日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ルカによる福音書 11章14節~26節
サタンとその支配
「イエスは悪霊を追い出しておられたが、それは口を利けなくする悪霊であった。悪霊が出て行くと、口の利けない人がものを言い始めたので、群衆は驚嘆した」(14節)。このような言葉から今日の福音書朗読は始まりました。
ここに書かれているのは、口の利けない人がしゃべれるようになったという話です。その人は口が利けないという苦しみから解放されました。口が利けなくなったという災いが取り除かれました。しかし、聖書はこれを単に苦しみと災いの除去として語っているのではなく、殊更に悪霊の追放として伝えています。イエス様も明らかに悪霊の追い出しを意識して事を行っているのです。
この出来事を目撃したある人々は言いました。「あの男は悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している」(15節)。するとイエス様は、こう言われました。「あなたたちは、わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出していると言うけれども、サタンが内輪もめすれば、どうしてその国は成り立って行くだろうか」(18節)。
イエス様はここでベルゼブルを「サタン」と言い換えています。イエス様はしばしば「サタン」に言及しています。ここではサタンについて語るだけでなく、「その国」について語っています。「その国」というのは正確には「その王国」という言葉です。イエス様はサタンとその王国を見ていたのです。
「サタン」とはもともと「敵対者」を意味する言葉です。誰に敵対しているのか。神に対してです。イエス様はその人を苦しみから解放されました。しかし、イエス様が目を向けていたのは苦しみや災いそのものではありませんでした。そうではなくて、この世界に神に敵対する力が働いていることを見ていたのです。神に敵対する王国を見ていたのです。神に敵対する勢力が人間を支配しているのを見ておられたのです。
サタンは神の敵です。神が愛そのものである御方なら、サタンとは愛に対立する力です。神が人間との交わりを望んでおられるならば、サタンとはその交わりを引き裂き破壊する力です。神が人と人とが愛し合って共に生きることを望んでおられるならば、サタンとは人と人との間に憎しみと敵意を置き、関係を引き裂き交わりを破壊する力です。神が人間を尊い存在として創造し、そのような尊い存在として生きることを望んでおられるなら、サタンとは人間に自らの価値を見失わせ、自分自身を粗末にさせ、自分自身を破壊させる力です。
サタンは古代の迷信ではありません。サタンは目に見えませんが、サタンの支配は目に見えます。本当は愛し合って共に生きたいのに、そこにこそ命の喜びがあることが分かっているのに、実際にはなぜか傷つけ合い、憎み合い、殺し合っている人間の姿。自らの尊厳を投げ捨て、自分を傷つけ、痛めつけ、粗末にし、自らを踏みにじるようなことをしている人間の姿。人間が無知だからですか。愚かだからですか。少々賢くなればいいだけの話ですか。いいえ、そうではありません。愛なる神の御心に敵対する力が支配しているのです。そのようなサタンの支配する世界に私たちは生きているのです。
神の国は来ているのだ
しかし、そのようにサタンの支配する世界のただ中において、イエス様はもう一つの王国について語られます。「わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」(20節)。今日の福音書朗読が伝えている悪霊の追放、福音書において繰り返し語られている悪霊の追放という行為は、まさに神の国が来ていることのしるしに他ならないということです。
「神の国はあなたたちのところに来ているのだ」。それは何を意味するのでしょう。イエス様はこんな譬えを語られました。「強い人が武装して自分の屋敷を守っているときには、その持ち物は安全である。しかし、もっと強い者が襲って来てこの人に勝つと、頼みの武具をすべて奪い取り、分捕り品を分配する」(21‐22節)。
もうお分かりでしょう。この喩えにおいて「強い人」とはサタンです。人間を捕らえているサタンの力です。人間はそのままではそこから逃れることができません。強い人サタンが武装しているからです。しかし、もっと強い人が来られました。それはキリストです。もっと強い人が来て、武装しているサタンに打ち勝ってくださる。イエス様は御自分について語っておられるのです。
そうです。既に来ているのです。サタンが猛威を振るっているこの世に、神の国が入り込んで来ているのです。イエス様がこの世に来られたとはそういうことです。イエス様は単に良い教えを携えて来られたのではありません。イエス様は単に良い模範を携えて来られたのではありません。そうではなくて、イエス様は「神の国」を携えてこられたのです。私たちに神の国を与えるためです。私たちが神の国に生きるためです。
イエス様の宣教は神の国を与えるためでした。イエス様が十字架にかかられ罪を贖ってくださったのも神の国を与えるためでした。イエス様が復活されたのも神の国を与えるためでした。神の国を与えるために、キリストは天に上げられ、神の国を与えるために聖霊を注いでくださいました。私たちがこの世において神の国を経験するために、主は私たちに教会を与えてくださいました。洗礼を与えてくださいました。聖餐のパンと杯を与えてくださいました。私たちがこの世において神の国を経験するために、信仰生活を与えてくださいました。
私たちはこの世において神の国を味わい始めるのです。神に背を向けて生きてきた人が、神の方に向き直るのです。神と共に生き始めるのです。互いに憎みあい敵対しあっていた人々が、そのサタンの力から解放されて、再び愛し合う関係と交わりへと回復されるのです。自分自身を粗末にし、踏みにじり、その人生を泥だらけにしてきた人が、そのサタンの力から解放されて、神の像として創造された自分の尊さに目覚めるのです。そして、尊厳をもって、尊いものとして、自分自身の人生も他の人生をも尊んで生き始めるのです。そうです、神の国は来ているのです。神の国における生活は既に始まっているのです。
空き家にしてはなりません
しかし、私たちはまた、信仰生活において経験するのは、神の国のごく一部分でしかないことを知っています。「私たちはこの世において神の国を味わい始めるのです」と申しました。そうです、これはまだ始まりに過ぎません。神の国は来ています。しかし、サタンの支配がこの世から消え去ったわけではありません。私たちはまだ戦場にいるのです。戦闘は続いているのです。最終的な勝利、完全な救いについては、私たちは未来に待ち望んでいるのです。そのように信仰生活というものは、既に与えられているものと未来に約束されているものとの間にあるのです。
そのような私たちの生活に関わることとして、イエス様はなお一つの短い話をなさいました。こんな話です。「汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。そして、戻ってみると、家は掃除をして、整えられていた。そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる」(24‐26節)。
ここにはキリストによって与えられる信仰生活が《何でないか》がはっきりと現れています。この話の背景となっているのは、律法に従った清さと正しさが求められていたユダヤ人社会です。
宗教的な生活という意味では、既に彼らの身近なところにファリサイ派の人々が実戦していた生活がありました。自分の内から悪いものを追い出して、生活からも悪いものを追い出して、宗教的にも道徳的にも清く生きることを願っていた、そういう人たちは既にいたのです。
しかし、イエス様が与えようとしているのは、そのような生活ではないのです。ただ清さだけが求められるところには、別の汚れたものが満ちてしまうことをご存じだったのです。
ルカによる福音書にだけ出て来るこんな話があります。「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください』」(18:10-13)。
ファリサイ派の人が言っていることに偽りはなかったでしょう。言っているとおりに生活していたのだと思います。しかし、きれいにしたその家に別のものが満ちているではありませんか。掃除して飾り付けた空き家には、さらに悪いものが入ってくるのです。
ですから空き家にしてはならないのです。信仰生活とは一生懸命に努力して自分を清める作業ではありません。信仰生活とは、悪いものを追い出してきれいな空き家をつくることではなく、神の恵みを携えて来てくださったイエス様をお迎えすることなのです。私たちの心に、そして私たちの生活に恵みをもって治めてくださる「もっと強い者」なるイエス様をお迎えし、主が住まわれる家をつくることなのです。