ルカ22:39‐53
次聖日はイースターです。イースター前の一週間は「受難週」と呼ばれます。今日は「棕櫚の聖日」と言いまして、イエス様がエルサレムに入城された日に当たります。そして、今週の木曜日は弟子たちと最後の食事をした日に当たります。その時にイエス様が弟子たちの足を洗われた(ヨハネ13:5)ことから、「洗足木曜日」などと呼ばれます。ということで、今週の「洗足木曜日」には、近隣の教会がお隣の代田教会に集まって共に祈りの時を持ちます。翌日の金曜日がイエス様の十字架につけられた日に当たります。そして、三日目の日曜日に復活祭を迎えます。そのように、今週は特にキリストの御苦しみを思いつつ一週間を過ごしましょう。
キリストの恐れ
さて、今日の聖書箇所は、弟子たちとの最後の晩餐を終えたイエス様が、祈るためにオリーブ山に行かれたことを伝えています。40節には「いつもの場所に来ると」と書かれていますが、その場所は他の福音書において「ゲッセマネ」と呼ばれています。この箇所を読みますと、まず強烈に心に迫ってくるのは、イエス様の祈りの言葉です。主はひざまずいて、こう祈られました。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」(42節)。私たちはまずこの祈りの言葉に耳を傾けたいと思います。そこにあるのは恐れと従順です。そこにはキリストの恐れがあります。そして、キリストの従順があります。
キリストは恐れていました。その姿は、「イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた」(44節)と伝えられています。マルコによる福音書では、もっとはっきりと「ひどく恐れてもだえ始め」(マルコ14:33)とあります。この「恐れ」は先週読まれたヘブライ人への手紙の言葉と関係しています。そこにはこう書かれていました。「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました」(ヘブライ5:7)。キリストは激しい叫び声をあげ、涙を流しながら祈った。「死から救う力のある方」に祈った。そこにあったのは明らかに「死に対する恐れ」です。聖書ははっきりとそのことを伝えています。
キリストは死を恐れた。それは実に意外なことに思えます。なぜならここまでの話の流れにそぐわないからです。イエス様はここに至るまでに少なくとも三回、御自分の受難を予告しておられます。例えば、18章31節以下にはこう書かれています。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子について預言者が書いたことはみな実現する。人の子は異邦人に引き渡されて、侮辱され、乱暴な仕打ちを受け、唾をかけられる。彼らは人の子を、鞭打ってから殺す。そして、人の子は三日目に復活する。」これは三度目の予告です。つまりイエス様はエルサレムで自分の身に何が起こるかを知っておられたのです。それを知りながら、エルサレムに向かわれたのです。
この直前の食事においても、これが捕らえられる前の最後の食事となることを主は明らかに知っておられました。ですから、その食事の際に、「これはわたしの体である」と言ってパンを与え、「これはわたしの血である」と言って杯を回されたのです。イエス様には分かっていたのです。
さらに言うならば、裏切ったユダが祈りの場所に人々を手引きして連れてくることさえも知っていたのです。その場所こそが、民衆に知られることなくイエスを捕らえるために、格好の場所だったからです。ユダがそこに武装した人々を連れて来る。そのことを知った上で、あえて「いつもの場所」に向かったのです。
ならば、そこに本来期待されるのは、泰然自若として捕らえに来る者を待つキリストの姿でしょう。自らの死を静かに受け入れ、恐れることなく、うろたえることなく、ただその時を待つキリストの姿。――しかし、そのような姿はここには見られません。キリストは恐れて、苦しみもだえて祈っておられます。聖書はあえてその姿を伝えているのです。ならば私たちもまたしっかりとその姿に目を向けなくてはならないのでしょう。
イエス様は、「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください」と祈られました。キリストが恐れたのは、父から受けようとしていた「杯」でした。その「杯」が何であるかを知るゆえに恐れていたとも言えるでしょう。「杯」は苦しみを象徴しています。しかし、それはただ苦しみであるというだけではありません。旧約聖書において詩編にもイザヤ書などの預言者の書にも、繰り返し神からの杯が語られていますが、そこにおいて「杯」が意味しているのは人間の罪に対する神の怒りであり神の正しい裁きなのです。
その杯をひとりで受け、飲み干すこと――メシア・キリストであるということは、そういうことなのだということを、主は知っておられたのです。それこそが世を救うことになるのだ、ということを。世を救うということは、世の罪を贖うということなのです。私たちの救いのために、私たちの罪を代わりに背負うということです。罪人として神の裁きを代わりに受け、罪人として死んでいくということです。それがメシアとしての苦しみであり、メシアとしての死なのです。
ならば、キリストが死を前にして恐れているとするならば、それは私たちに代わって恐れているということになるのでしょう。本当に恐れなくてはならないのは罪ある私たちであるはずなのでから。キリストがもだえ苦しんでいるとするならば、それは私たちに代わってもだえ苦しんでいるということなのです。
実際、私たちは罪がなんであるかを本当の意味で知らないのだろうと思います。それゆえに死が何であるかを本当の意味では知らない。罪ある者として罪を負って死んでいくということがどういうことであるかを知らない。だから死を恐れたとしても、キリストのように恐れているわけではありません。
裁きとしての死を知っているのはイエス様です。あの御方は私たちに代わって恐れ、そして苦しまれました。そして、実際に神の杯としての死を受けとり、飲み干されました。その意味において、イエス様があれほど恐れた、あの死の苦しみを負わせたのは、他ならぬこの私たちだということです。受難週において、私たちが向き合わなくてはならないのはその事実です。
誘惑に陥らないように祈りなさい
そして、もう一つ。私たちが目を向けなくてはならないのは、キリストの従順です。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」。そこには恐れと共に従順がありました。そこにはキリストの従順がありました。
「この杯をわたしから取りのけてください」という祈りに、単純に「わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」という祈りが続いたと考えてはなりません。恐れから信頼と従順へ。そのためには、恐れを伴った苦しみもだえながらの激しい祈りがあったことを聖書は伝えているのです。
その祈りの末に、主は立ち上がります。イエス様は弟子たちのところに戻られます。眠り込んでいた弟子たちに語りかけておられると、ユダに手引きされた群衆が現れました。ユダはイエスに接吻しようと近づきます。主は言われました。「ユダ、あなたは接吻で人の子を裏切るのか」。事の成り行きを見てとった弟子の一人が大祭司の手下に剣をもって打ちかかり、その右の耳を切り落としました。しかし、主は彼を制して言います。「やめなさい。もうそれでよい」。そして、その耳を癒されました。イエス様が地上で行われた最後の癒しの奇跡でした。こうしてイエス様は捕らえられてゆきました。天の父の御心に従うために。「わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」と祈った者として。
そして、そのキリストの従順と共に、弟子たちへの言葉が伝えられているのです。二回繰り返されています。「誘惑に陥らないように祈りなさい」(40節)。「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい」(46節)。それはあの弟子たちだけでなく、後の教会にも与えられている御言葉です。キリストに死の苦しみを負わせたことを知った者への言葉です。キリストが父の杯を飲み干してくださったゆえに救われたことを知った者への言葉です。キリストの従順によって救われたことを知った者への言葉です。
キリストの従順によって救われた者は、キリストの従順に倣う者となるよう招かれます。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と招かれます。しかし、そこには誘惑もまたあります。キリストに従うことから引き離す力が働きます。だからこそ、主は「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われるのです。
「誘惑に陥らないように祈りなさい」。主はそう言われて、「そして自分は、石を投げて届くほどの所に離れ、ひざまずいてこう祈られた」と書かれています。「石を投げて届くほど」の距離とはどのくらいでしょう。よく分かりませんが、少なくとも遙か彼方でないことは確かです。主の祈る姿が見えるところ。激しく叫び祈るイエス様の声が聞こえるところ。彼らは身を置くことを求められた。そこで、彼らもまたイエス様と共に祈ることを求められたのです。イエス様の御苦しみを思いつつ、彼らもまた「誘惑に陥らないように祈る」ことが求められているのです。
しかし、実際には彼らは眠ってしまいました。「彼らは悲しみの果てに眠り込んでいた」(45節)と書かれています。弟子たちはイエス様の祈りの姿だけを伝えたのではなくて、眠り込んでいた自分たちの姿を一緒に伝えたのです。
「悲しみの果てに眠り込んでいた」と書かれていますように、試練の中にあって、悲しみの中にあって、まさにその時こそ、誘惑に陥らないために祈らなくてはならないという時に、実際には祈ることをやめてしまうことはあり得ます。眠り込んでしまったらイエス様の姿も声も聞こえないように、霊的に眠り込んでしまったならば、私たちの救いのために苦しみもだえて祈られたイエス様の御姿を思うこともありません。
それはあの弟子たちだけではありません。いつの世の信仰者の経験でもあるのでしょう。だから彼らの姿が伝えられているのです。私たちも例外ではないでしょう。しかし、眠っている弟子たちのところにイエス様は戻ってこられます。そしてもう一度言ってくださいます。「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい」と。イエス様が起こしてくださる。ならばそこから祈り始めたらよいのでしょう。