日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 コリントの信徒への手紙Ⅱ 5章1節〜10節
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地上の幕屋が滅びても
「わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天に
ある永遠の住みかです」(1節)。そう書かれていました。要するに、「私たちは死をもって終わる人生を生きているのではない」ということです。そのこと
が、ここで「住まい」を喩えとして、また「着物」を喩えとして語られているのです。
まず、この世に生きる私たちの体が「幕屋」に喩えられています。私たちのこの体をもって生きるこの世の生活がテント住まいの生活に喩えられているのです。
それは感覚的に良く分かります。テントは暫定的な一時的な住まいです。テントは弱いものです。脆いものです。長く使っていれば綻びてきます。私たちのこの
世の生活はなるほどそのようなものです。私たちはこの体というテントが何百年も持たないことを知っています。綻びてきますから、修理しながら生活すること
になります。やがてはこのテントは役目を終わることも知っています。
そして、やがてはこのテントを手放すことになります。パウロはそのことについて着物をもって喩えます。私たちはこの体という着物を脱ぐ時が来るのです。脱
いだら裸になってしまうでしょう。私たちは裸のままなのでしょうか。いいえ「それを脱いでも、わたしたちは裸のままではおりません」(3節)と書かれてい
ます。ちゃんと別の着物が用意されているのです。1節にはその別の着物について語られていたのです。ただし着物ではなく、住まいに喩えられていました。一
度お読みします。「わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られた
ものではない天にある永遠の住みかです」。
この世の体は「幕屋」すなわち「テント」です。しかし、神は「建物」を備えていてくださる。天の体です。テントのように綻びない、弱らない。一時的なもの
でもない。それは「永遠の住みか」です。それを「上に着るのだ」と言うのです。住まいと着物の比喩がミックスされているので奇妙な表現ですが、言わんとし
ていることは分かります。この世における生活をパウロはこう表現するのです。「わたしたちは、天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って、この地上
の幕屋にあって苦しみもだえています」(2節)。
「この地上の幕屋にあって苦しみもだえている」と彼は言います。そのことについても私たちは良く知っています。この体をもって生きることは、苦しいことで
す。それは弱さを負いながら、綻びを繕いながら生きる苦しみでもあるでしょう。あるいはパウロは迫害の中にありましたから、他者の罪によって苦しめられる
という苦しみもあるでしょう。あるいは、別の手紙で「わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうと
いう意志はありますが、それを実行できないからです」(ローマ7:18)ということも書いています。この体をもって生きることの大きな苦しみは、自分の罪
との戦いということでもあるでしょう。
確かに、そのように私たちは「この地上の幕屋にあって苦しみもだえている」と言えます。しかし、ただ苦しんでいるのではない。「天から与えられる住みかを
上に着たいと切に願って」と書かれているのです。「願いつつ」の苦しみなのです。言い換えるならば希望を抱きつつということです。やがてはその願いが現実
となる時が来るのです。天から与えられる住みかを上に着る時が来るのです。それはいわば、最終的な救いの完成でもあります。すなわち罪と死から完全に解放
された体を着せられるのです。そのように「天から与えられる住みかを上に着たいと切に願」いつつのテント住まい。それがこの世における私たちだと聖書は
言っているのです。
天には建物が備えられている
さて、ここで「天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って」と書かれているのであって、「地上の幕屋を脱ぎ捨てたいと切に願って」と書かれてはいな
いことに注意してください。つまりパウロがここで語っていることの中心は「脱ぎ捨てること」にあるのではないのです。あくまでも「着ること」にあるので
す。4節をご覧ください。「この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが、それは、地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません。死ぬは
ずのものが命に飲み込まれてしまうために、天から与えられる住みかを上に着たいからです」(4節)。
どうしてパウロがこういうことを言っているかというと、脱ぎ捨てることに救いがあると教えていた異端の教師たちがいたからなのです。この肉体は魂の牢獄で
ある。死はそこからの解放なのだ、と。そこで多くの人がこの世の生には意味がないと考えたのです。ただ苦しいだけの獄中生活。ただ死ぬことにこそ希望があ
る、と。それはある意味では分からなくありません。絶えざる苦しみを負って生きている人は、そう思わざるを得ないでしょう。脱ぎ捨てることこそ救いだ、
と。
しかし、同じように絶えざる苦しみを負っていたパウロですけれど、彼は苦しいこの幕屋生活の方に焦点を当てないのです。そうではなくて、天に備えられてい
る建物の方に目を向けるのです。そこにおいて上から着せられる完全な救いの方に目を向けているのです。脱ぎ捨てたいものに目を向けて、脱ぎ捨てる時を待ち
つつ今を生きるのと、着せられる完全なものに目を向けて、天に備えられているものを着せられる時を思いつつ今を生きるのでは、生きる意味合いが全く違って
くるのです。そのようにパウロは地上において苦しみながらも、天に備えられているものを思いながら、既に備えられているものを喜びながら生きていたので
す。
ではいったい何がそれを可能としたのか。いや、「何が」ではなく「誰が」と言うべきでした。それはキリストなのです。十字架にかけられ、復活され、そして
天に挙げられたキリストなのです。パウロの救い主であり、私たちの救い主であるキリストです。パウロは天におられるキリストを愛し、慕い求め、礼拝してき
たのです。主なるキリストを思いつつ共に天を仰いで礼拝する場所に、天と地とが出会って一つとなるその場所に身を置き続けてきたのです。その彼が天に備え
られている救いを思って生きることは、きわめて当然のことだったのです。
ひたすら主に喜ばれる者でありたい
そのように、パウロにとって救いの完成は天にある永遠の住みかを着ることであったのですが、さらに言うならば最も重要なことはそのこと自体ではありません
でした。その救われた体をもって主と共にあることだったのです。6節をご覧ください。「それで、わたしたちはいつも心強いのですが、体を住みかとしている
かぎり、主から離れていることも知っています。目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるからです。わたしたちは、心強い。そして、体を離れて、主
のもとに住むことをむしろ望んでいます」(6‐8節)。
パウロにとって幕屋住まいにおける一番の問題は何だったのか。それは主から離れているということだったのです。いや、もちろん目に見えずとも、信仰におい
て主と共にあるのです。それはパウロも分かっているのです。しかし、そこにはまた幕屋住まいにおける限界がある。それもまた事実です。ですから「体を離れ
て、主のもとに住むことをむしろ望んでいます」と言うのです。今のこの体を離れることを望むのは、苦しみから離れるためではないのです。主のもとに住むた
めなのです。そのように一番大事なのは、主と共にあること。主との関係。主との交わりなのです。ですから一番の願いもまた、それは「主に喜ばれる者」であ
ることなのだと彼は言います。「だから、体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい」(9節)。
天幕住まいにおける私たちの信仰生活もまた、つまるところ、ここに向かわなくてはならないのでしょう。「体を住みかとしていても、体を離れているにして
も、ひたすら主に喜ばれる者でありたい」。ここにこそ、また天幕住まいをしているこの地上の人生の意味もまたあるのです。これは苦しいだけの牢獄生活では
ないのです。これはただ脱ぎ捨てるだけの体ではないのです。この世の生活は、この世の体は、主に喜ばれる者として生きるための生活であり、体なのです。確
かに苦しみがあります。罪との戦いもあります。不当な仕打ちを耐え忍ばなくてはならないこともあるかもしれない。しかし、そのようなこの世の人生こそ、主
を愛し、主に喜ばれることを求めて生きる実践の場なのです。
だからまた、主もまたそのような私たちの生活を、関心をもって見ていてくださるのです。私たちがこの地上においてどう生きるかは主にとっての重要事項なの
です。10節に書かれているのはそういうことです。「なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかと
していたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです」(10節)。
キリストの裁きの座の前に立つ。そのキリストは私たちの罪を十字架において贖ってくださった御方です。そして、信仰によって私たちの罪を赦し、義としてく
ださった御方です。ですから、その裁きとは、私たちが救われるか滅びるかの裁きではありません。私たちの報いに関わる裁きです。
主は私たちのこの地上の人生を関心をもって見ていてくださる。ですから「悪」もまたその御前にある。ですから、私たちは「どうせ赦されるのだから」と言っ
て、主を侮るような生活をしてはならない。当たり前のことです。しかし、そこでは「悪」だけが裁かれるのではないのです。「善」もまた裁かれるのです。主
の目に善しとされること。それはもしかしたら、積極的な善行というよりは、ある場合にはただ主を信じて苦難を耐え忍ぶだけのことかもしれません。耐え忍び
ながら愛を示して仕えることかもしれません。それはこの世においては報われないかもしれない。この世において報われないことはたくさんあるかもしれない。
しかし、主が報いてくださるのです。すべては報われるのです。私たちは、この世において報われるかどうかを気にしないで、ただひたすら主に喜ばれることを
考えていたらよいのです。それがこの天幕住まいにおいて求められていることなのです。
保証として与えられている聖霊
さて、そこで最後に先ほど飛ばしました5節に戻ることにしましょう。次のように書かれています。「わたしたちを、このようになるのにふさわしい者としてく
ださったのは、神です。神は、その保証として“霊”を与えてくださったのです」(5節)。私たちが天に備えられている永遠の住まいを着せられるとするなら
ば、つまり完全な救いに与るとするならば、それは私たちがもともとふさわしいからとか資格があるからではありません。それはただ神の恵みによるのです。そ
の恵みの目に見える現れは、今、こうして私たちが信仰生活を営んでいるということです。「“霊”を与えてくださった」とはそういうことです。私たちが今こ
うしているのは、ただ神の霊のお働きによるのです。
しかし、興味深いのは、「神は、その保証として“霊”を与えてくださったのです」と書かれていることです。「保証」という言葉は、「手付け金」を意味する
言葉です。全体は後で受け取るのです。その前に一部分を先に受け取るのです。その意味で「手付け金」であり「保証」です。私たちはやがて完全な救いにあず
かります。天に備えられている体を着せられ、文字通り主と共に生きるのです。それがどれほど喜びに満ちたものであるか、私たちは想像することさえできませ
ん。しかし、その一部を味わうことはできます。天幕住まいの間に、先だって味わうのです。それがこうして共に礼拝を捧げる教会生活なのです。それが聖霊を
与えられるということなのです。
言い換えるならば、信仰生活の喜びを味わえば味わうほど、最終的な救いの希望もまた確かになってくるということです。やがて主と共にある希望をもって喜び
つつ、今、信仰によって主と共に生きるということでもあるでしょう。そのように、天の恵みを味わいつつ、信仰の歩みを続けてまいりましょう。