2018年3月25日日曜日

「目を覚まして祈っていなさい」

2018年3月25
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マルコによる福音書 14章32節~42節

メシアとしての苦しみのゆえに
 イエス様はひどく恐れていました。ゲツセマネでのイエス様の様子を聖書はこのように伝えています。「そして、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われたが、イエスはひどく恐れてもだえ始め、彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい」(33‐34節)。

 恐れているイエス様を想像すると、何かとても不思議な気がします。これまでの流れを考えるとなおさらです。イエス様はここに至るまでに、既に少なくとも三回は御自分の受難を予告しておられるからです。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する」(10:33‐34)。これは三度目の予告です。エルサレムに入られる前から、そこで自分の身に何が起こるかを既に知っておられたのです。知りながら、あえてエルサレムに向かわれたはずなのです。

 この直前の食事についても、これが弟子たちと共にする最後の食事であることを主は知っておられたはずです。だからこそ、その食事の際に「これはわたしの体である」と言ってパンを与え、「これはわたしの血である」と言って杯を回されたのです。さらに言うならば、裏切ったユダが祈りの場所に人々を手引きして連れてくることさえも知っていたのです。その場所こそが、群衆に知られることなくイエスを捕らえるためには格好の場所だったからです。そのことを知っているのに、あえてゲツセマネに祈りに来られたのです。わざわざ捕らえられるために、来たようなものです。

 ならば、そこで本来期待されるのは、泰然として捕らえに来る者たちを静かに待つキリストの姿でしょう。恐れることなく、うろたえることなく、ただその時を静かに待つキリストの姿。――しかし、そのような姿はここには見られません。キリストは恐れ、苦しみもだえて祈っておられるのです。ここに描かれているのは、実に期待はずれとも奇妙とも言える光景です。

 しかし、読者の期待を裏切るこの姿こそ、キリストの受けた苦しみが何であるのかを雄弁に物語っているとも言えるのです。

 主はこう祈っています。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。」取りのけてほしい「この杯」とはいったい何なのでしょうか。十字架につけられて殺されること――確かにそうです。しかし、それが意味するのはただ単に肉体的・精神的苦痛を伴う死ということではありません。確かに十字架刑は残酷な刑罰です。しかし、十字架刑によって殺されたのは何もイエス・キリストだけではないのです。現にイエス様と共に二人の犯罪人が十字架にかけられていたのです。そして、肉体的・精神的苦痛という意味だけならば、世の中にはもっと大きな苦しみを味わいながら死んでいった人はいくらでもいたはずです。イエス様が「この杯」と呼んでいるものが、そのように既に誰かが経験したことのある苦しみであろうはずがありません。

 では、イエス様に与えられた「この杯」とは何だったのでしょうか。それはただ苦しんで死んでいくということではなくて、《神に裁かれて死んでいく》ということだったのです。もちろん、キリストは自分自身の罪のゆえに神から裁かれる必要はありません。この御方には罪がありませんでした。この御方は父なる神を愛し、人を愛して生きられました。この御方は父なる神と一つでした。ですから、この御方が背負っていたのは自分の罪ではありません。そうではなく、私たちの罪です。それは私たちすべての人間の代わりに、神の裁きを受け、神に見捨てられることを意味したのです。それこそがメシアの苦しみだったのです。

 実際、この箇所を読む度に思います。私たちは神の裁きが何であるかについて、恐らく何も知らないのだ、と。辛いことが続いて、「神から見捨てられた」と感じることはあるかも知れません。しかし、私たちは神から見捨てられるという事がどういうことか、恐らく何も知らないのです。だから、すべてを知っておられる神の御前において、罪を犯してきたこと、罪人であるという事実に恐れおののくこともないのでしょう。罪の赦しを受けることなく死ぬことを本当の意味で恐れることもないのでしょう。

 しかし、イエス様は違います。罪人として、罪を背負ったまま死ぬことがどれほど恐ろしいことであるか、罪ある者として神に裁かれることがどれほど恐ろしく、悲しく、苦しい事であるかを御存じだったのです。この世界の罪、私たち人間の罪を背負うということが、いかなる苦しみであるかを知っておられたのです。それが今日の聖書箇所におけるキリストの恐れと苦しみの姿の中に語られていることなのです。

 それゆえに主はひれ伏して父なる神に願い求めたのです。「この杯をわたしから取りのけてください」と。しかし、父に向き続け、苦しみもだえながら祈られるイエス様に、御父は何も語られませんでした。そう、ひと言も。しかし、沈黙はしばしば言葉以上に雄弁に語ります。沈黙こそがイエス様に与えられた答えでした。――わかりました。あなたの御心なのですね。主は父に語りかけます。「しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」(36節)。

 そのように神が沈黙される時に、それでもなお「アッバ、父よ」と呼びかけ、父への信頼をもって御心に従おうとしている姿を私たちはここに見ているのです。

誘惑に陥らないために祈りなさい
 しかし、この箇所を読みます時に、父の御心に信頼をもって従うことは、イエス様にとってさえ、決して容易なことではなかったことを知るのです。先に見たとおり、イエス様は「わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と口にするのです。ならば、本来ならそこで祈りは完結しているのでしょう。ところが、39節にはこう書かれているのです。「更に、向こうへ行って、同じ言葉で祈られた」。

 「同じ言葉で祈られた」ということは、もう一度「この杯をわたしから取りのけてください」と願ったということです。そして、「わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」に再び行き着いたということです。

 これを主は何回繰り返したのでしょうか。ここには主が三回ペトロたちのところに戻って来られたことが書かれています。しかし、主がただ三回だけ「同じ言葉で祈られた」とは思いません。もしそうならば、弟子たちは眠っていて聞き逃しているはずですから、二回目が同じ言葉であることは分かりません。さらに言えば、二回目の時も眠っていたのですから、同じ言葉で祈っていたのをいったい誰が聞いていたのでしょう。

 要するに考えられることは、弟子たちが眠りこける前から、イエス様は同じ言葉で繰り返し祈り続けていたということです。あるいは、ルカによる福音書では「いつものようにオリーブ山に行かれると」(ルカ22:39)と書かれていますから、イエス様はエルサレムに来られてから毎日のようにそのように祈っていたのかもしれません。

 イエス様であっても、祈りなくしては従い得なかったのです。繰り返し父の名を呼ぶことなくして、父への信頼をもって立ち上がることはできなかったのです。前に進むことはできなかったのです。そのように天の父にすがりつくようにして繰り返し祈っておられたイエス様だからこそ、眠っていた弟子たちにこう言われたのです。「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い」(38節)。

 「誘惑に陥らぬように」――彼らにとっての「誘惑」とは何でしょう。眠りへと誘う誘惑でしょうか。いいえ、もっと大きな誘惑が待っていることを主はご存知でした。

 こんなことがありました。ゲツセマネに到着する前のことです。イエス様は弟子たちに言われました。「あなたがたは皆わたしにつまずく」(27節)。つまり、イエス様を見捨てて弟子たちが散ってしまうことを主は予告したのです。その時、ペトロは言い返しました。「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」。しかし、イエス様はそのペトロにこう言われました。「はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう」。ペトロはさらに言い返しました。「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」。そして、「皆の者も同じように言った」(31節)と書かれています。今日の箇所の直前に書かれていることです。

 確かにイエス様が彼らの目の前でイエス様が捕らえられることは彼らにとって試練です。そして、そこには誘惑もあります。「あなたがたは皆わたしにつまずく」。その誘惑があります。彼らは「つまずきません」と言いました。実際はどうだったでしょう。シモン・ペトロは三度イエス様を知らないと言いました。他の弟子たちもイエス様を見捨てて逃げ出しました。ある意味で彼らは誘惑に負けたことになります。

 しかし、本当の誘惑はその後に来るのです。彼らは深い悲しみ知ることになります。彼らは自分自身に対し、深い絶望を味わうことになります。イエス様はそうなることが分かっているのです。だから、ルカによる福音書では、イエス様がペトロにこう言ったと記されています。「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(ルカ22:32)。

 悲しみの中に、特に自らの弱さ、自らの罪のゆえの悲しみの中に誘惑があります。自分に対する絶望の中に誘惑があります。悪魔はそこで人を神から引き離しにかかってくるのです。信じることをやめさせようとする。従うことをやめさせようとするのです。それゆえに主は言われるのです。「誘惑に陥らないように祈りなさい」と。

 実は、イエス様がペトロたちの離反を予告した時、一言こう付け加えていました。「しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く」(28節)と。

 弟子たちは確かに主を見捨てて逃げていく。しかし、イエス様はその先を見つめておられたのです。彼らはそれで終わりになってはならない。自分に絶望して終わってはならないのです。悪魔によって引き離されてはならないのです。信じることをやめてはならないのです。自分がどのような惨めなありさまであろうが、信じることをやめてはならないのです。主が先にガリラヤに行って待っておられるから。

 あの時、イエス様が言ってくださった、「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい」という言葉は、深く彼らの心の内に留まったのでしょう。そして、弟子たちの心に留まったその御言葉が伝えられ、今日、私たちにも同じ御言葉が与えられているのです。「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい」。祈っていなさい――そう、あの時、父にすがりつくように繰り返し祈り続けたイエス様のように。

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