2016年1月24日日曜日

「あなたは、いったい、どなたですか」

2016年1月24日   
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネによる福音書 8章21節~30節


罪のうちに死ぬことになる
 イエス様は言われました。「わたしは去って行く。あなたたちはわたしを捜すだろう。だが、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない」(21節)。

 このときイエス様は神殿の境内で教えておられました。宝物殿の近くでなされたファリサイ派のユダヤ人たちとのやりとりが直前に記されております。この言葉も直接的にはファリサイ派の人々に対して語られたものと見てよいでしょう。それにしても「あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる」とは激しい言葉です。辛辣な言葉です。こんなことを言えば誰であれ腹を立てるでしょう。

 しかし、考えてみるとイエス様は何も特別なことを言っているわけではないとも言えます。当たり前のことを言っているに過ぎない。それは彼らがファリサイ派だからというわけではなく、イエス様に敵意を向けているからでもなく、ある意味では全ての人について言えることでもあるのです。

 というのも神から見て罪のない人間など一人もいないからです。人生には人の目に触れていることと人の目からは隠されていることがあります。そのような人生を終える時に、「わたしは罪を犯しませんでした」と言える人はいないでしょう。その意味では人間は誰しも罪人として死ぬことになるのです。「罪のうちに死ぬことになる」。そのとおりです。

 それは死に際してでなくても、人生の途上においても分かっていることなのです。私たちは後戻りできない日々を生きています。元に戻ってやり直すことができない。神に背いたことをしたならば、その事実は残るのです。後戻りして消すことができない。その意味でイエス様がある時、人間の罪を借金に喩えたのは適切だと言えます。借金は忘れても残る。罪の負い目も忘れても残ります。人は罪の負債を抱えたまま最後の日を迎えることになるのです。「あなたがたは自分の罪のうちに死ぬことになる」。それはあの時、あの場所にいたファリサイ派の人たちだけの話ではありません。

 だからこそ人間には救いが必要なのです。自分ではどうすることもできないからです。また、他の人間によってはどうすることもできないからです。他の人間は救いを与えることはできません。なぜなら他の人間もまた自分の罪の負債を抱えている者だからです。自分自身について救いが必要だからです。人間同士はこの世のことについて助け合うことはできるかもしれません。しかし、人は他の人に救いを与えることはできません。自分の罪のうちに死ぬことになるという事実については一切手を出すことができません。だからこそ人間からではない、天からの救いが必要なのです。

わたしは上のものに属している
 そして、天からの救いは来たのだと聖書は伝えているのです。イエス・キリストという御方として。その方は自分自身についてこう語ります。「あなたたちは下のものに属しているが、わたしは上のものに属している。あなたたちはこの世に属しているが、わたしはこの世に属していない」(23節)。イエス・キリストという方は、こういうことを大まじめに語られる方なのです。どう思いますか。このような方を世々の教会は信じてきたし、私たちも信じているのです。

 この御方を信じるということは、自分がもともと「下のものに属している」ということを認めることでもあります。自分たちはもともと「この世に属している」存在なのだと認めることです。そこに「上のものに属している」という御方が来なかったならば、私たちはもともと上のものには無縁なのです。下のものに属している者として、この世に属している者として、この世のことだけを考えて、下のものに属していることばかりを考えて、下のものに属していることに振り回され生きるしかなかったのです。下のものに属していることに動かされて罪を犯して、下のものに属している者として死んでいくしかなかったのです。罪のうちに死んでいくしかなかったのです。そのことを徹底的に認めてこそ、「わたしは上のものに属している」というイエス様の言葉を救いの言葉として聞くことができるのです。

 その御方がさらにこう言われます。「だから、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになると、わたしは言ったのである。『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる」(24節)。「わたしはある」ということを信じないなら――明らかにぎこちない翻訳です。しかし、この言葉はユダヤ人ならばピンと来るのです。よく分かる。なぜなら誰もが知っている物語があるからです。

 その昔、イスラエルがエジプトの奴隷であったとき、解放者として神から選ばれたのはモーセという人物でした。彼はミディアンの羊飼いでした。その日も彼は羊の群れを荒れ野の奥へ追っていき、ホレブという山まで来たのでした。すると彼は柴が火に燃えているのを見た。燃えているのに燃え尽きない。この不思議な光景に誘われて近づくと柴の中から声がした。神の声でした。

 神はモーセに命じました。「今、生きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ」。当然、モーセは尻込みします。「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導きださねばならないのですか」。すると神は言われます。「わたしは必ずあなたと共にいる」。

 モーセは「共にいる」と言われる神に名前を尋ねました。人々から聞かれた時に何と答えましょうか、と。その時に神はモーセにこう答えたのです。「わたしはある。わたしはあるという者だ」。そして、さらにこう言われたのでした。「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと」(出エジプト記3:14)。

 このように聖書の神は「わたしはある」という名前なのです。それは「わたしはいる」と言い換えてもいいでしょう。神が「わたしはいる」と言われるなら、ただ一般的に神は存在する、ということではなくて、それは「あなたと共にいる」ということです。モーセに言われたとおりです。「わたしは必ずあなたと共にいる」と。それが聖書の神の名なのです。共にいてくださる神を意味する名前です。

 そして、今日の箇所ではイエス様が御自分を指して「わたしはある」と言われるのです。イエス様が共におられるということは、かつてモーセを遣わした救いの神が共におられるということなのだ、と主は言っておられるのです。「上のものに属している」方が来られた。救いのために来られた。この方を通して父なる神が語られるのです。父が働かれるのです。人間は人間を救うことができないから、天から独り子なる神が来られたのです。そのことを信じないならば、「わたしはある」ということを信じないならば、「あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる」と主は言われるのです。それはある意味では当たり前のことです。天の救いを退けるならば、もはや救いはどこにもないからです。

あなたは、いったい、どなたですか
 さて、ここまで聞いて、彼らはイエス様に問いました。「あなたは、いったい、どなたですか」。これに対してイエス様は答えます。「それは初めから話しているではないか」と。そうです。イエス様がこのようなことを語っているのは、ここだけではありません。ヨハネによる福音書全体を貫いていると言ってもよいでしょう。一度じっくりとイエス様の言葉一つ一つを改めて読んでみてください。イエス様が御自分について何と言っているか、読んでみてください。この御方が、いわゆる立派な教師であるとか偉大な宗教家という範疇にくくれないことが分かります。「あなたは、いったい、どなたですか」。

 私たちはいったいどなただと思っているのでしょうか。繰り返しますが、イエス・キリストとはこのようなことを大まじめに語られる方なのです。そして、世々の教会はそのような御方をその御言葉と共に大まじめに信じてきたのです。二千年の長きにわたって信じてきたのです。時に迫害を耐え忍びながら、命さえも脅かされながら、それでもなお信じてきたのです。この御方は「上のものに属している」御方であると。下のものに属していた私たちが救われるために、この世に属していた私たちが救われるために、罪のうちに生きて、そして死んでいくしかなかった私たちが救われるために、滅びるしかなかった私たちが救われるために、この世に来てくださった御方であると。

 イエス様は今日の箇所で人々にこう言っておられました。「わたしは去って行く。あなたたちはわたしを捜すだろう。だが、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない」(21節)。その言葉のとおり、イエス様は確かにこの地上を去られました。父のもとに帰られました。その意味で「わたしは去って行く」と言われたとおりになったと言えます。しかし、もう一方において、イエス様はまだ去ってはおられないとも言えます。今もなおキリストの体である教会がこの地上に存在しているとはそういうことです。イエス様は今もこの世において生きて働いておられます。「上のものに属している」御方が、今もこの地上において永遠の救いを与えるために働いておられるのです。

 教会とはそのようなところです。私たちはここで天に属する方を信じ、その方につながって生きるのです。教会の営みはただこの世のことに関わっているのではありません。天に関わっているのです。バプテスマも天にかかわり、永遠の救いにかかわっているのです。そうでなければ、単なる水遊びでしかないでしょう。聖餐も天にかかわり、永遠の救いにかかわっているのです。そうでなければ、単なるままごとでしかないでしょう。

 会堂建築もそうです。単にこの世における必要を満たすためのこの世の建物を建てることしか考えないなら、会堂建築はできないと思います。私たちは天に関わること、永遠の救いに関わることに取り組もうとしているのです。天を思わずして行うなら、ただ人間のことしか考えていないなら、この世のことしか考えていないなら、本当の意味で教会の営みとはなりません。私たちが信じるイエス・キリストは「わたしは上のものに属している」と宣言される御方ですから。

以前の記事