2015年4月5日日曜日

「あの方はここにはおられない」

2015年4月5日 イースター礼拝 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ルカによる福音書 24章1節~12節


キリストは生きておられる
 「そして、週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った」(1節)と書かれていました。墓に行ったのは「イエスと一緒にガリラヤから来た婦人たち」(23:55)です。イエス様と一緒に旅をしてエルサレムまで来た婦人たちです。

 彼らについては8章において次のように書かれていました。「彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた」(8:3)。イエス様と弟子たちの一行は福音を宣べ伝えながら旅をしていたわけですが、その彼らを経済的に支えていたのが彼女たちだったということです。

 そのように持てるものを捧げながら一行と共にエルサレムにまでついて来た彼らでした。そこには大きな喜びがあったことでしょう。大きな期待があったことでしょう。しかし、そのエルサレムにおいてイエス様は捕らえられてしまいました。イエス様は鞭打たれ血まみれにされ、十字架にかけられてしまいました。イエス様が十字架の上で苦しみの極みにあったとき、そして、ついに息を引き取られたとき、彼女たちは何もすることができませんでした。聖書にはこう書かれています。「イエスを知っていたすべての人たちと、ガリラヤから従って来た婦人たちとは遠くに立って、これらのことを見ていた」(23:49)。

 ヨセフという人が総督ピラトのもとに行き、イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出ました。イエス様が葬られるとき、婦人たちはただついて行くことしかできませんでした。「イエスと一緒にガリラヤから来た婦人たちは、ヨセフの後について行き、墓と、イエスの遺体が納められている有様を見届け」(同55節)たと書かれています。このように、イエス様と一緒に旅をしてきた彼女たちが最終的に行き着いたのは「墓」でした。

 「そして、週の初めの日の明け方早く」(1節)、婦人たちはその「墓」に向かっていたのです。彼らが行き着いた「終着点」をもう一度訪ねるためでした。そこに今もなお横たわっている死んだイエス様にお会いするためでした。

 しかし、墓に着くと入口を塞いでいたはずの大きな石が墓のわきに転がしてありました。婦人たちが中に入ると、イエス様の遺体は見当たりませんでした。すると輝く衣を着た二人の人が現れてこう言ったのです。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ」(5‐6節)。そうです、イエス様は墓にはおられませんでした。なぜならイエス様は「死んだ方」のままではなかったから。復活して「生きておられる方」だからです。生きておられるから終着点に留まってはいないのです。前に向かって、その先に向かって進んでいかれました。

 私たちはそのようなイエス様を信じているのです。教会が毎年復活祭を祝っていることは、教会が今日に至るまでそのようにイエス様は「生きておられる方」だと信じてきたことを意味するのです。墓に留まっておられることなく、そこから歩み出された方であると信じているということです。

それゆえに私たちも生きる
 さて、先週の木曜日に近隣8教会の合同礼拝がありました。そこで読まれたのは、最後の晩餐におけるイエス様のこんな言葉でした。「しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる」(ヨハネ14:19)。十字架にかかられる前の最後の食事。終わりへと向かうための食事。墓に行き着くことが既に見えているところでの食事です。しかし、そこで主は言われたのです。「わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる」。

 「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか」。そう、イエス様は死者の中にはおられない。イエス様は生きている。墓には留まってはいない。しかし、それはイエス様だけに関わることではないのです。「わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる」と主は言われたのです。イエス様が終着点に留まっておられる方でないならば、弟子たちもまたそうなのです。イエス様はあの婦人たちの「終わり」、弟子たちの「終わり」を「終わり」でなくしてしまわれたのです。

 確かに、あの婦人たちは彼らの旅の終着点にいました。弟子たちも同じでした。弟子たちの場合にはもっとはっきりしています。信じて従ってきたイエス様が死んでしまったというだけではありません。彼ら自身がイエス様を見捨てて逃げたのです。ペトロはイエス様との関係を三度も否定したのです。その意味で弟子としてイエスと共にしてきた旅は決定的に終わったのです。言わば、イエス様が死んだ時、彼らもまた死んだのです。

 しかし、イエス様は死んだ方として墓に留まってはいませんでした。イエス様が「生きておられる方」であるゆえに、彼らもまた生きることになりました。彼らの終着点はもはや終着点ではなくなりました。そこは新しい出発点となりました。彼らは死んだままではありませんでした。彼らは生きるようになりました。

 それゆえに、この福音書を書いたルカは、続く第2巻目を書いたのです。「使徒言行録」です。教会の物語です。一度死んだ彼らが、イエス様によって新しく生き始めた物語です。彼らの中に「生きておられる方」が生き生きと働かれた物語です。

 そして、その物語は今も続いているのです。教会の物語は今日に至ってもなお続いているのです。私たちは今その中にいるのです。教会が復活祭を毎年祝い続けてきたとはそういうことです。イエス様は生きておられる。だから私たちも生きるのです。

 私たちも実際、この世において、あの婦人たちが味わったような旅の終わりを幾度も経験するのでしょう。私たちもこの世において、あの弟子たちが味わったような死を幾度も経験するのでしょう。「全ては終わった」「結局、こうなってしまった」「もう二度と元には戻れない」と。そして、そこであの弟子たちのように自らの罪に涙しながら、死んだ人として「終わり」に留まろうとするのでしょう。

 しかし、イエス様は生きておられる。「わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる」と主は言われる。そして、私たちの終わりを始まりに変えてくださるのです。私たちは死んだ人ではなく生きている人として前に向かって歩み始めるのです。

人生の終わりにおいても
 そして、最後に私たちは本当の意味で旅の終わりにさしかかることを知っています。本当の意味で自らの墓が見えてくるところに立つことになる。そのことについて例外はありません。しかし、そこでもなおイエス様は生きておられるのです。イエス様が生きておられるので、私たちもまた生きるのです。私たちの墓は終着点ではなくなるのです。

 この教会において一番最近天に召された方はH姉でした。彼女が重い病気と診断されたのは三年前の夏でした。そこから闘病生活が始まりました。その中でこの教会に導かれ、共に礼拝を捧げてきました。昨年の4月20日のイースター礼拝もこの場所で共に礼拝をお捧げしました。しかし、この冬に病状が悪化し、ちょうど一ヶ月前、3月5日にこの地上の人生を終えられました。

 H姉の旅は病の床において終わったように見えます。葬儀と墓が終着点であるようにも見えます。しかし、私たちと共に彼女が信じていたイエス様は生きておられるのです。ならばH姉も生きるのです。実際、わたしが最後に目にした彼女の姿は、終わりに向かう人の姿ではありませんでした。

 わたしの目に焼き付いているのは、病床において賛美を聞きながら、「うれしい」という言葉を繰り返して、うれし涙を流している姿です。そのうれしさがそのまま伝わってくる涙でした。それから数日後にH姉は召されました。人生の最後に至って、墓が見えているところにおいてなお、人は心から「うれしい」と言うことができるのです。心の底からのうれし涙を流すことができるのです。それは終着点に向かっている人の涙ではありませんでした。主は生きておられます。だからH姉も生きている。この世における終着点は新たな出発点となりました。

 「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ」。今年もこの言葉を聞きながら、世界中の教会と共に主の御復活を祝いしています。イエス様は復活されて、今も生きておられると、共に信仰を言い表して礼拝を捧げています。主がよみがえられた朝、それは「週の初めの日」でありました。週の初めの日、日曜日。それゆえに私たちはこれまでと同じようにこれからも日曜日に主に礼拝をささげます。そのようにして復活され、生きておられる主、そして私たちを生かしてくださる主につながって生きていくのです。主は復活されました。イースター、おめでとうございます!

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