ローマ15:7‐13
互いに相手を受け入れなさい
「だから、神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい」(7節)。そのように勧められていました。「だから」という言葉で始まっていますように、この勧めは前に書かれていることを前提としています。この直前には次のような祈りの言葉が記されています。「忍耐と慰めの源である神が、あなたがたに、キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせ、心を合わせ声をそろえて、わたしたちの主イエス・キリストの神であり、父である方をたたえさせてくださいますように」(5‐6節)。「忍耐と慰めの源である神」へのこの祈りを前提として、「あなたがたも互いに相手を受け入れなさい」と勧められているのです。
パウロの祈り求めている内容は、要するに「心を合わせ声をそろえて、礼拝させてくださるように」ということです。そのように一つとなって礼拝をささげる教会となることを祈り求めているのです。しかし、これを「祈り求めている」ということは、とりもなおさずこのことが容易なことではないからでしょう。人間の力で実現できることならば祈り求める必要はないからです。実際、これとは逆のことが教会には起こります。この手紙を受け取っているローマの教会においても、一つとなって礼拝することを妨げるようなことが起こっていました。詳細はこの前の14章に書かれていますが、簡単に言えば、キリスト者は肉を食べてもよいか、それとも食べてはいけないのか、ということを巡っての意見の対立があったのです。
ローマの教会の話を持ち出すまでもなく、私たち自身経験的に知っています。同じ思いをもって生きられるようになることは容易なことではありません。ましてやすべてが神の御前にある礼拝において、真に心を合わせて声をそろえて父である神をたたえられるようになることは、本当はとてつもなく難しいことなのでしょう。少なくともそこに向かうためには、少なくとも互いが互いを受け入れるということが必要になってまいります。しかし、互いに相手を受け入れるということ自体、簡単なことではありません。時として相当な忍耐を必要とします。
私たちは皆、忍耐することを好みません。水が低い方に自然に流れるように、自然な傾向としては忍耐を要しない方向に向かいます。建て上げるよりは壊すほうに、一つになろうとするよりは、分裂する方向へと自然に向かいます。そのようにして、似た者たち、もともと同じ考えを持ち、もともと同じ感じ方をする者たちだけで共にいることを求めます。それは共同体の分裂という形で起こりますし、異質な者の排除という形を取ることもあります。自分自身が出て行くという形を取ることもあるでしょう。いずれにせよ、忍耐を要する関係は切ってしまった方が楽になります。そのように、私たちの自然の性質は忍耐を要する関係からの逃げ道を求めます。
しかし、忍耐を要する人間関係から私たちが逃げ回って生きることを、神様は望んでおられません。神は、互いに異なる者が共に生きることを望んでおられるのです。さらには、互いに異なる者たちが、心を合わせ声をそろえて礼拝する者となることを望んでおられるのです。教会という存在自体が既にそのような神の心が表れです。教会はもともと同じ思いを抱いている者が「集まった」のではありません。キリストにより、背景の異なる様々な者たちが「集められた」のです。何のために?集められた者たちが、心を合わせ声をそろえて主を礼拝するためにです。
そのように、神様は私たちが互いに相手を受け入れ、一つとなっていくことを求めておられる。そのような神様であるからこそ、神様はまた私たちに対して、「忍耐と慰めの源である神」となってくださるのです。今日の説教題は「希望の源である神」です。13節に書かれています。しかし、その「希望の源である神」は、「忍耐と慰めの源である神」なのです。そのような神だからこそ「希望の源である神」でもあるのです。
ちなみに「忍耐と慰めの源である神」というのは意訳です。原文には「忍耐と慰めの神」と書かれているのです。その第一の意味は、確かに新共同訳にあるように、「忍耐と慰めの源である神」ということなのでしょう。私たちに必要な慰め(励まし)を与え、忍耐を与えてくださる神様であるということです。神様が望んでいることの実現に必要なものは、神様が与えてくださるのです。だからその御方にパウロは祈り求めているのです。
しかし、「忍耐と慰めの神」とは、「忍耐強く慰めに満ちた神」という意味でもあります。実際、聖書には神が忍耐強い御方であることが繰り返し語られています。そして、私たちたちがキリストを通して見いだす神は、まさに「忍耐強く慰めに満ちた神」であると言えるでしょう。神がまず私たちを耐え忍んでくださいました。神がキリストにおいて、私たちを赦してくださいました。神がキリストにおいて、私たちを受け入れてくださいました。私たちは当たり前のように今ここにいますけれど、ここに私たちが集まっていること自体、まさに神の忍耐と慰めの賜物なのでしょう。本来ならば、遠の昔に打たれて滅ぼされていても不思議でない私たちです。しかし、神は確かに私たちに対して「忍耐と慰めの神」でした。
この「忍耐と慰めの神」への祈りがあってこその、今日の勧めの言葉です。「だから、神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい」。そのようにあろうとするならば、「忍耐と慰めの神」こそが源泉です。水源から切り離された川は涸れてしまいます。私たちの忍耐が神から切り離されるならば、それは干乾びた「やせ我慢」にしかなりません。干乾びた我慢は対立を克服する力を持ちません。むしろ怨念を増大させ亀裂を深めます。干乾びた我慢ではなく、命に満ちた、真に力に満ちた忍耐と慰めを神に求めましょう。神は「忍耐と慰めの神」なのですから。
希望の神
そして、この「忍耐と慰めの神」こそが、「希望の神」でもあるのです。この「希望の神」にパウロはこう祈っています。「希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように」(13節)。この祈りに見られる「喜び」にしても「平和」にしても「希望」にしても、私たちが生きるために不可欠なものでしょう。それらを与えてくださるのは「希望の神」です。そして、「希望の神」は「忍耐と慰めの神」なのです。
「忍耐」と「希望」。この二つは切り離すことができません。実は、この二つが切り離せないことは、この同じ15章において既に語られているのです。「かつて書かれた事柄は、すべてわたしたちを教え導くためのものです。それでわたしたちは、聖書から忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けることができるのです」(4節)。「かつて書かれた事柄」とは「聖書に書かれている事柄」ということです。この聖書から「忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けることができるのです」と言うのです。「忍耐と慰めを学ぶ」とは、既に語ってきた「忍耐と慰めの神」を知るということでしょう。その神を知ってこそ、「希望の神」をも知ることができるのです。
先にも申しましたように、神は互いに異なる者が共に生きることを望んでおられます。互いに異なる者たちが心を合わせ声をそろえて礼拝する者となることを望んでおられるのです。パウロの時代において、互いに異なる者たちの代表は「ユダヤ人」と「異邦人」でした。最初の教会にはユダヤ人しかいませんでした。しかし、神のビジョンの中には初めからユダヤ人以外、すなわち異邦人たちも含まれていたのです。神はその両者が共に心を一つにして礼拝することを望んでおられたのです。それは既に旧約聖書において語られていたことでした。
パウロはここで次のような旧約聖書の言葉を引用しています。「異邦人よ、主の民と共に喜べ」(10節)、「すべての異邦人よ、主をたたえよ。すべての民は主を賛美せよ」(11節)。それら旧約聖書の言葉が描き出しているのは、まさに全世界が心を合わせ声をそろえて主を礼拝している姿です。キリストが来られたのは、まさにそのためであったとも言えるのです。「それは、先祖たちに対する約束を確証されるためであり、異邦人が神をその憐れみのゆえにたたえるようになるためです」(8‐9節)と書かれているとおりです。
一方、私たちが現実に周りを見回せば、それとは正反対の世界があります。そこには人間の罪のゆえにズタズタに引き裂かれた世界があります。互いに傷つけ合い、憎み合い、殺し合っている世界があります。最も小さな単位であるはずの家族でさえ喜びをもって共に生きることはしばしば困難です。親と子は引き裂かれ、夫婦の関係も引き裂かれている。それがこの世界の姿です。そして、残念なことに、それはまたこの世界に存在する現在の教会の姿でもあります。
しかし、私たちはもう絶望しなくてよいのです。もう諦めたり、逃げ出したり、投げ出したりしなくてよいのです。この世界はキリストの血潮が流された世界だからです。神が御子の血を流してまで、赦し、受け入れ、忍耐をもって担おうとしておられる世界だからです。そのように、私たちをも赦し、受け入れ、忍耐をもって担っていてくださるのです。だから私たちは、神のビジョンの中に既にあるように、身近な人間関係においても、さらには全世界についても、一つとなって心を合わせ声をそろえて礼拝するその時を希望をもって待ち望んでよいのです。私たちは、希望をもって喜んで生きてよいのです。「忍耐と慰めの神」は「希望の神」でもあるからです。
私たちが身近な小さな対立を乗り越え、互いに受け入れ合うことなど、ある意味では世界の片隅における本当にちっぽけなことかもしれません。しかし、その小さな現実の中で私たちが「忍耐と慰めの神」と共に生きていくことは、この世界に「希望の神」を指し示すことでもあるのです。「忍耐と慰めの神」に祈りつつ、教会が心を合わせ声をそろえて礼拝しようとしていることは、この世界に「希望の神」を指し示すことでもあるのです。私たちは「忍耐と慰めの神」に、命に満ちた、真に力に満ちた忍耐と慰めを祈り求めましょう。そのようにして、「希望の神」をも知る者とならせていただきましょう。そして、「希望の神」をこの世界に指し示す教会にならせていただきましょう。
(祈り)