ヨシュア3:9‐17
この後、新成人の祝福の時を持ちます。成人式は言うまでもなく、人生において一つの大きな節目であり区切りです。もう未成年とは呼ばれない。一人の大人としての判断と責任ある行動が求められるようになります。成人という節目だけでなく、この一年の間に大きな節目を迎える人は他にも沢山いることでしょう。卒業する人、入学する人、就職する人、転職する人、新しい地に転居する人。私たちは人生の途上において、様々な形で、一つの時代の終わり、そして新しい時代の始まりを経験いたします。
今日の第一朗読に登場しましたヨシュアという人、そしてヨシュアに率いられるイスラエルの民も、一つの大きな時代の区切りに立っていました。彼らをエジプトから導き出したモーセという偉大な指導者は世を去りました。神によって新しい指導者ヨシュアが立てられました。目指してきた約束の地は、ヨルダンの向こうに広がっています。一つの時代が終わり、新しい時代が始まろうとしていました。彼らそこにおいて神からいったい何を聞いたのでしょうか。彼はその言葉にどのように応えたのでしょうか。
ヨルダン川を渡れ
このヨシュア記は次のような言葉から始まります。「主の僕モーセの死後、主はモーセの従者、ヌンの子ヨシュアに言われた。『わたしの僕モーセは死んだ。今、あなたはこの民すべてと共に立ってヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている土地に行きなさい』」(1:1‐2)。そのように、「ヨルダン川を渡れ」という主の命令から始まるのです。
それから彼らは三日をかけてヨルダン川を渡るための準備をしました。そして、ついに3章に入り、彼らはシティムを出発します。当然、ヨルダン川を渡るために出発したのです。ところが3章の冒頭には次のように書かれています。「ヨシュアは、朝早く起き、イスラエルの人々すべてと共にシティムを出発し、ヨルダン川の岸に着いたが、川を渡る前に、そこで野営した」(1節)。
宿営地シティムからヨルダン川まで、10キロほどの道のりです。朝早く出発したのですから、どんなにゆっくり歩いても午前中には到着したはずです。しかし、彼らはその日のうちにヨルダン川を渡りませんでした。そこには「野営した」と書かれています。その次を読みますと「三日たってから」と書かれています。三日間、ヨルダンの岸辺で野営していたのです。
なぜそこに三日も留まっていたのでしょうか。理由は至って単純です。渡りたくても渡れなかったのです。15節には「春の刈り入れの時期で、ヨルダン川の水は堤を越えんばかりに満ちていた」と書かれています。春の刈り入れの時期というのは、遠いレバノン山の雪が解け、ヨルダンの水かさが増し、両側の低地に水が溢れる時です。その濁流泡立つヨルダンを前にして、彼らはどうすることもできなかった。民の中の屈強な者たちだけなら、渡ることもできたでしょう。しかし、老人たちや子供たちもいるのです。皆が渡ることは極めて困難なことでした。
主は「ヨルダンを渡れ」と言われる。ヨシュアも民も従いたいと思っている。しかし、現実にはそこに渡れない川がある。考えてみれば、それは私たちにとっても身近な話でしょう。
私たちは週毎に集まって御言葉を聞いてきました。そのように主に向かい続ける中で、「ヨルダンを渡れ」と主が言われることがあったのではありませんか。主が向こう岸を指し示しておられる。主が与えようとしているものを指し示しておられる。そのために従うことを求められる。御言葉に従いなさい。ヨルダンを渡りなさい、と。そして、私たちも分かっている。御言葉に従うことが最善であると。しかし、現実には、そう「現実には」ヨルダンの川の水は堤を越えんばかりに満ちているのです。ヨルダンを渡ることは極めて困難に思える。ヨルダンの岸辺に野営していた三日間。ヨルダンという「現実」を前にした三日間。そこにおける心の葛藤。私たちにも覚えがあるのでしょう。もしかしたら、三日間ではなく、もう長い長い間ヨルダンを前にして野営している人がいるかもしれません。
濁流泡立つヨルダンを前にすると、いろいろ言い訳したくもなります。「聖書はそう言っているかもしれないけれど、現実にはそうはいかないよ」。「説教で語られていることは分かるけれど、実社会ではそんなことばかり言っていられないですよ」。「時が悪いよ、時が。」そう言って従うことを後回しにし、先送りにしたくなります。そして、やがては生ける神が語りかけられる言葉を求めなくなる。そうではなくて、自分の現状を肯定してくれる言葉ばかりを求めるようにもなることも起こります。
自分自身を聖別せよ
しかし、三日経った時、ヨシュアは民にこう言ったのです。「自分自身を聖別せよ。主は明日、あなたたちの中に驚くべきことを行われる」(5節)。困難が目の前にある時こそ、神の驚くべき御業を見る時でもあるのです。しかし、その前にヨシュアは言うのです。「自分自身を聖別せよ」と。
自分自身を聖別するとはどういうことでしょうか。モーセの律法には儀式として、例えば衣服を洗うことなどが書かれています。しかし、主がただ単に形式的に衣服を洗ったり身を洗ったりすることを求めているのではないことは明らかでしょう。元来「聖別する」ということは、神のために、神のものとして取り分けることを意味するのです。ですから「自らを聖別する」ということは、自分自身を神のものとして取り分けることなのです。自分自身を完全に神のものと見なし、神に自らを捧げるということでしょう。自らのアイデンティティをはっきりさせることです。
皆さん、私たちはいったい何ものなのですか。私たちは主のものです。キリストの血によって贖われた私たちにとっては、なおはっきりと示されているではありませんか。私たちが受けている聖餐は、キリストの体と血にあずかることです。私たちがパンを受けるということ。杯を受けるということは、そのようにして、キリストと一つとされた私たちであること、そのようにして主のものとされた私たちであることを、まさに私たちの体をもって表明することでもあるのでしょう。
そのように「自らを聖別する」こと。そのようにして自分自身が何ものであるのかをはっきりさせること。主の民であるということをはっきりさせること。それこそが、ヨルダンを前にして立ち、決定的な時代の区切りに立った彼らに求められていたことでした。それがあってこそ「主は明日、あなたたちの中に驚くべきことを行われる」という言葉も続くのです。それがあってこそ主の御業を見るのです。
そのように語ったヨシュアに、主はこう言われました。「あなたは、契約の箱を担ぐ祭司たちに、ヨルダン川の水際に着いたら、ヨルダン川の中に立ち止まれと命じなさい」(8節)。これは、ある意味で無茶苦茶な命令です。「ヨルダン川の水際に着いたら、ヨルダン川の中に立ち止まれと命じなさい。」――ヨルダン川の中に立ち止まれるくらいなら、とうの昔に皆渡っているはずなのです。水かさは増し、まさに水は堤を越えんばかりに満ちているのです。そのような中に入って行ったら、たちまちのうちに足をすくわれてしまうでしょう。しかも、これを契約の箱を担いで行えと言う。大事な契約の箱が流されてしまったらいったいどうするのでしょうか。
しかし、主はそこで、あえて信仰の一歩を踏み出すことを求められるのです。具体的に一歩を踏み出すことを求められる。ヨシュアは民に言いました。「全地の主である主の箱を担ぐ祭司たちの足がヨルダン川の水に入ると、川上から流れてくる水がせき止められ、ヨルダン川の水は、壁のように立つであろう」(13節)。
ここにはっきりと語られています。「祭司たちの足がヨルダン川の水に入ると」。言い換えるならば、祭司たちの足がヨルダン川に入るまでは何も起こらないということです。祭司たちが濁流の中に一歩を踏み出すまでは何も起こらないのです。決定的に重要なのは、神に信頼して踏み出すこの信仰の一歩だということです。この信仰の一歩を踏み出した時、人は神の御業を見るのです。それが人々に与えられた神の約束の言葉だったのです。
これを聞いて、イスラエルの民はどうしたでしょうか。14節にはこう書かれています。「ヨルダン川を渡るため、民が天幕を後にしたとき」。感動的な言葉です。確かにここには「ヨルダン川を渡るため」と書かれている。どれほど困難に見えようが、どれほど不可能に見えようが、彼らは「ヨルダンを渡るため」に川へと向かったのです。一部の祭司たちだけが向かったのではありません。皆、祭司たちと共に信じて、決断して、実際に立ち上がったのです。天幕を後にしてヨルダンへと向かった。祭司たちだけではなく、皆共に、ヨルダン川を渡るための信仰の一歩を踏み出したのです。
ここを読みますと、その情景が目に浮かぶようです。朝日を背に受けた祭司たちの小さな行列が、ゆっくりとヨルダン川に近づきます。濁流が音を立てて流れるその川には何も起こりません。「驚くべきことを行われる」とヨシュアは言いました。しかし、何も起こらないのです。水が引く気配すら見えません。しかし、祭司たちは立ち止まりません。人々も立ち止まりません。そして、ついにその足が水際に浸りました。すると驚くべきことが起こった。「川上から流れてくる水は、はるか遠くのツァレタンの隣町アダムで壁のように立った」(15節)。
聖書の強調点はその不思議な出来事そのものにあるのではありません。そうではなく、祭司の足が水の中に踏み出された時に起こった、ということです。信仰の一歩を踏み出した時、今までなかった道が開かれたということです。その結果「民はエリコに向かって渡ることができた」と書かれています。彼らは約束の地に入ることができました。一つの時代が終わりました。そして、主の言葉に従ったところから、イスラエルの民に新しい時代が始まったのです。
さて、冒頭において、成人式は人生における大きな節目であり区切りであると申しました。また、その他にも大きな節目を迎える人は沢山おられると申しました。しかし、考えてみれば、成人しても、あるいは入学しても進学しても、生活環境が激変しても、その人生が本質的には何も変わらない、何も新しくはなっていないということもあり得るのではありませんか。ヨシュアの場合がそうであったように、いつでも私たちにとって本当の意味での節目、真の区切りは、私たちが信仰の一歩を踏み出す時なのです。その時に、私たちの前には今まで見えなかった道が開け、新しい時代へと踏み出していくことになるのです。
(祈り)