日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネによる福音書 9章1節~12節
神の業が現れるため
その人は生まれつき目の見えない人でした。両親は彼に物乞いをさせました。親が亡くなった後でも彼が生きていくためには恐らくそれが唯一の道だったからです。その日も彼は人通りの多い道の傍らに座っていました。すると声が聞こえてきました。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」(2節)。
何も特別なことではありません。それまでに幾度となくこのような声は聞いていたでしょうから。子供たちの単純素朴な質問として、あるいは人生経験を積んだ老人たちの声として、そして、ラビの弟子たちの宗教的な問いとして。いや、恐らく彼自身も幾度となく同じ問いを繰り返していたことでしょう。「わたしがこのような不幸を背負っているのは、わたしの罪なのだろうか。両親の罪なのだろうか。いったい誰が悪いのか。」
私たちにも覚えがあります。ある時は自分自身の苦しみについてであるかもしれません。あるいは他の誰かの不幸についてであるかもしれません。この世界に起きる災いについてであるかもしれません。その時、私たちも問わずにいられなくなります。いったい何が原因なのですか。だれが罪を犯したからですか。いったいだれが悪いのですか。私たちの心は誰かを悪者にしなくては収まりがつきません。
その意味で、彼が耳にしたのはなんら特別な問いではありませんでした。しかし、続いて聞こえてきたのは今まで聞いたことのないような言葉でした。声の主はこう言ったのです。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」(3節)。
この人は自分の負っている苦しみについて「なぜ」と問うことはあっても、「何のために」と問うことは恐らく一度もなかったに違いありません。「だれが罪を犯したからか」と過去に思いを向けることはあっても、「自分の人生に何が現れるためなのか」と未来に希望の目を向けることは一度もなかったに違いないのです。目の見えない彼には声の主が見えません。しかし、そこには確かに彼の未来に目を向けている御方が立っておられました。「神の業がこの人に現れるためである」と。それは彼にとって天地がひっくり返るほどの驚きであったことでしょう。
するとその方はにわかに唾で土をこねて泥を作り始めました。そして、その泥を彼の目に塗り始めたのです。もちろん彼には見えません。しかし、土をこねているらしいことは分かりました。その泥を塗られたこともわかりました。そこで声の主が言いました。「シロアムの池に行って洗いなさい」。その人は言われるままに塗られた泥を洗い落としに行きました。そう、ただ洗うために行ったのです。ところが泥を洗い落とすと、その目に光が入ってきたのです。それはどんな感覚なのでしょう。わたしには想像することもできません。しかし、とにかく彼は生まれて初めて光を経験したのです。
シロアムの池に行って洗いなさい
さて、これは昔ある所にいたある個人の特殊な体験の話ではありません。もしそうなら、話としては面白いとしても、ここにいる私たちにとってさほど重要な話ではありません。しかし、そうではないのです。だからこそ今日まで語り継がれてきたのです。ヨハネによる福音書に記されているイエス様の奇跡は特に「しるし」と呼ばれています。それはキリストによる救いを指し示す「しるし」であり、一つ一つ象徴的な意味を持っているのです。そこにはいつの時代の人にも向けられた神のメッセージがあるのです。では、ここにいる私たちにとって、この出来事は何を意味しているのでしょう。
この物語に出てきたのは「生まれつき目の見えない人」でした。当時の人たちは目を「窓」のように考えていたようです。体の窓です。そこから光が入るのです。この窓が閉ざされてしまいますと、光が入ってきません。たとえ外に太陽の光が燦々と降り注いでいたとしましても、目が閉ざされているならば、その人自身は暗闇の中を生きることになります。この物語に出てきたのは「生まれつき暗闇の中を生きてきた人」と言うことができます。
さて、同じことが神と人との間にも起こります。ヨハネの手紙にこんな言葉があります。「わたしたちがイエスから既に聞いていて、あなたがたに伝える知らせとは、神は光であり、神には闇が全くないということです」(1ヨハネ1:5)。神は私たちを照らし、私たちを生かすまことの光です。しかし、神の光が私たちを照らしていたとしても、私たちの目が神に対して閉じているなら、私たちは暗闇の中を生きることになるのです。人間にとって本当の不幸は、人生に数々の苦しみがあるということではありません。病気であることや、様々な問題を抱えていることではありません。神に対して閉ざして、神の光を締め出して、暗闇の中に生きていることなのです。
その閉じた目が再び開くために、神の光が心の中に差し込んでくるためには、いったいどうしたらよいのでしょうか。イエス様はまず彼の目に泥を塗りました。目を洗わせるためです。そのようにして、人間には洗い落とさなくてはならないものがあることを示されたのです。それを、弟子たちが言っていたのとは違った意味で「罪」と呼ぶこともできるでしょう。人間の罪が神との断絶をもたらし、神の光を妨げ、暗闇をもたらすのです。その罪が洗い落とされねばならないのです。
それゆえに、主は彼にこう言いました。「シロアムの池に行って洗いなさい」。「シロアム」とは「遣わされた者」という意味であるとわざわざ説明が付いていました。この福音書において「遣わされた者」とはキリストのことです。「シロアムの池」はキリストを象徴的に表しているのです。洗い流されねばならない泥は、キリストを表す「シロアムの池」の水によって洗い流されねばならないのです。光を遮り私たち自身に闇をもたらしている罪の問題を、私たちは自分の力で拭い去ることはできないからです。私たちはただ洗い流していただくしかないのです。キリストによって洗い流していただくしかないのです。
その意味において、「シロアム(遣わされた者)の池」はキリストの十字架を象徴しているとも言えるでしょう。キリストは十字架にかかるためにこそ、遣わされたのですから。キリストの十字架は、私たちのためでした。私たちの罪が洗い流されるために、罪のない方が私たちの罪を引き受けて、罪を贖う犠牲として血を流してくださったのです。ただこの罪のない方の流された血潮によってのみ、私たちの罪は洗い清められるのです。
そこに十字架がある。そこにシロアムの池がある。それは、どんな人でも光の中へと歩み出すことが出来ることを意味します。どんな人でも、罪を赦された者として、洗われた者として、神の光の中を、神と共に生きていくことができるのです。そのために必要なことは、ただ信じることです。あの目の見えない人が光の中を歩み出すのに必要なことは、信じてシロアムの池に行って洗うことだけでした。そうです。人間に求められているのは、イエス・キリストを信じて罪の赦しと清めを願い求め、洗い流していただくことだけなのです。
その出来事を目に見える形で表しているのは、そのような信仰によって受ける洗礼です。ですからこの「シロアムの池」は昔から洗礼を表すものとしても語られてきたのです。
わたしたちは行わねばならない
そして、最後になお一つのことに目を向けたいと思います。この人に神の御業が現れました。神の光の中を生き始めるという神の御業が現れました。既に見てきましたように、それは全ての人に起こりえる神の御業でもあります。人が信仰をもって神と共に生き始めるという神の御業です。
しかし、イエス様が「神の業がこの人に現れるためである」と言われた後に、一言このようなことを言っておられるのです。「わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。わたしは、世にいる間、世の光である」(4‐5節)。
「神の業がこの人に現れるためである」。しかし、神の御業は自動的に現れるのではありません。ある人の上に神の御業が現れるためには、そのために働く人が必要であるようです。神と共に働く人が必要なのです。
この話においては、働いたのはイエス様だけでした。イエス様が全部なさって「シロアムの池に行って洗いなさい」と言われたのです。しかし、未来永劫ずっとイエス様が一人でなさるつもりではないようです。「わたしたちは」と主は言われるのです。「わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない」と。
イエス様はあの弟子たちに「一緒にやろう」と言われたのです。ですから後の弟子たちは一緒にやってきたのです。もっとも弟子たちにできることは「シロアムの池に行って洗いなさい」と言うことぐらいです。しかし、あの弟子たちも、後の教会も、イエス様を指し示しながら、そして洗礼の水を指し示しながら、「シロアムの池に行って洗いなさい」と言い続けてきたのです。それを言いに日本にまで来てくれた人たちさえいたのです。だからここに教会があるのです。
それゆえに、私たちもまた一緒にやるのです。日のあるうちに。主は「だれも働くことのできない夜が来る」と言われました。もはやその言葉を語り得なくなる時が来るのです。そして、聞き得なくなる時が来るのです。ですから、私たちは定められた終わりの時まで、これからも語り続けるのです。「シロアムに行って洗いなさい」と。神の業が一人でも多くの人に現れるために。