ルカによる福音書5:33‐39
あなたの弟子たちは!
今日の聖書箇所に、「人々はイエスに言った。『ヨハネの弟子たちは度々断食し、祈りをし、ファリサイ派の弟子たちも同じようにしています。しかし、あなたの弟子たちは飲んだり食べたりしています』」(33節)。
ユダヤ人社会において重んじられていた敬虔な行いを代表するものが三つありました。「施し」と「祈り」と「断食」です。ここで言及されているのはそのうちの二つです。しかし、それにしても人を比較してこういうことを言う「人々」って、いったいどういう人たちなのでしょう。
実は、今日の箇所は前の話の続きなのです。日本語に訳されていませんが、続きを示唆する言葉があるのです。そうしますと、この人々(彼ら)というのは前に出て来た「ファリサイ派の人々やその派の律法学者たち」ということになります。つまり彼らの言葉によれば、度々断食し、祈りをしている人たちです。
実際、ファリサイ派の人たちが重んじていたのは月曜日と木曜日に行う週二回の断食でした。それは律法に定められていたことではありませんが、神の御前に「善い行い」として意識的に行っていたことでした。そして、それは彼らの誇りでもあったのだろうと思います。後にイエス様のたとえ話に出て来るファリサイ派の人が、祈りの中でこう言っていますから。「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています」(18:11‐12)。
しかし、今日の聖書箇所に見るように、何かを意識的に行っていて、しかもそのことを誇りに思っている人は、往々にして同じように行っていない人に対して批判的になりやすいものです。自分たちが大事に思っていることをあからさまに軽視するような行動を取られると、確かに腹も立ってくるので、ついつい言いたくなるのでしょう。「ヨハネの弟子たちは度々断食し、祈りをし、ファリサイ派の弟子たちも同じようにしています。しかし、あなたの弟子たちは飲んだり食べたりしています。」
そのように批判的な目を他者に向けているとどうなるのでしょう。そのような人たちが増えるとどうなるのでしょう。批判的な空気がコミュニティに満ちてくるとどうなるかは容易に想像できます。今度は自分が批判されることを恐れるようになるのでしょう。人の目を気にするようになる。彼らの場合、断食するにしても、周りの人々から見て、自分がきちんと断食しているように見えるかどうかが重要になるのです。それこそ誰が見ても「断食している」と分かるようにしなくてはなりません。
そう言えばイエス様が「断食」についてこんなことを語られたことがありました。「断食するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない。偽善者は、断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている」(マタイ6:16)。このようなイエス様の言葉から察するに、実際、一生懸命に暗い顔をして、いかにも「私は罪を悔いて断食してます」という顔して、自分の敬虔さをアピールしている人は少なくなかったものと思われます。
表向きには信心深い人々の集団、敬虔なコミュニティ、そして、そのような人たちが中心となっている敬虔な社会であったに違いありません。しかし、実際にはお互いがお互いを監視して、お互いがお互いを批判し合っていて、だから批判されないように一生懸命に表向きを取り繕っている。なんとも不自由な命のない交わりがそこに形作られることになると思いませんか。しかし、一般的に言って宗教の世界というものはそのようなものになりやすいのです。
祝宴は始まっている
「ヨハネの弟子たちは度々断食し、祈りをし、ファリサイ派の弟子たちも同じようにしています。しかし、あなたの弟子たちは飲んだり食べたりしています。」そのように言う人々に対して、イエス様は言われました。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客に断食させることがあなたがたにできようか」(34節)。これがイエス様の答えでした。
「花婿が一緒にいる」とはどういうことでしょう。当時の婚礼においては花婿が到着すると祝宴が始まります(マタイ25:1以下)。「花婿が一緒にいる」とは、もう花婿が到着して、婚礼の祝宴が既に始まっているということです。明らかに、その花婿とはイエス様御自身のことです。キリストという花婿がこの世界に到来している。だから、もう既にこの世界に祝宴が始まっているのだ。そのようなイメージをもってイエス様は語っておられるのです。
ではその既に始まっている婚礼の祝宴とは何でしょう。イエス様は何をおっしゃりたかったのでしょう。そこで、私たちはこれが語られた場面を思い起こさなくてはなりません。この話はその前に書かれていることの続きですと申しました。その前に書かれているのは、レビという徴税人が弟子になったという話です。
イエス様に招かれたのがよほど嬉しかったのでしょう。レビは、自分の家でイエス様のために盛大な宴会を催しました。「そこには徴税人やほかの人々が大勢いて、一緒に席に着いていた」(29節)と書かれています。それを見たファリサイ派の人たちがこう言いました。「なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか」と。するとイエス様はこう言われたのです。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」(31‐32節)。
イエス様は罪人を招いて一緒に食事をされました。そんなことをしたら、世の敬虔な人たちから批判されることは重々承知の上でそうされました。なぜでしょう。既に神の祝宴が始まっているからです。既に始まっている祝宴が何であるかを最も良く現しているのが、罪人を招いての食事でした。イエス様の到来と共に始まっているのは、この世に来られたメシアが罪人を招かれる祝宴です。招かれ集められるのは、裁かれて滅ぼされるためではありません。そうではなくて、神に立ち帰って、罪を赦されて救われるためです。神に立ち帰ることを「悔い改め」と言います。「罪人を招いて悔い改めさせる」とはそういうことです。神に立ち帰らせるためにイエス様が招いてくださる祝宴です。
それはどんなに大きな罪の重荷を背負っている人であっても神様のところに帰ることができる祝宴です。その祝宴がなんであるかは、15章に語られている「放蕩息子のたとえ」において明らかです。どれほど神様に背き続けて遠く離れてしまった人であっても神様のところに帰ることができる祝宴です。自分で自分をもてあまして、もう嫌気がさしているような人であっても、神に受け入れてもらえる祝宴です。そこには赦しがあります。救いがあります。完全な救いの中に迎え入れてもらえる。そんな祝宴が始まっているのです。イエス様の到来と共に始まっているのです。
皆さん、私たちもまた、そのような祝宴に招かれたのです。イエス様の到来によって始まった祝宴に招かれたのです。今、私たちがこうして集められているのは、その目に見えるしるしです。祝宴であるならば、まずそこに相応しいのは、招いてくださった方と喜びを共にすることでしょう。招かれた他の人々と一緒に、神様の恵みを喜ぶことでしょう。神様に赦されていること、愛されていること、罪を赦していただいて神様のもとに帰れたことを一緒に喜ぶことでしょう。教会とはそういうところです。教会において一番大事なことは、神様の恵みを一緒に喜ぶことなのです。祝宴なのですから。そこには、敬虔さのアピールでしかないような形式的な断食など入る余地はありません。主は言われるのです。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客に断食させることがあなたがたにできようか」。
その招きは十字架のキリストによって
しかし、そこには一言加えられています。主はこう続けられたのです。「しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その時には、彼らは断食することになる」(35節)。「花婿が奪い取られる時が来る」という主の言葉は、直接的にはキリストが捕らえられ、十字架にかけられて殺されてしまうことを指していることは明らかです。
イエス様は罪人を招かれました。神の祝宴へと招かれました。しかし、イエス様は分かっておられたのです。そのように罪人を招く自分自身は、十字架にかかって死ななくてはならないことを。すなわち、罪の赦しが豊かに与えられる祝宴が行われるためには、自分自身が罪の贖いの犠牲として屠られなくてはならないことを知っておられたのです。
私たちは神の恵みを共に喜びます。そのような喜びへと招かれました。しかし、私たちは決して忘れてはなりません。そのような救いの喜びへと招いてくださった御方は、私たちの罪の贖いとして十字架にかかられた御方であるということ。ですから、教会では古くからキリストの御受難を覚えるレントの期間に断食が行われてきたのです。また初期の教会は火曜日と金曜日に断食を行っていたのです。
そのような意味における断食はやはり大事です。私たちは文字通り食を断つという断食をするかもしれませんし、しないかも知れません。しかし、それでもなお、時にはキリストの十字架を仰ぎつつ何かを断つということは大事なことなのでしょう。あるいは断食によって身を苦しめるのでなくても、時としてキリストの十字架を思いつつ苦しみを耐え忍ぶこと、重荷をあえて背負って行くことは大事なことなのでしょう。それもまた信仰生活の一部なのです。
そのような祝宴の喜びにせよ断食にせよ、キリストと共に到来して私たちに与えられているのは、いわば「新しいぶどう酒」です。「宗教」という名の古いぶどう酒ではなく、沸々と発酵し命が泡立っている新しいぶどう酒です。キリストが到来して私たちに与えてくださったのは、「新しい宗教」なのではなく、新しい命であり新しい命による新しい生活です。
イエス様は言われました。「新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れねばならない」(38節)と。そのような「新しいぶどう酒」を入れるために、教会は常に「新しい革袋」でなくてはならないのでしょう。あのファリサイ派の人たちに見られたような、古い革袋になってしまってはなりません。新しいぶどう酒を入れたら破れてしまうような、そんな革袋になってしまってはならないのです。常にしなやかで、柔軟で、祝宴の喜びがどのような形で溢れてきても大丈夫、また同時に、喜びだけでなく真の断食もその中にしっかりと納めている、そのような「新しい革袋」であること。それは頌栄教会にとって、具体的にどのような教会となっていくことなのでしょうか。私たち一人ひとりがどのような信仰者となっていくことなのでしょうか。