tag:blogger.com,1999:blog-37530536774899262812024-03-18T11:59:58.643+09:00頌栄教会 主日礼拝説教blog日本キリスト教団 頌栄教会(しょうえいきょうかい)<br>
〒155-0031 世田谷区北沢1-42-10 電話 03(3467)3664shoeichurchhttp://www.blogger.com/profile/05438295989591628531noreply@blogger.comBlogger573125tag:blogger.com,1999:blog-3753053677489926281.post-23146688596870731182024-03-17T20:00:00.001+09:002024-03-17T20:00:00.247+09:00「光のあるうちに」<p>ヨハネによる福音書 12:27‐36<br /><br /><b>まさにこの時のために来たのだ</b><br /> 「今、わたしは心騒ぐ。」そうイエス様は言われました。苦難の時が近づいていたからです。イエス様ともあろう御方が苦難を前にして心を騒がせている。不思議なことでしょうか。いいえ、そうではありません。御自分の受けるべき苦難の大きさを本当に知っているからこそ、心を騒がせているのです。<br /><br /> イエス様が負うべき苦難、それはすべての人の救いのために負うべき苦難でした。それは、すべての人の罪を代わりに担い、罪の贖いの犠牲として死んでいくことを意味しました。私たちは人間の罪の重さというものを本当には分かっていないのだろうと思います。それが分かっていたのはイエス様です。罪を代わりに負うということがどれほど重いことか、すべての人を救うために負うべき苦しみがどれほど大きなものか、それを知っていたのはイエス様です。私たちはただイエス様が恐れる姿に、人間の罪の重さを垣間見ることができるだけなのです。<br /><br /> 他の福音書においては、このイエス様の苦悩を「ゲッセマネの祈り」として描き出しています。ゲッセマネの園において、苦しみもだえながら、イエス様はこう祈られました。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください」(ルカ22:42)。今日お読みした箇所でもイエス様は言っています。「何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか」。このイエス様の苦悩。恐れ。イエス様の心の内にあったものを、私たちには恐らく決して想像することもできないでしょう。<br /><br /> しかし、キリストの祈りは「この時から救ってください」で終わらなかったのです。「この杯をわたしから取りのけてください」で終わらなかった。ゲッセマネの園において、主は最終的にこう祈られたのです。「しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」と。今日お読みした箇所においても、主はやがて迎えるべき苦難の時を、《父から与えられている時》として、受け止めておられるのです。主は言われます。「何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。父よ、御名の栄光を現してください。」<br /><br /> 「父よ、わたしをこの時から救ってください」ではなく、あえてそこで「御名の栄光を現してください」と祈られた御方、そのようにして、あの大いなる十字架への道を歩み続けた御方、それが私たちの主キリストです。その御方が「わたしを信じなさい」と言ってくださった。「わたしについて来なさい」と言ってくださった。私たちは、そのような御方を信じ、そのような御方について行こうとしているのです。<br /><br /> 「ニーバーの祈り」として知られる祈りの言葉があります。「神よ、変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。変えることのできないものについては、それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、識別する知恵を与えたまえ。」<br /><br /> 変えることのできること、また変えなくてはならないことがあります。しかし、変えることの出来ないこと、変えてはならないことがあります。私たちが受け止め、受け入れるべきものとして神から与えられているものがあります。イエス様は、「まさにこの時のために来たのだ」と言われました。受容することはあきらめではありません。キリストは十字架への道に立ち、そこを進むことによって《神の栄光が現れること》を求めたのです。その時、父なる神はキリストに応えられました。「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう」。「再び栄光を現そう」とは十字架の時を指しています。神がよしとされるなら、十字架の上で惨めに死んでいくことを通してさえ、神は栄光を現わされる。十字架さえも神の栄光に変わるのです。<br /><br /> 苦しみからは逃げたい。逃げ出したい。悲しみは避けて通りたい。重いものはできるだけ早く降ろしたい。そんな私たちであることを、神様はご存じです。ですから苦しみは取り除いていただき、悲しみは癒していただき、重荷は降ろさせていただくことを願い求めることはあるでしょうし、神はそのような祈りを聞いていてくださいます。しかし、それでもなお、私たちには、「苦しみから逃れさせてください」ではなくて、その苦しみを通してさえも、「神様の栄光を現してください」と願うべき時、本当にそのことを願い求めるべき時あるのです。<br /><br /><b>地上から上げられるときに</b><br /> ならばそこで大事なことは何なのでしょう。苦難に負けない強さを持つことでしょうか。強靱な精神力を持つことでしょうか。イエス様はどうだったのでしょう。そこで一つのことに気付かされます。ここで繰り返されている「父よ」という言葉です。この呼びかけは、ヨハネによる福音書に繰り返し現れます。「父よ。」――そうです、十字架の時を目の前にして、「わたしはまさにこの時のために来たのだ」と主に言わしめたのは、他ならぬ「父」への信頼であり、「父」との不断の交わりだったのです。「父よ」。イエス様はそのようにひたすら父を呼び求めながら生きていたのです。<br /><br /> 私たちに本当に必要なのは、私たちの強さではありません。苦しみの中にある時、私たちを本当に支えるのは私たち自身の精神力などではありません。そうではなくて、天の父を呼び求める生活です。父なる神への信頼です。変え得ることは変えたらよいけれど、それでもなお変え得ないことはある。解放されるべきことからは解放されたらよいけれど、それでもなお、どうしても担うべき重荷がある。その時、なおすべてが父なる神の御手の内にあることを信じ、そしてその父に信頼し、「父よ、御名の栄光を現してください」と祈ることができるなら、父は言ってくださるのでしょう。「栄光を現そう」と。そのように、私たちに必要なのは、天の父を呼び求め、天の父に信頼して生きることなのです。<br /><br /> それは、言い換えるならば、父の御名を呼び、父に信頼して生きることを見せてくださった、イエス様と共にいることです。御子と御父との交わりの中に、私たちもまた身を置くことなのです。イエス様はそのためにこそ、十字架におかかりくださったのではありませんか。32節で主はこのように言っておられます。「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」と。<br /><br /> 「地上から上げられるとき」とはいつのことですか。十字架にかけられる時です。ですから「イエスは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、こう言われたのである」(33節)と書かれているのです。しかし、イエス様は十字架に上げられて終わりではないのです。さらに父なる神のみもとにまで上げられるのです。そのイエス様が言われるのです。「すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」と。父のみもとにいるイエス様が、自分のもとに引き寄せてくださるのです。十字架におかかりくださったイエス様が、「あなたの罪は贖われた。あなたの罪は赦された」と言って、御自分のもとに、また父のもとに引き寄せてくださるのです。そのようにして、私たちもまたイエス様と共に父のみもとに身を置くことができるのです。父との交わりに生きることができるのです。<br /><br /><b>光のあるうちに</b><br /> 「すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」と主は言われます。それはキリストがしてくださることです。その一方で私たちが為すべきことがあります。イエス様は次のように言われました。「光は、いましばらく、あなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい」(35‐36節)。<br /><br /> 「暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない」と書かれています。当然のことながら、キリスト御自身はそのような暗闇の中にいる御方ではありませんでした。キリストは自分がどこにいるかを知っていた。キリストは自分がどこに向かっているかを知っていた。父なる神に信頼し、与えられている十字架の道を受け止め、ただ父の栄光が現れることを祈りつつ、まっすぐに命の道を進んでいたのです。そのように光の中を歩んでいたのです。<br /><br /> そして主は、私たちもまた、暗闇の中を歩むのではなく、光の中を歩むように招いておられるのです。つぶやきながら、不平を言いながら、嘆きながら、腹を立てながら、憎しみを抱きながら、諸々の罪に振り回されながら、どこへ向かっているのかも分からないまま暗闇の中を歩くのではなくて、父なる神の名を呼びながら、父なる神に信頼しながら、父が栄光を現してくださることを求めながら、主と共に歩いていく、そのような光の中を私たちが歩いていくことを主は望んでおられるのです。だから「光のあるうちに」そのように光の中を歩み始めなさいと主は言われるのです。光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい、と。<br /><br /> 「光のあるうちに」とは、キリストが共におられ、御言葉を語っておられるその間に、ということです。それは第一には、キリストがこの地上におられた期間を指すのでしょう。キリストが十字架にかけられて死なれるまでの期間です。しかし、私たちはキリストが死んで終わりではなかったことを知っています。主は復活され、天に上げられ、今も生きておられます。「光のあるうちに」――その期間はキリストの死をもって終わりはしませんでした。復活された主が今も御言葉を語り続けていてくださるから。「光のあるうちに」。その光は今日に至ってなおわたしたちの間にある、とも言えるのです。<br /><br /> しかし、イエス様は言われたのです。「光は、いましばらく、あなたがたの間にある」と。それはやはりあくまでも「いましばらく」なのであって、永遠に続くわけではありません。人が御言葉を聞くことができるのは、限られたある期間に過ぎないのです。ですから、いつでも重要なのは《今》です。御言葉が語られているその時が信ずべき時なのです。キリストが招いていてくださるその時が従うべき時なのです。「光のあるうちに、歩きなさい。光のあるうちに、光を信じなさい」と主は言われます。キリストが招いていてくださる今日という日を大切にしなくてはなりません。光のあううちに、光の中を歩み始めるならば、暗闇が私たちに追いつき、暗闇が私たちを捕らえて滅ぼすことは決してありません。光なるキリストを信じ、光の中を歩いていきましょう。<br /><br /></p>shoeichurchhttp://www.blogger.com/profile/05438295989591628531noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-3753053677489926281.post-36968956829695931542024-03-13T20:00:00.001+09:002024-03-13T20:00:00.136+09:00祈祷会用:出エジプト記 12:1~28<p> 出エジプト記12:1~28<br /><br /> 前回は、主がファラオに最終的な裁きを告げるところまでをお読みしました。今日の箇所では、主がモーセとアロンに、イスラエルの共同体全体に告げるべき言葉を与えています。それは次のような指示でした。「今月の十日、人はそれぞれ父の家ごとに、すなわち家族ごとに小羊を一匹用意しなければならない。もし、家族が少人数で小羊一匹を食べきれない場合には、隣の家族と共に、人数に見合うものを用意し、めいめいの食べる量に見合う小羊を選ばねばならない。その小羊は、傷のない一歳の雄でなければならない。用意するのは羊でも山羊でもよい。それは、この月の十四日まで取り分けておき、イスラエルの共同体の会衆が皆で夕暮れにそれを屠り、その血を取って、小羊を食べる家の入り口の二本の柱と鴨居に塗る」(3-7節)。<br /><br /> 羊や山羊を家族で食べるということは、それ自体は珍しいことではありません。そこで決定的に重要なのは、その羊が傷のない一歳の雄でなければならないということ、そして、その血を柱と鴨居に塗るということです。<br /><br /> なんのために血を塗るのか。その理由が後に明確に語られています。前提となっているのは、来るべき主の裁きです。「その夜、わたしはエジプトの国を巡り、人であれ、家畜であれ、エジプトの国のすべての初子を撃つ。また、エジプトのすべての神々に裁きを行う。わたしは主である」(12節)。ここで重要なのは、「エジプトの国(エジプトの地)のすべての初子を打つ」と語られているのであって、「エジプト人の初子を打つ」と語られてはいないということです。また「エジプトのすべての神々に裁きを行う」と言われていることです。先週、預言者エゼキエルの預言に見たように、イスラエルの人々は、エジプトの神々と無関係に生きてきたわけではないのです。その意味で、ここで語られる裁きはイスラエルにとっても決して無関係ではないのです。<br /><br /> そこで、柱と鴨居に塗る「血」が大きな意味を持つことになるのです。次のように語られているからです。「あなたたちのいる家に塗った血は、あなたたちのしるしとなる。血を見たならば、わたしはあなたたちを過ぎ越す。わたしがエジプトの国を撃つとき、滅ぼす者の災いはあなたたちに及ばない」(13節)。<br /><br /> ここで「血を見たならば、わたしはあなたたちを過ぎ越す」という表現は極めて重要です。主の裁きは《イスラエルの民》を見て過ぎ越すのではないのです。犠牲の小羊の《血を見て》過ぎ越すのです。このことは、彼らが赦され裁きを免れる根拠が、彼ら自身にないことを示しているのです。救いの根拠は、彼らのために屠られた小羊、あがないの小羊の血にあるのです。<br /><br /> だからこそ、ただ柱と鴨居に血を塗るだけでなく、後に次のように命じられているのです。「さあ、家族ごとに羊を取り、過越の犠牲を屠りなさい。そして、一束のヒソプを取り、鉢の中の血に浸し、鴨居と入り口の二本の柱に鉢の中の血を塗りなさい。翌朝までだれも家の入り口から出てはならない。主がエジプト人を撃つために巡るとき、鴨居と二本の柱に塗られた血を御覧になって、その入り口を過ぎ越される。滅ぼす者が家に入って、あなたたちを撃つことがないためである」(21-23節)。要するに、彼らは神が定められた仕方によって、神の憐れみと赦しの内に留まらなくてはならないということです。<br /><br /> 実際に彼らはどうしたでしょうか。「それから、イスラエルの人々は帰って行き、主がモーセとアロンに命じられたとおりに行った」(28節)と書かれています。人は、自分勝手な方法によって、神の赦しと救いを得ることはできないのです。もし伝えられた言葉を無視して血を塗らないならば、あるいは誰かがその血に塗られた家から迷い出るならば、その途端にその人は救いの根拠を失い、神の裁きのもとに身を置くことになるということを意味するのです。<br /><br /> さて、以上、ファラオに告げられた最後の裁きと、その日に関わるイスラエルの共同体全体に出された指示について見てきました。しかし、話はここで終わりません。「この日は、あなたたちにとって記念すべき日となる。あなたたちは、この日を主の祭りとして祝い、代々にわたって守るべき不変の定めとして祝わねばならない」(14節)と語られていますように、ここに書かれていることはさらに、後々まで行われるべき「祭り」に関係しているのです。<br /><br /> まず、今日の箇所の始めに戻りますが、そこにはわざわざ「この月をあなたたちの正月とし、年の初めの月としなさい」(2節)という指示が主によって与えられています。エジプト脱出のためだけだったら、この指示は必要ありません。エジプト脱出は一回限りの出来事だからです。しかし、「正月としなさい」と言われたら、「正月」は一年に一度巡ってくることになります。つまり、ここに書かれていることは、一回限りの救いのためだけではなく、毎年毎年巡ってくることを前提として語られているのです。つまり、一回だけ行うのではなく、毎年行うことを前提として語られているのです。<br /><br /> だから日にちの指定がなされているのです。小羊は正月の10日に用意するのです。14日までとりわけて置くというのは、実際には準備に4日間くらいかかるからです。なので屠るまで4日の猶予が与えられているのです。屠るのは14日の夕です。太陰暦で14日の夕と言えば、満月の夕に当たります。満月の夕に小羊を屠る。これならば分かり易いし、覚えやすいでしょう。これも毎年行うことを前提として語られているのです。小羊の選び方も書かれています。「その小羊は、傷のない一歳の雄でなければならない。」これもまた、後に繰り返されることが前提として語られているのです。<br /><br /> ですから、先に引用したように、14節にはこう書かれているのです。「この日は、あなたたちにとって記念すべき日となる。あなたたちは、この日を主の祭りとして祝い、代々にわたって守るべき不変の定めとして祝わねばならない」。これが「過ぎ越しの祭り」と呼ばれるものです。ここに書かれているのは、一回だけの話ではなく、過越祭の祝い方なのです。<br /><br /> そう考えますと、8節以下は実に興味深いと言えます。食べ方の指示が書かれているのです。何を食べるかが書かれているのはわかりますが、面白いのは、食べ方が書かれていることです。「それを食べるときは、腰帯を締め、靴を履き、杖を手にし、急いで食べる」(11節)。<br /><br /> もちろん、エジプト脱出の夜には、そのようなことが必要だったと言えます。ゆっくりなんて食べていられないからです。しかし、先に述べたように、これは繰り返されることが前提として書かれているのです。つまり、毎年、こんな寸劇みたいなことをするのです。脱出した後は、そのような仕方で食べる必要はないはずなのに、毎年、逃げる用意をして食べるようなことをするのです。<br /><br /> さて、これは何のためかということが重要なのです。何のために祭りを行うのか。もちろん繰り返し神に感謝し、神に栄光を帰するためであることは言うまでもありません。しかし、あえて「あの日」の出来事を再現して繰り返すのは、「あの日」の出来事によって救われた後の生活を形作るためなのです。そして、救われた人々の共同体を形成するためなのです。<br /><br /> 「正月」にするのは、あの日の出来事を「原点」とするために他なりません。すべてはそこから始まったということです。「そこ」とは何か。裁きが過ぎ越されて救われたということです。言い換えるならば、ただ神の一方的な恵みによって救われたということです。救いの根拠は人間の側にはなかったということなのです。<br /><br /> 先ほど見たように、「小羊の選び方」は指示されています。しかし、救われるべき人間の選び方は指定されていません。「今まで一度も偶像をおがんだことのない者」とか、「エジプト人との混血でない者」などの条件は書かれていないのです。この救いにおいて重要なのは、小羊の方なのです。あくまでも神の用意された救いの方法の方が重要なのです。そこに表されている神の恵みの方が重要なのです。人間に求められたのはただ信じて血を塗ることであり、そこに留まることだけだったのです。<br /><br /> それが原点でした。恵みによる救いが原点です。そこで「ああ、救われてよかった」ではなくて、その事実が今度は生活を形作るようにならなくてはならないのです。また、個人の生活を形作るだけでなく、その出来事が共同体を形作るようになることが重要なのです。そのために繰り返し祭りを行い、寸劇までするのです。<br /><br /> 私たちが行っていることも、実は全く同じことであることが分かりますでしょう。教会が復活祭を祝うようになったのはなぜか。そもそも主の日に集まって復活を祝うようになったのはなぜか。なぜ聖餐を行うのか。なぜ寸劇のような、ままごとのようなことを繰り返すのか。恵みによって救われた者の生活が、それによって形作られるためです。それによって共同体が形作られるためです。私たちの信仰生活とはそういうものであり、教会とはそういうものなのです。<br /><br /> そして、祭りを行うのは、生活と共同体の形成のためと言いましたが、さらに言うならば、それは今の世代だけでなく、次の世代のためでもあるのです。24節以下には次のように書かれています。「あなたたちはこのことを、あなたと子孫のための定めとして、永遠に守らねばならない。また、主が約束されたとおりあなたたちに与えられる土地に入ったとき、この儀式を守らねばならない。また、あなたたちの子供が、『この儀式にはどういう意味があるのですか』と尋ねるときは、こう答えなさい。『これが主の過越の犠牲である。主がエジプト人を撃たれたとき、エジプトにいたイスラエルの人々の家を過ぎ越し、我々の家を救われたのである』と」(24-27節)。<br /><br /> 大人たちが行っていることを子供たちに見せるのです。意味が分かろうが分かるまいがその場にいさせて見せるのです。そして、子供たちがやがて問うようになる。そして、意味を説明するのです。そこには「我々の家」という言葉が使われています。子供たちは、そのようにして自分たちが「我々」の中にいることを知っていくようになるのです。自分たちも神の恵みの中にあること、圧倒的な神の救いの御業と御計画の中にあることを知るようになるのです。<br /><br /> そう考える時に、私たちの信仰による営み、儀式も含め、すべてを子供に見せているということは極めて大事なことであることが分かります。礼拝に子供がいるということは大事なことなのです。「いても子供には意味がわからないから」などと言ってはならないのです。<br /><br /><br /></p>shoeichurchhttp://www.blogger.com/profile/05438295989591628531noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-3753053677489926281.post-15916188490745846232024-03-10T20:00:00.006+09:002024-03-10T20:00:00.144+09:00「マリアとユダ」<p>ヨハネによる福音書 12:1‐8<br /><br /><b>香油を注いだマリア</b><br /> 今日の福音書朗読では「過越祭の六日前」の話が読まれました。イエス様が十字架にかけられたのは過越祭の時ですから、イエス様の最後の時が刻一刻と近づいているという場面です。そのように自分の死の時が近づいている時に、イエス様にはどうしても会いたい人たちがいました。それは11章に書かれていますマリアとマルタという姉妹、そして、その兄弟ラザロでした。<br /><br /> 既にイエス様はユダヤの当局から指名手配されていました。今日お読みした直前に「祭司長たちとファリサイ派の人々は、イエスの居どころが分かれば届け出よと、命令を出していた。イエスを逮捕するためである」(11:57)と書かれているとおりです。そのイエス様が、エルサレムのすぐ近く、ベタニヤまで来ていたのです。その翌日にはエルサレム入りする予定でした。<br /><br /> そのような緊迫した危機的状況にあって、弟子たちはかつて主が「良い羊飼いは羊のために命を捨てる」と語られた言葉を思い起こしていたに違いありません。他の福音書を見るならば、主はもっとあからさまに御自分の受難について語っておられます。皆、本当は感じ取っていたに違いないのです。イエス様が語っていた「その時」は本当に近づいているのかも知れないということを。<br /><br /> しかし、ベタニヤの家での食卓においては、誰もそのことを口にしません。誰も触れません。怖かったのだと思います。目を向けたくはなかったのでしょう。イエス様があからさまに自分の死について語る言葉など、二度と聞きたくはなかったのでしょう。<br /><br /> 翌日エルサレム入りすることについては誰も何も語らぬまま、いつものように食事の準備が進められていきました。マルタはいつものように給仕をしています。ラザロもいつものように席についています。これまで幾度も繰り返されてきたイエス様との晩餐が、何事もないかのように普通に進んでいきます。――不自然です。ごく普通の食事であることが実に不自然です。しかし、それがどれほど不自然であっても、皆、何もないかのような顔をしているしかなかったのです。<br /><br /> ところがそこに一人だけ、その不自然さに耐えられなかった人がいました。マリアです。いつもイエス様が来られる時には、足もとに座って一心にその御言葉に聞き入っていたマリアです。イエス様が何を考えておられるのか。何を望んでおられるのか。そのことにひたすら耳を傾けてきたマリアです。だからこそ分かるのです。この御方は、父の御心に従ってエルサレムに行こうとしている。父の御心に従って、私たちのために命を捧げ尽くそうとしておられる。マリアには分かっていたのです。だから、この不自然な平静さ、取り繕われた平静さには耐えられない。<br /><br /> マリアは突然、誰もが驚くような行動に出ました。食事の席に着いておられるイエス様のもとに、純粋で非常に高価なナルドの香油を持って現れると、それをイエスの足に塗り自分の髪でその足を拭いました。髪を人前でほどくようなことは、娼婦でもないかぎり普通はしません。なりふり構わぬマリアがそこにいました。しかも、マリアが持ってきたのは一リトラ入りの壺でした。約330グラムに当たります。それだけで三百デナリオンもするものです。三百デナリオンと言えば、当時の労働者の年収に当たります。どれほど高価なものであったかが分かります。<br /><br /> それだけではありません。ユダが「なぜ…貧しい人々に施さなかったのか」と言っているところを見ると、明らかに彼女は少しだけ塗ってあとは残しておいたというのではありません。全部注いでしまったのです。他の福音書を見ると、足ではなく「イエスの頭に注ぎかけた」(マルコ14:3)と書かれています。頭にも、足にも、全身に注ぎかけてしまったのかもしれません。いずれにせよ、一リトラもの香油を一気に使うということは、普通はしないものです。あえてそのように用いるとするならば、それは一つの場合だけです。埋葬の時です。つまり、マリアは突然、死体の埋葬のようなことをし始めたのです。<br /><br /> 皆が一生懸命に造り上げてきた平静な雰囲気は完全に打ち壊されてしまいました。マリアの行為は、皆が目を逸らしていた一つのことをはっきりと指し示していたからです。キリストの受難と死。「イエス様、あなたは本当に羊たちのために命を捨てるつもりでいらっしゃるのですね」。マリアの無言の行いが、イエス様にそう語りかけていました。<br /><br /><b>イスカリオテのユダ</b><br /> しかし、そんなことは絶対に認めたくもないし考えたくもない男がいました。イスカリオテのユダです。それはそうでしょう。イエスという人物に人生をかけて故郷を捨ててついて来たのです。この御方こそメシア。この御方こそ王となるべき方。この御方こそ支配者となるべき方。そう信じてついて来たのです。他の弟子たちも皆同じであったに違いありません。ですから弟子たちの間では、「誰が一番偉いか」という話題が絶えなかったのです。それがそのままイエスが王となった時の序列になるからです。そのようにイエスは王となるべき方なのであって、イエスが死ぬなんてとんでもない!イエスの埋葬なんて、とんでもない!弟子たちは、そんなことを何としても認めたくなかった。<br /><br /> だからユダは彼女を咎めたのです。あくまでもイエスの死にまつわる話は抜きにして!ユダは言いました。「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか」と。しかし、イエス様はそのように言うユダをたしなめてこう言われました。「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない」(7節)。<br /><br /> イエス様は分かっていてくださったのです。マリアはこの場面で一言も口にしていません。自分がなぜこんなことをしたのか、一言も弁明しようとはしないのです。しかし、イエス様は分かっておられた、マリアの心を。いや、イエス様とマリアは分かり合っていた、と言う方が正確かもしれません。父なる神を愛し、人を愛するゆえに、自分の命を捧げ尽くそうとしておられるイエス様を理解し、受難のキリストと正面から向き合っていたのはマリアでした。また、そのようなマリアであることを、イエス様も分かっていてくださったのです。<br /><br /><b>ユダとマリア</b><br /> さて、ヨハネによる福音書が殊更に名前を挙げているユダとマリア。この対照的な二人の姿から、改めて信仰生活とは何かを考えさせられます。<br /><br /> ユダは言いました。「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか」。なるほどユダが言うとおりです。善意に溢れた言葉です。誰も反対できません。しかし、ヨハネによる福音書は次のように続けるのです。「彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない」(6節)。この言葉には心を刺されます。こういうこと、確かにあると思いませんか。私たちが口にする善意の言葉。「彼のために」「彼女のために」「世の人々のために」「苦しんでいる人のために」「あなたのために」。でも、本当にそうなのでしょうか。ユダが「貧しい人々のために」と言った時、本当は貧しい人々のことを心にかけてなんかいなかったのだ、と聖書は言うのです。<br /><br /> では誰のことを心にかけていたのか。キリストのことでしょうか。いいえ、違います。聖書はさらにこう続けます。「彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである」。彼が心にかけていたのは貧しい人々のことではない。キリストのことでもない。自分のことだ、と言っているのです。キリストの弟子の群れの金入れ。「その中身をごまかしていた」ということは、とりもなおさず、キリストの弟子の群れを自分の利益のために利用していた、ということです。キリストの弟子の一人としてキリストと共にあることを、彼は自分の利益のために利用したのだ、ということです。<br /><br /> とんでもないことをする奴だ、と思います。しかし、それでは私たちはどうなのでしょう。教会を自分のために利用してやろう。と、そんなことをあからさまに考える人はいないでしょう。しかし、「キリスト教信仰は私にとって何の役に立つだろうか」「教会に来ていることは私の役に立つことだろうか」「他の教会員と関わることによって、私は何か良いものを得ているのだろうか」。そんなふうに、教会生活について、これが自分にとって得になるか損になるか試算しているということは、あるかもしれません。そのような部分において、ユダの姿が私たちと重なってくることは確かにあり得ることだと思います。<br /><br /> しかし、あのマリアは違っていたのです。もし私たちが「何を得られるか」ということをあれこれ考えているとするならば、マリアならそんな私たちにこう言うでしょう。――私たちはもう十分受けているよ。イエス様からもう十分過ぎるほど受けているじゃないですか。イエス様から愛されて、愛されて、その命さえも分かち与えられるほどに愛されて…。命さえ惜しまずに与えてくださったイエス様から、私たちはもう十分過ぎるぐらい受けているじゃないですか。<br /><br /> そのことが本当に見えていたのが、ここに出て来るマリアなのです。マリアは、キリストに従って行くことが得か損かなどということは考えたこともなかったに違いありません。ただただイエス様から愛されていることが嬉しかった。彼女が考えていたことは、命さえも惜しまず与えるほどに愛してくださったキリストとまっすぐに向き合うこと、そして、そのキリストの愛に自らの愛をもって精一杯応えることだったのです。弟子の群れのサイフから金を抜くことを考えていたユダのかたわらで、マリアはイエス様の思いを精一杯に受け止めて、イエス様の御受難を指し示しながら、三百デナリオンもの香油を注ぎ尽くしたのです。<br /><br /> あのとき、マリアが目を逸らさずにしっかりと見つめていた、命さえ惜しまずに与えるキリストの愛を、私たちの前に置かれている聖餐卓が今日も私たちに指し示しています。私たちも目を逸らしてはなりません。レントのこの期間こそ、私たちは目を逸らしてはならないのです。キリストによって愛されているのです。もう十分に愛されているのです。キリストは十字架において現された愛をもって、今日も私たちに触れてくださいます。教会生活というものは、そこから始まっていくのです。教会生活は、キリストの愛に対して自らの愛をもってお応えしていく生活として形作られていくのです。<br /><br /><br /><br /></p>shoeichurchhttp://www.blogger.com/profile/05438295989591628531noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-3753053677489926281.post-78930337348076297942024-03-06T20:00:00.001+09:002024-03-06T20:00:00.153+09:00祈祷会用:出エジプト記 10:21~11:10<p>出エジプト記10:21~11:10<br /><br /> 今日は「暗闇の災い」からお読みしました。これは二つの意味で非常に象徴的な災いであったと言えます。<br /><br /> 第一に、これはファラオの権威を完全に否定する災いであったことです。ファラオは太陽神の化身と考えられ、畏れられていました。しかし、モーセが手を天に向かって差し伸べると、三日間エジプト全土に暗闇が臨みました。これがいかなる現象かは分かりません。しかし、暗闇が三日に及んだということは、明らかに太陽がその期間隠されたということを意味します。つまり太陽もまた、主の支配下にあることが明らかにされたのです。当然、エジプトの人々の目には、太陽の化身であるファラオが主の支配下にあると映ったに違いありません。そして、実際その通りなのです。<br /><br /> 第二に、これは本当に闇の中にあるのは誰であり、光の中にあるのは誰であるかが明らかにされた災いでありました。「イスラエルの人々が住んでいる所にはどこでも光があった」と書かれています。これも実際には何が起こっていたのか、この記述だけでは分かりません。しかし、それが伝えているメッセージは明瞭です。<br /><br /> それまでは太陽神とその化身のもとに、古代オリエント世界においても極めて豊かな繁栄を享受していたエジプトの民は、まさに光の中にあるように見えたはずです。一方、そこでこき使われている奴隷の民、イスラエルは、暗闇の中をはいつくばって生きているように見えたに違いありません。しかし、実はそうではなかったのです。主と共にあるなら、その人は光の中にいるのです。イスラエルの民はまだ解放されたわけではありません。依然として奴隷の民なのです。しかし、彼らは光の中にあるのです。そして、やがてその事実が、はっきりと現される時が来るのです。<br /><br /> そして、ついに解放の時が近づいて来ました。最後の災いについて、まずどのような災いであるかを告げる前に、主はこう言われました。「わたしは、なおもう一つの災いをファラオとエジプトにくだす。その後、王はあなたたちをここから去らせる。いや、そのときには、あなたたちを一人残らずここから追い出す。あなたは、民に告げ、男も女もそれぞれ隣人から金銀の装飾品を求めさせるがよい」(11:1-2)。<br /><br /> つまり、ファラオはしぶしぶ去らせるというのではない。むしろ追い出すようにして去らせるというのです。いや、それだけではありません。出て行く際にはエジプト人から装飾品を求めさせよ、というのです。実際どうなったかを、先に少しだけ見ておきましょう。12:33以下には次のように書かれています。「イスラエルの人々は、モーセの言葉どおりに行い、エジプト人から金銀の装飾品や衣類を求めた。主は、この民にエジプト人の好意を得させるようにされたので、エジプト人は彼らの求めに応じた。彼らはこうして、エジプト人の物を分捕り物とした」。<br /><br /> 「分捕り物とした」という言葉だけを読むならば、イスラエルの民が不当にもエジプト人のものを奪ったように読めなくありません。しかし、実際には、これは神の正しい裁きの一部に他ならないのです。つまり、彼らは長い間、奴隷として抑圧され、搾取されてきたのです。彼らは不当に奪われてきたのです。そのことを神はご存じで、ただ「解放されてよかったね」ということで、それまでのことは無かったかのように扱うことはなさらないのです。神は正しく裁かれる。神は正しく報いてくださるのです。神が正しく取り返してくださる。神の正しい裁きが行われるとはそういうことです。<br /><br /> 実は、これは初めから既に語られていたことなのです。3章21節以下には次のように語られていました。「そのとき、わたしは、この民にエジプト人の好意を得させるようにしよう。出国に際して、あなたたちは何も持たずに出ることはない。女は皆、隣近所や同居の女たちに金銀の装身具や外套を求め、それを自分の息子、娘の身に着けさせ、エジプト人からの分捕り物としなさい。」つまり、このことは神様の御計画に最初から入っているのです。神は苦しみから解放してくださるだけでない。イスラエルは神の正しい裁きを見せていただけるのです。そして、彼らは神の正しい裁きを知る民となるのです。<br /><br /> 確かに、ここまで長いプロセスを経てきました。それは一方において、エジプト人たちへの働きかけに他なりませんでした。その結果どうなったか。「主はこの民にエジプト人の好意を得させるようにされた。モーセその人もエジプトの国で、ファラオの家臣や民に大いに尊敬を受けていた」(3節)と書かれています。見る人は見ているのです。それゆえに、脱出の時には、「そのほか、種々雑多な人々もこれに加わった」(12:38)ということも起こってくるのです。歴代誌上2:34を見ると、系図の話の中に、後にエジプト人の召し使いなどが出て来ます。その脱出に加わった人々に、もちろんエジプト人の一部も加わったと考えてもよいでしょう。<br /><br /> もう一方では、イスラエルにとっても本当の意味で神を知るということでもありました。神は正しく裁かれる神なのです。ならば、そこでイスラエルが区別されるとするならば、それは恵み以外の何ものでもありません。私たちはイスラエルの人たちがエジプト人たちよりも敬虔であったから区別されたと思ってはならないのです。<br /><br /> それは例えば、以下の箇所を参照すれば明らかです。「あなたたちはだから、主を畏れ、真心を込め真実をもって彼に仕え、あなたたちの先祖が川の向こう側やエジプトで仕えていた神々を除き去って、主に仕えなさい」(ヨシュア24:14)。「わたしがイスラエルを選んだ日に、わたしはヤコブの家の子孫に誓い、エジプトの地で彼らにわたしを知らせたとき、彼らに誓って、わたしはお前たちの神、主であると言った。その日、わたしは彼らに誓い、わたしは彼らをエジプトの地から連れ出して、彼らのために探し求めた土地、乳と蜜の流れる地、すべての国々の中で最も美しい土地に導く、と言った。わたしはまた、彼らに言った。『おのおの、目の前にある憎むべきものを投げ捨てよ。エジプトの偶像によって自分を汚してはならない。わたしはお前たちの神、主である』と。しかし、彼らはわたしに逆らい、わたしに聞き従おうとはしなかった。おのおの、目の前の憎むべきものを投げ捨てず、エジプトの偶像を捨てようとはしなかった。そこで、わたしは言った。『わたしは憤りを彼らの上に注ぎ、エジプトの地でわたしの怒りを浴びせる』と」(エゼキエル20:5‐8)<br /><br /> そのような現実が一方にある中で、イスラエルの民は、エジプトの神々とエジプトの王が正しく裁かれるプロセスを目の当たりにしていたのです。そして、ついに最終的な裁きが行われることが告げられました。それがこの場面です。「主はこう言われた。『真夜中ごろ、わたしはエジプトの中を進む。そのとき、エジプトの国中の初子は皆、死ぬ。王座に座しているファラオの初子から、石臼をひく女奴隷の初子まで。また家畜の初子もすべて死ぬ。大いなる叫びがエジプト全土に起こる。そのような叫びはかつてなかったし、再び起こることもない』」(11:4-6)。<br /><br /> 神御自身がエジプトの中を進まれます。これはある意味ではイスラエルの民にとっても大きな危機なのです。なぜなら、最後の災いについて主はこう言っておられるからです。「真夜中ごろ、わたしはエジプトの中を進む」。そして、「そのとき、エジプトの国中(直訳では「エジプトの地」)の初子は皆、死ぬ」と言っているのであって、「エジプト人の初子は皆、死ぬ」と言っているのではないからです。その意味合いは、次回読みます12章12節ではもっとはっきり語られることになります。「その夜、わたしはエジプトの国を巡り、人であれ、家畜であれ、エジプトの国のすべての初子を撃つ。また、エジプトのすべての神々に裁きを行う。わたしは主である」。そして、先にも見たように、イスラエルの人々もエジプトの神々に関わってきたのである。その意味で、ここで語られる裁きはイスラエルにとっても無関係ではないのです。神がエジプトの中を進まれるならば、それはイスラエルの民にとっても危機なのです。<br /><br /> にもかかわらず、先の言葉は次のように続きます。「しかし、イスラエルの人々に対しては、犬ですら、人に向かっても家畜に向かっても、うなり声を立てません。あなたたちはこれによって、主がエジプトとイスラエルを区別しておられることを知るでしょう」。先に見ましたように、明らかに主がイスラエルの民を「区別」されるのは、彼らがもともと主を畏れ、主に従っていたからではありません。ではいったいどうしてこうなるのか。そこで重要なのが、12章において語られていることなのです。ポイントは「過ぎ越し」という言葉です。裁きが「過ぎ越す」という意味です。<br /><br /> 主の過ぎ越しについては、次回さらに詳しく学びます。主はファラオに最終的な裁きを告げる一方で、モーセとアロンに、イスラエルの共同体全体に告げるべき言葉が与えられるのです。「今月の十日、人はそれぞれ父の家ごとに、すなわち家族ごとに小羊を一匹用意しなければならない。もし、家族が少人数で小羊一匹を食べきれない場合には、隣の家族と共に、人数に見合うものを用意し、めいめいの食べる量に見合う小羊を選ばねばならない。その小羊は、傷のない一歳の雄でなければならない。用意するのは羊でも山羊でもよい。それは、この月の十四日まで取り分けておき、イスラエルの共同体の会衆が皆で夕暮れにそれを屠り、その血を取って、小羊を食べる家の入り口の二本の柱と鴨居に塗る」(12:3-7節)。<br /><br /> 羊や山羊を家族で食べるということは、それ自体は珍しいことではありません。決定的に重要なのは、傷のない一歳の雄でなければならないということです。そして、その血を柱と鴨居に塗るということです。なんのために血を塗るのか。そこで先に引用した言葉とその次の節が語られるのです。「その夜、わたしはエジプトの国を巡り、人であれ、家畜であれ、エジプトの国のすべての初子を撃つ。また、エジプトのすべての神々に裁きを行う。わたしは主である。あなたたちのいる家に塗った血は、あなたたちのしるしとなる。血を見たならば、わたしはあなたたちを過ぎ越す。わたしがエジプトの国を撃つとき、滅ぼす者の災いはあなたたちに及ばない」(12:12-13)。<br /><br /> 主の裁きは《イスラエルの民》を見て過ぎ越すのではないのです。犠牲の小羊の《血を見て》過ぎ越すのです。「血を見たならば、わたしはあなたたちを過ぎ越す」という表現は重要です。これは、彼らが赦され裁きを免れる根拠が、彼ら自身にないことを示しているのです。救いの根拠は、彼らのために屠られた小羊、あがないの小羊の血にあるのです。それゆえに、神の憐れみと赦しの内に留まるためには、神が定められた仕方によってそこに留まらなくてはならないことが語られるのです。人は、自分勝手な方法によって、神の赦しと救いを得ることはできないのです。彼らは、主が言われた通り、家の柱と鴨居に血を塗り、その家の中に留まらなくてはなりませんでした。このことを念頭において、今一度、今日の箇所に語られていることをよく思い巡らしたいと思います。<br /><br /></p>shoeichurchhttp://www.blogger.com/profile/05438295989591628531noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-3753053677489926281.post-50438060782192657612024-03-03T20:00:00.003+09:002024-03-04T10:58:12.906+09:00「永遠の命の言葉を求めて」<p>ヨハネによる福音書 6:60-71<br /><br /><b>実にひどい話だ</b><br /> 「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」(60節)。弟子たちの多くがこう言って離れ去ったということが、今日の箇所には書かれていました。なぜそんなことが起こったのでしょうか。<br /><br /> そもそもの発端はイエス様のなさった奇跡でした。この章の初めに書かれています。五つのパンと二匹の魚をもって男だけを数えても五千人という大群衆を満腹させたという話です。この出来事が12弟子を含む弟子たちの群れを熱狂させたことは間違いないでしょう。<br /><br /> 既に奇跡を行う力を持っているイエス様を王にしようとする動きさえありました。それはローマ人の支配からの解放を求めてのことでした。それはまた、安定した新しい生活を求めてのことでもあったでしょう。この御方がいるかぎり、もはや貧しさや病気と決別できると考えていた人もいたに違いありません。そのような人々がカファルナウムまで追いかけてきたのです。<br /><br /> ところが興奮さめやらぬ人々にイエス様が語られた言葉はこうでした。「あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」(26‐27節)。そして、そこからイエス様の一連の話が始まるのです。<br /><br /> その話の中心は「わたしは天から降って来たパンである」というイエス様の主張でした。しかも、それはかつてイスラエルの先祖が荒野で食べたマンナのような一時的な飢えをしのぐものではなく、永遠の命を与えるパンであると言い始めたのです。そして、その言葉はさらに過激さを増していきます。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる」(53‐54節)とまで言い始めるのです。<br /><br /> これを聞いて、弟子たちの多くがつまずきました。それは単にイエス様の言葉が理解不能だったからではありません。その言葉は彼らが求め、期待してきたこととは異なっていたからです。<br /><br /> もしイエス様が「わたしは天から降ってきたパンだ」などと言わずに、「わたしは奇跡によってパンを出してあげよう」と言ったなら彼らはつまずかなかったのです。もしイエス様が「わたしの肉を食べ、血を飲め」なんて言わずに、「わたしが肉と飲み物を与えるから食べて飲みなさい」と言ったなら、彼らはつまずくことはなかったのです。<br /><br /> もしイエス様が「終わりの日に復活させる」なんて言わずに、「すぐにでもあなた方をローマ人の支配から解放してあげよう」と言ったなら、誰もつまずくことはなかったのです。より良い、安定した生活を与えてあげようと言ったなら、誰もつまずかなかったのです。<br /><br /> しかし、イエス様はあくまでも永遠の命について語られるのです。永遠なる神との交わりによって与えられるまことの命について語られるのです。だから彼らはつまずいたのです。彼らは言いました。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」。<br /><br /><b>肉は何の役にも立たない</b><br /> イエス様は弟子たちがこのことについてつぶやいているのに気づいて言われました。「あなたがたはこのことにつまずくのか。それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば・・・」(61‐62節)。イエス様の言葉は途中で終わっています。なんと続けたかったのでしょうか。恐らくは「なおさらつまずくことになるだろう」と言いたかったのでしょう。<br /><br /> なぜなら事実、その先にはもっと大きなつまずきが待っているからです。イエス様は十字架にかけられることになるのです。「人の子がもといた所に上るのを見るならば」と主は言われました。「人の子(イエス)がもといた所に上る」とは、天に帰るということですが、この福音書においては十字架にかけられて死ぬことを指しているのです。もし、目の前の助けや必要の満たしだけを求めてついていくならば、そこで大きくつまずかざるを得ないでしょう。<br /><br /> それゆえに、主はさらにこう続けられたのでした。「命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である」(63節)。主はあくまでも「命」すなわち「永遠の命」について語られるのです。「命を与えるのは“霊”である」と。その「命」は目に見えない永遠なる神の霊のお働きとして与えられるのです。<br /><br /> それに対して、目に見えるこの世界に属するものをイエス様は「肉」と呼ばれます。朽ちていくこの地上のもの、イエス様が先に「朽ちるパン」と呼ばれたもの、人々がひたすら追い求めているもの、それを主は「肉」と呼ばれるのです。実際、群衆は「肉」を求めてはるばるカファルナウムまでイエス様を追いかけてきたのです。しかし、「肉」は本当の意味で命を与えることはないのです。いや、「肉は何の役にも立たない」とまでイエス様は言い切られるのです。<br /><br /> どんな思いで主はこれを語られたのでしょうか。考えて見てください。イエス様の周りには常に飢えた人、病気の人、見捨てられた人、抑圧された人、様々な問題に押しつぶされそうになっている人たちがたくさんいたはずです。それらの人々の苦しみがイエス様には分からなかったはずはありません。どんなにお腹いっぱい食べたいか、どれほど健康になりたいか、どれほど安定した生活を欲しているか、イエス様には痛いほど分かっていたはずです。人間に肉なるものがどれほど必要であるか、この世が提供するものがどれほど必要であるか、そんなことは重々分かっておられるはずなのです。<br /><br /> しかし、そのイエス様が敢えて「肉は何の役にも立たない」と言われるのです。それは「命を与えるのは“霊”である」ということをどうしても伝えたかったからでしょう。それほどまでに永遠なる神に思いを向けて欲しかった、それほどまでに永遠の命を与えたいと思っておられたからでしょう。人がたとえ代わりにすべてを失ったとしても、なおその人を生かす命。最終的には肉体の生命を失ったとしてもその人を生かす命。何ものによっても奪われることのない命――永遠の命を主は与えたいと願っておられたのです。<br /><br /> そのために主は十字架への道を歩むことさえ厭わなかったのです。そのために主は御自分の全てを与えるつもりでいたのです。自分自身を天から降ってきたパンとして与えるつもりでいたのです。わたしの肉を食べなさい、わたしの血を飲みなさい、と言って、自分を差し出すつもりでいたのです。<br /><br /><b>あなたがたも離れて行きたいか</b><br /> しかし、「このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった」(66節)と聖書は伝えます。はっきりと「弟子たちの多く」と書かれています。ここまでイエス様を信じて従ってきたはずの「弟子たちの多くが」離れて行ったのです。<br /><br /> この言葉は、この福音書が書かれた頃の教会にとっても大きな意味を持ったはずです。というのも、その頃、弟子たちの多くが教会を離れていったからです。なぜか。彼らは迫害と困窮を経験していたからです。<br /><br /> 信仰のゆえに迫害と困窮の中に置かれるならば、そこで何を求めているのか、何を求めてきたのかが必然的に問われることになるでしょう。そのような中で「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる」というような主の言葉はどのように聞こえたのでしょうか。<br /><br /> その主の言葉に対して、「そんなことより、今は目の前のことの方が大事なのです。神との交わりよりも〝霊〟よりも、「肉」の方が重要なのです」と言う人は、もはやイエス様のもとに留まることはできなかったに違いありません。イエス様から離れ去った多くの弟子たちの話は、この福音書が書かれた頃の教会にとっても他人事ではなかったはずです。<br /><br /> しかし、だからこそ、あの十二弟子に語られたイエス様の言葉もまた強く迫ってきたに違いありません。弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった時、イエス様は十二弟子にこう言われたのです。「あなたがたも離れて行きたいか」(67節)。<br /><br /> これは「あなたがたも離れて行きたいか。もしそうならば去ってもいいのだよ」という意味ではありません。そうではなく、「あなたがたも離れて行きたいか。いやあなたがたは決して去ることはないだろう」という意味合いの表現が用いられているのです。「あなたがたは去って行かない。きっと留まるはずだ」という信頼をもってイエス様は語っておられるのです。<br /><br /> その言葉に対して、シモン・ペトロはこう答えました。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます」(68節)。どれだけ分かって言っていたのかは分かりません。しかし、一つのことだけは明らかです。彼はただ肉なるものを求めてイエス様のもとにいるのではなかったということです。<br /><br /> さて、私たちは何と答えるでしょうか。主はここにいる私たちにも「あなたがたはわたしの言葉に留まるはずだ」と信頼して御言葉を語っていてくださいます。永遠の命の御言葉を語っていてくださるのです。私たちは何と答えるのでしょうか。レントの時を過ごしている私たちは、真剣にこのことを自らに問う必要があろうかと思います。この期間を経て、私たちもまたペトロと共に、心からこのように答える者となりたいと思うのです。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます」と。<br /><br /><br /></p>shoeichurchhttp://www.blogger.com/profile/05438295989591628531noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-3753053677489926281.post-49711464147279992492024-02-28T20:00:00.001+09:002024-02-28T20:00:00.136+09:00祈祷会用:出エジプト記 10:1~20<p> 出エジプト記 10:1-20</p><p><br /> 前回は7つ目の「雹の災い」までを見てきました。災いを三つ1ラウンドと考えると3ラウンド目に入ったことになります。そこでは新しいこととして、具体的にエジプトの中にイスラエルの側に着く人々が現れてまいります。実際、彼らの中に、主のなさることに目を向けている人、主の言葉を聞いている人がいるのです。<br /><br /> 「見よ、明日の今ごろ、エジプト始まって以来、今日までかつてなかったほどの甚だ激しい雹を降らせる。それゆえ、今、人を遣わして、あなたの家畜で野にいるものは皆、避難させるがよい。野に出ていて家に連れ戻されない家畜は、人と共にすべて、雹に打たれて死ぬであろう』と」と主は言われました。そのように語られる主を畏れ、警告に従おうとする人々が出てくるのです。「ファラオの家臣のうち、主の言葉を畏れた者は、自分の僕と家畜を家に避難させたが、主の言葉を心に留めなかった者は、僕と家畜を野に残しておいた」。そして、大きな雹が降る。エジプトはまた、イスラエルの人々が住むゴシェンには降らないのを見ることになります。<br /><br /> ファラオは言いました。「今度ばかりはわたしが間違っていた。正しいのは主であり、悪いのはわたしとわたしの民である。主に祈願してくれ。恐ろしい雷と雹はもうたくさんだ。あなたたちを去らせよう。これ以上ここにとどまることはない」(27‐28節)。しかし、ただ災いを免れようとすることと、真に主を畏れることは異なります。災いが過ぎ去れば、「ファラオは、雨も雹も雷もやんだのを見て、またもや過ちを重ね、彼も彼の家臣も心を頑迷にした。ファラオの心はかたくなになり、イスラエルの人々を去らせなかった。主がモーセを通して仰せになったとおりである」ということになるのです。<br /><br /> そして、今日お読みしたのは8番目の災いです。主はまず、再びモーセに、「ファラオのもとに行きなさい」と命じます。これまで何度となく足を運んだファラオのもとに、また行かなくてはなりません。人間的に見るならば、実に不毛な戦い、進展しない戦いが延々と続いているように見えなくもありません。しかし、だからこそ主は改めて「彼とその家臣の心を頑迷にしたのは、わたし自身である」と主は語られるのです。この戦いがどんなに手間取っても、完全に神様の御支配のもとにあるのです。神がなさろうとしていることは必ず実現するのです。しかし、そこに至るまでにあえて時間をかけるとするならば、そこには神様の目的があるのです。ゆえにその目的を主はモーセに繰り返し語られるのです。<br /><br /> エジプト脱出までの話ではありません。実はこのことを、イスラエルの民は繰り返し経験していくことになるのです。脱出しても、すぐに約束の地には入りません。荒れ野を通されることになります。そこで厳しいプロセスを経ることになる。「主は滅ぼすために導き出されたのか」と言いたくなるような状況を通されるのです。しかし、そこには目的があるのであり、主の支配下にあってすべては導かれているのです。<br /><br /> そのように主はモーセに繰り返し目的を語られるのですが、ここには新しい要素が入ってきています。「それは、彼らのただ中でわたしがこれらのしるしを行うためであり、わたしがエジプト人をどのようにあしらったか、どのようなしるしを行ったかをあなたが子孫に語り伝え、わたしが主であることをあなたたちが知るためである」(1-2節)。これと同じ言葉は、ここ以降、12章、13章にも出て来ます。<br /><br /> 子孫に語り伝えよという命令は、主が彼らの子孫までを既に心に留めて語っておられるということです。つまり脱出して後のこと、さらには約束の地に入れられてから後のことまでが視野に入れられ、語られているということです。出エジプトというのは、そういう出来事なのです。もともとはアブラハムに約束されたことの実現です。あなたを大いなる国民とすると主はかつてアブラハムに言われたのです。祝福の源とすると言われたのです。この土地を与えると言われたのです。そうです、彼らは地上に定住する祝福の民となるのです。今、ここで延々と続いている戦いは、ただ今のイスラエルが救われるための戦いではないのです。ただ苦しみから解放されるための戦いではないのです。これは子孫に関わっているのです。神の民の歴史に関わっているということです。<br /><br /> 新約聖書に目を転じると、例えば、教会が迫害によって散らされるという話が出て来ます。ステファノが殉教した時、もちろんステファノは正しいことを語り、正しいことを行ったゆえに殺されたのですが、結果的に見るならば、彼の行為は教会に対する迫害を加速させる結果となったのです。誕生して間もない教会は、散らされることになりました。しかし、そのゆえにフィリポがサマリアまで行くことになり、サマリア人に福音が伝えられることになりました。さらには、地の果てまで福音が伝えられることになりました。そして、それは初めから弟子たちに復活のキリストから語られていたことなのです(使徒1:8)。最初の弟子たちが救われることだけが重要ならば、教会は散らされる必要はありませんでした。しかし、主は神の民の歴史までを視野に入れておられたのです。<br /><br /> 話しは戻りますが、モーセも、後のイスラエルも、このことが分かったようです。すぐに解放が起こらなかったのは、「わたしが主であることをあなたたちが知るためである」ということ。そして、その「あなたたち」には彼らの子孫も入っていること。だから実際、彼らは命じられたとおり、語り伝えたのです。この出エジプトの戦いは、イスラエルの民のいわば信仰の土台として、語り伝えられていくことになるのです。<br /><br /> さて、そのようにして引き起こされる「いなごの災い」ですが、重要なポイントは、「雹の害を免れた残りのものを食い荒らし、野に生えているすべての木を食い尽くす」(5節)と語られていることです。同じことは12節にも15節にも語られています。せっかく残されたものが食い尽くされるのです。身を低くするのを拒むなら、そうなると主は言われ、そして事実、そうなったのでした。<br /><br /> 実際、残されたものがあったのです。それはただ主の憐れみによるのです。しかし、それでもなお、主の前に身を低くしないなら、残されたものさえも失うことになるのです。この「いなごの災い」とは、そういう話なのです。<br /><br /> この災いが示していることは、人間にとって極めて重要なことです。極論を言うならば、人は罪によっては滅びないのです。神の憐れみは罪よりも大きいからです。人は罪によって滅びるのではなく、罪を認めず、頑なになり、悔い改めないことによって滅びるのです。「主の前に身を低く」しないことによって、せっかく現された神の憐れみを自ら投げ捨てることによって滅びるのです。それは後の時代の預言者によって繰り返されているテーマです。主は後の時代にも繰り返し預言者を遣わして「あなたたちの神、主に立ち返れ」と語られるのです。罪を犯したことではなく、立ち帰らないことによって人は滅びるからです。<br /><br /> さて、前回見たように、ファラオの民の中には、既に主のなさることをしっかりと見、また語られることを聞いている人々がいるのです。この「いなごの災い」の予告の際には、今度はファラオの家臣がファラオに進言します。「いつまで、この男はわたしたちを陥れる罠となるのでしょうか。即刻あの者たちを去らせ、彼らの神、主に仕えさせてはいかがでしょう。エジプトが滅びかかっているのが、まだお分かりになりませんか。」<br /><br /> ファラオはモーセとアロンを呼び戻して尋ねます。「誰と誰が行くのか」と。つまり、一部の人間だけ行かせて、残りはある意味で人質として残しておこうと考えたのでした。しかし、モーセは言います。「若い者も年寄りも一緒に参ります。息子も娘も羊も牛も参ります。主の祭りは我々全員のものです」。当然、これはファラオの拒絶に遭うことになりました。ファラオは激怒して言います。「よろしい。わたしがお前たちを家族ともども去らせるときは、主がお前たちと共におられるように。お前たちの前には災いが待っているのを知るがよい。」主が一緒だろうがなんだろうが、ただで済むと思うなよ、という脅しの言葉です。<br /><br /> 一部の人間が脱出するということならば、もうできるのです。しかし、モーセは言いました。「主の祭りは我々全員のものです」。実に味わい深い言葉です。救いに与るのは民全体でなくてはなりません。皆が出て行くのです。皆が救われることを、主は望んでおられるのです。だから少々困難があろうが手間取ろうが、耐え忍んでいくのです。<br /><br /> 私たちにも、そのような信仰は極めて重要なのではありませんか。自分が救われたらそれでよい。自分たちだけが神の民に加えられたらそれでよい。そう思っていれば回避できる苦難はあるかもしれません。しかし、そうあってはならないのです。主は、私たちの子供たちや友人たちまで視野に入れておられるからです。私たちが試練を経て、訓練され、整えられるのは、先にも申したとおり、私たちのためだけではないのです。「主の祭りは我々全員のものです」。<br /><br /> さて、いなごの災いが起こり、大地にあるものが食い尽くされると、ファラオは言いました。「あなたたちの神、主に対し、またあなたたちに対しても、わたしは過ちを犯した。どうか、もう一度だけ過ちを赦して、あなたたちの神、主に祈願してもらいたい。こんな死に方だけはしないで済むように」(16-17節)。ファラオが「こんな死に方だけはしないで済むように」と言っているところを見ると、よほど危機的な状況だったに違いありません。しかし、ファラオは主の前にへりくだったわけではありません。ただ災いを免れようとしただけに過ぎませんでした。さて、このファラオの言葉、ファラオの姿に、私たちは何を見ているのでしょうか。<br /><br /><br /></p>shoeichurchhttp://www.blogger.com/profile/05438295989591628531noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-3753053677489926281.post-70360293979295822902024-02-25T20:00:00.001+09:002024-02-25T20:00:00.181+09:00「神の業が現れるため」<p>ヨハネによる福音書 9:1-12<br /><br />神の業が現れるため<br /> その人は生まれつき目の見えない人でした。両親は彼に物乞いをさせました。親が亡くなった後でも彼が生きていくためには恐らくそれが唯一の道だったからです。その日も彼は人通りの多い道の傍らに座っていました。すると声が聞こえてきました。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」(2節)。<br /><br /> 何も特別なことではありません。それまでに幾度となくこのような声は聞いていたでしょう。子供たちの単純素朴な質問として、あるいは人生経験を積んだ老人たちの声として。そして、ラビと弟子たちの宗教的な問答として。いや、恐らく彼自身も幾度となく同じ問いを繰り返してきたに違いありません。「わたしがこのような不幸を背負っているのは、わたしの罪なのだろうか。両親の罪なのだろうか。いったい誰が悪いのか。」<br /><br /> 私たちにも覚えがあります。ある時は自分自身の苦しみについてであるかもしれません。あるいは他の誰かの不幸についてであるかもしれません。この世界に起きる災いについてであるかもしれません。その時、私たちも問わずにいられなくなります。いったい何が原因なのですか。だれが罪を犯したからですか。いったいだれが悪いのですか。私たちの心は誰かを悪者にしなくては収まりがつきません。<br /><br /> その意味で、彼が耳にしたのはなんら特別な問いではありませんでした。しかし、続いて聞こえてきたのは今まで聞いたことのないような言葉でした。声の主はこう言ったのです。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」(3節)。<br /><br /> この人は自分の負っている苦しみについて「なぜ」と問うことはあっても、「何のために」と問うことは恐らく一度もなかったに違いありません。「だれが罪を犯したからか」と過去に思いを向けることはあっても、「自分の人生に何が現れるためなのか」と未来に希望の目を向けることは一度もなかったに違いないのです。<br /><br /> 目の見えない彼には声の主が見えません。しかし、そこには確かに彼の未来に目を向けている御方が立っておられました。「神の業がこの人に現れるためである」と。それは彼にとって天地がひっくり返るほどの驚きであったことでしょう。<br /><br /> するとその方はにわかに唾で土をこねて泥を作り始めました。そして、その泥を彼の目に塗り始めたのです。もちろん彼には見えません。しかし、土をこねているらしいことは分かりました。その泥を塗られたこともわかりました。そこで声の主が言いました。「シロアムの池に行って洗いなさい」。その人は言われるままに塗られた泥を洗い落としに行きました。そう、ただ洗うために行ったのです。ところが泥を洗い落とすと、その目に光が入ってきたのです。それはどんな感覚なのでしょう。わたしには想像することもできません。しかし、とにかく彼は生まれて初めて光を経験したのです。<br /><br />シロアムの池に行って洗いなさい<br /> さて、これは昔ある所にいたある個人の特殊な体験です。しかし、それだけならば、ここにいる私たちにとってさほど重要な話ではありません。聖書に記されて、今日まで語り継がれてきたのは、これがここにいる私たちにも関わっている話だからです。ヨハネによる福音書に記されているイエス様の奇跡は特に「しるし」と呼ばれています。それはキリストが誰であるか、そしてキリストによる救いが何であるかを指し示す「しるし」なのです。そこにはいつの時代の人にも向けられた神のメッセージがあるのです。<br /><br /> この物語に出てきたのは「生まれつき目の見えない人」でした。当時の人たちは目を「窓」のように考えていたようです。体の窓です。そこから光が入るのです。この窓が閉ざされてしまいますと、光が入ってきません。たとえ外に太陽の光が燦々と降り注いでいたとしましても、目が閉ざされているならば、その人自身は暗闇の中を生きることになります。この物語に出てきたのは「生まれつき暗闇の中を生きてきた人」と言うことができます。<br /><br /> さて、同じことが神と人との間にも起こります。ヨハネの手紙にこんな言葉があります。「わたしたちがイエスから既に聞いていて、あなたがたに伝える知らせとは、神は光であり、神には闇が全くないということです」(1ヨハネ1:5)。神は私たちを照らし、私たちを生かすまことの光です。しかし、神の光が私たちを照らしていたとしても、私たちの目が神に対して閉じているなら、私たちは暗闇の中を生きることになるのです。人間にとって本当の不幸は、人生に数々の苦しみがあるということではありません。病気であることや、様々な問題を抱えていることではありません。神に対して閉ざして、神の光を締め出して、暗闇の中に生きていることなのです。<br /><br /> その閉じた目が再び開くために、神の光が心の中に差し込んでくるためには、いったいどうしたらよいのでしょうか。イエス様はまず彼の目に泥を塗りました。目を洗わせるためです。そのようにして、人間には洗い落とさなくてはならないものがあることを示されたのです。それを、弟子たちが言っていたのとは違った意味で「罪」と呼ぶこともできるでしょう。人間の罪が神との断絶をもたらし、神の光を妨げ、暗闇をもたらすのです。その罪が洗い落とされねばならないのです。<br /><br /> それゆえに、主は彼にこう言いました。「シロアムの池に行って洗いなさい」。「シロアム」とは「遣わされた者」という意味であるとわざわざ説明が付いていました。この福音書において「遣わされた者」とはキリストのことです。「シロアムの池」はキリストを象徴的に表しているのです。洗い流されねばならない泥は、キリストを表す「シロアムの池」の水によって洗い流されねばならないのです。光を遮り私たち自身に闇をもたらしている罪の問題を、私たちは自分の力で拭い去ることはできないからです。私たちはただキリストによって洗い流していただくしかないのです。<br /><br /> その意味において、「シロアム(遣わされた者)の池」はキリストの十字架を象徴しているとも言えるでしょう。キリストは十字架にかかるためにこそ、遣わされたのですから。キリストの十字架は、私たちのためでした。私たちの罪が洗い流されるために、罪のない方が私たちの罪を引き受けて、罪を贖う犠牲として血を流してくださったのです。ただこの罪のない方の流された血潮によってのみ、私たちの罪は洗い清められるのです。<br /><br /> そこに十字架がある。そこにシロアムの池がある。それは、どんな人でも光の中へと歩み出すことが出来ることを意味します。どんな人でも、罪を赦された者として、洗われた者として、神の光の中を、神と共に生きていくことができるのです。そのために必要なことは、ただ信じることです。あの目の見えない人が光の中を歩み出すのに必要なことは、信じてシロアムの池に行って洗うことだけでした。そうです。人間に求められているのは、イエス・キリストを信じて罪の赦しと清めを願い求め、洗い流していただくことだけなのです。<br /><br /> その出来事を目に見える形で表しているのは、そのような信仰によって受ける洗礼です。ですからこの「シロアムの池」は昔から洗礼を表すものとしても語られてきたのです。<br /><br />わたしたちは行わねばならない<br /> そして、最後になお一つのことに目を向けたいと思います。この人に神の御業が現れました。神の光の中を生き始めるという神の御業が現れました。既に見てきましたように、それは全ての人に起こりえる神の御業でもあります。人が信仰をもって神と共に生き始めるという神の御業です。<br /><br /> しかし、イエス様が「神の業がこの人に現れるためである」と言われた後に、一言このようなことを言っておられるのです。「わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。わたしは、世にいる間、世の光である」(4‐5節)。<br /><br /> 「神の業がこの人に現れるためである」。しかし、神の御業は自動的に現れるのではありません。ある人の上に神の御業が現れるためには、そのために働く人が必要であるようです。神と共に働く人が必要なのです。<br /><br /> この話においては、働いたのはイエス様だけでした。イエス様が全部なさって「シロアムの池に行って洗いなさい」と言われたのです。しかし、未来永劫ずっとイエス様が一人でなさるつもりではないようです。「わたしたちは」と主は言われるのです。「わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない」と。<br /><br /> 言い換えるなら、イエス様はあの弟子たちに「一緒にやろう」と言っておられるのです。「わたしは」ではなく、「わたしたちは行わねばならない」と。ですから後の弟子たちは一緒にやってきたのです。もっとも弟子たちにできることは「シロアムの池に行って洗いなさい」と言うことぐらいです。しかし、あの弟子たちも、後の教会も、イエス様を指し示しながら、そして洗礼の水を指し示しながら、「シロアムの池に行って洗いなさい」と言い続けてきたのです。それを言いに日本にまで来てくれた人たちさえいたのです。だからここに教会があり、ここに私たちがいるのです。<br /><br /> それゆえに、私たちもまた一緒にやるのです。日のあるうちに。主は「だれも働くことのできない夜が来る」と言われました。もはやその言葉を語り得なくなる時が来るのです。そして、聞き得なくなる時が来るのです。ですから、私たちは定められた終わりの時まで、これからも語り続けるのです。「シロアムに行って洗いなさい」と。神の業が一人でも多くの人に現れるために。<br /><br /></p>shoeichurchhttp://www.blogger.com/profile/05438295989591628531noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-3753053677489926281.post-91795035035027898152024-02-21T20:00:00.001+09:002024-02-21T20:00:00.142+09:00祈祷会用:出エジプト記 9:1~35<p> 出エジプト記 9:1-35<br /><br /> 前回お読みした箇所に書かれていた第4の災いは、「あぶの災い」でした。そこで見られた新しい要素は「区別」でした。主はイスラエルを区別されるのです。イスラエルはエジプトに属さない。ファラオの民ではないのです。それはイスラエル自身も理解していなくてはならないことでした。ただ、主はただ苦しみから解放しようとしているのではないのです。「わたしの民」としてエジプトを去らせようとしているのです。そして、この「区別」は、続く「疫病の災い」においてもよく現れています。<br /><br /> 第5の災いは「疫病の災い」です。これまで血の災いから始まってあぶの災いまでは、ある意味では人間にとっても家畜などにとっても、まだ生活が極めて不快になるというレベルの話でした。しかし、ここから次第に神の御手による災いは直接的に彼らを打つものとなってまいります。主は言われるのです。「ファラオのもとに行って彼に告げなさい。ヘブライ人の神、主はこう言われた。『わたしの民を去らせ、わたしに仕えさせよ』と。もしあなたが去らせるのを拒み、なおも彼らをとどめておくならば、見よ、主の手が甚だ恐ろしい疫病を野にいるあなたの家畜、馬、ろば、らくだ、牛、羊に臨ませる」(1-3節)。<br /><br /> しかし、重要なのはその次です。「しかし主は、イスラエルの家畜とエジプトの家畜とを区別される。イスラエルの人々の家畜は一頭たりとも死ぬことはない。」これは単に、「神を信じていると災いには遭いませんよ」というご利益の次元の話ではありません。ここで重要なのは、あくまでも「区別」なのです。「主が区別しておられる」という事実を見せようとしているのです。それを見なくてはならないのは、もちろん第一にはファラオです。しかし、同時にこれはイスラエルも見なくてはならないことなのです。ただ「自分たちの家畜は死ななくてよかった!」ということであってはならないのです。そこで本当に畏れをもって、自分たちは区別された民である、神の民であるという自覚を持たなくてはならないのです。<br /><br /> つまりこの戦いは、一方においてはファラオの力が打ち破られるための戦いなのですが、もう一方では、イスラエルがエジプトには属さないこと、主に属することを学んでいくための戦いでもあったのです。前回申し上げたことを繰り返しますが、出エジプトは、ただイスラエルが苦しみから解放されることが目的ではないのです。エジプトから区別された、この世から区別された「神の民」、神に属する民が本当の意味で形作られることが目的なのです。そのような意識をもった民を通して、主が御自身をこの世に現すためです。主のみを信じ、主のみを礼拝する民を通して、主がこの世に御自身を現そうとしているのです。<br /><br /> それは私たちも同じです。私たちは、「キリスト者であってもそうでなくても同じです」などと言ってはならないのです。主は区別しておられるのです。イエス様も言っておられます。「わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないのです」(ヨハネ17:16)。洗礼を受けたとはそういうことであり、聖餐を受けているとは、そういうことなのです。<br /><br /> 続く第6の災いは「はれ物の災い」です。 主はモーセとアロンに言いました。「かまどのすすを両手にいっぱい取って、モーセはそれをファラオの前で天に向かってまき散らすがよい。それはエジプト全土を覆う細かい塵となって、エジプト全土の人と家畜に降りかかり、膿の出るはれ物となるであろう」(8-9節)。二人はかまどのすすを取ってファラオの前に立ち、モーセがそれを天に向かってまき散らしました。すると、膿の出るはれ物が人と家畜に生じたのです。<br /><br /> いよいよ災いは直接的になってまいります。ついに家畜だけでなく、人間が直接打たれることになります。また、ついに魔術師も、「このはれ物のためにモーセの前に立つことができなかった」と書かれています。前の章において、「ぶよの災い」の時には、魔術師がぶよを出そうと思ったができなかった、ということが書かれていました。最初は魔術師にも同じことができました。次に、同じことができなくなりました。ついに魔術師自身が災いに遭いました。――ここにも主が御自分の力を次第に明らかにしていることが分かります。<br /><br /> そのように主は、順次事を進めておられます。それが主のなさり方です。主は一気に事を進められるのではなく、時間をかけられるのです。人間が考え、悔い改めることができるためです。主は忍耐強く、寛容を示されるのです。それは旧約聖書に一貫した一つのテーマです。例えば、後の時代、主に背いた北王国イスラエルにしても、南のユダ王国にしても、預言者が「滅びる」と語って、すぐに滅びることはないのです。彼らは歴史のプロセスの中に置かれるのです。<br /><br /> しかし、パウロは言っています。「神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか」(ローマ2:4)。神の忍耐と寛容を軽んじてはならないのです。そこで人間はどのように応答するかが神によって問われているのです。その事実が、続く災いにおいて明らかにされます。<br /><br /> 続く第7の災いは「雹の災い」です。 主は言われます。「わたしの民を去らせ、わたしに仕えさせよ。今度こそ、わたしはあなた自身とあなたの家臣とあなたの民に、あらゆる災害をくだす」(13-14節)。章の区分ではここまでが今日の範囲ですが、9の災いは三つずつ一組になっていまして、ここからが第3サイクルに入ります。災いは新しい段階に入るのです。ここに至って、具体的にエジプト人の中にイスラエルの側に着く人々が現れてくるのです。<br /><br /> 前にも述べたように、イスラエルがエジプトから脱出するのに、かなり時間がかかります。トータルで10の災いが繰り返されるまで、イスラエルは救い出されないのです。以前も話しましたように、それは一見すると、ボクシングで言えば最終ラウンドまでもつれ込んだ試合のように見えるのです。最終ラウンドまでもつれ込むというのは、通常は力が拮抗しているときです。青コーナーのファラオと赤コーナーの神様に、力の差なかったから最終ラウンド決着になったように見えるのです。<br /><br /> しかし、神様は言われるのです。そうではない。本当はKOしようと思えばいくらでもできた。しかし、あえて相手に持ちこたえさせ、最終ラウンドKOにすることにしたのだ。相手のしぶとさをわざわざ引き出すような試合にしたのだ、と。「主がファラオの心をかたくなにされた」という表現はそういうことです。試合は完全に主の主導のもとで進んでいるのです。<br /><br /> それが15節以下でも語られています。「実際、今までにもわたしは手を伸ばし、あなたとあなたの民を疫病で打ち、地上から絶やすこともできたのだ。しかしわたしは、あなたにわたしの力を示してわたしの名を全地に語り告げさせるため、あなたを生かしておいた」。それは主の力を示すためであったというのです。<br /><br /> なぜ悪の力が支配し続けるように見えるのか。なぜ救いはすぐに成就しないのか。なぜすぐに終わりにならないのか。それはすべて、主が御自身を現されるプロセスだということを、私たちは忘れてはならないのです。<br /><br /> 「わたしの力を示して」ということは、それを見なくてはならない人々がいるということです。実際、主に目を向けている人、主の言葉を聞いている人、主の支配を確かに見ている人々がいるのです。主はこう言われました。「見よ、明日の今ごろ、エジプト始まって以来、今日までかつてなかったほどの甚だ激しい雹を降らせる。それゆえ、今、人を遣わして、あなたの家畜で野にいるものは皆、避難させるがよい。野に出ていて家に連れ戻されない家畜は、人と共にすべて、雹に打たれて死ぬであろう』と」(18-19節)。<br /><br /> それまでエジプト人は、奴隷の民イスラエルを馬鹿にしていたのでしょう。彼らが「ヤハウェ」と呼ぶ神をも馬鹿にしていたのでしょう。エジプト人のことを、主はファラオに「あなたの民」と言っています。確かに彼らはファラオに属するファラオの民だったのです。しかし、主はイスラエルという区別された民を通して力を現される。そして、それをファラオの民が見ているのです。それゆえに、彼らの中にも、主を畏れて警告に従おうとする人々が出て来るのです。実質的に「主の民」の側に、イスラエルの側につき始める人々が出て来るのです。「ファラオの家臣のうち、主の言葉を畏れた者は、自分の僕と家畜を家に避難させたが、主の言葉を心に留めなかった者は、僕と家畜を野に残しておいた」(20-21節)。<br /><br /> ここでついにファラオは言います。「今度ばかりはわたしが間違っていた。正しいのは主であり、悪いのはわたしとわたしの民である。主に祈願してくれ。恐ろしい雷と雹はもうたくさんだ。あなたたちを去らせよう。これ以上ここにとどまることはない」(27‐28節)。<br /><br /> 「主は正しい」というファラオの言葉。それは確かに、「主を畏れる」ということの表現に見えます。しかし、避難した人々については「主の言葉を畏れた者」と言われていますが、ファラオについては次のように語られているのです。「しかし、あなたもあなたの家臣も、まだ主なる神を畏れるに至っていないことを、わたしは知っています」(30節)。つまり、ただ災いを免れたいと思っている人と、本当に主を畏れる人とは違うということです。主を正しいとする。そうでなければ、災いを免れたらまた同じところに戻ります。<br /><br /> 実際そうなりました。「ファラオは、雨も雹も雷もやんだのを見て、またもや過ちを重ね、彼も彼の家臣も心を頑迷にした。ファラオの心はかたくなになり、イスラエルの人々を去らせなかった。主がモーセを通して仰せになったとおりである」(34-35節)。<br /><br /></p>shoeichurchhttp://www.blogger.com/profile/05438295989591628531noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-3753053677489926281.post-74265153119175677592024-02-18T20:00:00.001+09:002024-02-18T20:00:00.140+09:00「あなたの神である主を試してはならない」<p>マタイによる福音書 4:1-1</p><p> 去る水曜日からレント(受難節)に入りました。受難節はイースターまでの46日間です。日曜日を抜かしますと40日間となります。そのような40日間に入りまして今日は最初の日曜日に当たります。レントの最初の日曜日には、世界中の多くの教会において「荒野の誘惑」の聖書箇所が読まれます。日本キリスト教団の聖書日課を用いている私たちの教会では、今年はマタイよる福音書の該当箇所が読まれました。<br /><br /><b>誘惑と試練</b><br /> さて、そもそも「誘惑」とは何なのでしょう。今日の箇所で誘惑の主体となっているのは「悪魔」です。しかし、1節には「“霊”に導かれて荒れ野に行かれた」と書かれていました。つまり誘惑をするのは悪魔なのですが、神があえてそこに導いたということです。そうしますと、これは単に「誘惑」という言葉では表し得ない内容を持っていることが分かります。実際、「誘惑を受ける」と訳されている言葉は、「試される」とも訳せる言葉です。それは「試練」という言葉とも関係します。悪魔を主体として見る時に、それは誘惑となりますが、神を主体として見る時にそれは人間が試されることであり、人間にとっては試練となるのです。<br /><br /> そうしますと、ここに書かれていることは、さらに遡って荒れ野を旅したイスラエルの民の姿と重なってまいります。「四十日」という言葉も、イスラエルが荒れ野を旅した四十年の期間を想起させます。彼らを荒れ野に導いたのは神でした。何のためでしょうか。<br /><br /> 今日の箇所においてイエス様がいくつかの聖書の言葉を引用しておられますが、最初の引用は次のような御言葉でした。「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」。これは申命記8章3節からの引用です。イエス様が念頭に置いていたのは、やはり荒れ野を旅したイスラエルでした。イエス様が引用された御言葉の直前には、こう書かれています。「あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわち御自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた」(申命記8:2)。<br /><br /> 何のために荒れ野に導かれたのか。何のための試練なのか。内にあるものが外に現れるためだと言うのです。「主は、あなたの心にあること・・・を知ろうとされた」。実際、荒れ野へと導かれて、心の内に潜んでいたものが激しく外に現れることになりました。神に救われて意気揚々とエジプトを脱出したイスラエルの民だったはずです。神によって海の中に開かれた道を喜びと賛美に溢れて渡って行ったイスラエルの民だったはずです。しかし、荒れ野へと導かれた時に、彼らの内にあるものが激しく現れることになりました。不平として、不満として。不信仰から出るもろもろの言葉として。<br /><br /> 「主は、あなたの心にあること・・・を知ろうとされた」とありますが、考えてみれば、試練など与えなくても神は人の心の内にあるものなどいくらでも知ることはできるはずです。内にあるものが外に現れることが必要なのは、神にとってというよりも人間にとってであるに違いありません。確かに神に知られていることが人の目から見ても明らかにされる。そうあってこそ悔い改めもまた起こるからです。<br /><br /> それはかつてのイスラエルにとってそうであったように、後の教会にとっても、私たちにとっても同じであると言えます。内側にあるものが現れて、神に知られていることが明らかになる。そのための試練です。そして、私たちに先立って、教会の原型であるキリストが、荒れ野に導かれて誘惑を受けられ、試練を受けておられるというのが、今日の聖書箇所です。そして、試練は同時に誘惑でもあるわけですが、その誘惑を退けて悪魔に打ち勝っている姿を私たちはそこに見ているのです。<br /><br /><b>主を試してはならない</b><br /> さて、マタイによる福音書は、イエス様が受けられた三つの誘惑を伝えています。今日はこの中で、特に第一朗読との関連で、イエス様が受けられた二つ目の誘惑に注目したいと思います。次のように書かれていました。<br /><br /> 「次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、言った。『神の子なら、飛び降りたらどうだ。「神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える」と書いてある。』イエスは、『「あなたの神である主を試してはならない」とも書いてある』と言われた」(5~7節)。<br /><br /> ここにおいて悪魔は聖書を引用して語ります。「聖書にはこう書かれているでしょう」と、まるで敬虔なクリスチャンのようです。悪魔の誘惑が必ずしも「悪魔らしく」やって来るとは限りません。否、往々にしてそこに誘惑があると人はなかなか気づかないものです。試練の中にある時、そこにまた誘惑があると気づかない。神から引き離そうとする者の誘いがあることに気づかないものです。<br /><br /> では、敬虔な信仰者を装った悪魔の言葉の中に、いかなる誘惑があったのでしょうか。それはイエス様がどのように悪魔の言葉を退けたか、ということから理解することができます。イエス様はこう答えられたのです。「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」(7節)。イエス様が引用されたのは、申命記6章16節の一部です。その全体はこのような言葉になっています。「あなたたちがマサにいたときにしたように、あなたたちの神、主を試してはならない」(申命記6:16)。<br /><br /> 「あなたたちがマサにいたときにしたように、あなたたちの神、主を試してはならない」――これがイエス様の引用した元の言葉です。イスラエルがマサにいたとき、いったい何をしたのでしょう。どのようにして「主を試した」というのでしょう。実はそのことを伝えているのが、本日の第一朗読の箇所なのです。本日読まれたのは、次のような話でした。<br /><br /> 彼らはレフィディムというところに宿営していました。「そこには民の飲み水がなかった」(出17:1)と書かれています。飲み水が尽きてしまったというわけではありません。水の蓄えなしで旅することはありませんから。そこでは水の補給ができなかったということです。次第に水が乏しくなっていきます。飲みたいのを我慢しなくてはなりません。先のことが不安にもなります。そこで彼らは不平を言い出しました。せっかくエジプトから解放されたのに、彼らは不平を言い出すのです。彼らはモーセに言いました。「なぜ我々をエジプトから導き上ったのか。わたしも子供たちも、家畜までも渇きで殺すためなのか」(出17:3)。そして、彼らはモーセを石で打ち殺そうとしたというのです。なんと馬鹿げた話でしょうか。<br /><br /> しかし、神はそこでモーセに、一つの岩を杖で打つように指示したのです。モーセがその通りにすると、岩から水が流れ出て、民は飲むことができたと記されています。神の恵みと憐れみが目に見える形で現されました。しかし、聖書はこの出来事の起こった場所について、それを「神の恵みが現れた場所」であるとは説明していないのです。こう書かれています。「彼は、その場所をマサ(試し)とメリバ(争い)と名付けた。イスラエルの人々が、『果たして、主は我々の間におられるのかどうか』と言って、モーセと争い、主を試したからである」(同7節)。<br /><br /><b>信頼と従順が問われている私たち</b><br /> 聖書は言います。「あなたたちがマサにいたときにしたように、あなたたちの神、主を試してはならない」。考えてみてください。あの時、イスラエルが荒れ野にいたあの時、次第に水が乏しくなって行った時、試されていたのは人間の方だったはずでしょう。本当はそこで神への信頼と従順が問われていたのでしょう。そこでなおも神に信頼し、神に従って生きるのか。人間にとって最も重要なことが問われていたのです。<br /><br /> 実際、その直前の17章には、荒れ野で食べ物がなかった時に、神が天からマナという食べ物を降らせてくださったことが書かれているのです。既にエジプトから救い出されたところから、常に神の恵みが先にあるのです。彼らは既に恵みの神を知っていたはずなのです。その神に、どのような状況においても、何があったとしても、そこで神に信頼し神に従って生きるのか。そのことが問われていたのは、人間の側であったはずなのです。<br /><br /> しかし、人間は神から問われる側にいることを良しとしないのです。神に問われるよりは、神を問う側にまわろうとするのです。試される側ではなく、試す側に立とうとするのです。「果たして、主は我々の間におられるのかどうか」と。そして、人間が試す側、テストする側に立って、「神が我々の間におられるのなら確かなしるしを見せよ」と要求するのです。「神が愛しておられるなら確かなしるしを見せよ」と。我々が渇いているのだから水を与えよ、と。そのようにして、人間が神を試す側に立って、テストする側に立って、マルをつけバツを付けるのです。そして、水を与えようとしない神にバツを付ける。その具体的な表現は、神が立てたモーセを石で打って殺そうとするということでした。<br /><br /> 「神の子なら、飛び降りたらどうだ。」神とその御言葉への究極の信頼を求める言葉に聞こえなくもありません。しかし、そこにかつてイスラエルが陥った誘惑があることをキリストは知っていたのです。そして、これを書いているマタイは、同じ誘惑に後の信仰者もまた常にさらされていることを知っていたのでしょう。<br /><br /> さて、この誘惑の舞台となったのは「聖なる都」すなわちエルサレムであったと聖書は伝えています。もちろん、イエス様は荒れ野にいるのですから、「次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き」と言いましても、実際に連れていったわけではないでしょう。すべては悪魔の見せた幻影です。しかし、そこが「聖なる都」エルサレムであったということは重要です。そこがキリストと悪魔との最後の対決の場となるからです。<br /><br /> イエス様がエルサレムにおいて裁きを受け、ゴルゴタの丘において十字架につけられた時、人々はこう言ってイエスをののしりました。「神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから」(マタイ27:43節)。そうです、悪魔が同じ誘惑を再びここに持ってきていることが分かります。<br /><br /> しかし、荒れ野において「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言って悪魔を退けられた主は、最後まで悪魔の誘惑を退けられ、悪魔の誘惑に打ち勝たれたのでした。主の最後の言葉を、ルカによる福音書は次のように伝えています。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」(ルカ23:46)。<br /><br /></p>shoeichurchhttp://www.blogger.com/profile/05438295989591628531noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-3753053677489926281.post-9230221726358342382024-02-14T20:00:00.001+09:002024-02-16T18:27:32.546+09:00灰の水曜日礼拝説教 マタイによる福音書 6:1~15<p>マタイによる福音書 6:1‐15<br /><br /><b>既に報いを受けてしまっている</b><br /> 「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい」。そのようにイエス様は言われます。ここでイエス様は「善行」と言っていますが、具体的には、ユダヤ人の間において重んじられていた代表的な「善行」が三つありました。それは「施し」と「祈り」と「断食」です。イエス様は6章の前半において、この三つを順に取り上げています。<br /><br /> まずは施しについて。「だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない」(2節)。また「祈り」についても主は言われました。「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる」。そして、今日の朗読には入っていませんが、16節においてイエス様は「断食」についてもこう言っておられます。「断食するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない。偽善者は、断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする」。<br /><br /> そのように、イエス様は代表的な「善行」を取り上げて、「偽善者のようにするな」と言われるのです。しかし、この「偽善者」という言葉には注意が必要です。日本語で「偽善」と言いますと、それは「偽りの善」と書きます。それゆえに、イエス様は「偽り」を問題としているのだ、考えてしまいやすいのです。「善行には偽りがあってはならない。善行は純粋なものでなくてはならない。誉められたいという不純な動機で行ってはならない。むしろ隠れて行うぐらいでないといけない。」そのような戒めであると思ってしまうのです。<br /><br /> ところが、ここで「偽善者」と訳されている言葉は、もともとは「役者」を意味する言葉なのであって、それ自体には、「偽り」とか「不純」という意味合いはないのです。<br /><br /> イエス様はここで、善行が偽りであることや、善行の動機が不純であることを問題にしているのではないのです。そうではなくて、「既に報いを受けてしまっている」ということを問題にしているのです。「彼らは既に報いを受けている」という言葉が繰り返されていますでしょう。どんな「報い」ですか。「人からほめられようと」と書かれていましたように、それは「人々からの称賛」という報いです。彼らは「人々からの称賛」という人間からの報いを一杯受けてしまっている。そのことを問題にしているのです。<br /><br /> なぜこれが問題なのでしょう。それは、人々からの報いで一杯になっていると、もはや神から報いを受ける余地がなくなってしまうからです。「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる」と書かれているとおりです。それはただ神が報いを与えないというだけでなく、人間が神からの報いを求めなくなるということでもあるのでしょう。人からの誉れ、人からの称賛で一杯になって満足しているならば、もはやその人は神からの誉れ、神からの報いを求めることはなくなるからです。<br /><br /><b>隠れたところにおける父との関係は?</b><br /> しかし、それにしてもイエス様の言葉は実に過激です。徹底的です。突き詰めて言えば、人からの称賛という報いは、ただ周りの人々から来るのではないのです。3節を御覧ください。主は言われるのです。「施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない」。「右の手のすることを左の手に知らせるな」とは、言い換えるならば、「自分自身にさえ見せるな、知らせるな」ということです。ただ周りの人々に見せないだけではないのです。<br /><br /> 分かりますでしょう。称賛という報いを与えてくれるのは、必ずしも周りにいる人々だけではないのです。自分自身もまたその一人なのです。考えてみてください。私たちが誰も知らないところで、人目に付かないところで善いことをしたとします。その行為者である自分を自分自身が見ているのです。そして、見ている自分がひたすら行為者である自分を称賛しているかもしれません。「みんな知らないかもしれないけれど、私はこれもしてきましたよ。あのこともしてきましたよ。みんなは知らないけれど、隠れて善いことをしている私は偉い!人の知れないところでこんなことをしている私は、なんて偉いんだろう!」――と、まあ、ここまで露骨な言葉が意識に上るとは限りませんが、実際、自分を見ている人々の一人に自分自身が含まれているのは事実でしょう。左手に知らせたら、右の手のすることは、左の手が称賛するのです。むしろこちらの方が満足は大きいかもしれません。しかし、これもまた人からの報いです。<br /><br /> 繰り返します。イエス様が問題としているのは、単に善行が偽りであるかどうか、ということではないのです。善い行いは隠れたところでしましょうという勧めでもありません。私たちが本当に考えなくてはならないことは、もっともっと奥にあるのです。もっと深いところにあるのです。そう隠れたところにある。その隠れたところに、一人の御方がおられるのです。隠れたところにおられる方は、隠れたことを見ておられる天の父なのです。イエス様がそう言っていますでしょう。その隠れたところにおられ、隠れたことを見ておられる天の父、その御方とどのように関わって生きているのか。――そのような私たちの人生の最も深いところが問われているのです。<br /><br /> イエス様はここで特に「施し」「祈り」「断食」の三つを取り上げていますが、「祈り」が真ん中におかれていることは偶然ではありません。特に、この「祈り」については他の二つよりも多くの事が語られていますでしょう。私たちが礼拝において口にする「主の祈り」もまた、ここに記されています。そして、この「主の祈り」こそ、山上の説教全体の中心であるとも言われているのです。<br /><br /> 隠れたところにおられ、隠れたことを見ておられる天の父とどのように関わり、どのように共に生きているのか。それはすなわち、隠れたところにおいて、どのような祈りをもって生きているのか、ということです。最も深いところ、奥まったところ、隠れたところにおいて、神をまことに「天にまします我らの父よ」と呼んで生きているのか。そのように天の父と向き合い、父との生きた交わりの中にあるのか。その父からの報いをこそ求めているのか。父からの報いをこそこの上ない喜びとしているのか。――いや、考えて見れば、神を父と呼べること自体が本当は大きな報いなのでしょう。もっとも深いところで、奥まったところで、隠れたところにおいて、神との実に親密な交わりがある、神との間に親子としての交わりがある。本当はそれ以上の報いなど、あるはずはないのでしょう。<br /><br /> しかし、実際にはそれが分からないままに、最も奥深いところ、隠れたところにおける父との関わりをいい加減にしたままで、私たちの信仰生活も教会形成も、とかく表面的なことに終止しているかもしれません。「まあ、日曜日には教会に行っていますよ。礼拝にも毎週出席していますよ」。でも、実際の毎日の生活では、目に見えること、地上のこと、人間から受けるもので頭がいっぱいになっているかもしれません。あの人がこう言った、この人がああ言った。わたしは受け入れられている。わたしは拒否された。わたしは認めてもらえた。わたしは認めてもらえてない。わたしは理解してもらえた。理解してもらえてない。――と、いつの間にか人間からの報いというこの世の報いの周りを、グルグル巡っているかもしれません。<br /><br /> 人の目から隠れた最も深いところには何もない薄っぺらな信仰生活、人からの報いばかり追い求め、人からの報いで満足している薄っぺらな人生。――そのようなもので終わらないためにも、このレントにおいて私たちの最も深いところに光を当てていただかなくてはならないのでしょう。奥まったところにおける生活はどうなっているのか。隠れたところにおける父との関係はどうなっているのか。そのことをこそまず見直さなくてはならないのです。今日からレントに入ります。この期間を経て、主の恵みにより、あるべき姿へと立ち帰らせていただきましょう。<br /><br /></p>shoeichurchhttp://www.blogger.com/profile/05438295989591628531noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-3753053677489926281.post-2418460661776570092024-02-11T20:00:00.001+09:002024-02-11T20:00:00.244+09:00「五つのパンと二匹の魚」<p>ヨハネによる福音書 6:1-15<br /><br />この人たちに食べさせるには<br /> 「イエスは目を上げ、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て…」(5節)と書かれていました。その大勢の群衆は、イエス様の後を追ってきた人々です。どうして後を追ってきたかと言うと、「イエスが病人たちになさったしるしを見たからである」(2節)と書かれていました。<br /><br /> 彼らはイエス様の癒しを見たのです。苦しみ悩み続けてきた人に、イエスを通して神の愛が注がれるのを見たのです。神の愛の現れを見て、「わたしも、わたしも」と言って求めて来たのです。彼らの多くは病人だったに違いありません。あるいは病人の家族。貧しい人々。虐げられてきた人々。汚れていると見なされてきた人々。長い間苦しんできた人たちです。他の福音書を見ると、「飼い主のいない羊のような有り様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた」(マルコ6:34)と書かれています。飼い主のいない羊のような有り様――不安で怖くて、どちらに行ってよいかも分からなくて、まさに滅びに瀕している、そんな有り様をイエス様は見ておられたのです。<br /><br /> そして、「イエスは目を上げ、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て」、フィリポにこう言いました。「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」(5節)。イエス様は群衆を見ていました。群衆が空腹であることを思っていました。彼らのことを心配していました。しかし、イエス様は一人で考え一人で彼らのことを思うのではなくて、弟子たちにも一緒に考え、一緒に彼らのことを思って欲しかったのです。<br /><br /> 「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか。」この言葉によって、フィリポは、イエス様と同じ方向に目を向けざるを得なくなりました。イエス様が目を向けていた人々と、同じように向き合わされることになったのです。これまで他所の人たちであった彼らと、関わりを持たざるを得なくなりました。<br /><br /> そうなりますと、明らかに見えてくることがあります。自分たちの持っているものではどうにもならない、という現実です。自分たちの貧しさであり無力さです。フィリポは言いました。「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」(7節)。フィリポは一生懸命に計算してみたのです。しかし、人々のニーズを満たすには、どう考えても足りない。二百デナリオンと言えば、約7ヶ月分の賃金に相当します。そんな大金あるはずない。いや、あったとしても、それでも足りない。一生懸命に計算したフィリポの頭の中には「足りない、足りない」がこだましていたに違いありません。<br /><br /> 横からアンデレが口をはさみます。彼もまた、人々と向き合わされて、いろいろと考えたのです。いや、考えるだけでなく行動もしてみたのです。彼は食べ物を持っている少年を見つけてきました。しかし、結論は同じです。どう考えても足りない。「ここに大麦のパン五つと魚二匹を持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう」(9節)。やはり足りない。何の役にも立たない。<br /><br /> そのような言葉から、彼らの姿勢が見えてきます。既に腰が引けています。人々と関わることを放棄し始めています。手を引こうとしています。他の福音書を見ますと、弟子たちはイエス様にこう提案しています。「人々を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べる物を買いに行くでしょう」(マルコ6:36)。――イエス様、彼らを解散させてくださいよ。自分のことは自分で、ということで。私たちは自分たちのことを考えましょう。要するに、そう言いたいわけです。<br /><br /> 今年度もあと残すところあと一ヶ月半ほどになりました。今週水曜日からレント(受難節)に入り、イースターが年度最後の主日となります。今年度の年度主題は、週報に毎週書かれているように「世に遣わされ世に仕える教会」です。今日の御言葉を聞きますときに、改めて私たちの歩みはどうであったかを問われているように思います。<br /><br /> 教会が、キリスト者が、他の人の救いのことなど考えず、人々と向き合ったり関わりあったりしないで、自分の心の平安、自分の喜びだけを求めているならば、愛することのできない自分の貧しさや、自分の無力さに悩む必要はなくなります。確かにそうです。しかし、イエス様はそのような私たちであって欲しくはないのでしょう。イエス様と一緒に向き合って欲しいのでしょう。主は言われるのです。「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と。<br /><br /><b>イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱え</b><br /> しかし、そのように言われるイエス様なのですが、実は聖書の言葉はこう続いているのです。「こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分は何をしようとしているか知っておられたのである」(6節)。<br /><br /> 当たり前の話ですが、イエス様は自分がどうしたらよいのか分からなくて、弟子たちに相談しているわけではありません。自分の手に負えないから、その責任を弟子たちに丸投げしているのでもありません。弟子たちが持っているものではどうにもならないことを、イエス様は重々承知の上で語っておられるのです。弟子たちは貧しさを覚えたことでしょう。自分の無力さを思ったことでしょう。しかし、弟子たちの貧しさや無力さなど、イエス様は初めから分かっておられるのです。<br /><br /> なぜなら、このパンの奇跡は「しるし」だからです。それ自体がメッセージなのであり、イエス様がいかなる御方かを指し示す「しるし」なのです。今日はお読みしませんでしたが、この同じ章の後の方で、イエス様はこう宣言しています。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」(35節)と。イエス様こそ、人間の根源的な飢えと渇きを癒す御方であること、イエス様こそ永遠の命を与えて救うことのできる御方であることを宣言されるのです。そのために自分の命さえも献げ尽くして、分け与えてしまおうとしておられたのです。「御自分は何をしようとしているか知っておられたのである」(6節)。<br /><br /> しかしだからと言って、イエス様は「わたしがすべてやるからお前たちはあっちに行っていなさい」とは言われないのです。イエス様は、あくまでも「一緒にやろう」と言ってくださる。あの弟子たちにも、そしてここにいる私たちにも。今年度の年度主題の意味も、そこにあるのです。「一緒にやろう」。そのようなイエス様の思いが、この物語にははっきりと見て取ることができます。<br /><br /> 考えて見てください。どうせ奇跡によってパンを与えるならば、何もないところからパンを出した方がよりセンセーショナルではありませんか。イエス様にはできたと思います。わたしはそう信じます。無から有を生み出すことだってできたに違いない。しかし、イエス様はそのようにはなさいませんでした。イエス様は、子どもが持っていた五つのパンと二匹の魚を受け取られたのです。そして、皆の見ているところで、感謝の祈りを捧げ、パンを裂いて分け始めました。考えてみれば、いかにも滑稽でしょう。男だけ数えても五千人もいるのです。そんな大群衆の前でそれをやったのです。「いったいそんなことして何になる」と思えるようなことをあえてやったのです。――すると、そこに神の御業が現れて、人々は完全に満たされたのです!<br /><br /> 弟子たちはこの出来事を忘れませんでした。いや忘れようにも忘れることができなかったに違いありません。なぜならその後の弟子たちの経験、後の教会の経験は、まさにそのようなことの連続だったからです。実際、教会がやってきたことは、まさに「こんなことして何になる」と思えるようなことばかりではありませんか。その最たるものは、洗礼と聖餐でしょう。水の中に一回ぐらい沈めたり、頭に水をかけたりしたぐらいで、いったいそれが何になりますか。僅かばかりのパンを分かち合って食べて、それがいったい何になりますか。この世の目から見たら、まさにそうでしょう。しかし、教会がそんなことを二千年も続けるなかで、まさにあの時のように、神の御業が現されてきたのです。命のパンであるキリストが分かち合われ、人々はまさに神の与えてくださるものによって、生かされ、満たされ、救われてきたのです。<br /><br /> ヨハネによる福音書は特に、この五つのパンと二匹の魚が、少年の持っていたものであったと伝えています。わたしは本人の同意なく、イエス様が勝手にパンと魚を取り上げて分けてしまったとは思いません。その子がイエス様に差し出したに違いない。アンデレが「何の役にも立たないでしょう」と言っているのに、その子はパンと魚を差し出したのです。そして、主は喜んでその差し出されたパンと魚をお用いになられたのです。それはアンデレに、また他の大人たちに見せるためだったのかもしれません。大人はどうしても「こんなものが何になるのか。何の役にも立たないでしょう」というのが先に来てしまうものです。そうやって献げることを躊躇するのです。しかし、子どもはそうではありません。大好きな人にだったら、食べかけのお菓子だって、「これあげる」って差し出すのです。<br /><br /> しかし、やがてその弟子たちも、結局はあの少年と同じようになって行ったのです。弟子たちは後に復活したキリストから、「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」と命じられることになりました。五千人どころか、全世界へお遣わされ、向き合わされることになったのです。彼らは貧しい一握りの弟子の群れに過ぎません。自分たちの持っている何を見ても、「何の役にも立たないでしょう」としか思えなかったに違いありません。自分自身を見てもそうでしょう。皆、キリストが十字架にかけられた時に、見捨てて逃げてしまったような弟子たちです。「こんな私、何の役にも立たないでしょう」と言わざるを得ないでしょう。しかし、それでも彼らは自分自身を、そのまま献げたのです。そのようにして世に遣わされ、人々のもとに遣わされたのです。子どものようになって!キリストはそれをすべて受け取って、命のパンを世界に与えるために用いられたのです。それが教会の歴史です。<br /><br /> 私たちもまた、ただ自分自身をキリストに差し出したらよいのです。キリストは私たちをこの世界に遣わしてくださっています。私たちが遣わされているところにおいて、私たちが向き合うようにと出会わせてくださった人々に、共に生きるようにと与えてくださっている人々に、キリストが命のパンを分かち与え、生かし、救うため、私たちを必ず用いてくださいます。<br /><br /></p>shoeichurchhttp://www.blogger.com/profile/05438295989591628531noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-3753053677489926281.post-43862471222818917852024-02-07T20:00:00.001+09:002024-02-12T12:49:45.849+09:00祈祷会用:出エジプト記 8:1~28<p> 出エジプト記 8:1-28<br /><br /> 先週読んだといころを振り返ってみましょう。主の言葉をいただいたモーセとアロンは、再びファラオの前に立つこととなりました。そこでモーセとアロンが行ったのは、アロンが杖を投げるとそれが蛇になるという奇跡でした。そこで、ファラオは魔術師に同じことをさせます。超自然的なことは神でなくても起こせます。信じたくない人は「神でなくても同じことは起こる」と言って別の説明を試みれば信じないでいられます。これがファラオの示した抵抗の仕方でした。<br /><br /> 同じことは、「血の災い」においても起こりました。エジプトの魔術師が秘術を用いて同じことをするのです。ファラオは信じようとはしません。しかし、信じようと信じまいと、主が事を成されるならば、それは「しるし」なのです。「このことによって、あなたは、わたしが主であることを知る」と主は言われます。主がどのような御方であるかを示すしるしなのです。<br /><br /> 「血の災い」に続く第2の災いは、「あなたの領土全体に蛙の災いを引き起こす」というものでした。それについては、「ナイル川に蛙が群がり、あなたの王宮を襲い、寝室に侵入し、寝台に上り、更に家臣や民の家にまで侵入し、かまど、こね鉢にも入り込む。蛙はあなたも民もすべての家臣をも襲うであろう」(7:28-29)と語られています。<br /><br /> これは極めて宗教的なしるしでした。蛙は多産のため、古代エジプトにおいては豊穣多産の象徴として神聖なものとされていたのです。神話においてはケヘトという多産を司る蛙の顔をした女神として登場します。しかし、その神聖なる蛙が主なる神に従ってエジプトでいわば反乱を起こすのです。蛙もまた主の支配下にあることが明らかにされるのです。すなわちこれはファラオも主に従うことを求めるしるしとなるのです。<br /><br /> さて、血の災いと同じように、奇跡は必ずしも信仰を生じさせません。ファラオは結局信じないのです。しかし、主が同じところに留まっているわけではありません。ここで確かに主がファラオに対して事を進めておられるのが見えてまいります。<br /><br /> まずは、前回と同じように、魔術師が同じことをするのです。当然のことながら、これはファラオの命令によってなされたと考えてよいでしょう。先に申しましたように、第一の抵抗の仕方は、「主でなくても同じことは起こる」と示すことでした。実際に、災いが起こっても、「これは神の警告であり、悔い改めを求めているのだ」と思いたくないならば、人は懸命に、これが神によるものであると否定しようとするのでしょう。<br /><br /> 実際、魔術師は同じ奇跡を起こすことができました。しかし、同じように蛙を出せたとしても、蛙問題の何の解決にもなりまません。蛙が満ちて困っている時に、さらに魔術で蛙を出させても本当は何の意味もないのです。滑稽ではありませんか。ここに書かれているのは、主に対する人間の抵抗が、いかに滑稽なものであるかを示す風刺でもあるのです。<br /><br /> ファラオは魔術師に蛙を出させても、何も解決にならないことに気付きます。実際、蛙が寝室まで入ってきたのではたまりません。やむにやまれず、ファラオはモーセを呼び出します。そこで注目すべき言葉は、「主に祈願して、蛙がわたしとわたしの民のもとから退くようにしてもらいたい」という言葉です。5章2節では、「主とは一体何者なのか。どうして、その言うことをわたしが聞いて、イスラエルを去らせねばならないのか。わたしは主など知らないし、イスラエルを去らせはしない」と言っていたことを思い起こしてください。これは大きな進展であると言えます。<br /><br /> 実際、血の災いの時には、まだ主を認めてはいません。魔術師が同じことができたからです。しかし、この災いにおいて、ファラオは「主」を認めることになります。そこでいよいよ、この主に従うかどうかという本質的な問題に入っていくのです。本当の意味で戦いが始まったと言ってよいでしょう。<br /><br /> ファラオは一見すると、主の前にへりくだって服従の姿勢を取っているように見えなくもありません。「祈願してくれ。民を去らせ、主に犠牲をささげさせるから」と。しかし、まだファラオは災いを逃れることしか考えてはいません。主に従うことは考えていないのです。それゆえにこれはまさに笑い話になるのです。<br /><br /> モーセが「あなたのお望みの時を言ってください」(5節)と言います。すると、ファラオは「明日」と答えるのです。寝室にまで蛙が入り込んでいるのです。ある意味で彼は、一晩は蛙と一緒に寝るつもりでいるのです。これが人間の抵抗の姿です。今日いっぱいは頑張るつもりでいるのです。まだ主に頼らないで逃れる道を探すつもりでいるのです。それで無理なら、明日はお願いします、ということになるのです。<br /><br /> そこでモーセは言います。「あなたの言われるとおりにしましょう(直訳は「あなたのお言葉どおりに」)」。意味合いとしては、「明日までに他の方法で解決などつきません。結局、あなたは我々の神、主のような神がほかにいないことを知るようになります」とモーセは言うのです。<br /><br /> モーセは、ファラオの望みどおりに主に訴えます。そして、蛙は死にました。しかし、「ファラオは一息つく暇ができたのを見ると、心を頑迷にして、また二人の言うことを聞き入れなくなった」(11節)と書かれています。もともと、祈願を願ったこと自体は、へりくだりとも従順とも関係はなかったからです。災いから逃れることしか考えていなかったわけですから。ならば災いがなくなったら従う必要はありません。当然の結果です。ファラオは心を頑迷にしました。しかし、これは主が無力だからではありません。モーセのせいでもありません。「主が仰せになったとおり」と聖書は語ります。<br /><br /> 続く第3の災いは、「杖を差し伸べて土の塵を打ち、ぶよにさせてエジプト全土に及ぼせ」(12節)というものでした。この「ぶよ(キンニーム)」が何を意味するのかは、実はよくわかりません。ぶよ、蚊、しらみ などの訳があります。いずれにしても、人間にとって不快なものです。<br /><br /> ここでもまた主の御業が前進しているのを見ることになります。「魔術師も秘術を用いて同じようにぶよを出そうとしたが、できなかった」と書かれています。そして、魔術師はファラオに、「これは神の指の働きでございます」と言うのです。まず、魔術師が主の御手を認識し、勝てないことを認めるのです。しかし、ファラオの心はかたくなになり、彼らの言うことを聞かなかったのでした。<br /><br /> 続く第4の災いは、「わたしの民を去らせ、わたしに仕えさせよ。もしあなたがわたしの民を去らせないならば、見よ、わたしはあなたとあなたの家臣とあなたの民とあなたの家にあぶを送る。エジプトの人家にも人が働いている畑地にもあぶが満ちるであろう」(16-17節)というものです。この「あぶ(アーローブ)」も何を指すのかはわかりません。あぶ、はえ、カブトムシなどの訳があります。いずれにせよ、虫の大群です。<br /><br /> ここでも主の御業はさらに進んでいきます。主はここまでも「わたしの民」という言葉を繰り返し用いてこられました。イスラエルはあくまでも「わたしの民」だと主張してきたのです。イスラエルはエジプトに属さない。ファラオの民ではないのです。だから主が「去らせよ」と言ったら、ファラオは去らせなくてはならないのです。主のものだから。これは実はイスラエル自身も理解していなくてはならないことでした。ただ、主はただ苦しみから解放しようとしているのではないのです。「わたしの民」としてエジプトを去らせようとしているのです。<br /><br /> そのことを主は示し始めます。「わたしの民」をファラオの民から区別すると言うのです。「神の民」は神に属するのであって、世にあっても世に属さない。それはイエス様も言っておられることでした。「わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないのです」(ヨハネ17:16)と。その意味において、「主の民はエジプトに属さない」ことを示した、この第4の災いはその意味でわたしたちにとっても重要です。<br /><br /> いかし、実際にはエジプトに留めようとする誘惑は働きます。「あなたはこの世に属する者ですよ。この世の言うとおりにしなくてはならないのですよ」という誘惑は働くのです。今日の箇所もそうです。ファラオは言うのです。「行って、あなたたちの神にこの国の中で犠牲をささげるがよい」と。これに対して、モーセは「神が命じられたようにしなくてはならない」と言い返します。すると、ファラオは、「荒れ野であなたたちの神、主に犠牲をささげるがよい。ただし、あまり遠くへ行ってはならない」と言うのです。実際に、こういう誘惑を、今日のキリスト者も経験するのではないでしょうか。あまり熱心にならないように。あまりこの世と違うことしないように。そうです、あまり遠くに行かないように、と。<br /><br /> ファラオは主に従うつもりはないのです。神の民を手放すつもりもありません。だから、あぶがいなくなると民を去らせませんでした。この世は神の民を手放そうとはしないのです。この世の力、サタンの力は私たちを手放そうとしないのです。そこには戦いがあります。それはなかなか進まないように見えますが、主の戦いは最終的な勝利に向かって、確実に前進しているのです。<br /><br /><br /></p>shoeichurchhttp://www.blogger.com/profile/05438295989591628531noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-3753053677489926281.post-2358896143458482282024-02-04T20:00:00.001+09:002024-02-04T20:00:00.196+09:00「起き上がり、歩きなさい」<p><br />ヨハネによる福音書 5:1‐18<br /><br /><b>良くなりたいか</b><br /> 38年間も病気で苦しんできた人がイエス様によって癒された。今日お読みしたのはそのような話です。しかし、病気を癒すイエス様ということを伝えたいのなら、もっと大勢の人が癒された話を書き記した方がよいでしょう。ここに書き記されているのは、明らかに大勢の病人がいる場所で、ただひとりの人が癒されたという話です。そのような話が聖書に記されているのは、単に病気の癒しを伝えたいからではなく、その出来事が私たち全ての人間に関わる普遍的な意味を持っているからに違いありません。ここに書かれている出来事は、病気の人にとって身近な話であるだけでなく、元気な人にとっても身近な話であるはずなのです。<br /><br /> ところで、今日読まれましたように、話は癒しの出来事で終わってはいません。この癒された人は、その後、神殿に行くのです。神を礼拝しに行くのです。そこでもう一度イエス様にお会いすることになります。いや、正確には「イエスは出会った」と書いてあります。イエス様の方から出会ってくださって、彼にこう言われるのです。「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない」(14節)。つまり、ここでこの出来事は、単純に病気の癒しの話ではなくなるのです。ここに罪の話が入ってくるのです。<br /><br /> もちろん、このような言葉には注意が必要です。私たちは、あらゆる病気が常に罪の結果であるかのように、単純に結びつけることは慎まなくてはなりません。例えば、この福音書の9章には、弟子たちが生まれつき目の見えない人について、イエス様に「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」と尋ねたという話があります。そのとき、主は、「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」(9:3)と答えられました。単純に病気と罪とを結びつけてはならないのです。<br /><br /> しかし、もう一方で、人間の病や苦しみが罪とは全く無関係であると論じることも、現実的ではありません。というのも、私たちは事実、罪の結果として病気に限らず多くの苦しみを経験するからです。しかも、長い間苦しみ続けることがあるからです。いや、さらに言えば、罪によって病気になるというよりも、罪そのものが人間にとって深刻な病に他ならないとも言えるのです。そこではもはや、肉体的に病気か否かは関係がなくなります。<br /><br /> 例えば、10節以下には病気の人だけでなく、元気な人も出てきます。元気な「ユダヤ人たち」です。そんな彼らが、病気が癒されて元気に床を担いで歩いている人を目にしたという話が書かれているのです。見るからに、つい先ほどまで病気で寝ていたような身なりの人が、今では元気になって床を担いで歩いている。その姿を見かけたユダヤ人たちの第一声はこうでした。「今日は安息日だ。だから床を担ぐことは、律法で許されていない」(10節)。<br /><br /> どう思いますか。病気の人が癒されたことを一緒に喜ぶのではなく、律法違反であることをまず咎める。そして、癒したのがイエスであると知ると、イエスを迫害し始めたと書いてあります。さらには18節に「ますますイエスを殺そうとねらうようになった」と書かれている。憎しみが殺意にまでふくれあがっている。そんな元気で正しい人たちです。<br /><br /> いったい本当に病人なのはどっちなのでしょう。改めて考えざるを得ない。しかし、これが人間の現実なのです。人間の根源的な罪の病の症状は、体が病んでいる時よりも、むしろ元気な時において顕著に現れるのです。しかも、皮肉にも、人間の正しさの中において、様々な形で顕著に現れてくるとも言えるのです。<br /><br /> このように肉体的に病んでいようが元気であろうが、この話は私たちすべての者にかかわっているのです。この38年間病気であった人の姿は私たちの姿です。そこにイエス様が来られるのです。そして言われるのです。「良くなりたいか」と。それは根源的な罪の病が普遍的であるように、この問いもまた、全ての人間に対する普遍的な問いでもあるとも言えます。「良くなりたいか」と主は、ここにいる私たちにも問いかけておられるのです。<br /><br /><b>起き上がり、歩きなさい</b><br /> イエス様がそのように問われた場面をもう一度見てみましょう。その人は、エルサレムの羊の門の傍らにあったベトザタと呼ばれる池の回廊に横たわっていました。そこには他にも、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが大勢横たわっていたと書かれています。なぜ、彼らはそんなところにいたのでしょうか。理由が書いてありません。しかし、よく見ると新共同訳では4節が抜けていますでしょう。その節はヨハネによる福音書の一番最後に付記されています。このように書かれています。「彼らは、水が動くのを待っていた。それは、主の使いがときどき池に降りて来て、水が動くことがあり、水が動いたとき、真っ先に水に入る者は、どんな病気にかかっていても、いやされたからである」(3節後半‐4節)。<br /><br /> これはヨハネによる福音書に後の時代につけ加えられた説明書きです。いわば当時の迷信です。この迷信のゆえに、皆自分が一番最初に飛び込もうと、池の回廊に待機していたのです。38年もの間病気に苦しんできたその人もまた、どれくらいの長きに渡ってかは分かりませんが、来る日も来る日も癒しを求めてそこにいたのです。<br /><br /> そこにイエス様が来られました。物語は次のように続きます。「さて、そこに三十八年も病気で苦しんでいる人がいた。イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、『良くなりたいか』と言われた」(6節)。<br /><br /> イエス様は「良くなりたいか」と問われます。さて、この人は「良くなりたい」のでしょうか。この人は「良くなりたい」とは答えていません。しかし、彼の行動そのものがはっきりと答えています。良くなりたいのです。彼は今日もなおベトザタの池のほとりにいるのです。あきらめてはいないのです。<br /><br /> しかし、「良くなりたい」という願いを持っていたとしても、ベトザタの池は彼にとって全く救いにならなかったのです。そのことを聖書は伝えているのです。この池には「五つの回廊」があったと記されております。回廊が五つあったことを殊更に記しているのは、それがモーセの五書、モーセの律法を象徴しているからであると、古くから理解されてきました。先にも触れましたように、この後には安息日律法の話が続くことからも、それは正しい解釈であろうと思います。<br /><br /> 律法を象徴する五つの回廊を持つベトザタの池は、38年間苦しんできたその人の助けにはなりませんでした。これは律法の無力さを象徴的に表していると言えるでしょう。律法というものは、確かにそれ自体としては、何が正しいことかを教える良いものです。しかし、正しいことを教えて命じる律法は、人間を蝕む罪という病を癒すことはできないのです。人は正しいことを学んで正しいことを身に着ければ「良くなる」と思うかも知れません。しかし、現実にはそうならない。ある人はこう表現しています。それは「病気で寝たきりで、点滴で栄養補給を続け、かろうじて生きている人に、『バランスのよい食生活をしてスポーツで体を鍛えなさい、そうすれば健康になれます』と勧める」ようなものだ、と。それはいっそう惨めな思いを強いるだけなのです。<br /><br /> 私たちに本当に必要なのは何なのか。それは「良くなりたいか」と本気で問いかけてくださる御方なのです。しかも、ただそう言われるだけではありません。なんと書かれていますか。「イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、『良くなりたいか』と言われた」(6節)。イエス様は見ておられたのです。病の中に横たわっている現実を。自分が自分で思い通りにならない、そのような現実を。そのように、罪に蝕まれた人間の現実をイエス様は見ておられるのです。いや、見ておられるだけではありません。「知って」と書かれています。長い間病気であるのを知っておられるのです。自分の力で、あるいは誰かの助けを得て「良くなりたい」と思って、そして現実には繰り返し失敗してきたことも、全部知っておられるのです。その悲しみをすべて知った上で、なおその上で、「良くなりたいか」と言ってくださる。イエス様とはそのような御方です。<br /><br /> そのようなイエス様が言われるのです。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」(8節)。全部知っておられる主は、「仕方ありませんね。寝ていなさい」とは言われない。「良くなりたいか」と問われる主は「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」と言われるのです。私たちが「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです」というようなことを言って、他の人間のことを問題にしている時に、主は誰か他の人のことではなく、私たち自身に「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」と言われるのです。<br /><br /> 厳しい言葉でしょうか。確かにそうとも言えます。しかし、イエス様の「起き上がりなさい」は単なる要求ではないのです。そうではなくて、起き上がらせる力なのです。今まで自分を横たえていた床から起き上がって歩き出させる力なのです。この物語に見るように、です。「すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした」。私たちに必要なのはこの御方の御言葉です。私たちを知った上で「良くなりたいか」と問われる御方が語られる御言葉、私たちを本当の意味で癒し、起き上がらせ、歩き出させる力ある御言葉なのです。<br /><br /> 信仰生活とは、そのような主の御言葉を聴きながら生きる生活です。それは、主の御言葉によって起き上がらされるプロセスであるとも言えます。私たちは既に新しく歩き始めているのです。完全な癒しは将来のことであるかもしれないけれど、この人に起こったことは既に私たちにも始まっているのです。この同じ言葉は復活を表現するために用いられています。ここに見る人の姿は、やがて私たちの復活において神の国において完成する私たちの癒しをも表しているのです。<br /><br /></p>shoeichurchhttp://www.blogger.com/profile/05438295989591628531noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-3753053677489926281.post-58805671284309553052024-01-31T20:00:00.001+09:002024-01-31T20:00:00.329+09:00祈祷会用:出エジプト記 7:1~24<p> 出エジプト記 7:1-24<br /><br /> 主は言われました。「見よ、わたしは、あなたをファラオに対しては神の代わりとし、あなたの兄アロンはあなたの預言者となる」(1節)。そのように主が言われたのは、モーセが再び主の命令に抵抗したからです。6章28節以下に次のように書かれていました。「主がエジプトの国でモーセに語られたとき、主はモーセに仰せになった。『わたしは主である。わたしがあなたに語ることをすべて、エジプトの王ファラオに語りなさい。』しかし、モーセは主に言った。『御覧のとおり、わたしは唇に割礼のない者です。どうしてファラオがわたしの言うことを聞き入れましょうか』」(6:28-30)。<br /><br /> 「唇に割礼のない者」とは、「口べた」という意味です。さらに言えば、わたしの口は清くもない(いつも正しいことを語っているわけではない)という意味合いも含まれているものと思われます。だから、ファラオに話に言っても無駄なのだとモーセは言うのです。<br /><br /> これと同じようなことをモーセが4章で言っていたことを思い起こしてください。「『ああ、主よ。わたしはもともと弁が立つ方ではありません。あなたが僕にお言葉をかけてくださった今でもやはりそうです。全くわたしは口が重く、舌の重い者なのです。』その時、主は言われた。『一体、誰が人間に口を与えたのか。一体、誰が口を利けないようにし、耳を聞こえないようにし、目を見えるようにし、また見えなくするのか。主なるわたしではないか。さあ、行くがよい。このわたしがあなたの口と共にあって、あなたが語るべきことを教えよう』」(4:11‐12)。<br /><br /> 主が口と共にあると言われるならば、モーセが口べたかどうかなどは問題ではないのです。そもそも口が達者ならできるようなことをさせようとしているのではないからです。あくまでも神は、御自分の御業を、モーセを通して実現しようとしているのです。そして、「アロンがいるではないか」と言われて、いわば押し切られた形で従ったのでした。<br /><br /> しかし、実際に主に従った結果、ファラオは言うことを聞き入れませんでした。むしろイスラエルの人たちの労働をさらに過酷にするということが起こったのです。それでもなお民に語れと主は言われる。しかし、6章9節にはこう書かれていました。「モーセはそのとおりイスラエルの人々に語ったが、彼らは厳しい重労働のため意欲を失って、モーセの言うことを聞こうとはしなかった」。<br /><br /> そのように、イスラエルの人々ですらモーセの言うことを聞こうとはしませんでした。だからやはり言いたくなります。「わたしは唇に割礼のない者です。どうしてファラオがわたしの言うことを聞き入れましょうか」と。モーセも、分かってはいるのです。問題は自分の能力ではなくて、神の御業であり、神のなさる事なのだ、ということは。自分はただ用いられるだけということも分かっているのです。しかし、現実に自分の弱さが露わになると、やはり自分ではだめだと思わずにはいられないでしょう。現実に自分が語っても、イスラエルの民でさえ聞こうとしない。人はやはり繰り返し、主に言いたくなるものなのでしょう。「わたしではだめです」と。<br /><br /> だから主も同じことを繰り返し語られるのです。同じことを繰り返し聞かなくてはならないのです。主の大いなること、神が主権者であること、神が本当の支配者であることに目を向けなくてはならないということ、を。<br /><br /> 4章で語られていたことを主はもう一度繰り返します。「見よ、わたしは、あなたをファラオに対しては神の代わりとし、あなたの兄アロンはあなたの預言者となる。わたしが命じるすべてのことをあなたが語れば、あなたの兄アロンが、イスラエルの人々を国から去らせるよう、ファラオに語るであろう」(7:1‐2)。<br /><br /> それにしても、改めてもう一度この言葉を聞きますと、不思議に思えます。ここには「神からモーセへ。モーセからアロンへ。アロンからファラオへ」という図式がはっきり語られています。なぜこんなまどろっこしいことをするのでしょう。これを見るかぎり、モーセはいりません。アロンの方が雄弁であるならば、「神からアロンへ。アロンからファラオへ」で十分なはずです。そもそもアロンのほうが兄なのだから、アロンをリーダーにしたらよいのでしょう。しかし、人間の目から見たら「わたしはいらない」と思えたとしても、神様の中には位置づけがあるのです。どんなに人間の目に不要に見えても、そこにはモーセがいなくてはならないのです。そして、モーセでなくてはならない。他の人ではだめなのです。それが召命というものです。<br /><br /> そして、さらにどうしてもモーセが聞かなくてはならないことを主は語られます。「しかし、わたしはファラオの心をかたくなにするので、わたしがエジプトの国でしるしや奇跡を繰り返したとしても、ファラオはあなたたちの言うことを聞かない」(3-4節)。<br /><br /> この「わたしはファラオの心をかたくなにする」という表現は前にも出て来ましたし、これからも繰り返し出て来ます。以前にも申しましたように、これは要するに、「ファラオがなかなかイスラエルを出て行かせなくて、出エジプトに時間がかかったのは、神が無力だったからではない。また、モーセが口べただったからでも、アロンがうまくやらなかったからでもない。そうではなく、これは神様の主権によること、神の御計画によることなのだ」と言っているのです。<br /><br /> 実際、エジプトからの解放は手間取るのです。12章まで続くのです。ファラオはなかなかイスラエルを去らせません。そうしますと、十分に説得力のあることを神がなさっていないからであるように見えなくもない。実際、杖を蛇にするぐらい、魔術師だってできるのです。あるいはいかにアロンが雄弁でも説得はできなかったから、ファラオは頑迷なままであったように見えなくもない。しかし、そうではないのです。神はそのようなことは初めから分かっていたのです。むしろ、神に逆らっているファラオの心を頑なにしてしぶとくしたのは神だというのです。<br /><br /> ボクシングに喩えるならば、この試合は1ラウンドKOの試合じゃなくて、勝つのに12ラウンドかかった試合に見えるのです。普通に考えるならば、青コーナーのファラオと赤コーナーの神様の力に大差なかったから最終ラウンドまでもつれ込んだように見えるのです。しかし、神は試合前に言われるのです。ファラオには最後まで持ちこたえさせて、最終ラウンドでのKO決着にする、と。<br /><br /> 実際、これから読んでいくことは、そのように進んでいくのです。そして、モーセはどうしてもこれを聞いておく必要があったのでしょう。なぜなら、何度やっても駄目だったら、普通は嫌になるからです。やっぱり自分では駄目なのだと思うでしょう。だから、これは相手のしぶとさをわざわざ引き出すような試合になることを初めから伝えているのです。モーセは初めからそのつもりでいなくてはならない。<br /><br /> しかし、なぜ1ラウンドでKOできるのに、最終ラウンドKOにするのでしょう。主はこう言われるのです。「わたしがエジプトに対して手を伸ばし、イスラエルの人々をその中から導き出すとき、エジプト人は、わたしが主であることを知るようになる」(5節)。ここで戦いの当の相手である「ファラオは」と主は言われないのです。そうではなく「エジプト人は」と言われるのです。<br /><br /> さて、「わたしは主である」とはどういう意味であったか先週の箇所を思い出してください。それは「共にいる神」であり、さらには、「救い出す神」であり、「神の民とする神」であり、「地上に存続させ用いられる神」であるということなのです。そのような神、ヤハウェをエジプト人も知るようになるというのです。<br /><br /> 実際、この12ラウンドを通して何が起こったかを私たちは見て行くことになります。ファラオはかたくなであり続けますが、エジプト人の内に変化が起こってくるのです。そして、最終的に、エジプト脱出の際には、「そのほか、種々雑多な人々もこれに加わった。羊、牛など、家畜もおびただしい数であった」(12:38)と書かれているのです。すなわち、脱出したのは、ヘブライ人だけではなかったということです。エジプトの奴隷たちだけではなかったのです。そこにはエジプト人も含め「種々雑多な人々」も加わっていたのです。そのようにしてイスラエルは血縁共同体ではなく、出エジプトという神の恵みを土台とした契約共同体となっていくのです。<br /><br /> さて、このように主の言葉をいただいて、モーセとアロンは再びファラオの前に立つことになります。そこでモーセがしたのは、かつてイスラエルの人々の前で行ったことでした。実際にはアロンがモーセの杖を用いたので、ここでは「アロンの杖」と呼ばれています。その杖が蛇になるというしるしが神によって与えられました。これはかつて4章30節でイスラエルの民の前でアロンが行ったことです。その時、民は信じました。しかし、それと全く同じことをファラオが見ることになるのですが、彼は信じません。<br /><br /> 奇跡は必ずしも信仰を生み出さないことが分かります。これは新約聖書においても同じです。イエス様の御業を見ても、信じない人は信じない。天からのしるしを求める人(マルコ8:11)は、しるしを見せられても信じないものです。ファラオは奇跡を見た時に、魔術師に同じことをさせました。彼らは同じことをすることができました。つまり神でなくても同じことは起こるということです。そう思えれば信じなくてよいのです。しるしを見ても、信じないつもりでいる人は、「神でなくても同じことは起こる」と言って別の説明を試みます。<br /><br /> 同じことは、血の災いにおいても起こります。エジプトの魔術師が秘術を用いて同じことをするのです。それをもってファラオは信じようとはしません。このように、奇跡は必ずしも信仰をもたらしません。しかし、主が事を成されるならば、それは「しるし」なのです。大切なことを指し示す「しるし」なのです。「このことによって、あなたは、わたしが主であることを知る」と主は言われます。それは主がどのような御方であるかを示すしるしなのです。<br /><br /> 一つ目においては、アロンの杖が魔術師の杖を呑み込みました。主はエジプトの魔術の源となっている神々の上におられます。ナイルが血に変わることも同じです。ナイルはファラオに従うと信じられていたのです。しかし、ファラオの思うようにはなりません。なぜなら、それは主による被造物であり、主がその上におられるからです。主はファラオの上に君臨しておられます。そのことを主はファラオに示しておられるのです。<br /><br /> このように、奇跡の物語、ファラオとの戦いの物語が続きます。人間の罪が神のご計画を阻んでいるように見える行程、それは往々にして不要なプロセスに見えるのでしょう。しかし、神の御計画の中において、それは主が御自分の主権と支配と栄光を表す大切なプロセスなのです。<br /><br /><br /></p>shoeichurchhttp://www.blogger.com/profile/05438295989591628531noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-3753053677489926281.post-9945518159247258502024-01-28T20:00:00.001+09:002024-01-28T20:00:00.367+09:00「キリストが共におられるとは」<p>ヨハネによる福音書 8:21-30<br /><b><br />罪のうちに死ぬことになる</b><br /> イエス様は言われました。「わたしは去って行く。あなたたちはわたしを捜すだろう。だが、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない」(21節)。<br /><br /> このときイエス様は神殿の境内で教えておられました。宝物殿の近くでなされたファリサイ派のユダヤ人たちとのやりとりが直前に記されております。この言葉も直接的にはファリサイ派の人々に対して語られたものと見てよいでしょう。それにしても「あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる」とは実に激しい辛辣な言葉です。こんなことを言われれば、誰であれ腹を立てるでしょう。<br /><br /> しかし、考えてみるとイエス様は何も特別なことを言っているわけではないとも言えます。イエス様はただ当たり前のことを言っているに過ぎないのです。それは彼らがファリサイ派だからというわけではなく、イエス様に敵意を向けているからでもなく、ある意味では全ての人について言えることでもあるのです。<br /><br /> というのも神から見て罪のない人間など一人もいないからです。人生には人の目に触れていることと人の目からは隠されていることがあります。しかし、神様の目から隠されているわけではありません。すべては神の前に明らかです。そのような神様の前で私たちたちが人生を終える時、「わたしは罪を犯しませんでした」と言って死ねる人はいないでしょう。その意味では、人間は誰しも罪人として死ぬことになるのです。「罪のうちに死ぬことになる」とは、まさにそのとおりです。<br /><br /> それは人生の終わりに至らなくても、その途上においても、本当は分かり切っていることなのです。私たちは皆、後戻りできない人生を生きているからです。どんなに自分のしたことを悔いたとしても、それ以前に戻ってやり直すことはできない。神に背いたことをしたならば、その事実を後戻りして消すことはできない。それは事実として残るのです。その意味でイエス様がある時、人間の罪を借金に喩えたのは適切だと言えます。借金は忘れても残ります。罪の負い目も、私たちがたとえ忘れたとしても神の前に残ります。人は罪の負債を抱えたまま最後の日を迎えることになるのです。「あなたがたは自分の罪のうちに死ぬことになる」。それはあの時、あの場所にいたファリサイ派の人たちだけの話ではありません。<br /><br /> だからこそ人間には救いが必要なのです。自分ではどうすることもできないからです。また、他の人間によっても、どうすることもできないからです。他の人間は救いを与えることはできません。なぜなら他の人間もまた自分の罪の負債を抱えているからです。人間同士は、この世のことについて助け合うことはできるかもしれません。しかし、人は他の人に、本当の意味で救いを与えることはできません。自分の罪のうちに死ぬことになるという事実については、一切手を出すことができないからです。だからこそ人間からではない、神からの救い、天からの救いが必要なのです。<br /><br /><b>わたしは上のものに属している</b><br /> そして、天からの救いは来たのだと聖書は教えているのです。イエス・キリストという御方として、救いが来たのです。その方は自分自身についてこう語ります。「あなたたちは下のものに属しているが、わたしは上のものに属している。あなたたちはこの世に属しているが、わたしはこの世に属していない」(23節)。イエス・キリストという方は、こういうことを大まじめに語られる方なのです。そのような方のそのような言葉を世々の教会は信じてきたし、私たちも信じているのです。<br /><br /> この御方を信じるということは、自分がもともと「下のものに属している」ということを認めることでもあります。自分たちはもともと「この世に属している」存在なのだと認めることです。そこに「上のものに属している」と言われる方が来なかったならば、私たちはもともと上のものには無縁なのです。下のものに属している者として、この世に属している者として、この世のことだけを考えて、この世のことに振り回されて、この世のことに動かされて罪を犯し、この世に属するものとして死んでいくしかなかったのです。罪のうちに死んでいくしかなかったのです。そのことを徹底的に認めてこそ、「わたしは上のものに属している」というイエス様の言葉が、どれほど大きな希望であるかが見えてくるのです。<br /><br /><b>わたしはある</b><br /> その御方がさらにこう言われます。「だから、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになると、わたしは言ったのである。『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる」(24節)。「わたしはある」ということを信じないなら――明らかにぎこちない翻訳です。しかし、この言葉はユダヤ人ならばピンと来るのです。よく分かる。なぜなら誰もが知っている物語があるからです。<br /><br /> その昔、イスラエルがエジプトの奴隷であったとき、解放者として神から選ばれたのはモーセという人物でした。彼はミディアンの羊飼いでした。その日も彼は羊の群れを荒れ野の奥へ追っていき、ホレブという山まで来たのです。すると彼は柴が火に燃えているのを見ました。燃えているのに燃え尽きない。この不思議な光景に誘われて近づくと柴の中から声がした。神の声でした。<br /><br /> 神はモーセに命じました。「今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ」。当然、モーセは尻込みします。「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導きださねばならないのですか」。すると神は言われます。「わたしは必ずあなたと共にいる」。<br /><br /> モーセは「共にいる」と言われる神に名前を尋ねました。人々から聞かれた時に何と答えましょうか、と。その時に神はモーセにこう答えたのです。「わたしはある。わたしはあるという者だ」。そして、さらにこう言われたのでした。「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと」(出エジプト記3:14)。<br /><br /> このように聖書の神は「わたしはある」という名前なのです。それは「わたしはいる」と言い換えてもいいでしょう。神が「わたしはいる」と言われるなら、ただ一般的に神は存在する、ということではなくて、それは「あなたと共にいる」ということです。モーセに言われたとおりです。「わたしは必ずあなたと共にいる」と。それが聖書の神の名なのです。共にいてくださる神を意味する名前なのです。<br /><br /> そして、今日の箇所ではイエス様が御自分を指して「わたしはある」と言われるのです。イエス様が共におられるということは、かつてモーセを遣わした救いの神が共におられるということなのだ、と主は言っているのです。人間は人間を救うことができないから、天から独り子なる神が来られたのです。共にいてくださる神が来られたのです。そのことを信じないならば、「わたしはある」ということを信じないならば、「あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる」と主は言われるのです。それはある意味では当たり前のことです。天からの救いを退けるならば、もはや救いはどこにもないからです。<br /><br /><b>あなたは、いったい、どなたですか</b><br /> さて、ここまで聞いて、彼らはイエスに問いました。「あなたは、いったい、どなたですか」。これに対してイエス様は答えるのです。「それは初めから話しているではないか」と。そうです。イエス様がこのようなことを語っているのは、ここだけではありません。ヨハネによる福音書全体を貫いていると言ってもよいでしょう。一度じっくりとイエス様の言葉一つ一つを改めて読んでみてください。イエス様が御自分について何と言っているか、読んでみてください。この御方が、いわゆる立派な教師であるとか偉大な宗教家という範疇にくくれないことがよく分かります。真面目に耳を傾けるならば、誰でも問わざるを得なくなるはずなのです。「あなたは、いったい、どなたですか」。<br /><br /> 繰り返しますが、イエス・キリストは、「あなたたちはこの世に属しているが、わたしはこの世に属していない」というようなことを語られる方なのです。そして、世々の教会はそのような御方をその御言葉と共にいわば大真面目に信じてきたのです。二千年の長きにわたって信じて、伝えてきたのです。時に迫害を耐え忍びながら、命さえも脅かされながら、それでもなお信じてきたのです。この御方は「上のものに属している」御方であると。下のものに属していた私たちが救われるために、この世に属していた私たちが救われるために、罪のうちに生きて、そして死んでいくしかなかった私たちが救われるために、この世に来てくださった御方であると。<br /><br /> イエス様は今日の箇所で人々にこう言っておられました。「わたしは去って行く。あなたたちはわたしを捜すだろう。だが、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない」(21節)。その言葉のとおり、イエス様は確かにこの地上を去られました。父のもとに帰られました。その意味で「わたしは去って行く」と言われたとおりになったと言えます。<br /><br /> しかし、もう一方において、イエス様はまだ去ってはおられないとも言えます。神の霊、聖霊が降って、今もなおキリストの体である教会がこの地上に存在しているからです。イエス様は今もこの世において生きて働いておられます。「上のものに属している」御方が、今もこの地上において永遠の救いを与えるために働いておられるのです。<br /><br /> 教会とはそのようなところです。私たちはここで天に属する方を信じ、その方につながって生きるのです。教会の営みはただこの世のことに関わっているのではありません。天に関わっているのです。バプテスマも天にかかわり、永遠の救いにかかわっているのです。そうでなければ、単なる水遊びでしかないでしょう。聖餐も天にかかわり、永遠の救いにかかわっているのです。そうでなければ、単なるままごとでしかないでしょう。<br /><br /> 礼拝にしても、伝道にしても、奉仕にしても、教会の営みはすべて、天に関わること、永遠の救いに関わることに携わっているのです。だから、天を思わずして行うなら、神の御業を思わずして行うならば、ただ人間のことしか考えていないなら、この世のことしか考えていないなら、ただ死の手前までのことしか考えていないなら、本当の意味で教会の営みとはならないのです。私たちと共にいてくださるキリストは、「わたしは上のものに属している」と宣言される御方だからです。私たちはそのキリストの体です。<br /><br /></p>shoeichurchhttp://www.blogger.com/profile/05438295989591628531noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-3753053677489926281.post-24787571442117784412024-01-24T20:00:00.001+09:002024-01-24T20:00:00.139+09:00祈祷会用:出エジプト記 6:1~13<p> 出エジプト記 6:1-13<br /><br /> モーセとアロンは主に従い、ファラオのもとに出かけて行きました。そして、主の命令を伝えたのです。「イスラエルの神、主がこう言われました。『わたしの民を去らせて、荒れ野でわたしのために祭りを行わせなさい」と」(5:1)。先週お話ししましたように、この言葉は、それ自体、ファラオの絶対的な支配に対する挑戦を意味することになります。主はファラオに命じる位置にあるということになるからです。<br /><br /> もちろん、ファラオは自分の上にある主の支配を認めようとはしません。あくまでも絶対的な神的な存在として主の命令をはねつけます。いや、それだけではありません。「ファラオはその日、民を追い使う者と下役の者に命じた。『これからは、今までのように、彼らにれんがを作るためのわらを与えるな。わらは自分たちで集めさせよ。しかも、今まで彼らが作ってきた同じれんがの数量を課し、減らしてはならない。彼らは怠け者なのだ。・・・』」(同6‐8節)。ファラオは、あくまでも自分が絶対的な支配者であることを彼らに体で覚えさせるために処罰を下すのです。<br /><br /> モーセは主に従ったのです。しかし、それは結果的にイスラエルの民を救うことにはなりませんでした。いや、かえって彼らを苦しめることになったのです。それはただ自分が苦しむこと以上に苦しいことだったに違いありません。モーセは苦しみの中から主に訴えました。<br /><br /> すると主は言われたのです。「今や、あなたは、わたしがファラオにすることを見るであろう。わたしの強い手によって、ファラオはついに彼らを去らせる。わたしの強い手によって、ついに彼らを国から追い出すようになる」(6:1)。<br /><br /> 「今や」と主は言われました。「今」が強調されています。その「今」とは、事態がますます悪くなっていくように見える「今」です。モーセもイスラエルの民も苦境に立たされている「今」です。その事態において何もなす術のない「今」です。しかし、そのような「今」こそ、「あなたは、わたしがファラオにすることを見るであろう」と主は言われるのです。「わたしがすること」すなわち「神がすること」を見るであろう、と。<br /><br /> そこで主はモーセに言われたのです。「わたしは主である」と。<br /><br /> 「主」と訳されているのは「ヤハウェ」という言葉です。「わたしはヤハウェである」と神はモーセに言われたのです。アルファベットで言うならばYHWHという子音4文字の単語なので、どう発音するか正確には不明です。学者は恐らく「ヤハウェ」と読んだのだろうと推測します。しかし、大事なのは発音よりも意味です。その意味するところは、既にモーセに知らされているのです。<br /><br /> 3章まで遡ると、こんなことが書かれています。まだファラオのもとに行く前のことです。モーセは主にこう尋ねました。「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか」。すると主はこう答えたのです。「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと」(3:14)。そして、これこそまさに「ヤハウェ」という神の名前の意味するところなのです。<br /><br /> 「わたしはある。わたしはあるという者だ」。しかし、「わたしはある」あるいはもっと自然に訳せば「わたしがいる」となりますが、「わたしがいる」と言いましても自分と無関係な神がどこかに「いる」ということならば大した意味はないでしょう。明らかにここで言われているのはそういうことではありません。「わたしがいる」とは、モーセと共にいる、ということです。「ヤハウェ」という神は、「共にいる神」なのです。そのような意味において、今日の箇所においても「わたしは主である。わたしはヤハウェである」とモーセに語っておられるのです。<br /><br /> いや、「わたしは主である」という言葉は、ただモーセだけが聞けばよいのではありません。イスラエルの民もまた聞かなくてはならないのです。ですから、主はモーセに言われるのです。「それゆえ、イスラエルの人々に言いなさい。わたしは主である」と。主はイスラエルの民にも「わたしはヤハウェである。共にいる神である」と語ろうとしておられたのです。<br /><br /> 6節から8節にかけて、モーセが民に語るために与えられた言葉が記されています。それは「わたしは主である」という言葉に始まり、「わたしは主である」という言葉に終わります。そこには「わたしは主である」という言葉が何を意味するのか、神が「共にいる神」であるとはどういうことかが明瞭に語られているのです。<br /><br /> 「わたしは主である」と言われる主は、さらにこう続けます。「わたしはエジプトの重労働の下からあなたたちを導き出し、奴隷の身分から救い出す。腕を伸ばし、大いなる審判によってあなたたちを贖う」(6節)。そのように神は「腕を伸ばされる神」なのです。「腕を伸ばす」とは、神がこの地上の現実において力を現すことを意味します。<br /><br /> 神はこの世界の歴史に介入し、この地上において営まれる人間の生活に介入される神です。神は観念の神でもなければ、ただ心の中におられる神ではありません。神は腕を伸ばして、奴隷であったイスラエルをエジプトから解放される神なのです。<br /><br /> 主の言葉はさらにこう続きます。「そして、わたしはあなたたちをわたしの民とし、わたしはあなたたちの神となる」(7節)。このような関係を聖書は「契約」と呼びます。「わたしは主である」と言われる神は、人と契約を結ばれる神なのです。<br /><br /> 契約を考える時、私たちは結婚を考えたらよいでしょう。結婚をすると、お互いは「単に大勢いる男の中のひとり」「単に大勢いる女のひとり」ではなくなります。「あなたはわたしの夫」「わたしはあなたの妻」という関係になるのです。主はそのような関係を求められる神、契約を結ばれる神です。この神と共に生きるとは、「あなたはわたしの神、わたしたちはあなたの民」と言って生きることに他ならないのです。<br /><br /> さらに主はこう言われます。「わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると手を上げて誓った土地にあなたたちを導き入れ、その地をあなたたちの所有として与える」(8節)。「土地を与える」のは、彼らが世代を超えて地上に存続するためです。「あなたはわたしの神、わたしたちはあなたの民」と言って生きる人々が、具体的に目に見える形で、この世界のただ中に存続することを主は望んでおられるということです。そのようにイスラエルはこの地上に存続し、そして教会もまた存続してきたのです。私たちは与えられた地において、具体的に目に見える形をもって、神の民として生きていくのです。<br /><br /> 「わたしは主である」。苦しみの中にあったモーセに神はそう語られました。モーセは苦しみの中にあるイスラエルの民にこの主の言葉を伝えるのです。「わたしは主である」。ファラオが支配しているとしか見えないエジプトの世界のただ中において、彼らは「わたしは主である」という言葉を聞いたのです。<br /><br /> もっとも、「彼らは厳しい重労働のため意欲を失って、モーセの言うことを聞こうとはしなかった」と書かれています。しかし、彼らはやがて見ることになるのです。神が「わたしは主である」と言ってくださるということは、どういうことであるか。彼らは目の当たりにすることになるのです。それが出エジプトの出来事なのです。<br /><br /> そして、ここにいる私たちもまた同じ言葉を聞いています。神との関わりを失った世界のただ中において、神ならぬものが支配しているとしか思えないこの世界のただ中において「わたしは主である」と語る神の言葉を聞いているのです。あの時のモーセのように、ただ為す術なく立ち尽くすしかない私たち、あの時のイスラエルの民のように、ただ他者の責任を問い非難するしかない私たちに、主は語られるのです。「わたしは主である」と。<br /><br /> その神こそ、イエス・キリストを通して御自身を現された神です。まさに私たちと共にいてくださる神であることをキリストによって現してくださった神に他なりません。「わたしは主である」。私たちにとって何を意味するのか、かつてイスラエルの民がその目で見たように、私たちもまた見ることになるでしょう。<br /><br /><br /></p>shoeichurchhttp://www.blogger.com/profile/05438295989591628531noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-3753053677489926281.post-43936089371445750152024-01-21T20:00:00.001+09:002024-01-22T10:47:18.495+09:00「水をぶどう酒に」<p>ヨハネにる福音書 2:1‐12</p><p><br /></p><p>婚礼での出来事</p><p> 「ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた」(1節)と書かれていました。一方、イエス様と弟子たちについては「招かれた」と書かれています。イエスの母マリアは「招かれた」のではなく、婚礼においてある特別な立場にあったものと想像されます。その婚礼において、ぶどう酒が足りなくなるという事態が生じました。そこでマリアはイエスのところに行って事情を伝えます。「ぶどう酒がなくなりました」(3節)。明らかにある種の期待をもっての言葉です。しかし、イエス様の返答はつれないものでした。「婦人よ、わたしとどんな関わりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません」(4節)。</p><p><br /></p><p> 「婦人よ、わたしとどんな関わりがあるのです」という返答については古来より様々な説明がなされてきました。例えば、「婦人よ、という呼びかけは、むしろ尊敬の表現なのだ。別に軽く扱っているわけではないのだ」、また、「『わたしとどんな関わりがあるのか』という言葉も、言葉のニュアンスによっては、『わたしにまかせておきなさい』ともとれる言葉だ」というように。</p><p><br /></p><p> 確かに「婦人よ」という言葉に軽蔑的な響きはありません。しかし一般的に子が親に向かって言う言葉ではありません。また、「わたしにまかせておきなさい」という解釈にも無理があります。なぜなら同じような表現が旧約聖書では明らかに拒絶の意味で用いられているからです(例えば、列王下3:13)。</p><p><br /></p><p> ここは素直にそのまま読むべきであろうと思います。イエス様は明らかにマリアの求めを拒否しておられるのです。同時にマリアとの間にも一線を引くのです。そのようにして、主は単にマリアの息子としてそこに存在しているのではないことを示されるのです。マリアの子である以前に、神から遣わされた者なのであり、イエス様が「わたしの時」と呼ぶ、ある特別な時へと向かっている御方なのです。</p><p><br /></p><p> ではイエス様は、マリアの願いを退けて、いったい何をなさったのでしょうか。水をぶどう酒に変えるという奇跡を行われたのだ、と今日の聖書箇所は伝えます。「なんだ、結局はマリアの求めに答えられたのではないか」――確かに、結果的に見ればそうです。しかし、この福音書を書いたヨハネは、イエス様がマリアの願いを聞き入れて、祝宴が事なきを得たことに注目しているのではありません。そうではなくて、ヨハネは、この出来事を次のように締めくくっているのです。「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた」(11節)。つまりこれが最初の「しるし」であったこと、そしてイエス様が「栄光を現された」ことに注目し、そのことを伝えようとしているのです。</p><p><br /></p><p>最初のしるし</p><p> 第一に、これは最初の「しるし」であったと聖書は語っています。</p><p><br /></p><p> ある出来事が起こるとき、その出来事の意味がその時には分からないということがあります。イエス様が語られたこと、主が行われたことについても、その意味が当時の弟子たちにすべて理解されたわけではありません。いやむしろ弟子たちは全く理解していなかったことを福音書は隠すことなく伝えているのです。</p><p><br /></p><p> このカナの奇跡もイエス様が為されたことを伝えるひとつのエピソードとして、語り継がれてきたのでしょう。しかし、そのイエス様のなさった奇跡が、実は非常に大事なことを指し示しているのだということを、後になって知ることになったのです。それゆえに、ヨハネはこの出来事を「奇跡」と呼ばずに「しるし」と呼んでいるのです。「しるし」にとって重要なのは奇跡的な出来事そのものではありません。それが何を指し示しているのか、ということなのです。そこで、もう一度、イエス様のされたことを振り返ってみましょう。</p><p><br /></p><p> イエス様は「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われました。その水がめは、わざわざ「ユダヤ人が清めに用いる石の水がめ」であったと説明されています。二ないし三メトレテスとは、大体80から120リットルぐらいです。大変大きな水がめです。当時はどこの家にもこのような水がめがありました。そこに入っている水は、主に清めの儀式のために用いられたのです。厳格なユダヤ人は実にしばしば清めを行ったのです。衣服や器物、手や体など、汚れを受けたと思われるものを洗い清めたのでした。食事のたびに手を清め、時には食事の最中にまで手を清めるのです。</p><p><br /></p><p> このような「清めの儀式を守ること」、あるいはより広く見て「宗教的な戒律を守ること」は、往々にして二つの意識と結びつきます。一つは「恐れ」です。清めを行わないことが災いに結びつくことに対する恐れ。戒律を守らないことに対して罰が下るのではないかという恐れ。戒律を守らないことを他者から非難されることに対する恐れ。人は恐れに駆られて定められたことを行い続けます。そのようにして、戒律や規則にしばられた生活が形作られていきます。</p><p><br /></p><p> もう一つは「誇り」です。戒律を遵守することによって得られる誇り。それはある意味では遵守しない者がいるから保たれる誇りでもあります。律法を持たない異邦人、律法を守らない徴税人や罪人たちを見下すことによって保たれる誇り。清めの儀式などは、まさにその典型であると言えます。一方に汚れた異邦人がいるのです。そして、汚れた罪人たちがいるのです。彼らに接触すると汚れるのです。その汚れを清めの儀式によって落とします。清さを保っている自分がそこにいるのです。そのように自分はあの人たちとは違う清い者であるという意識が、戒律にしばられた生活を支えるのです。</p><p><br /></p><p> そのような戒律にしばられた生活が、命に満ち溢れた喜びとは全く無縁であることは明らかでしょう。その意味において、この「清めに用いる石の水がめ」は、喜びのない宗教的な生活を象徴的に示しているとも言えるのです。しかし、ここで何が起こっているのでしょう。イエス様はその「清めに用いる石の水がめ」の水を、芳醇なぶどう酒に変えられたのです!これはまさにイエス様が何のために来られたかを指し示すためのデモンストレーションであったといえます。</p><p><br /></p><p> ぶどう酒は旧約聖書においてしばしば救いの喜びを表します(アモス9:14)。婚宴も同じです(イザヤ61:10)。この奇跡の業は、主がそのような大いなる喜びをもたらすために来られたことを示します。一生懸命に何かを行っているかもしれないけれど、その根底にあるのは恐怖か優越感でしかない――そのような命のない宗教生活に代えて、命に溢れた救いの喜びをもたらすために、主は来られたのです。清めの水に代えて喜びのぶどう酒をもたらすために!この出来事は、まさに「イエス様は私たちに何をもたらすために来られたのか」を指し示す「しるし」に他ならなかったのです。</p><p><br /></p><p>栄光を現された</p><p> このことは、第二に、イエス様が「その栄光を現された」ことと密接に結びついています。</p><p> 実は、この「清めの儀式」に関しては、イエス様とユダヤ人の間に論争があったことを他の福音書は伝えています。マルコによる福音書の7章をご覧ください。「ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。そして、イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た。――ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある」(マルコ7:1‐4)。そして彼らは、なぜ汚れた手で食事をするのか、と責めるのです。</p><p><br /></p><p> このようなことがあった後、イエス様は弟子たちにこう言われました。「人から出て来るものこそ、人を汚す。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである」(同7:20)。</p><p><br /></p><p> 要するに、人々は汚れを清めるために一生懸命に清めの儀式をするけれども、自らを汚し、人を汚すものは外から来るのではなくて、内から出るのだと主は言っておられるのです。神から見るならば、私たちは内から汚れが出てくるような、徹底的に汚れたものだということです。本当に問題にしなくてはならないのは、人間の内面深くにまで及び、周りに溢れ出て大きく影響を及ぼす人間の罪の問題なのです。そして、人間の罪の問題は、清めの儀式として手を洗うことなど、形式的に戒律を守ることによって、どうにかなるような問題ではないのです。</p><p><br /></p><p> しかし、イエス様は、そのような清めの儀式なし得なかったことを、自ら成し遂げようとしておられたのです。イエス様は、「わたしの時はまだ来ていません」と言われました。そのイエス様が、「時が来た」と言われるとき来るのです。ヨハネによる福音書12章23節において、主はこう言っておられるのです。「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば多くの実を結ぶ」(12:23‐24)。これを語っておられるのは、イエス様が十字架にかかられる直前です。イエス様は《十字架にかかられる時》を「栄光を受ける時」と呼んでいるのです。それはイエス様によって救いが成し遂げられる時だからです。</p><p><br /></p><p> 人を神から引き離す人間の罪は、清めの水によっては取り除かれません。戒律を守ることによっては取り除かれません。水がめの数が完全を表す「七つ」ではなく、それに足りない「六つ」であるのは、その事実を象徴的に指し示していると言えます。しかし、罪のないイエス様が、私たちの罪を贖う犠牲となってくださいました。罪を取り除く神の小羊として自ら贖いの血を流してくださいました。このキリストの犠牲によって、私たちは罪を赦された者として、神との交わりが与えられるのです。神との命の交わりに生きることができるのです。そのようにして、初めて恐怖でもなく、優越意識でもなく、神が注いでくださる愛と喜びが、私たちの生活を形作るようになり、さらには周りにあふれ流れるようになるのです。そうです、主によって清めの水はぶどう酒に変えられるのです。</p><p><br /></p><p> 「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された」とヨハネは書きました。カナでの奇跡は、やがて十字架において完全に現される栄光が、ちょうど雲の隙間から陽が射すように、ひととき垣間見られた出来事だったのです。</p><p><br /></p>shoeichurchhttp://www.blogger.com/profile/05438295989591628531noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-3753053677489926281.post-22864369343906001852024-01-17T20:00:00.001+09:002024-01-17T20:00:00.176+09:00祈祷会用:出エジプト記 5:1~23<p>出エジプト記 5:1-23<br /><br /> ここまでは、すべて主の言われたとおりになっていました。まず、エジプトに帰る途中でアロンに出会ったこと。心配していたイスラエルの民のこと。アロンと一緒に行って語った時、イスラエルの長老たちは信じたのでした。そして主を礼拝した。「主が言われたとおりだ」と思ったに違いありません。すべて主のご計画のもとで事は進んでいることを、モーセは実感していたはずです。<br /><br /> 5章は「その後」という言葉から始まっています。イスラエルの民が信じて、主を礼拝した、「その後」です。ですから、モーセは確信に満ち、意気揚々とファラオの前に出たに違いないのです。自分には偉大なる主が着いていることが分かっています。主は確か言われたのです。「わたしはあなたの口と共にあり、また彼の口と共にあって、あなたたちのなすべきことを教えよう」(4:15)。また、その手にはしるしを行った「神の杖」を持っているのです。<br /><br /> モーセは大胆にもファラオにこう言いました。「イスラエルの神、主がこう言われました。『わたしの民を去らせて、荒れ野でわたしのために祭りを行わせなさい』と」(1節)。これがファラオに告げられた言葉です。これはたいへん重大な内容を含んでいるので、ファラオの反応と事の成り行きを見る前に、まずこの意味するところをしっかりと捉えておきましょう。<br /><br /> 第一に、この言葉はファラオの絶対的な支配に対する挑戦を意味しました。すなわち、エジプトの王ファラオよりもイスラエルの神、主の方が上に位置しているという宣言に他ならないのです。だから上から主がファラオに命じるのです。「荒れ野でわたしのために祭りを行わせなさい」と。そして、ファラオはそれに従わなくてはならない、ということなのです。<br /><br /> これが当時においてどれほど驚くべき宣言であったかを考えなくてはなりません。当時の超大国エジプトの王ファラオは絶対的な権力をもって支配している、神格化された王なのです。ファラオが言うことは絶対であり、イスラエルは従わなくてはならないのであり、その意味でファラオはイスラエルにとって神の位置にいたのです。しかし、4章の終わりにおいて、イスラエルの長老たちはファラオではなく主を礼拝したのです。イスラエルにとってあくまでも神はファラオではなくて主であると彼らは認識したのです。<br /><br /> この世の神に対して、主をその上に位置すると宣言すること。そのような意味において主を礼拝すること。それが主を信じるということなのです。私たちが神を信じる。またキリストを信じるとはそういうことなのです。すなわち、まことの王は誰かという話なのです。<br /><br /> 例えば、日本という国家が「あなたがたは主を礼拝してはならない」と命じたとします。その命令に従って教会が礼拝をやめたら、主がこの世の神の上にあると宣言していることにはなりません。その人、その教会にとっては国家が神であるということになるのです。これから見ていきます出エジプトの闘いは、まさに主をまことの神として信じるのか否か闘いだったのです。この世の神か主なる神か、どちらに従うのかという闘いだったのです。<br /><br /> 第2に、出エジプトの意味がここで明確に表現されています。出エジプトは、ただ苦しめられていたイスラエルの民が、「苦しみから解放された」という出来事ではないのです。彼らが解放されるのは、主を礼拝する民となるためだったのです。ただエジプトという国家の支配から自由になるだけでは、本当の意味で解放にはならないのです。主を第一とし、主を礼拝する民となり、他の一切が彼らにとって神ではなくなったときにこそ、本当の解放があるのです。だから、彼らはエジプトを脱出しただけではなく、その後にはシナイ山に導かれ、十戒が与えられるのです。そして、十戒の第一戒には「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」と書かれているのです。<br /><br /> わたしたちがキリスト者とされたのも同じです。キリスト者となるのは、ただ自分の悩みや苦しみから解放されるためではありません。そうではなくて、主を礼拝する民となるために救われたのです。他の何ものをも神としない、本当に解放された人となるために救われたのです。<br /><br /> さて、この宣言を耳にして、ファラオはどうしたでしょうか。彼は言いました。「主とは一体何者なのか。どうして、その言うことをわたしが聞いて、イスラエルを去らせねばならないのか。わたしは主など知らないし、イスラエルを去らせはしない」(2節)。<br /><br /> 先ほど言いましたように、モーセの言葉はファラオの絶対的な支配に対する挑戦を意味しました。それをファラオも分かっているのです。だから「どうして従わなくてはならないのか」と言うのです。わたしは主などという、どこの馬の骨か分からないような奴には従わないと宣言するのです。<br /><br /> このやりとりが「支配の問題」であるという理解は重要です。誰が支配するのか。イスラエルは誰に仕えるのか。主という名前の神に仕え、ファラオが課した労働であっても、それは一旦置いておいて主を礼拝するのか。それともファラオを従うべき第一とするのか。ファラオとしては、当然、自分が第一なのです。だから、ファラオは次のような行動に出たのです。<br /><br /> 「ファラオはその日、民を追い使う者と下役の者に命じた。『これからは、今までのように、彼らにれんがを作るためのわらを与えるな。わらは自分たちで集めさせよ。しかも、今まで彼らが作ってきた同じれんがの数量を課し、減らしてはならない。彼らは怠け者なのだ。だから、自分たちの神に犠牲をささげに行かせてくれなどと叫ぶのだ。この者たちは、仕事をきつくすれば、偽りの言葉に心を寄せることはなくなるだろう』」(6-9節)。<br /><br /> この仕打ちの大義名分は、「彼らが怠け者である」という主張です。しかし、怠け者であることが問題で、十分な働きをしていないということが問題ならば、こんなことをしないで作らせるれんがの数量を増やしたほうがいいはずでしょう。その方がファラオにとっては利益になるのですから。しかし、ファラオはそうしなかったのです。「わらを与えない」という決定をしたのです。それは何を意味するのでしょうか。<br /><br /> わらはれんがを作る時の「つなぎ」です。これは脱穀した後に残ったものを使うのです。これはれんがに使わなかったら無駄なゴミになるだけなのです。しかし、それを「与えるな」とファラオは言ったのです。これが与えられなかったら、畑に残っている切り残しを自分で抜いて来るしかありません。これはれんが作りよりも辛い作業となるでしょう。明らかにこれは自分に従おうとしない者、命令に服しようとしない者、自分よりも何かを上にする者に対する処罰であり、あくまでも自分が絶対的な支配者であることを体で覚えさせるための処罰なのです。<br /><br /> このように、モーセとアロンが主に従ったために、イスラエルの民は「処罰」され、苦境に立たされることになりました。イスラエルの下役たちはモーセたちを責めて言いました。「どうか、主があなたたちに現れてお裁きになるように。あなたたちのお陰で、我々はファラオとその家来たちに嫌われてしまった。我々を殺す剣を彼らの手に渡したのと同じです」(21節)。<br /><br /> モーセは主の召命を受け止めました。そして、主に従ったのです。しかし、物事はうまく運びませんでした。それは苦しいことであったに違いありません。しかし、最も苦しいことは、自分が苦しむことではなく、誰か他の人を悲しませたり苦しめたりしてしまっている事実だったに違いありません。自分が従ったために、誰かを苦しみに巻き込んでしまう。その時に、自分が召されたことの意味、自分が従ったことの意味が見えなくなってしまうということは起こり得ることでしょう。<br /><br /> 自分が洗礼を受けてまわりがみんな喜んで、幸せになりました。――と、そういうことばかりではありません。洗礼を受けて、親が悲しみました。周りの人たちが怒りました。苦しみました。そういうこともまた起こり得ることなのです。その時に、神が召してくださったことの意味が見えなくなっていますことはあり得ることでしょう。<br /><br /> しかし、その時にモーセはどうしたでしょうか。「主のもとに帰った」と書かれているのです。召命が見えなくなったら主に帰るのです。この悪しき事態をなんとかしようとする前に、主に帰るのです。そして、主に訴えるのです。モーセはそうしたのです。すると主からの答えがありました。「今や、あなたは、わたしがファラオにすることを見るであろう。わたしの強い手によって、ファラオはついに彼らを去らせる。わたしの強い手によって、ついに彼らを国から追い出すようになる」(6:1)。<br /><br /> 「わたしがファラオにすることを見るであろう」と主は言われました。「わたしがやる」と主は言われるのです。実は、このことは既に語られていたのでした。ファラオが拒否することも、語られていたのです。「しかしわたしは、強い手を用いなければ、エジプト王が行かせないことを知っている」(3:19)。神様はご存じなのです。人間には目先のことしか見えませんが、主は先までを見通しておられます。私たちが見ているのは、あくまでも途中経過でしかないのです。<br /><br /> 物事が上手く行っている時、私たちはすべてが主の支配のもとに進んでいると思うかもしれません。しかし、物事が上手く行かない時にも、やはり私たちは主の支配のもとに進んでいるのです。失敗しようが、つまずこうが、主に従って踏み出したのなら、大丈夫なのです。主はあなたを確かに用い、召された目的を実現してくださるのです。<br /><br /></p>shoeichurchhttp://www.blogger.com/profile/05438295989591628531noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-3753053677489926281.post-91075668312519898642024-01-14T20:00:00.001+09:002024-01-14T20:00:00.146+09:00「何を求めているのか」<p>ヨハネによる福音書 1:35-42<br /><br />何を求めているのか<br /> 「その翌日、また、ヨハネは二人の弟子と一緒にいた。そして、歩いておられるイエスを見つめて、『見よ、神の小羊だ』と言った」(35‐36節)。今日の福音書朗読はこのような言葉から始まります。<br /><br /> 「見よ、神の小羊だ」という言葉を二人の弟子がどのように理解していたかはわかりません。しかし、明らかに彼らは従うべき方を指し示されたと理解したようです。話はこのように続きます。「二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った」(37節)。<br /><br /> もともと彼らはヨハネの弟子であったわけですが、なぜヨハネの弟子となったのか、その理由を私たちは知りません。ただ知っているのは、洗礼者ヨハネが当時の社会において大きな影響力を持っていたということです。そのような人物に、ある時からこの二人は従い始めた。少なくともそこには何らかの求めがあったはずですし、期待もあったはずです。<br /><br /> しかし、彼らが期待をかけて従っていた当のヨハネは、自分ではなく他の人物のことを語り続けていたのです。少し前の29節以下には次のように書かれています。「その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである」(29‐30節)。<br /><br /> 今日読まれたのは、そのまた翌日の出来事です。そこで二人は再びイエスを指し示す洗礼者ヨハネの言葉を聞くことになりました。ヨハネはイエスを見つめてこう言うのです。「見よ、神の小羊だ」。彼らはついに意を決してその方に従い始めます。洗礼者ヨハネの弟子からイエスの弟子へ。それはそれ自体、大きな決断であったに違いありません。<br /><br /> しかし、彼らが洗礼者ヨハネではなくイエスに従い始めるとするならば、そこで改めて問われることになるでしょう。――それは何を求めてのことなのか。何を期待してのことなのか。実際、彼らはついて行こうとした時に、イエス様御自身から問われることになりました。「イエスは振り返り、彼らが従って来るのを見て、『何を求めているのか』と言われた」(38節)。<br /><br /> これがヨハネによる福音書に記されているイエス様の最初の言葉です。この言葉がイエス様の第一声として記されているのは、これがヨハネによる福音書を読んでいこうとする読者への第一の問いでもあるからなのでしょう。「何を求めているのか。」そして、この問いは約二千年後にこうしてヨハネによる福音書を読んでいる私たちへの問いでもあるのです。「何を求めているのか。」<br /><br /> さて、私たちは何を求めているのでしょう。私たちは何を求めてここにいるのでしょう。何を求めて教会に来ているのでしょう。何を求めて毎週主イエスの御名によって集まっているのでしょう。何を求めてイエス様について行こうとしているのでしょうか。主は私たちに問うておられます。「何を求めているのか。」<br /><br /> 恐らくこの福音書が書かれた頃の人々にとっても、この問いは大きな意味をもっていたはずです。この福音書が書かれたのは紀元一世紀も終わりの頃です。その頃、キリスト教会はある意味で危機を迎えていました。それまでキリスト教会はユダヤ教の一派として認識されていたのです。「ナザレ派」などと呼ばれていました。しかし、紀元一世紀も終わり近くにさしかかった頃、キリスト教会はユダヤ教社会から完全に切り離されることになりました。イエスがメシアであると公に言い表す者は、ユダヤ人の会堂から追放されることになりました。ユダヤ人から迫害の対象となることが確実になっただけではありません。ローマの公認宗教であるユダヤ教界から追放されるということは、ローマ帝国の迫害の対象にもなり得ることを意味していました。<br /><br /> そのような試練の中で、この福音書は書かれ、読まれたのです。そこで彼らもまた、「何を求めているのか」という主の御言葉を聞いていたのです。イエス様に従っていくとするならば、明らかに困難に直面することになるのです。しかし、それでもなおこの御方に従うとするならば、「何を求めているのか」が深刻な問いとなります。そこで求めているものが本当に大事なものならば、命よりも大事なものならば、迫害を受けてもイエス様に従っていくことになるのでしょう。しかし、何か目に見えるこの世でのご利益を求めているだけならば、迫害や困難の中に置かれたら、不都合が生じたら、イエス様のもとから立ち去ることになるでしょう。イエス様は私たちにも問われるのです。「何を求めているのか」――私たちは何と答えるでしょうか。<br /><br />来なさい。そして、見なさい<br /> さて、「何を求めているのか」というイエス様の問いから始まるやり取りを、福音書は次のように伝えています。「彼らが、『ラビ――「先生」という意味――どこに泊まっておられるのですか』と言うと、イエスは、『来なさい。そうすれば分かる』と言われた。そこで、彼らはついて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見た。そしてその日は、イエスのもとに泊まった。午後四時ごろのことである」(38‐39節)。<br /><br /> その日はこの二人にとって生涯忘れ得ぬ日となったのだと思います。わざわざ「午後四時ごろ」であったと時間まで書かれていますから。しかし、そこで行われた会話自体は、たいした内容ではありません。イエス様がどこに宿泊しているのかを聞いた。イエス様は、「来たら分かるよ」と言った。ただそれだけのことです。そこで起こったことも、たいしたことではありません。彼らはついていって宿泊している場所を見た。そして自分たちも泊まることになった。それだけのことです。なんらドラマチックな出会いが語られているわけではありません。これに比べたら、例えば5章に出てくる38年間の病気が癒された人の方が、よほどドラマチックな出会いをしているとも言えます。<br /><br /> では、なぜこんな他愛もない会話と出来事が記されているのでしょう。――それはこのやりとりが象徴的な意味を持っているからなのです。後に彼らが経験することになる、本当に重要なことを指し示しているからなのです。<br /><br /> ここで繰り返されている「泊まる」という言葉は、実は他のところでは「留まる」あるいは「つながる」と訳されている言葉です。この福音書に繰り返し出てくるキーワードの一つなのです。例えば15章では、イエス様が「ぶどうの木のたとえ」を語られ、言われます。「わたしにつながっていなさい」。そこに繰り返し出てくるのが、この言葉です。<br /><br /> 彼らは尋ねたのです。「どこに泊まっておられるのですか。あなたはどこに留まっておられるのですか」。――さて、イエス様はどこに留まっておられるのでしょう。イエス様は言われたのです。「来なさい。そうすれば分かる」と。だから彼らはついて行ったのです。その日だけではありません。ついて行って、約三年半の間、イエス様と生活を共にすることになるのです。そして、そのイエス様は捕らえられて十字架にかけられて殺されることになります。さらに三日後、復活されたイエス様が彼らの中に立たれて、「あなたがたに平和があるように」と言われたのです。これらすべてを通して、彼らはいったい何を見たのでしょう。<br /><br /> 彼らは、イエス様がどこに留まっているのかを見たのです。「来なさい。そうすれば分かる」とイエス様が言われたとおり、彼らはついて行って、分かったのです。確かに見ることになったのです。イエス様がどこに留まっているのかを。どこに?――父なる神の愛の中に、父なる神との愛に満ちた交わりの中にです。彼らは、父を呼び求め、父を愛し、父に信頼し、父からの溢れる愛をもって敵を愛し、迫害する者のために祈り、父の御心であるならば十字架にさえ向かうその姿――、そこに父と子の揺るぎない交わりを見たのです。さらに復活したキリストの姿の中に、もはや何ものも奪うことのできない、この世の権力も、いかなる暴力も、いかなる災いによっても、死によってさえも奪うことのできない父なる神との交わりを見たのです。すなわち、彼らは永遠の命を見たのです。<br /><br /> そして、イエス様についていった彼ら自身はどうなったのでしょうか。イエス様がおられるところに、父なる神との交わりに、父なる神の愛の中に、彼らもまた留まる者となりました。あの日、あの最初の日に、イエス様と一緒に泊まったように。それが本当の意味で現実となったのです。 <br /><br /> あの最後の晩餐において、イエス様は彼らにこう言われました。「わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる」(14:2‐3)。そうです、イエス様がいるところに、彼らもまたいることになったのです。永遠に神の愛の内に!<br /><br /> そして、そのことが実現するために、イエス様はヨハネが言ったとおり、「神の小羊」すなわち「世の罪を取り除く神の小羊」ともなられたのです。アンデレはあの翌日、言いました。「わたしたちはメシアに出会った!」そのメシアは、洗礼者ヨハネが最初に言ったように、「世の罪を取り除く神の小羊」に他なりませんでした。それは彼らもまた父の愛の中に留まるためでした。<br /><br /> 罪のないイエス様が父なる神との愛の交わりの中に留まれることは、ある意味で当然のことです。しかし、罪人である私たちが、なおも神を父と呼び、父の愛の内に留まり、父に愛されている子供たちとして人を愛して生きることができるとするならば、それは決して当たり前のことではありません。私たちの罪が赦され、罪の負い目が取り除かれてこそ、私たちはイエス様のいるところにイエス様と共に留まることができるのです。だからこそ、イエス様は父なる神との交わりを見せてくださっただけでなく、自ら「世の罪を取り除く神の小羊」となり、私たちの罪を贖う犠牲となってくださったのです。私たちに見せてくださったものを私たちに与えるためです。溢れる神の愛の内にある永遠の交わり、永遠の命です。<br /><br /> 主は問われます、「何を求めているのか」。<br /><br /></p>shoeichurchhttp://www.blogger.com/profile/05438295989591628531noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-3753053677489926281.post-13080113015548022322024-01-10T20:00:00.001+09:002024-01-10T20:00:00.355+09:00祈祷会用:出エジプト記 4:18~31<p>出エジプト記 4:18-31<br /><br /> これまで流れを振り返っておきましょう。そこに書かれていたのは、ミディアンで羊飼いをしていたモーセに主が現れて、「今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ」(3:10)と命じたという話でした。燃える柴の中から主が語り掛けられた。それは神からの召命でした。神は目的をもって人を召されます。神が召しておられるのなら、人間はただそれに対して「はい」と答えたらよいのです。神のなさることは完全だからです。しかし、人間は召してくださる神の方に思いが向かなくて、いつも自分の側ばかりを見ているのです。モーセも言いました。「わたしは何者でしょう」。<br /><br /> そこで持ち出されるのが、まずは「わたしの経験」です。そして、次に「わたしの能力」です。わたしの経験によればこれは無理だ。わたしの能力を考えたら、これは無理だ。そう人間は答えるのです。モーセは言いました。「ああ、主よ。わたしはもともと弁が立つ方ではありません」(10節)。<br /><br /> 「弁が立つ方ではありません」と言いますが、では弁が立ったらエジプトからイスラエルの民を連れ出せるのか?そうではないでしょう。もともと人間の力ではできないことなのです。しかし、神がさせてくださるからできる。神様が用いられるからできる。大事なのは神様なのです。だからもう一度、主はモーセの心を御自分に向かせるのです。「一体、誰が人間に口を与えたのか」と。本当に重要なのは、自分の口ではなくて、口を与えた神なのです。<br /><br /> ついにモーセは言い返す言葉を失い、あげくの果てにこう言います。「ああ主よ。どうぞ、だれかほかの人を見つけてお遣わしください」(13節)。しかし、他の人で良いならば他の人をはじめから召しているのです。神が召される時、それはその人でなくてはだめなのです。それが召命というものなのです。これが分からないと神様は怒ります。主は「ついに、怒りを発した」と書かれています。<br /><br /> しかし、神は怒るのだけれど、モーセの気持ちを汲んでアロンを備えてくださいます。実に神は忍耐強く人を召されることが分かります。神はあくまでも「あなたをあなたとして」召そうと忍耐をつくされるのです。他の人ではだめだからです。<br /><br /> そして、ついにモーセは神の召命を受け取ります。そこからが今日の箇所です。モーセは主の前で一旦脱いだ履物を再び履いてしゅうとのエトロのもとに帰ります。モーセは言いました。「エジプトにいる親族のもとへ帰らせてください」と。彼はエジプトに向かうつもりで具体的に行動を開始するのです。そして、モーセが妻子をロバに乗せエジプトに帰ろうとする時の姿を聖書はこう記しています。「モーセは、妻子をろばに乗せ、手には神の杖を携えて、エジプトの国を指して帰って行った」(20節)。<br /><br /> 彼が手にしていた杖は、それまで羊を追うために用いていたものでした。それ自体は何の変哲もないただの杖です。戦いの武器にすらなりません。しかし、モーセが神の召しに答えて従うときに、そのただの杖でしかないものが「神の杖」になるのです。<br /><br /> 神の杖を手にしたモーセに主は言われました。「エジプトに帰ったら、わたしがあなたの手に授けたすべての奇跡を、心してファラオの前で行うがよい。しかし、わたしが彼の心をかたくなにするので、王は民を去らせないであろう。あなたはファラオに言うがよい。主はこう言われた。『イスラエルはわたしの子、わたしの長子である。わたしの子を去らせてわたしに仕えさせよと命じたのに、お前はそれを断った。それゆえ、わたしはお前の子、お前の長子を殺すであろう』と」(21-23節)。<br /><br /> ここで非常に印象的なのは「奇跡をファラオの前で行うがよい。しかし、わたしが彼の心をかたくなにする」と書かれている部分です。実は、「心をかたくなにする」という言葉は、この後にも繰り返し出て来きます。ある意味では分かりにくい部分でもあります。<br /><br /> ここに語られているのは、一言で言えば「神の主権」というテーマです。聖書の神は天地の造り主であり、全能の神であり、絶対的な主権者です。何事が起こったとしても神の想定外ではあり得ない。何事が起こったとしても、それは神が無力であるゆえに神の意に反して起こったのではない。神が失敗したからこうなったのではない。そのようなものの見方が徹底しているのです。<br /><br /> それはある意味では我々異邦人には分からないけれど、ユダヤ人が読んだらよくわかるとも言えます。この後の物語では、ファラオが神に逆らってイスラエルを出させまいとする。神の計画はすんなりとは実現しないのです。かなり手間取るとも言えます。しかし、それは神が無力だからではない。神の想定外ではない。そのことが前もって語られているのです。<br /><br /> しかし、ここには注意が必要です。まずモーセとアロンが神の言葉を告げるのです。その言葉にファラオは逆らうのです。その聞き従おうとしないファラオの心を主がかたくなにされるという話です。奇跡を目の前に見ても民を去らせないほどにかたくなにされるのです。神に従おうとしているのに、神があえてその人を神に逆らう者とし、その人をかたくなにしたという話ではないのです。<br /><br /> それからここにはもう一つ分かりにくい話が出て来きます。24節以下に書かれている小さなエピソードです。「途中、ある所に泊まったとき、主はモーセと出会い、彼を殺そうとされた」(24節)。モーセを殺してしまったら、計画が台無しではないですか。モーセでなくてはならないからモーセを召したのに、なぜそのモーセを殺さなくてはならないのでしょう。神が自ら明らかにされたご計画を、どうして自分自身で妨げるようなことをするのでしょう。<br /><br /> しかし、神が自らの計画を自分で妨げるようなことをされる話はいくつも聖書に出てきます。皆さんはどのような場面を思い浮かべますか。すぐに思い起こされるのは、例えばアブラハムの物語でしょう。主はアブラハムを召して、「あなたを大いなる国民とする」と言われました。しかし、子供が生まれないままアブラハムもサラも年老いていきました。神の奇跡として生まれたイサクを、今度は焼き尽くすいけにえとして献げよと主は命じられました。アブラハムからすれば、明らかにされた計画と逆行するようなことを神がなさっているようにしか見えないでしょう。しかし、そのような時こそ、そこには深い神の配慮があることを私たちは知らされるのです。<br /><br /> 恐らく実際に起こったことは、旅の途中でモーセが死ぬほどの病気になったという類のことだろうと思います。神の主権という視点からすれば、それは神御自身が殺そうとしていたと表現してもよいだろうと思います。しかし、そこで一つのことが起こります。ツィポラが息子に割礼をほどこしたのです。どうしてモーセは息子に割礼をほどこしていなかったのか。一つには妻が異邦人だからでしょう。そして、ミディアンに逃れたモーセは、ある意味では既にヘブライ人としてのアイデンティティを捨てていたとも言えますから、恐らくツィポラとは一人のエジプト人として結婚したのです。<br /><br /> しかし、モーセは今や再びエジプトにいるヘブライ人のもとに行こうとしているのです。モーセはヘブライ人として彼らの前に立たねばなりません。その時、息子が無割礼であることは大きな妨げになるかもしれません。そうでなくても、モーセがイスラエルの民をエジプトから導き出すとするならば、モーセとその家族、またその子孫はイスラエルの民として生きて行くことになるのです。当然、息子のゲルショムは割礼を受けていなくてはなりません。ツィポラはそれを良しとするでしょうか。<br /><br /> しかし、モーセが死にそうになったとき、妻はどういうわけか割礼のことに思い至ったのです。モーセの神、ヘブライ人の主に従わなくてはと思い至ったのかもしれません。彼女は息子のゲルショムに割礼をほどこしました。「血の花婿です」の意味は依然として判然としませんが、それはさておき、この一連の出来事を通して、モーセはエジプトのヘブライ人に遣わされるために備えられたと言うことはできるでしょう。<br /><br /> そして、アロンと合流し、いよいよイスラエルの人々のもとに向かいます。長く別れていたアロンに、エジプトへと向かう旅の途中で偶然出会うということは普通は起こり得ないことです。しかし、モーセには既にこのことが告げられていました。神が怒りを発した時です。「あなたにはレビ人アロンという兄弟がいるではないか。わたしは彼が雄弁なことを知っている。その彼が今、あなたに会おうとして、こちらに向かっている。あなたに会ったら、心から喜ぶであろう」(14節)<br /><br /> 主は既にアロンに向かって「さあ、荒れ野へ行って、モーセに会いなさい」(27節)と命じておられたのです。そのようにして、実際に旅の途中でアロンに出会った時、「まさに主が言われたとおりだ」と思ったに違いありません。そして、心配していたイスラエルの民に関することについても同じことが言えます。モーセはかつての苦い経験から、イスラエルの人々が自分たちを簡単に受け入れてくれるとは思えなかったでしょう。しかし、それでもアロンと一緒に言ってアロンが語った時、「民は信じた。また、主が親しくイスラエルの人々を顧み、彼らの苦しみを御覧になったということを聞き、ひれ伏して礼拝した」(31節)ということが実現したのです。モーセは思ったに違いありません。「まさに主が言われたとおりだ」。<br /><br /> そのとおり、神のご計画と救いの御業は、人の思いを超えて進んでいきます。そこで重要なのは、ただ私たちが神の召しに応え、従順に歩もうとすることです。その時に、手にある何の変哲もない杖さえも神の杖となるのです。<br /><br /></p>shoeichurchhttp://www.blogger.com/profile/05438295989591628531noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-3753053677489926281.post-53012653779279005392024-01-07T20:00:00.005+09:002024-01-07T20:00:00.192+09:00「新たな力を得て、鷲のように翼を張って」<p>イザヤ書 40:25-31<br /><br /> 新年最初の主日礼拝の第一朗読において、私たちは次のような御言葉を与えられました。「主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない」(31節)。<br /><br /><b>待てなくなるとき</b><br /> ここに「望みをおく」という言葉が出てきますが、そのように訳されているのは「待つ」という意味の単語です。主を「待つ」のです。「待つ」ということは信仰生活の大事な要素です。私たちは諦めないで、望みを捨てないで、「待つ」ことのできる人になりたいものです。そのような人こそ、天からの力を得るのです。まだ状況が変わらなくても、現実には何も起こっていないように見えても、主を待つことのできる人は新たな力を得るのです。<br /><br /> しかし、このような預言者の言葉が伝えられているというのは、もう一方で「待つ」ということが時として非常に困難だからでしょう。確かに主に祈り続け、訴え続けてもなお事態が一向に変わらないとき、待つことが困難になるのです。<br /><br /> 時は紀元前6世紀、イスラエルの民がバビロニアにて捕囚となっていた時代です。既に捕囚生活が40年以上も続いていました。すぐにも祖国に帰還することができるという希望に燃えていた熱狂の炎もすっかり消えてしまいました。期待をもって未来を見つめる熱いまなざしはもはやそこにはありませんでした。もはや待ち望むべきものなど何もありませんでした。27節に引用されているのは、当時の人々の口に上っていた嘆きの言葉です。「わたしの道は主に隠されている」「わたしの裁きは神に忘れられた」。<br /><br /> 「わたしの道は主に隠されている」とは、わたしがどんな苦しく辛い道を歩んでいても、主は関心をもって見ていてはくれない、ということです。それは長く続く捕囚生活における実感だったのでしょう。天高いところに鎮座ましましてそっぽを向いている神。もしかしたら私たちもそのような神のイメージを思い描いてしまう時があるかもしれません。<br /><br /> 「わたしの裁きは神に忘れられた」も同じことです。「わたしの裁き」は他の訳では「わたしの訴え」「わたしの権利」などと訳されています。どんなに神様に訴えても、どんなに権利が侵害されていても、全く神様は関心をもってくださらない。まさに忘れ去られているとしか思えない。そのように感じる時がもしかしたら私たちにもあるかもしれません。<br /><br /> そのように神への不信がつのり、待ち望むことができなくなってきますと、内側から弱ってくるのです。29節には「疲れた者」が出てきます。「勢いを失っている者」が出てきます。必ずしも病弱な人や年老いた人の話ではありません。「若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れる」ということが書かれています。<br /><br /> 「待つこと」ことができなくなる。未来に何の新しいことをも期待できなくなる。そのような時、年若い者さえも倦み、疲れ、つまずき倒れるようになります。それは私たちも良く知っていることです。本当の疲れは置かれている状況から来るのではありません。待つことができなくなった、その心の中から来るのです。<br /><br />「なぜ」という神の問いかけ<br /> しかし、そのような者たちに対して、神が預言者を通して問いかけるのです。「ヤコブよ、なぜ言うのか。イスラエルよ、なぜ断言するのか」と。<br /><br /> この「なぜ」という言葉は聖書に繰り返し出てきます。人間の言葉として、祈りの言葉として、「なぜですか」という人間の側からの神への問いかけとして出てくるのです。これは詩編の中の「嘆きの歌」と呼ばれるものに特徴的な言葉です。例えば、良く知られているのは詩編22編でしょう。「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか」(22:2)という言葉から始まる詩編です。イエス様が十字架の上で口にされた詩編の言葉です。恐らく人々が口にしていた嘆きの言葉も完全な形に再現するならば、こうなるのでしょう。「神よ、なぜわたしの道はあなたに隠され、顧みられないのか」「神よ、なぜわたしの裁きは忘れられたのか」。<br /><br /> そのように嘆きの中で「なぜですか」と問いかけることは私たちにもあると思いますけれど、それは大昔の信仰者たちも皆、経験してきたことなのです。私たちがそのような思いを抱いたとしても、それは何ら特別なことではないのです。そして、嘆きを嘆きとして口に出し、「なぜ」という問いを神に向けることは、時として大事なことなのです。<br /><br /> しかし、私たちの側から神に向かって「なぜ」と問うだけで終わらせてはならないのです。嘆くときは大いに嘆いたらよいと思いますが、ただ自分の嘆きに留まっていてはならないのです。そこに留まるならば、力を失っていくだけだからです。弱っていくだけだからです。神の前に嘆きを注ぎ出したなら、今度はそこで神の言葉を聞かなくてはならないのです。今度は主が問い返されるのです。「なぜ」と。「ヤコブよ、なぜ言うのか。イスラエルよ、なぜ断言するのか」と。<br /><br /> 主の問いかけは恵みであると言えます。主の「なぜ」は私たちを不信仰と嘆きの穴から引き上げるための問いかけであるからです。主が「なぜそうしているのか」と問われるのは、そうする必要がないことを主は知っておられるからです。「なぜ嘆いているのか」という問いは、「もう嘆く必要はないではないか」という語りかけでもあるのです。<br /><br /> 「ヤコブよ、なぜ言うのか、イスラエルよ、なぜ断言するのか、わたしの道は主に隠されている、と、わたしの裁きは神に忘れられた、と」(27節)。ならば、もはやそのように語り、断言し、嘆き続けている必要はないのです。どうしてか。預言者を通して主はさらにこう語られるのです。「あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。主は、とこしえにいます神、地の果てに及ぶすべてのものの造り主。倦むことなく、疲れることなく、その英知は究めがたい」(28節)。<br /><b><br />聞いたことはないのか</b><br /> 「あなたは知らないのか、聞いたことはないのか」と主は問い続けます。そうです。本当は既に知らされていることがあるのです。既にこれまで聞いてきたことがあるはずなのです。私たちの主がどのような御方であるかを既に知らされているのです。ならば思い起こさなくてはならないのです。<br /><br /> 今自分が感じていることに留まっている限り、嘆きの中に留まり続けることになるでしょう。「わたしの道は主に隠されている」と感じているのですから、そこに留まっているかぎり、嘆き続けることになるのです。しかし、主が既に御自身について語ってこられたことがあるのです。主は、多くの言葉をもって、主が「とこしえにいます神」であり、「地の果てに及ぶすべてのものの造り主」であることを既に語っていてくださったはずなのです。今こそ何を聞いてきたのか、何を知らされてきたのかを思い起こさなくてはならないのです。<br /><br /> 「主は、とこしえにいます神」(文字通りには「永遠の神」)とありますが、そこで重要なのは「永遠の昔」でも「永遠の未来」でもありません。「永遠から永遠まで常に」ということです。すなわち、「今ここにおいても」ということです。すなわち、「わたしの道は主に隠されている」と思える今この時も、「わたしの裁きは神に忘れられた」と思える今この時も、ということです。<br /><br /> 神不在と思える現実においても、実は不在などではなく、「その英知は究めがたい」と語られているその英知をもって神は支配しておられるのです。実際、あの時もそうでした。キリストが不当な裁きによって十字架にかけられたその時においてさえ、全地が暗黒に包まれたあの時でさえ、神は全てを支配しておられたのです。そして、実はその時においてこそ、最も大いなる救いの御業が成し遂げられていたのです。確かに「主は、とこしえにいます神」です。<br /><br /> そして、神は「地の果てに及ぶすべてのものの造り主」です。実はこれは意訳であって、もともとは「地の果ての造り主」と書かれているのです。しかし、もちろん地の果てを問題にしているのではありません。どこか遠いところにおいてではなく、「ここにおいても」ということです。地の果ての造り主であるならば、今目にしている目の前の世界もまた、主の手の内にあるのだ、ということです。この世界の諸々の問題も、人間の手に負えない諸々の課題も、全て神が造られた世界の中でのことです。主の手が及ばないことは何一つないのです。<br /><br /> そして、私たちが知らされていること、聞かされていることは、さらには既に救い主が到来したこと、そして救いの御業を成し遂げて、復活されて、やがて完全な救いをもたらすために再びおいでになることにまで及んでいるのでしょう。「あなたは知らないのか、聞いたことはないのか」と問われるなら、私たちは答えることができるはずです。「主よ、確かに知らされております。聞いております」と。<br /><br /> ならば、私たちはそこから再びその御方に思いを向けることができるはずです。私たちが知らされている御方、聞かされている御方に心の目をしっかりと向けることができるはずです。私たちは待ち望むべき未来を持っているのです。<br /><br /> 私たちが不信と嘆きの中から再び立ち上がり、主に望みをおくならば、与えられている約束の言葉はこれです。「主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない」。神は私たちに力を与えてくださいます。私たちは天からの力を得るのです。まだ状況が変わらなくても、現実には何も起こっていないように見えても、主を待つことのできる人は新たな力を得るのです。私たちは主に望みをおく人として、主に望みを置く神の民として、この新しい年を共に歩んでまいりましょう。<br /><br /><br /></p>shoeichurchhttp://www.blogger.com/profile/05438295989591628531noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-3753053677489926281.post-70106230259305533932023-12-31T20:00:00.001+09:002023-12-31T20:00:00.143+09:00「そのままでいたい人、変わりたい人」<p>マタイによる福音書 2:1‐12<br /><br /><b>喜びにあふれた人たち</b><br /> 「学者たちはその星を見て喜びにあふれた」。そう書かれていました。それは単に長旅の目的地にやっと着いたという程度の喜びではありませんでした。考えてみてください。メシアを訪ねて長い旅をしてやっと辿り着いたのは何の変哲もない家だったのです。しかも、ユダヤ人の王としてお生まれになった方を訪ねてはるばるやってきた彼らがそこで対面したのは、なんとも平凡な庶民の親子だったのです。<br /><br /> 本来ならば期待外れもいいところではありませんか。目的地にやっと着いたという程度の喜びなら、簡単に吹き飛んでしまったに違いありません。しかし、彼らに与えられた喜びはそのようなものではありませんでした。ここに短く描かれているこの学者たちの行動がそのことをはっきりと物語っています。<br /><br /> まず聖書が伝えているのは、彼らがひれ伏して幼子を拝んだということです。しかも、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げたと言うのです。ページェントの一場面としては結構ですが、現実的にはどう考えてもおかしな話です。<br /><br /> 彼らは占星術の学者たちです。占星術師というのは、古代オリエントの世界ではけっこう高い地位にあったのです。星の運行が人間の運命を支配していると考えられていた世界で、その運命を読み解くことができる人たちというのは、相当な支配力を持っていたのです。彼らが対外的にも力を持っていたことは、簡単にヘロデ大王に謁見できたことからも分かります。そんな彼らが、ごく普通の幼子を前にしてひれ伏して礼拝したというのです。どう考えてもおかしな話です。<br /><br /> さらに言うならば、彼らは夢のお告げに従って、ヘロデとの約束を反故にして、別の道を通って帰ったというのです。地域の支配者からの依頼を足蹴にするような無礼なことは、通常はしないのです。ヘロデが相当怒ったことからも分かります。一方、ヘロデの所に帰っていたならば、相当に優遇されたに違いないのです。多くの褒美ももらえたことでしょう。なにしろヘロデが欲しがっている情報を手にしているわけですから。しかし、彼らは単純に夢のお告げに従って別な道を通って挨拶もせずに帰ってしまったのです。<br /><br /> そもそも星に導かれて来たという話自体が現実離れしているのですが、ある意味ではそれ以上にあり得ない彼らの行動がここには描かれているとも言えます。そのすべては、一つのことを指し示しています。そこに書かれている「喜びにあふれた」というその喜びは、単にこの世から得られる喜びではないということです。通常ではあり得ないような行動を取らせてしまうほどに、それほどに特別な、天からの喜びに他ならないということです。<br /><br /> そして、この東方からの学者たち。なぜここに出て来るかと言えば、これはやがてイエス・キリストを信じる異邦人たちの先駆けなのです。ユダヤ人ではない彼らがキリストを礼拝したように、やがて後の時代には、ユダヤ人以外の異邦人がキリストを礼拝するようになるのです。そして、実際、その中に私たちもいるのです。その意味で、彼らの姿は私たちの姿でもあるのです。私たちもこの喜びにあずかるようにと召されているのです。<br /><br /> そうしますと、一年の最後の日に身を置いて、改めてこの一年間を振り返って考えさせられます。どうでしょう。私たち、この世のありきたりの喜びではなく、どれほど天からの喜びにあずかってきたでしょう。どれほど天からの喜びに満たされて行動してきたでしょう。<br /><br /> 想像してみてください。この学者たちがこの世のことしか考えられない人たちであったら、どうなっていたでしょう。星によって一つの家が示された時に、彼らが家の見窄らしさにしか目がいかなくて「なんだ、これがメシアの家か、貧相だなあ」と言っていたらどうでしょう。あるいはマリアと幼子を見て、「こんな平凡な家の子に黄金、乳香はもったいない」と呟いていたらどうでしょう。この場面が台無しだと思いませんか。<br /><br /> しかし、皆さん、現実には私たちは案外そんなことばかりしているものです。神様のなさっていることを考えず、この世のことにしか目がいかなくて、この世の人がすることにしか目がいかなくて、腹を立てたり、失望したり、不平を言ったり、いいことがあって喜んでみたと思えば、次の日にはその喜びが完全に吹き飛ばされていたり。そんなことばかりしているのではないでしょうか。<br /><br /> そのような私たちだからこそ、今日の聖書箇所には、天からの喜びに溢れた人たちの話が語られているのです。この世から得られるもののことばかり考えて新年を迎えるのではなく、改めて天からのものを求めようではありませんか。天からの御業、神の御業に目を向けることができる生活、天からの喜びにあずかる生活を求めようではありませんか。<br /><br /> 天からの喜びに満たされているならば、長い旅路の果てに貧相な家が待っているような、そんな報われない労苦も、決して嘆きや呟きにはならないはずなのです。そのように喜びに満ち溢れる心をもって、持てるものを主に献げ、心から主を礼拝することができる私たちとなることを、求めていこうではありませんか。<br /><br /><b>具体的な行動に移すこと</b><br /> そのために重要なことが、この場面から見えてきます。それは、求めを心の中に留めておくのではなくて、具体的な行動に移すことです。彼らは、メシアについて“関心を持っている人”として、東方に留まっていることもできたのです。実際に、彼らは関心をもって色々と調べることはできたはずです。彼らはありとあらゆる書物に当たり、メシアの星について調べることもできたことでしょう。また、バビロニアには多くのユダヤ人たちが居住していましたから、ユダヤ人の王として到来するメシアについても彼らを通じて言い伝えを調べることはできたでしょう。相変わらず、占星術師としての生活を続けながら、そのまま関心を持つだけで一生を送ることもできたのです。<br /><br /> しかし、彼らはそこに留まりませんでした。彼らは実際に立ち上がって旅に出たのです。最初の一歩を具体的に踏み出したのです。長い旅も最初の小さな一歩から始まります。それは自らが決断して踏み出すのです。<br /><br /> そう言えば、聖書の中には、実際に旅立った人の話がたくさん出てきます。アブラハムもそうでした。モーセに導かれたイスラエルの民もそうでした。イエス様のたとえ話の中の「放蕩息子」もそうです。放蕩息子は自らの悲惨な生活の中で悩んでいただけではありませんでした。「彼はそこをたち、父親のもとに行った」(ルカ15:20)と書かれているのです。ある東方教会の指導者がこんなことを書いています。「信仰は考えることによってではなく、実行することによって得られる。言葉や考察ではなく、体験が神を教えてくれる。窓を開けない限り、新鮮な空気は部屋に入れられない。日光浴をしない限りは、肌は黒くならない。信仰を得ることも、同様なことである。教父たちの言っているように、ただ楽に腰かけて待っているだけでは、私たちは目標に達することはできない。」――なるほど、その通りです。<br /><br /> 間もなく新しい年を迎えます。来る年は、具体的な一歩一歩を大切にしていきましょう。神を求める思い、キリストを求める思い、天からのものを慕い求める思いを、具体的な形にしていきましょう。彼らの具体的な旅の先に大きな喜びが待っていたように、私たちが与るべき大きな喜び、天来の喜びも、私たちの具体的な一歩一歩の先にあるのです。<br /><br /> ところで彼らを導いたのは東方で彼らが見た一つの星でした。もちろん、星が導くはずはないので、星を用いて導いたのは神様です。しかし、どうやら彼らは神の導きの星を見失ってしまったようです。エルサレムに来て彼らは尋ねました。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」(2節)。尋ねているところを見ると、この時には星は見えなくなっていたのでしょう。<br /><br /> しかし、このことによってヘロデやエルサレムの人たちにも、メシアの誕生のことが伝えられることになりました。その結果、ヘロデやエルサレムの人々とあの東方の学者たちとの対照的な姿が浮き彫りにされる形となったのです。<br /><br /> 地図で見ますと、エルサレムからベツレヘムは、さほど離れてはおりません。せいぜい10キロメートルぐらいの距離です。占星術の学者たちが、今からそこに向かおうとしていることも知っているのです。しかし、律法学者たちは彼らに同行しようとはしませんでした。もちろん、ヘロデもです。メシアの誕生について聞いた時、ヘロデは不安に思ったと書かれています。エルサレムの人々も同様でした。しかも、ヘロデは不安になっただけでなく、そのメシアを捜し出して殺そうとさえ企んでいるのです。<br /><br /> 彼らはなぜ同行しなかったのか。なぜ不安になったのか。なぜメシアを抹殺しようとしたのか。なぜですか。理由は単純です。そのままでいたいからです。変わらないでいたいからです。今いる状態に留まりたいからです。結局、人を天から遠ざけ、天来の喜びから遠ざける最大の妨げは、「そのままでいたい。変わらないでいたい」という思いなのです。<br /><br /> ですから逆に言えば、「変わりたい」と思えるようになることは、喜ばしいことなのです。様々な試練によって、あるいは苦しみを経てでも、「変わりたい。このままでいたくない」と思うようになったとしたら、それは幸いなことなのです。そこから本当の旅は始まるからです。<br /><br /> 東方の学者たち、一時的に星を見失ったのかもしれません。迷ったかもしれません。しかし、彼らは全く心配する必要はありませんでした。ヘロデと違いますから。彼らは今いるところに留まりたいと思っていませんから。星を見失っても、迷っても、とにかくキリストを求め続けて、また次の一歩を踏み出そうとしているかぎり大丈夫なのです。そういう人に対しては、再び星が現れるのです。導きが現れるのです。神様は必ず導いてくださる。彼らが歩み出すと星は先だって進んでいきました。そして、ついに彼らは大きな喜びに溢れたのです。<br /><br /> 来る2024年。私たちが今まで味わったことのないような、天からの大きな喜びにあずからせていただきましょう。メシアのもとでしか味わうことのできない、大きな喜びにあずからせていただきましょう。求め続けましょう。そして、求めを具体的な形にしましょう。長い旅も小さな一歩から始まります。具体的な第一歩を主に導いていただきましょう。<br /><br /><br /></p>shoeichurchhttp://www.blogger.com/profile/05438295989591628531noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-3753053677489926281.post-27772450423983761892023-12-24T20:00:00.002+09:002023-12-24T20:00:00.156+09:00「何故クリスマスを祝うのか」<p>ヨハネによる福音書 1:1‐14<br /><br /> クリスマス、おめでとうございます。しかし、本当は、クリスマスは明日です。私どもの教会では一足早く、こうしてクリスマスを祝っているわけです。しかし、明日にせよ、今日にせよ、祝うとするならば、その理由が分かっていなくてはなりません。ということで今日の説教題は「何故クリスマスを祝うのか」となっています。<br /><br /> 何故祝うのか。私たちはイエス・キリストのいわゆる「お誕生日」を祝っているのではありません。そもそも12月に誕生したのかどうかも分かりません。多分違うと思います。また、仮に12月25日に生まれたとしても、「その日に」生まれたこと自体が、私たちに直接関係あるとも思えません。<br /><br /> では何故クリスマスを祝うのか。その一つの答えは、今日の福音書朗読に語られています。ヨハネによる福音書1章14節では、その答えがこう表現されています。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」。<br /><br />肉であるということ<br /> 「言」とはキリストのことです。その直後に「父の独り子」と表現されています。父なる神の独り子であるキリストです。そのキリストが、神の御子が、人間となってくださった。「言が肉となった」とはそういうことです。<br /><br /> ならば、「人間となった」と書けば、もっと分かりやすいでしょう。そうではなくて、わざわざ「肉となった」と表現されているのはなぜでしょう。実は、聖書が「肉」という言葉を用いる時、それはただ単に生物学的に「人間である」ということではないのです。もっと生々しい、人間の現実――まことに罪深い人間の現実が表現されているのです。<br /><br /> それは、私たちが毎日、ネットやテレビのニュースでいやというほど見聞きしている現実です。血を分けた子供が親を殺し、親が子供を殺し、妻が夫を殺し、夫が妻を殺し、一つの国が正義の名のもとに別な国を破壊し、一つの民族が他の民族を蹂躙し、家族を殺された人々の怨念は報復テロとして形を取る。すべてアダムとエバから今日まで繰り返されてきた罪ある人間の現実です。「肉」であるとはそういうことです。<br /><br /> それはニュースの中だけの話ではありません。私たちが日々経験していることもみな、同じ地平にあるのです。憎み、憎まれ、恨み、恨まれ、ねたみ、ねたまれ、裏切り、そして裏切られ、傷つけ、そして自ら傷つきながら生きている。人間とはそういうものなのだ、なんとか自分の心と折り合いをつけながら生きている。これが「肉」であるということなのでしょう。<br /><br /> それは、本来の命の輝きを失ってしまっている人間の姿であると言うこともできます。「神は御自分にかたどって人を創造された」(創世記1:27)と聖書には書かれています。神の栄光を映し出すような存在、それが本来の人間の姿です。しかし、現実にはそうなっていない。その意味で、そのような「肉」である人間社会の現実を、これでもか、これでもかとありのままに描いているのが聖書であるとも言えます。<br /><br /> その聖書の中に「詩編」というものがありまして、そこである人が次のように祈っています。「深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。主よ、この声を聞き取ってください。嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください」(詩篇130編)。「深い淵の底」それは「深い深み」という言葉です。それは這い上がれないほどの深みにはまっている姿です。それは何も特別な人ではありません。人間が「肉」であるとはこういうことなのです。<br /><br /> もちろん皆が皆、叫んでいるわけではありません。深い淵の底にいることを忘れさせてくれるものはいくらでもありますから。しかし、人は生きている限り、深い淵の底にいるという事実と向き合わざるを得ない時が来るものです。それは人生の最後であるかもしれませんし、その途上であるかもしれません。いずれにせよ深き淵の底にいる自分を見出したとしても、そこから到底這い上がることができない。あまりに深いところにいる。それが「肉」であるということです。<br /><br />言は肉となって<br /> しかし、聖書はそのような「肉」である私たちの現実をありのまま語るだけではなく、もう一つのことを語っているのです。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」と。いわばキリストが、その深い穴の中に下りてきてくださったのです。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」とはそういうことです。高いところから、「そんなところにいてはならない。上がってきなさい」と命じているのではないのです。そうではなくて、その御方は深い穴の底に下りてきてくださったのです。穴の底で泥だらけになっている私たちと共に泥だらけになってくださったのです。私たちを救うために、あえて泥の中に沈んでくださったのです。「言が肉になって、わたしたちの間に宿られた」とはそういうことです。<br /><br /> そして、ヨハネは言葉を継いで次のように語ります。「わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」ヨハネはキリストの弟子として、約三年半の間、寝食を共にしました。そのヨハネはその御方を思い起こしてこう語るのです。「わたしたちは、その栄光を見たではないか」と。父の独り子としての栄光を見たということは、言い換えるならば「神を見た」ということです。<br /><br /> ヨハネはそのイエスというお方の中に神を見たのです。この世界の繁栄と栄華を手にした姿の中にではありません。人間と同じ穴の底で泥だらけになってくださった姿の中に神を見たのです。この世にある一人の人間として、罪に悩む者の傍らに立ってくださった、その御方の中に神を見たのです。病に苦しみ、希望を失っている者の傍らに立ってくださった御方の中に神を見たのです。愛する者を亡くして嘆き悲しむ者と共にたたずみ、一人の人間として涙を流された、そういう御方の中に神を見たのです。<br /><br /> そして、最終的に罪人の一人として十字架にかけられた方の内に、ヨハネは神を見たのです。罪人として裁かれ、鞭打たれ、人々から嘲られ、唾をかけられ、殴られ、ボロボロにされ、そして十字架にかけられたその御方、その惨めなキリストの姿、栄光とはほど遠いその姿――その姿の中に神を見たのです。<br /><br />恵みと真理に満ちていた<br /> そして、その十字架において現わされた栄光について、ヨハネはこう言うのです。それは「恵みと真理に満ちていた」と。<br /><br /> それは「恵み」に満ちていました。「恵み」とは、受けるに価しない者に向けられた愛です。神の愛を受けるに価しない私たちに向けられた、神の一方的な変わることのない愛のことです。<br /><br /> 旧約聖書を読みますと、そこには神様に背いて、神様に逆らって、どうしようもない罪深い姿をさらしているイスラエルの人々の姿を見ることになります。しかし、神はそのようなイスラエルの民を手放そうとしないのです。切り捨ててしまおうとしない。もう相手にするに相応しくないような者であっても、神様は捨ててしまわないで愛をもって呼びかけ続けるのです。そこに見るのは神の恵みです。<br /><br /> そして、その恵みが神に背を向けたこの世界に、そして、そこに生きる私たちに向けられているのです。ヨハネはキリストの言葉を行いの内に、その存在の内に、神の恵みを見たのです。<br /><br /> そしてまた、キリストの姿は「真理に満ちて」いました。「真理」という言葉は、このヨハネによる福音書に繰り返し現れます。この「真理」とは、「見せかけのもの」に対する「見せかけでない本物」、「嘘や偽り」に対する「嘘や偽りではないもの」を意味する言葉です。ですからさらには、本当に信頼できるもの、本当に大丈夫と言えるものを意味する言葉でもあるのです。ですから「真実」と訳すこともできるのです。<br /><br /> 嘘ばっかりのこの世界に、見せかけでしかないものに満ちているこの世界に、本当のもの、真実なるものをヨハネは確かに見たのです。その御方は「真理に満ちていた」と。その御方が見せてくれた嘘でないもの、真実なるものとはなんでしょう。――それは神の愛だったのです。その御方が見せてくれたのは、私たちがどのような者であっても、決して見捨てようとはしない、決して変わることのない、神の愛だったのです。<br /><br /> 考えても見てください。深い穴のどん底にいるような私たちが、なお神を知り、神の命に与り、救いに与ることができるとするならば、それは神の側から来てくださって、「恵みと真理」を現してくださるしかないのです。神様が、受ける資格のない私たちをなお愛してくださり、私たちを決して見捨てない神の真実をもって私たちに関わってくださるのでなければ、私たちは救われないのです。そして、まさにその神の愛と真実とを、主イエス・キリストが現わしてくださったのです。私たちの所に来て現わしてくださったのです。<br /><br /> それゆえに、この御方はまた「言」と呼ばれていたのです。「言が肉になって、わたしたちの間に宿られた」と。思いを伝えるもの、それが言葉です。ある人は、このように表現していました。「イエス・キリスト、それは、神のもっとも内奥にあり、もっとも深いところにあった、究極の神の思いであります。」その究極の神の思いを、私たちは知らされたのです。神の恵みと真理、神の愛、絶対に私たちを見捨てない神の究極の思いを私たちは知らされたのです。<br /><br /> ならば、何ということができますか。私たちは「肉」であることについて、望みを失う必要はないのです。自分自身についても他の人間についても望みを失う必要はないのです。この世界のあり様に絶望する必要はないのです。神が見捨てていないものを、私たちが諦めて見限る必要はないからです。神が見捨てていないなら、そこには救いがあるからです。希望があるからです。私たちは、神の究極の思いを知らされた者として、神の愛を知らされた者として、希望をもって自分と関わることができる。本当は、一番やっかいなのは自分自身なのでしょう。でも、希望をもって自分自身と関わることができる。他者とも関わることができる。この世界と関わって生きることができるのです。「言が肉になって、わたしたちの間に宿られた」から。<br /><br /> だから祝うのです。クリスマスを祝うのです。この世のパーティの喜びではない、天からの喜び、神からの喜びをもって祝うのです。今年もクリスマスを共に祝う私たちとして、大きな喜びをもって、心から神に感謝と賛美をささげましょう。<br /><br /><br /></p>shoeichurchhttp://www.blogger.com/profile/05438295989591628531noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-3753053677489926281.post-14992295473335877492023-12-20T20:00:00.001+09:002023-12-20T20:00:00.360+09:00祈祷会用:出エジプト記 4:1~17<p> 出エジプト記 4:1-17<br /><br /> 神はモーセの名を呼んだうえで、命じられました。「見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。また、エジプト人が彼らを圧迫する有様を見た。今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ」(3:9‐10)。<br /><br /> この命令をめぐってのやりとりが今日読んだ4章まで続きます。この命令から明らかなように、神はモーセの意向を打診しにきたのではありません。既に決まっているのです。それを伝えて、モーセの「はい」を聞くために主は出会われるのです。これを「召命」と言います。<br /><br /> これに似た場面は聖書にたくさんあります。一番似ているのはエレミヤという人が召された時です。主は言われます。「わたしはあなたを母の胎内に造る前からあなたを知っていた。母の胎から生まれる前にわたしはあなたを聖別し、諸国民の預言者として立てた」(エレミヤ1:5)。すると「ああ、わが主なる神よ、わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから」とエレミヤは言うのです。しかし、もう決まっているのです。だから彼は行かなくてはならない。<br /><br /> イエスの母マリアも同様でした。「おめでとう、恵まれた方」と言って天使が現れます。「あなたをメシアの母にしたいと思うのですが、いいですか」なんて言わないのです。イエスの弟子たちもそうでした。「わたしについて来きますか」とは聞きません。「わたしに従いなさい」と言うのです。<br /><br /> 神はお用いになるために人を召されます。その召しに対して人間は「はい」と答えます。これが召命です。これは何もモーセのような特別な人の話ではありません。私たちも同じです。私たちが洗礼を受けてキリスト者となることも同じなのです。この世にキリスト者として生きることへの召しなのです。私たちからすれば、自らいろいろ考えて私たちが洗礼を受けることを決めたように思いますけれど、本当はそうではないのです。神の召しが先にあるのです。あなたはキリストの弟子になりなさい、と神は言われた。それに対して「はい」と真心から答えた。そして、洗礼を受ける。洗礼を受けたとは、そういうことです。<br /><br /> そのように神が召される。人は「はい」と答える。本来、そうあるべきなのです。しかし、人間はそれに対していろいろ言いたくなるのです。それがここに見るモーセの姿です。彼は言いました。「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか」(11節)。しかし、主はモーセのこの問いに答えようとはされません。彼にただ一つの約束を与えられました。「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである」と。<br /><br /> そして、主は御自分の名前をモーセに示されました。これは正確には主(ヤハウェ)という名前の意味を示されたということです。神はモーセに言われました。「わたしはある。わたしはあるという者だ」と。これは「わたしがいるのだ、確かにいるのだ」と訳し得ることについては先週申し上げました。まさに共にいる神、その共にいる神が人を召すのです。<br /><br /> そして4章に入ります。「共にいる神」が召しておられる。しかし、どうしても人間はその「召してくださっている方」に思いがいきません。「わたしは何者でしょう」の「わたし」の方に思いが向くのです。そこに執着するのです。そこで持ち出されるのが、まずは「わたしの経験」です。そして、次に「わたしの能力」です。わたしの経験によればこれは無理だ。わたしの能力を考えたら、これは無理だ。そう人間は答えるのです。<br /><br /> モーセはまず自分の経験に基づいて神に答えます。「それでも彼らは、『主がお前などに現れるはずがない』と言って、信用せず、わたしの言うことを聞かないでしょう」(1節)。人々は自分に従わないだろう。それがモーセの経験でもありました(使徒7:23‐29)。<br /><br /> これに対して神はまず、二つのしるしを与えられました。手に持っている杖がへびになる。これが一つ。その次に、手が重い皮膚病になり、それが再び癒される。この二つを信じないなら三つ目があります。ナイル川の水が血になるというのです。<br /><br /> ここで語られていることは、ある意味では単純なことです。モーセは「彼らは信じない。わたしの言うことを聞かないでしょう」と言うのです。しかし、神はモーセの手を通して不思議なことをされる。その不思議な出来事を見るならば、モーセが確かに主に出会ったということを信じるでしょう。要するに、そういう話です。<br /><br /> しかし、実は神がしるしを現されるというのは、ここだけではないのです。この後にもたくさんでてきます。そして、最終的には決定的な出来事として、葦の海が二つに分かれるのです。その間を通ってエジプトを脱出するという話になります。<br /><br /> つまりモーセが遣わされ、「わが民イスラエルをエジプトから連れ出しなさい」と主はモーセに言われるのですが、現実に民を連れ出すのは神なのです。神の介入が起こるということ、神が介入されるということは、そこに新しい未来が開けるということでもあるのです。<br /><br /> 経験に基づいて語るならば、イスラエルはエジプトからは絶対に出られないのです。どう考えても出られない。もう長い間奴隷であったのですから。しかし、神の時が来て、神が介入される時に、そこに閉ざされていた未来が開けるのです。未来は過去から現在の延長にはないのです。神のしるしはそのことを示しているのです。ただ単に人々をびっくりさせて信じさせるという手段ではないのです。<br /><br /> 経験に基づいて語るなら、杖は永遠に杖のままなのです。しかし、神が介入されるならばそれがへびになるのです。また、きれいな手が突然皮膚病になる。そのようにある日突然災いが起こります。ある日、突然災いが起こるということは案外信じ易いものです。しかし、神が介入されるなら、その災いは幸いに変わるのです。皮膚病になったことは悲しみだけれど、神はそれを癒して喜びに変えることもできるのです。さらに言えば、ナイルの水は永遠に水なのだ、ということです。いや、それは血にだって成り得るのだとこの奇跡を通して神は言っており、聖書は証言しているのです。<br /><br /> 人間は「わたしの経験によれば」と言って神の召命に逆らいます。しかし、神は人間の経験をひっくり返すことのできる御方なのです。それがモーセに与えられたしるしであり、これからの物語の展開を示す出来事だったのです。<br /><br /> しかし、それでもモーセはなお「はい」と言いません。「わたし、わたし」のもう一つは自分の能力です。モーセは言います。「ああ、主よ。わたしはもともと弁が立つ方ではありません。」しかし、主は言われる。「一体、誰が人間に口を与えたのか」と。本当に重要なのは、自分の口ではなくて、口を与えた神なのです。自分の「口」ではなく、この「誰が」の方に思いを向けなくてはならないのです。<br /><br /> ところで、モーセは「もともと弁が立つほうではない」と言います。本当でしょうか。考えてみれば、エジプトで最高の教育を受けたモーセです。イスラエルの奴隷に対して「弁が立たない」、本当はおかしいのです。それは昔の人もそう思っていたみたいで、使徒7:22には「そして、モーセはエジプト人のあらゆる教育を受け、すばらしい話や行いをする者になりました」と書かれています。<br /><br /> しかし、モーセが誇り得る自分の能力を用いようとしていた時には、神はモーセを用いられなかったのです。その思いが挫折し、枯れてしまってから、主はお用いになろうとされたのでした。そして、結果的にどうであったか。出エジプト記を読むと、結構モーセはしゃべっているのです。申命記などはまるまるモーセの説教です。もちろん主が言葉を与えたということもあるでしょうが、もう一方においてかつて培われたものは、ちゃんと用いられているということでもあるのです。<br /><br /> さて、そのように「このわたしがあなたの口と共にある」と言われても、モーセはなおこう言いました。「ああ主よ。どうぞ、だれかほかの人を見つけてお遣わしください」。私たちもしばしばこのような思いを抱きます。「だれかほかの人に」と。<br /><br /> しかし、私たちは覚えておかなくてはなりません。神が召される時、それはその人でなくてはだめなのです。「だれかほかの人を見つけて」ではなく、この場合モーセでなくてはだめなのです。それが召命というものなのです。わたしたちがキリスト者になったことも同じです。あなたがキリスト者になったということは、神の目から見たら、他の人がキリスト者になったということと意味が全く違うのです。あなたでなくてはだめだということです。教会員が一人増えるなら、この人でもあの人でもいい、ということではないのです。<br /><br /> 神は「あなたではなくてはだめだ」と言われます。これが分からないと神様は怒ります。主は「ついに、怒りを発した」と書かれています。しかし、神は怒るのだけれど、モーセの気持ちを汲んでアロンを備えます。こうして見ると、実に神は忍耐強く人を召されることが分かります。人間はいろいろとゴチャゴチャ言いますが、神はあくまでも「あなたをあなたとして」召そうと忍耐をつくされるのです。他の人ではだめだからです。<br /><br /> <br /></p>shoeichurchhttp://www.blogger.com/profile/05438295989591628531noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-3753053677489926281.post-28795505978499393332023-12-17T20:00:00.001+09:002023-12-17T20:00:00.169+09:00「主の道をまっすぐにせよ」<p>ヨハネによる福音書 1:19-28<br /><br />お前は何者か<br /> ユダヤ人の宗教的社会の中心はエルサレムにありました。しかし、エルサレムから離れたヨルダン川東岸のベタニヤから一つの運動が起こりました。その中心になっていたのは洗礼者ヨハネと呼ばれる人物でした。ヨハネの影響力は非常に広範囲に及びました。マルコによる福音書には、「洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた」(マルコ1:4‐5)とまで書かれています。その影響力がいかに絶大であったかは、その後二十年ほど経た時点で遠く離れたエフェソにまでヨハネの弟子がいたことからもうかがえます(使徒19:3)。<br /><br /> エルサレムの当局者たちは、この運動に関心を抱いていました。いや、脅威を感じていたと言うべきかもしれません。いずれにせよ、彼らは調査の必要性を感じて祭司やレビ人たちをヨハネのもとに遣わします。調査団はヨハネに問いました。「あなたはどなたですか。」日本語ですと丁寧に訳してありますが、要するに「お前は何者だ」ということです。「エルサレムから離れて、いったい何の権威でこんなことをしているのだ。周りの連中はお前のことをメシアだと言っているようだが、本当にお前はメシアなのか。」彼らはそのように尋問しているのです。<br /><br /> ヨハネははっきりと「わたしはメシアではない」と言いました。すると彼らは「では何なのか。エリヤか。それともあの預言者か」と問いかけます。エリヤというのは旧約聖書に出てくる預言者の代表です。その預言者エリヤが終末における神の審判の前に再来すると信じられていたのです。その根拠は今日第一朗読でお読みした箇所です。かつて預言者マラキは神の言葉を伝えてこう言いました。「見よ、わたしは大いなる恐るべき主の日が来る前に預言者エリヤをあなたたちに遣わす。彼は父の心を子に、子の心を父に向けさせる。わたしが来て、破滅をもって、この地を撃つことがないように」(マラキ3:23‐24)。荒れ野に現れたヨハネはその再来のエリヤではないかと噂されていた。「お前は本当にそのエリヤなのか」と問うているのです。<br /><br /> また「あの預言者」で表現されているのは、モーセのような預言者のことです。かつてモーセはイスラエルの民にこう語りました。「あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、わたしのような預言者を立てられる。あなたたちは彼に聞き従わねばならない」(申命記18:15)。ですから、人々は、約束された来たるべき人物を「あの預言者」と呼んで、待ち望んでいたのです。そのような背景を踏まえて調査団は「あの預言者なのか」と問うているのです。ヨハネはこの二つについてもはっきりと「そうではない」と否定しました。<br /><br /> 業を煮やした祭司たちは「それではいったい、だれなのか」と問います。このままでは報告ができないではないか、と。そして、聖書の言葉のまま引用するなら、彼らの最終的な質問は「あなたは自分を何だと言うのですか」(22節)でした。ヨハネが自分を何と自覚しているかを問うたのです。それに対するヨハネの答えは非常に印象的な言葉でした。彼はイザヤ書を引用してこう答えたのです。「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と」(23節)。今日は特にこの23節の言葉を心に留めたいと思います。<br /><br />わたしは荒れ野に叫ぶ声である<br /> ヨハネは自分自身のことを「声」と表現しました。声は文字とは違います。文字は残りますが、声は言葉を伝えて消えていくのです。その時代を考えるならば、ある意味では今やユダヤの民衆はヨハネを中心として動き始めていたと言えるでしょう。ヨハネの働きによってユダヤが大きく変わりつつありました。それはヨハネも認識していたに違いありません。しかし、それでもなおヨハネは「荒れ野で叫ぶ声」に徹したのです。声は消えて良いのです。大事なのは声が指し示している御方なのです。そのような声として生きたのです。<br /><br /> 言い換えるならば、ヨハネは自分が何であるか、そして何でないかをわきまえている人であったと言えます。自分が何で有り得るのか、そして何で有り得ないのかを知っている人でした。そして、自分の成り得るものとして百パーセント生ききることの大切さを知っていた人であったと言えるでしょう。ヨハネは自分がメシアではないこと、救い主には成り得ないことを知っていたのです。<br /><br /> 1章8節には、「彼は光ではなく、光について証しをするために来た」と書かれています。そのような言い方をするならば、まさに《自分は光にはなれないのだ》ということを知っていたヨハネでありました。だからヨハネは謙って光をひたすら指し示したのです。光になれない自分が無理に光になろうとはしない。光を証しするのです。今日の聖書箇所でもヨハネはこう言っています。「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない」(1:26-27)と。<br /><br /> 罪ある人間はまことの光にはなれません。罪のゆえに苦しむ人間を同じく罪ある人間が救うことはできません。死によって限界づけられた人間を、同じく死によって限界づけられた人間は救うことはできません。光になれない者が光になろうとするのは不幸なことです。また、光でないものを光としているならば、それもまた不幸なことです。いつ失われるかもしれない人間や何か他のものを光としているならば、最終的に闇の中にいる自分を見出すことになるからです。<br /><br /> なぜ教会はキリストを伝え、キリストを信じることを勧め、そして人に洗礼を授けるのか。人間は他の人間を究極的には救えないからなのです。だから洗礼を授けて神の手に委ねるのです。キリストに結ばれて、神と共に生きていきましょう、と言うしかないことが分かっているからです。キリストにつながり続けて、聖餐を受け続けて、神の恵みを受け続け、恵みに身をゆだねて生きていきましょう、と言うしかないのです。<br /><br /> そのように、救いは罪に満ちたこの世界の中からではなく、外から来なくてはなりません。光は暗闇の外から来なくてはなりません。救いは神のもとから来るのです。そして、神のもとから来てくださいました。イエス・キリストはこの世に来られたのです。私たちが毎年クリスマスを祝っているように、確かにキリストは来られたのです。<br /><br /> しかし、キリストによる救いは、人の心の内に、またその人生の内に到来しなくてはなりません。この世に来られ救いの御業を成し遂げられたキリストは、宣べ伝えられ、そして受け入れられることが必要なのです。そこでは受ける人間の側が問題となるのです。だから荒れ野で叫ぶ声は、こう叫んでいたのです。「主の道をまっすぐにせよ」と。<br /><br />主の道をまっすぐにせよ<br /> 「主の道をまっすぐにする」とは、いったい何を意味するのでしょうか。24節以下には次のようなことが書かれています。「遣わされた人たちはファリサイ派に属していた。彼らがヨハネに尋ねて、『あなたはメシアでも、エリヤでも、またあの預言者でもないのに、なぜ、洗礼を授けるのですか』と言うと…。」<br /><br /> ヨハネが洗礼を授けていたことが、ファリサイ派の人々にはつまずきとなった。それはある意味では当然のことでした。もともと洗礼という儀式はヨハネが考案したわけではありません。その前からありました。異邦人がユダヤ教に改宗するときに洗礼を受けたのです。それは異邦人がまことの神に従って生きようとするときに、今までの罪の汚れを洗い落として新しく生まれることを意味したのです。しかし、ヨハネはこれをただ異邦人に授けていたのではありません。むしろユダヤ人に授けていたのです。<br /><br /> そして、それはエルサレムの宗教的な権威、特にファリサイ派の人々には受け入れがたい行為と映ったのです。なぜなら、ヨハネの洗礼は、はユダヤ人を異邦人同様に扱うことを意味したからです。いわば「ユダヤ人であっても神の前においては罪あるものとして異邦人と少しも変わらないのだ」と宣言しているに等しかったのです。このことは、少なくとも自分たちは律法を守って清い生活をしていると自負しているファリサイ派の人々には耐え難い屈辱でありました。だから、「なぜ、どのような権威によって、そのような洗礼を授けるのか」と問い質したのです。<br /><br /> しかし、まさにそのような心こそが、「まっすぐにされなくてはならない道」だったのです。他人を裁き、見下し、罪に定めながら、自らを本当の意味で省みようとはしない。決して神の前にへりくだって自分自身の罪を認めようとしない。神の赦しと憐れみを必要としているのは自分自身なのだということを認めようとはしない――そのような傲慢な心こそ、まさに「まっすぐにされなくてはならない道」なのです。<br /><br /> 「主の道をまっすぐにせよ」と、ここで引用されているイザヤ書の言葉は、もともとは罪の赦しの預言でありました。ですから、主の道をまっすぐにするとは、罪の赦しと救いの恵みを受け入れる心の準備をすることに他なりません。「主の道をまっすぐにせよ」とは、救いを受けるために、まず整えられた立派な人になれ、ということではないのです。そうではなくて、神の前にへりくだって罪を認め、自分こそが救いを必要としている罪人であると認めることなのです。そのように備えられて、初めて人は罪の赦しにあずかり、救いに与って、神と共にキリストと共に新しく生き始めることができるのです。<br /><br /><br /><br /><br /><br /></p>shoeichurchhttp://www.blogger.com/profile/05438295989591628531noreply@blogger.com