2026年9月13日日曜日

「神の祝福を分かち合う生き方」

2026年9月13日 主日礼拝説教 

コリントの信徒への手紙二 9:6‐15

人と人とを結びつけるために
 本日の第2朗読は次のような言葉で始まっていました。「つまり、こういうことです。惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです」(6節)。

 ここで語られているのは募金の話です。募金は誰かを助けるために集められます。ということは、もう一方において助けを受ける人たちがいる、ということです。ならば、直接的には募金の話ですが、もう少し広く見るならば、「誰かを助けること」そして「誰かから助けられること」の話であると見ることもできます。私たちは皆、ある時には助ける側に、そしてある時には助けられる側に身を置きながら生きていきます。その意味では、ここに書かれていることは、私たち自身の人生に深く関わっている話であるとも言えます。

 この場合、パウロは助ける側にいます。助けを受けるのは、当時の貧しいエルサレムの教会です。彼は各地の教会に募金を勧め、それらを集め携えて自らエルサレムに行くつもりでいたのです。それはある意味ではとても危険なことでした。エルサレムにはパウロに敵対しているユダヤ人たちがたくさんいたからです。

 なぜ危険を冒してまでも、募金を集めて届けたいと思ったのか。そこには貧しいエルサレムの教会を助けたいという熱烈な思いがあったことでしょう。しかし、それだけではありません。彼の内にはもう一つの大きな目的があったのです。それは主にユダヤ人から成るエルサレムの教会と主に異邦人から成る各地の教会を結びつけることだったのです。

 最初の教会はエルサレムにおいてその産声を上げました。初期のキリスト者は全員ユダヤ人でした。イエス・キリストを信じる者となった後も、彼らは決してユダヤ人であることをやめたわけではありませんでした。

 しかし、やがて福音はユダヤ人以外にも伝えられるようになりました。ギリシア人やローマ人などの異邦人がイエス・キリストを信じるようになりました。パウロが旅をする先々においても、ユダヤ人ではなく異邦人たちが熱心に耳を傾け、主に異邦人から成る教会が各地に次々と誕生していきました。

 当たり前のことですが、異邦人のライフスタイルはユダヤ人のそれとはかなり違います。そして、その違いは俄かに大きな問題となってきました。やがて、異邦人キリスト者にも割礼を受けさせ、律法を守らせ、ユダヤ人と同じ生活をさせるべきであると主張する人々が出てきました。このままでは、遅かれ早かれ異邦人キリスト者とユダヤ人キリスト者は分裂せざるを得ないようにも見えました。

 しかし、そのような折、大飢饉がユダヤに起こりました。その飢饉の影響は貧しいエルサレム教会をも直撃したようです。そこでパウロはどうしたか。異邦人を主とする各地の諸教会に、エルサレムの貧しい信徒たちを支えるための募金を促したのです。ただ助けるためではありません。このことにおいて異邦人キリスト者とユダヤ人キリスト者が結びつけられることこそが重要だったのです。

 助けること、そして助けられること、与えること、そして受けることにおいて、人と人とが出会い、そこに新たなつながりが生まれます。本来ならば対立関係にある人々でさえ、結びつけられるようなことが起こります。ならば、私たちがある時に助ける側、与える側に置かることも、そして、ある時には助けられ、受ける側に置かることにも、そこには神の目的と大きな意味があると言うことができるのでしょう。

種蒔きとして考えなさい
 しかし、もう一方において、助けること、助けられること、与えること、受けることが、必ずしも本当の意味で人と人を結びつけるものとはならない可能性もあります。その一番分かりやすい例が、今日の聖書箇所に垣間見られます。

 今日の聖書箇所は、主に与える側に身を置いた場合に関することが書かれています。そこで注目すべき言葉は、例えば、6節の「惜しんでわずかしか種を蒔かない」という言葉。さらには「不承不承」とか「強制されて」という言葉(7節)。惜しみながら与えること。強制されて不承不承に助けること。仕方ないからということで、何かを**してあげること**。そう、「何かをしてあげている」という意識で行うこと。それは本当の意味で人と人とを結びつけることにならない。むしろ互いを引き離すことにもなり得ます。

 だからこそ、そうならないように、次のようにパウロは語っているのです。「つまり、こういうことです。惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです」。与えるなら、助けるなら、それを「種蒔き」として考えなさい、ということです。

 しかし、ここには注意が必要です。これを単純に、「与えることは、結局は巡り巡って自分に返ってくるのですよ。与えることは、結局は自分の利益になるのですよ。もっと大きな収穫として返ってくるんですよ」という教えと見るならば、そのような教えは聖書でなくても、世の中にはいくらでも見られます。「情けは人の為ならず」と言うではありませんか。

 皆さん、確かに、そう考えれば《惜しまないで与えること》はできるようになるかもしれません。自分の利益になるのだと分かれば、不承不承でもなくなるかもしれません。しかし、何か変だと思いませんか。「結局は私のところに返ってくるのだ」と考えながら、まるで先行投資をするかのように、助けたり、与えたりすることが、本当に人と人とを結びつけることになるでしょうか。ならないだろうと思うのです。

神の祝福を分かち合う
 実は、パウロがここで言っているのは、いわゆる「情けは人のためならず」ということではないのです。「惜しまず豊かに蒔く人」と訳されていますが、直訳すれば「祝福に基づいて蒔く人」という表現が使われているのです。ただ「豊かに蒔く人」ではないのです。既に与えられている祝福がある。これから与えられる祝福がある。祝福してくださる神がおられる。だから神に感謝しながら、神を誉め讃えながら豊かに蒔くのだ。――そのような意味合いなのです。

 ですからその後に「神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる善い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります」(8節)と書かれているのです。さらには「種を蒔く人に種を与え、パンを糧としてお与えになる方は、あなたがたに種を与えて、それを増やし、あなたがたの慈しみが結ぶ実を成長させてくださいます」(10節)と書かれているのです。

 そのように、満ちあふれさせることがおできになる神、与え、増やし、成長させてくださる神様に思いを向けることが大事なのです。同じ豊かに蒔くにしても、ただ「これは自分の利益になるのだ」と思って蒔くのと、神の祝福を思って、神に感謝して、神を賛美して蒔くのとでは天と地ほどの開きがあるのです。

 もし神の祝福を思いながら、賛美しながら蒔くのなら、――そうです、神の祝福を分かち合うこととして与えるのならば、受ける側に期待するのは何ですか。わたしに対する「ありがとう」ではありません。そうではなく、「一緒に神に感謝しましょう」「一緒に神を賛美しましょう」ということになるでしょう。

 11節に書かれているのはそういうことなのです。「あなたがたはすべてのことに富む者とされて惜しまず施すようになり、その施しは、わたしたちを通じて神に対する感謝の念を引き出します」(11節)。あくまでも重要なことは、そこで「神に対する感謝の念」が引き出されることなのです。

 そのように神の祝福を分かち合い、一緒に神に感謝し、一緒に神を賛美できるなら、そこで人と人とはつながるではないですか。そこに本当の意味で互いのための祈りも生まれてくるのでしょう。そのように考えると、この章のまとめとしてパウロが書いていることもよく分かります。13節からもう一度お読みします。

 「この奉仕の業が実際に行われた結果として、彼らは、あなたがたがキリストの福音を従順に公言していること、また、自分たちや他のすべての人々に惜しまず施しを分けてくれることで、神をほめたたえます。更に、彼らはあなたがたに与えられた神のこの上なくすばらしい恵みを見て、あなたがたを慕い、あなたがたのために祈るのです。言葉では言い尽くせない贈り物について神に感謝します」(13‐15節)。

 ここを読みますと、パウロがこの募金を行うに当たって、どのような関係を目指していたかがよく分かりますでしょう。しかし、そこで最後にもうひと言付け加えたいと思うのです。

 冒頭において、ユダヤ人と異邦人の問題に触れました。一つになることがもともと難しい関係です。なので、実際には、今まで述べてきたように共に神をほめたたえ、神に感謝して一つとなることは、必ずしも簡単ではありません。パウロもそんなことは分かっているのです。そこに至るまでには、時として長い道のりを経なくてはならないかもしれない。

 しかし、何事でも最初の一歩がなければ前には進まないのです。最初の一歩を踏み出すなら、少なくとも一歩は互いに近づくのです。そして、今日の聖書箇所は私たちに大切なことを教えています。その第一歩はこちら側から始まるのだ、ということです。パウロがしようとしていたことは、その一歩を踏み出すことだったのです。

 それは私たちにおいても同じです。その一歩とは何か。まず、私たち自身が神の祝福を信じることです。「神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる善い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります」。――このことを信じることです。そして、まず他の誰かがではなく、私たち自身が神に感謝と賛美をささげて、少しでも神の祝福を分かち合う者として生きることです。

 私たちは祝祷を受けてここから世に遣わされます。神の祝福を信じて歩み出しましょう。そして、いかなる関係においても、たとえ今は困難であっても、やがては共に感謝と賛美を捧げて一つとなれることを信じてここから歩み出しましょう。

以前の記事