみを思い起こす日だったのです。

 その直前にはこう書かれています。「七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、牛、ろばなどすべての家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。そうすれば、あなたの男女の奴隷もあなたと同じように休むことができる」(申命記5:14)。皆を休ませるのです。牛やろばまで休ませるのです。それは最終的には、男女の奴隷を休ませるためです。自分が神の憐れみを受けたことを思い起こして、この場合、男女の奴隷に至るまで、すべての隣人を休ませるのです。

 そのように、安息日とは神の恵みと憐れみを思い起こす日であり、さらには、神の恵みと憐れみを思い起こしたなら、今度は恵みと憐れみに与った者として恵みと憐れみを他の人に向ける日であったはずなのです。神の恵みを分かち合い、一緒に喜ぶ日――イエス様もあのファリサイ派の人たちも、そのような安息日のただ中にいたはずなのです。その事実を彼らに示すため、イエス様は右手の萎えた人を真ん中に立たせました。そして、その人を癒されたのです。ファリサイ派の人たちが、「安息日」の中に正しく据え直されるためでした。そのようにして麻痺した心もまた癒されるためでした。

 結果的に見るならば、残念ながら、あのファリサイ派の人たちが本当の意味で「安息日」の中に身を置くことはありませんでした。「ところが、彼らは怒り狂って、イエスを何とかしようと話し合った」。明らかに「安息日」の外に身を置いている彼らの姿がそこにあります。しかし、先にも申しましたように、このことが書かれ、今ここで読まれているのは、ここにいる私たちのためなのです。私たちはもはや、禁止事項で一杯になったままであるあの「安息日」に身を置くことはありません。私たちが礼拝のために集められているのは主の日である「週の初めの日」(24:1)だからです。これは私たちの罪のために十字架におかかりくださったイエス様が復活された日です。まさに神の恵みと憐れみがこれ以上ない仕方で現された日、主の日に集められているのです。

 これは神の恵みを分かち合い、一緒に喜ぶ日です。神の恵みと憐れみを思い起こしたなら、今度は恵みと憐れみに与った者として、恵みと憐れみを他の人に向けるようにと、この日は与えられているのです。――そのような本当の意味における「安息日」の中に、主が私たちを繰り返し正しく据え直してくださいます。そのようにして、麻痺した手ならぬ、麻痺した心もまた主が癒してくださいます。今、私たちがここに身を置いているとは、そういうことなのです。

(祈り)

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