2012年12月2日日曜日

「夜明けは近づいている」 

2012年12月2日主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ローマの信徒への手紙 13章8節〜14節 
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救いは近づいている 
 今日の聖書箇所において、パウロは「夜は更け、日は近づいた」と語っています。12節の言葉です。

 「《夜は》更けた」。パウロはすっかり夜も更け、暗闇に覆われた世界を見ています。それが聖書によるこの世界の描写です。私たちは夜の世界を生きているのです。そのように語ったのは、何もパウロがはじめてではありません。旧約聖書のイザヤ書にも次のような言葉がでてきます。「見よ、闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいる」(イザヤ60:2)。そのように、旧約の預言者も暗闇に覆われた世界を見ていたのです。

 それは今日の私たちにおいても、ある意味では感覚的に分かります。この世界を真実に見つめる人は、この世界を明るい日差しの燦々と降り注いでいる昼間の世界としては描写しないでしょう。あの預言者と共に「闇は地を覆っている」と言わざるを得ない。「闇」「暗黒」から連想される言葉はいくらでも挙げられます。「不安」「恐れ」「孤独」「憎悪」「怨念」「虚無感」「死の恐怖」「絶望」などなど。確かにその闇がこの世界を覆っているのを私たちは見ているのです。

 ちなみに、先に引用した言葉を語った預言者が実際に目にしていたのは、繁栄を極めたペルシャ帝国なのです。何も不景気な暗い情勢を見て言っているのではないのです。繁栄を覆い尽くしている暗闇を彼は見ていたのです。さらに言うならば、繁栄の中においていよいよ色濃く覆う闇とは何かと言えば、それは人間の罪の暗闇なのです。神に背き、光である神を失った暗黒なのです。先に挙げた「不安」「恐れ」「孤独」「憎悪」云々はすべて、その根から生じた葉であり実に過ぎないのです。聖書は、そのような夜の世界を生きている私たちについて語っているのです。

 また、「夜は《更けた》」という言葉には、時の流れが表現されています。「更けた」と訳されているのは、前に進むことを表現する言葉なのです。実際、私たちは時の流れがそのようなものであることを知っています。決して後戻りすることはない。今年もアドベントを迎えました。教会の暦では新しい年のはじまりです。それは一年がまた過ぎて行ったことを意味します。そして、過ぎて行った一年は絶対に戻ってこない。もうそこには戻れない。そうでしょう。夜の世界に決して後戻りすることのない時が刻まれていく。そこで営まれているのが私たちの人生なのです。

 時の流れは決して後戻りしないという事実は、時として暗闇を一層暗いものとするのでしょう。一年はあっという間に過ぎていく。そうして一つ歳をとります。肉体は朽ちていき、精神も衰えていきます。時の流れに伴って、人は多くのものを失いながら生きて行かねばなりません。そうして最後はこの世の命を失います。行き着くところは墓以外のどこでもない。それはこの世界についても同じです。この世界の有様を真面目に見るならば、その行き着くところはやはり破局と崩壊しか見えてこない。それはちょうど夜が更けていくといよいよ暗さが増していく様子と重なります。

 そのように「夜は更けた」と聖書は語ります。しかし、パウロはただ「夜は更けた」とだけ語りはしません。こう続くのです。「夜は更け、日は近づいた」と。逆戻りすることのない時の流れに、もう一つの事実を見ているのです。朝が刻一刻と近づいている、ということです。

 なぜパウロはこの世界の現実を夜明けに向かう夜として語り得たのでしょうか。それは、この夜の世界のただ中に、キリストの十字架が立てられたことを知っているからです。この世界に罪の贖いの十字架が立てられたのです。この世界は神によって十字架の立てられた世界です。罪の贖いのために御子の肉が裂かれ、血が流された世界です。神が御子によって愛を現された世界です。罪に満ち、悲惨に満ち、破局に向かっているとしか見えない世界でありながら、なおこれは神に愛されている世界なのです。だから彼は確信を持って言うのです。夜は永遠に続くのではない。朝が来る、と。十字架の闇が破られて、キリストの復活の朝が来たように、この夜の世界にも朝が必ず訪れるのです。

 これこそ喜びのおとずれです。福音です。私たちは代々の教会の宣教を通して、この福音を伝えられたのです。私たちは、その神の愛を告げ知らされ、まず私たち自身がその十字架の恵みにあずかったのです。罪の赦しの言葉を聞き、神の愛の言葉を宣言された人生を与えられているのです。私たちは朝に向かって生きる者とされたのです。朝に向いつつある夜ならば、絶望する必要はありません。そこには希望があります。ですからパウロは11節においてこう言っているのです。「今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです」(11節)。 

眠りから覚めるべき時が来ている 
 このことが分かるならば、今の時がどんな時であるかも分かります。聖書は言います。「更に、あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています」(11節)。朝になり日が昇ってから目を覚ますのではないのです。目覚めて朝を待つのです。まだ暗いけれども、もう眠りから覚めるべき時だ、と言うのです。

 眠りから覚めるとは、既に朝が来たように生きるということに他なりません。ですから、パウロは次のように勧めます。12節以下をご覧ください。「夜は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう。日中を歩むように、品位をもって歩もうではありませんか。酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみを捨て、主イエス・キリストを身にまといなさい。欲望を満足させようとして、肉に心を用いてはなりません」(12‐14節)。

 「夜は更けた。ああ真っ暗だ」としか考えられないならば、「だから、闇の行いに生きようではないか」となるでしょう。希望のない人は希望のない人のようにしか生きられない。しかし、希望を与えられている人が、希望のない人のように生きていてはならないのです。朝が来ることを信じている人が、夜が永遠に続くかのように生きてはならないのです。眠りこけてしまっているならば、今こそ目を覚ますべき時なのです。

 それは、消極的に表現するならば、闇の行いを脱ぎ捨てることである、とパウロは言います。汚い服を脱ぎ捨てるように、闇の行いを脱ぎ捨てることです。その描写は具体的です。パウロは三組の言葉をもってこれを表しています。「酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみ」。時は確実に流れていきます。私たちに与えられているのは朝に備える限られた大切な時間です。その時間を、闇の行いによって無駄にしてはならないのです。理性と引き替えにして享楽に身を委ねることに、この貴重な時を費やしてはならないのです。欲望を満たすことを追い求めながらその欲望に振り回され、他者を傷つけ自らを傷つけて生きることに、この貴重な時を費やしてはならないのです。果てしない争いとねたみのために、この大切な時を費やしてはならないのです。キリストの裂かれた肉と流された血潮は、私たちが闇の中にとどまってこの夜を過ごすために与えられたのではありません。朝を待つ者として生きるようにと招かれているのです。朝の日差しに、罪の悪臭漂うぼろぼろの惨めな服は相応しくありません。パウロは「そんなものは脱ぎ捨ててしまいなさい」と言うのです。

 そして、積極的には、「光の武具を身につける」(12節)ことです。そうです、身に着けるのは「武具」なのです。この夜の世界において、既に日が昇っているように光の中を生きるということは、それ自体闘いでもあります。私たちを闇へと引き戻そうとする力が強力に働くからです。再び闇の行いをまとわせようとする力が強力に働くのです。私たちは戦わなくてはなりません。悲しみと悩みに満ちた闇の中に引き戻されてはならないのです。そのためには武具を身につけなくてはなりません。

 光の武具を身につけるとはどういうことでしょうか。テサロニケの信徒への手紙(一)5章7節以下には次のように記されています。「眠る者は夜眠り、酒に酔う者は夜酔います。しかし、わたしたちは昼に属していますから、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望を兜としてかぶり、身を慎んでいましょう」(1テサロニケ5・7‐8)。

 こうして見ますと、「光の武具を身につける」とは特別な神秘的な体験によって何かを得ることではなさそうです。「信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望を兜としてかぶり」と言われているところで具体的にイメージされているのは、恐らくごく当たり前の信仰生活なのです。何ら特別なことではない。主を礼拝し、福音の言葉を聞き、キリストの裂かれた肉と血にあずかり、福音に基づいて主に従って生きる新しい生活です。

 ですから、そのような「光の武具を身につける」ということが、さらに「主イエス・キリストを身にまといなさい」と言い換えられているのです。「身にまとう」という言葉の意味するところは、「一体となる」ということです。ガラテヤの信徒への手紙にはこう書かれています。「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです」(3:27)。そのように、「主イエス・キリストを身にまといなさい」という勧めの言葉は、洗礼において与えられるキリスト者としての生活、キリストとの交わりの生活のことなのです。そのような信仰生活をしっかりと身に着けることなくして、暗闇に引きずり込む力と戦うことはできないのです。

 「更に、あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。」そのように、私たちは今日も「目覚めて待て」との主の呼びかけを聞いています。これは礼拝の度ごとに呼び掛けられている言葉であるとも言えるでしょう。眠りこけてしまっているならば、ここで目を覚ますべきです。朝が来ないかのように生きていたならば、もう一度朝の光の中に生き始めるのです。キリストを身にまとい、キリストとの交わりの生活を回復するのです。こうして私たちは、主の御言葉を聞きながら、一週間一週間を刻みつつ、後戻りできない時の間を夜明けに向かって共に生きていくのです。

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