2017年8月20日日曜日

「希望を捨ててはなりません」

2017年8月20
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイによる福音書 10章16節~25節  

 今日の聖書箇所の直前には、イエス様が十二弟子を周辺の町々村々に遣わされたことが書かれています。ですから今日お読みした言葉は、イエス様が弟子たちを派遣するに当たって語られた言葉として読むことができます。しかし、その内容を読みます時に、イエス様はただ目の前の十二人のことだけを考えて語っておられるのではなさそうです。ここに語られていることが実際に起こるのは後の教会においてだからです。

 やがてこの弟子たちは、また後のキリスト者は、迫害を受けるようになります。地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれることにもなります。総督や王の前に引き出されることにもなります。十二人を派遣する時には「異邦人の道に行ってはならない」と主は言われましたが、後の時代においては、否応なくこの世の法廷に引き出され、総督や王や異邦人たちにキリストのことを語ることになるのです。そのように、イエス様は未来の弟子たち、未来の教会を念頭において語っておられるのです。

蛇のように賢く、鳩のように素直に
 そのようにキリストが弟子たちを世に遣わすこと、教会を宣教のために世に遣わすことを、主は「狼の群れに羊を送り込むようなものだ」と表現しました。狼の群れに羊が送り込まれたら、羊はたちまち困難に直面することになるのでしょう。しかし、それが主によって遣わされるということであり、宣教するということなのだと主は言われるのです。ならば、宣教は決して容易なことではありません。

 日本の宣教は難しいと言われてきました。しかし、難しくない宣教などないのです。初めから困難を伴うものであることを主は語っておられたのです。それは今日においては必ずしも迫害という形ではないかもしれません。しかし、教会が宣教の使命を果たしていこうとするならば、必ず困難に直面するのです。キリスト者が信仰をもってこの世に生き、キリストを証しして生きようとするならば、必ず困難に直面するのです。

 「だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」(16節)と主は言われるのです。一度聞いたら忘れることができないほどに印象的な言葉です。これが「鳩のように素直に」だけならば、恐らく記憶に残らないでしょう。それはある意味で信仰者のイメージに合致するからです。違和感を覚えるのは前半です。主は「蛇のように賢く」と言われたのです。

 「蛇のように賢く」という言葉の元になっているのは、恐らく創世記の物語です。エバが蛇に誘惑されて禁断の木の実を食べてしまったという話です。その蛇が聖書に登場する際に、こう書かれているのです。「主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった」(創世記3:1)。

 確かに創世記に出て来る蛇の誘惑は実に巧妙です。確かに賢い。ずる賢い。しかし、この世の悪の誘惑はまさにそのように忍び寄ってくるのでしょう。悪魔の誘惑とはそういうものではありませんか。しかし、悪魔が人間を誘惑するほどに、それほどに私たちは賢くあろうとしているのでしょうか。教会はこの世界にキリストを宣べ伝えるために、それほどに賢くあろうとしているのでしょうか。主は言われるのです。「蛇のように賢くなりなさい」と。

 実際、もしこれが迫害の時代ならば、集会を一つ行うにしても知恵が必要だったことでしょう。誰に、いつ、どのようにしてキリストのことを証するのか。そのことにも知恵が必要だったことでしょう。イエス様が言われたことの意味は、身に染みてよくわかったと思います。ともすると私たちには主が言われるほどに「狼の群れに羊を送り込むようなものだ」という意識がないものですから、「蛇のように賢くなりなさい」という主の言葉の重要性を切実には感じていないかもしれません。しかし、異なる時代を生きる私たちにとっても、直面しなくてはならない困難の形が違うだけで、本当は同じことなのでしょう。主は言われるのです。「蛇のように賢くなりなさい」と。

 しかし、たとえ「蛇のように賢く」あったとしても、それでも捕らえられる時は捕らえられるし、地方法院に引き渡されるようなことも起こります。鞭打たれるようなことも起こります。だから、蛇のように賢いだけでなく、「鳩のように素直になりなさい」と主は言われるのです。

 「素直に」というのは「混じり気のない」とか「純真な」という意味合いの言葉です。それはただひたすら神に依り素朴な信仰を意味するのでしょう。主は具体的にこう言われるのです。「引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる。実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である」(19‐20節)。

 たとえ地方法院に引き渡されるようなことになったとしても、そこで父の霊が語ろうとしていることがあるのです。総督の前に引き出されるようなことになったとしても、そこで父なる神がしようとしていることがあるのです。そのように、人間の目には最悪の事態が訪れたように見えたとしても、それでもなおそこで神がなさろうとしていることがあるのです。神の計画は進んでいるのです。人はただ鳩のように素直に、純真素朴に信頼したらよいのです。

最後まで耐え忍ぶ者は救われる
 そして、さらにイエス様は言われました。「兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる」(21‐22節)。

 すでに見てきたように、主は教会の宣教について、初めから困難を伴うものとして語っておられました。繰り返しますが、教会が宣教の使命を果たしていこうとするならば、必ず困難に直面するのです。キリスト者が信仰をもってこの世に生き、キリストを証しして生きようとするならば、必ず困難に直面するのです。

 しかし、迫害の時代のキリスト者が経験していた最も大きな困難は、恐らく宗教的な権威や国家権力により苦しめられることではなく、家族との間に生じる軋轢や断絶だっただろうと想像いたします。「兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう」。家族に限らず、愛する者から理解されないこと、憎まれるようになることほど、辛いことはないでしょう。しかも救いを証しすればするほど、かえって憎まれることになるのです。

 そこで主が語られた言葉はどれほど大きな励ましであったかと思います。主は言われました。「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」。実は、この福音書の24章にもそっくり同じ形でこの言葉が出て来ます。語順も全く同じままマルコによる福音書にも出て来る。恐らく昔の教会において、このままの形で記憶され、皆がしばしば口にしていたイエス様の言葉だったのだと思います。「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」。互いにそう言い交わしながら励まし合ったのだと思います。

 「最後まで」と言われているということは、すなわち「最後がある」ということです。終わりがある。永遠じゃないということです。迫害は永遠ではありません。いかなる苦しみも永遠ではありません。それは限られた期間です。必ず最後がある。トンネルに必ず出口があるように、夜明けは必ず訪れるように、必ず「最後」があるのです。だから「耐える」こともできる。「耐え忍ぶ」のです。

 その「耐え忍ぶ」という言葉は、もともと「留まる」という言葉に由来するものです。「耐え忍ぶ」とは「留まる」ということです。どこに留まるのでしょう。信仰に留まるのです。聖書が語っている「忍耐」とはそういうことです。信仰に留まることです。

 実はこれと同じ言葉が詩編に何度も何度も出て来るのです。詩編はもともとヘブライ語で書かれているのですが、そのギリシャ語訳聖書にこの言葉が何度も使われているのです。興味深いことに、ほとんどの場合、「待ち望む」という意味の訳語として用いられているのです。主を待ち望むということです。例えば、「主を待ち望め、雄々しくあれ、心を強くせよ。主を待ち望め」(詩編27:14)というように。この「待ち望む」と新約聖書の「耐え忍ぶ」は同じ言葉です。

 そのように、「耐え忍ぶ」「忍耐する」とは「待ち望む」ことなのです。主を待ち望むことです。どこまでも待ち望むことです。希望を放棄しないことです。絶望しないことです。信仰に留まって、希望に生きる、どこまでも希望に生きることです。「忍耐する」とはそういうことです。

 「蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」と主は言われました。そして、その上で主が与えられた約束の言葉です。「最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」そうです。希望を捨ててはなりません。

以前の記事