2014年12月14日日曜日

「沈黙の恵み」

2014年12月14日 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ルカによる福音書 1章5節~25節


 イエス・キリストが年およそ30にして公の活動を始めるに先立って、ユダヤに現れ一世を風靡した人物がいました。洗礼者ヨハネです。彼はイエス・キリストの先駆者的役割を果たすこととなりました。今日お読みしたのは、その洗礼者ヨハネの誕生にまつわる物語です。

主は恵み深い
 洗礼者ヨハネの父親はザカリアという祭司でした。母親のエリサベトもまた祭司の家系に属するアロン家の娘でした。彼女については次のように語られています。「しかし、エリサベトは不妊の女だったので、彼らには、子供がなく、二人とも既に年をとっていた」(7節)。そのような二人の間に神によって与えられたのがヨハネでした。明らかにその誕生自体は神の奇跡として描かれています。しかし、今日の聖書箇所において重要なのはその誕生が予告されたということです。

 「予告」は聖書にしばしば出て来るモチーフです。アブラハムはイサクの誕生を予告されました。マノアの妻はサムソンの誕生を予告されました。マリアはイエスの誕生を予告されました。聖書の中で神様は予告をされるのです。人間の意向を打診しないで、一方的に予告するのです。何を意味しますか。人間の意向とは関係なく天において定められていることがある、ということです。

 それはヨハネという名前の命名の仕方にもよく現れています。イスラエルにおいて子供の名前は父親が付けるのが習わしでした。しかし、ザカリアに現れた天使はこう言ったのです。「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい」(13節)。神様は父親であるザカリアが子供の名前を決める前に、その子の名前を勝手に決めてしまわれたのです。

 親が考えるべき名前を神様が先に定めておられたというのは実に象徴的です。この子供の人生については、親が何を願おうが、何を考えようが、親の思いとは関係なく神様が定めておられることがある、ということです。その子供を通して神様がなさろうとしていることがある。主のご計画が先にあるのです。

 実際、その子の人生についての予告が次のように続きます。「その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ。彼は主の御前に偉大な人になり、ぶどう酒や強い酒を飲まず、既に母の胎にいるときから聖霊に満たされていて、イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる。彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する」(14‐17節)。このことについては、その親でさえ関与することができないのです。ザカリアがヨハネの命名にさえ関わることができなかったようにです。

 そのように人間の関与できない神の定めとご計画というものがある。それは私たちの経験とも一致します。私たち自身についても、私たちの人生についても、ほとんどの事柄は私たちの意志や意図とは関係なく定められたものです。親にも私たち自身にも神様は意向を打診してはくれませんでした。生まれる前から定められていることは山ほどあります。

 人間が関与できない神の定めとご計画がある。それはある意味では私たちにとって恐ろしいことに思われます。私たちは常々物事が私たちの願い通りに運ぶことを望んでいますから。そして、そうなるようにできる限りの事をしているのでしょう。ですから自分のコントロールの及ばないことがあるのはいやなのです。それは恐ろしいことでもあるのです。

 しかし、神様は御使いをザカリアにこう言われたのです。「その子をヨハネと名付けなさい」。人間の意向とは関係なく付けられた名前、それは「ヨハネ」でした。それは「主は恵み深い」という意味です。主は恵み深い――ならば、ザカリアは我が子に名前を付けることができなくてもよいのでしょう。主は恵み深い――ならば、その子の人生に自分が関与できない主のご計画があってもよいのでしょう。主は恵み深い――ならば、その子の人生に自分のコントロールが及ばなくてもよいのでしょう。そうです、ただ一つのことを知っていればよいのです。それは「主は恵み深い」ということです。

 その「ヨハネ(主は恵み深い)」と名付けられた子は、やがて天使の告げられた通り、人々を主に立ち帰らせる人となり、イエス・キリストの先駆者となりました。「イエス」という名前は「主は救い」を意味します。その名前もまたヨハネの時と同じように先に神によって定められ告知されたものでした。そのように、イエス様の人生にも、親が関与することのできなかった、定められた計画がありました。それは最終的に十字架にかかって全ての人の罪の贖いを成し遂げることでした。そのように「イエス(主は救い)」と名付けられた御方において、「ヨハネ(主は恵み深い)」という事実が完全に現されることとなったのです。私たちは確かにそのことを知らされているのです。

沈黙の恵み
 しかし、今日の聖書箇所はただ天使による予告の話に留まりません。やはりこの箇所において私たちの目を引きますのは、ザカリアの口が利けなくなったということであり、しかもその理由が「時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである」(20節)と語られていることでしょう。

 口が利けなくされた。それは天罰でしょうか。神の予告を信じないと罰せられるという話でしょうか。それにしても、十月十日の間口が利けなくなるというのは少々厳しすぎやしませんか。この場面だけを見ますとそんなことを考えてしまいますが、先の方まで読みますと、どうも当のザカリア自身はこれを神の罰として耐え忍んできた様子でもないのです。

 子供が産まれて八日目、割礼を施して子供に名前を付ける日に、ザカリアは字を書く板を出させて「この子の名はヨハネ」と書きました。「すると、たちまちザカリアは口が開き、舌がほどけ、神を賛美し始めた」(64節)と聖書は伝えているのです。言葉が話せるようになった時、最初に出てきたのが神への賛美だったということは、言葉が話せない時にも既に心の中に神への賛美が満ちていた、心の中では神を賛美していた、ということでしょう。このように、口が利けなかった期間は決して罰などではなく、ザカリアにとっては賛美が満ちるプロセスだったことが分かるのです。

 既に見てきましたように、生まれてくるヨハネには親も関与することのできない、既に定められた神の計画がありました。そのように人間が関与することのできない神の定め、神の計画というものはあります。私たちについてもあります。しかし、人間は計画そのものには関与できないにせよ、それはヨハネの誕生の物語やイエス様の誕生の物語を見ても分かりますように、神様単独で実現するのではないのです。神様は人間を用いて、人間を通して実現されるのです。神の御子はマリアの胎に宿ってからこの世に誕生するのです。神様はあえてそうなさるのです。さらに言えば、主は御自身の救いを実現するのに、あえて教会の宣教という手段を用いられるのです。主はそうなさってきたし、今もそうしておられます。

 そのように神は人間を用いて事を進められます。そこで人間に求められているのは何か。信仰なのです。かつてアブラハムがイサクの誕生を予告された時もそうでした。求められていたのは信仰でした。「時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである」と天使はザカリアに言っています。一方、妻のエリサベトは後にマリアにこう語っています。「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」。このように、主とその御言葉を信じるか信じないかということは、主の目に決して小さなことではないのです。

 ところで、日本語の「信仰」という言葉は、事柄を的確に表しているように思います。同じ言葉を「信心」とは訳さないのです。あくまでも「信じて仰ぐ」と訳すのです。信じて仰ぐなら目を向けている先はあくまでも神様の側です。こちら側ではありません。

 ところが私たちは往々にしてこちら側のこと人間の側のことばかりに目が行きます。こちら側の事ばかりが気になります。ザカリアも言っていますでしょう。「わたしは老人ですし、妻も年をとっています」(18節)。そのように、こちら側に目が行って、主がなさろうとしていることがあるのだ、主が定め、主が計画し、主が実現しようとしていることがあるのだ、という方向にどうも目が行きません。神様のなさることならば、それは時として人間の常識や限界を越え出るような仕方で実現されるのだ、というところになかなか目が行きません。

 実際、私たちも同じようなことを言っていることがあるでしょう。わたしは老人ですし、妻も年をとっています。わたしは病弱ですし、能力もありませんし、性格も良くありませんし、不注意でミスばかりしてますし、家族の問題もありますし、云々。教会についても同じようなことが言えるでしょう。十分な人数がいませんし、経済的にも十分ではありませんし、互いの間にいろいろ問題もありますし…。このような私たちを用いて神様が神様の御業を進めようとしているのだということ信じない理由なら、いくらでも挙げられるのです。こちら側を見ていれば。いくらでも見えてくるし、列挙することができるでしょう。

 ザカリアもそうだったと思うのです。信じないためのこちら側の理由はいくらでも語り続けることができたのでしょう。しかし、主は恵み深い御方でした。彼を強制的に黙らせたのです。沈黙させたのです。そうです、人間は黙らなくてはならない時があるのです。神様の前で人間の側のことを並べ立てることをやめて、黙らなくてはならない時があるのです。私たちが黙らなければ、ぶつぶつ言い続け、こちら側のことを言い続けるならば、時として強制的に黙らされることもあるのです。そのように、沈黙して、ただひたすら神の定めとご計画、それを実現する計り知れない神の力に思いを向けるべきときがあるのです。

 ザカリアはこの沈黙の恵みをいただいて、その内に主への賛美が満ちてゆき、主への賛美が一杯になって、やがて開かれたその口から賛美が溢れ出しました。このアドベントの時、私たちも同じ恵みをいただいて、私たち自身の内に主への賛美を満たしていただき、来る御子の御降誕の祝いにおいて心からの賛美を共に捧げたいものです。

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