2017年8月6日日曜日

「罪人を招いてくださる神」

2017年8月6
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイによる福音書 9章9節~15節

わたしに従いなさい
 今日お読みしました物語は、ある徴税人が主によって招かれたところから始まります。その人の名は「マタイ」です。彼は十二弟子の一人でありまして、伝統的にはマタイによる福音書はこの人によって書かれたとされています。既にシモンとアンデレ、ヤコブとヨハネが主の弟子とされた経緯が四章に書かれていました。次第に弟子の群れが形成されつつありました。その弟子の群れにマタイが加えられたというのがここに書かれている出来事です。

 ところで、「弟子」という言葉が繰り返し出てくるのですが、これはユダヤ人の言葉では「タルミード」と言います。そして、「タルミード」と言いますと、一般的には、ユダヤ教の教師(ラビ)のもとで律法を学ぶ生徒を指します。ラビの言葉に耳を傾け、質問をし、聞いたことを復唱し暗記する。また、ラビの生活を倣い、律法に従った生活を学ぶ。それが弟子(タルミード)です。

 実際、イエス様の弟子たちも、そのような一般的なタルミードの生活していたのだと思います。イエス様の言葉に耳を傾け、復唱し暗記する。またイエス様の生活を良く見て倣う。弟子たちがそのようにしてくれたおかげで、イエス様の言葉、イエス様の物語が今日に至るまで残っているのです。

 そのように、外から見るならば、明らかにイエス様は一人のラビであり、シモンやアンデレたちはタルミードでありました。ですから福音書において、イエス様がしばしば「ラビ」とか「先生」と呼ばれているのです。しかし、もう一方において、イエス様はユダヤ教のラビとしてはあまりにも異質な存在であったことも事実です。その故に、他のラビたち、律法学者たちと繰り返し衝突が起こったことを聖書は伝えています。

 そもそも、弟子の取り方からして、イエス様は通常のラビと決定的に違っていました。その違いが今日の聖書箇所に良く表れています。一般的には、タルミード(弟子)になりたい人がラビを選び、弟子入りするのです。そのような世界は、私たちの身近な習い事などにもあるので、容易に理解できるでしょう。そこには当然のことながら、弟子入りする者の求道心が前提とされているのです。

 しかし、イエス様の場合、そうではありませんでした。他の福音書においてイエス様はこんなことを言っています。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」(ヨハネ15:16)。普通のラビはそんなことは言わないのです。しかし、イエス様の言われたことは確かに事実です。ペトロやヨハネがイエス様を教師として選んだのではありませんでした。漁をしていた彼らの生活の中に、イエス様の方から入り込んできたのです。そして、イエス様が彼らを招いて弟子としたのです。

 この場面のマタイも同じです。「イエスはそこをたち」(9節)と書かれています。つまり、これは前の場面の続きなのです。イエス様が自分の町、カファルナウムに帰って来た。その事が知れると、大勢の群衆がイエス様の周りに集まってきました。中風の人を床に寝かせたまま連れて来るような人たちもいたのです。しかし、もちろんすべての人がイエス様のもとに集まったわけではないでしょう。そんなことに関心のない人もいたのです。事実、マタイは行かなかったのです。収税所に座って仕事をしていたのです。ナザレのイエスがカファルナウムに帰ってきたことなど、どうでも良かったのです。

 彼は「収税所に座って」いました。彼は徴税人です。今日の聖書箇所で、繰り返し徴税人は罪人と並べられています。それは理由のないことではありません。異邦人であるローマ人のために同胞から税金を取り立てる仕事が神に逆らうものとして蔑まれていただけではありません。実際、その業務には不正が入り込む余地がいくらでもありましたし、不正な利得が蓄えられることが行われてきたのです。ですから、「収税所に座っていた」と何気なく表現されているのですが、その言葉は、このマタイという人が、その時まさに罪深い生活の中にどっかりと腰をおろしていたことを暗に示しているのです。

 しかし、そのようなマタイに、イエス様の方から目を止められたのでした。そして、彼に言ったのです。「わたしに従いなさい」と。そこで何が起こったのでしょうか。「彼は立ち上がってイエスに従った」と書かれております。

 この「立ち上がる」という言葉は、「復活する」という意味で用いられる言葉でもあります。立ち上がったマタイ、復活したマタイ――確かにそうでした。罪の生活の中にどっかりと腰をおろしていた彼が、神との関わりに新しく生き始めた。それは確かに《復活》と表現することができるでしょう。もちろん、それで突然正しく立派な人間になるわけではないでしょう。しかし、ともかく立ち上がったのです。そして、キリストと共に新たに歩みはじめました。それがマタイに起こり、代々のキリスト者に起こり、そして私たちに起こったことなのです。

わたしが来たのは罪人を招くため
 そのようにイエス様がマタイを招かれたこと、そしてマタイが立ち上がったことを念頭に置きますと、その後の食事の場面の意味が見えてまいります。10節を御覧ください。「イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた」(10節)と書かれています。イエス様は、ここにおいてマタイの仲間と一緒に食事をしているのです。

 このような箇所を読みますときに、ともするとこれを単純に「イエス様は誰をも分け隔てしなかった」という話にしてしまいやすいものです。社会から排斥されていた人たちを、イエス様は差別しなかった。彼らとも一緒に食事をしたのだ、と。そんなイエス様に倣いなさいという話にしてしまいやすい。しかし、これはそのような話ではないのです。

 ファリサイ派の人たちは「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と弟子たちに言いました。その時、イエス様は「誰をも分け隔てしてはならないからだ」とは答えなかった。そうではなくて、イエス様はこう答えられたのです。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(12‐13節)。

 「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」。イエス様が引用された言葉は、お気づきと思いますが第一朗読で読まれたホセア書6章6節の御言葉です。ホセア書では「わたしが喜ぶのは愛であっていけにえではなく」となっていました。そうです、イエス様は父なる神が望んでおられることをしておられたのです。父なる神が喜ぶことをしておられたのです。「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」。それは徴税人や罪人を愛しておられたからです。そこにあったのは、神に背を向けて生きてきた人たちに対する、深い深い憐れみだったのです。

 この福音書を書いたマタイには、その意味することが良く分かっていたに違いありません。なぜなら、にマタイもまたイエス様に招かれた罪人の一人であったからです。そして、イエス様によって生き返らせていただいた一人であったからです。

 イエス様が罪人を招くのは、罪から救うためです。イエス様が自らを医者にたとえたように、イエス様が罪人を招くのは罪の病を癒すためです。罪の病とは神との断絶です。永遠の命の源である神から離れてしまっていることです。そのままでは死んでしまうから、罪によって滅びてしまうから、イエス様は罪人を招かれるのです。それゆえに、招かれた罪人は昔からまことの医者なるキリストに、このように祈ってきたのです。「主イエス・キリストよ、罪人なる私を憐れんでください。」と。

 そして、事実イエス様はこの地上において、罪人に対する憐れみを目に見える姿で現してくださいました。「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」。そうです、主は罪人を招くために来てくださいました。そして、その罪を全て代わりに負って、十字架にかかって死んでくださったのです。

 そして、三日目に復活された憐れみの主が、今も食事の席に私たちを招いてくださっているのです。その意味において、私たちは皆、マタイの家において主と共に食事をする徴税人であり罪人です。この礼拝堂はマタイの家です。罪人たちがイエス様と共に囲んでいる食卓こそ、この聖餐卓なのです。

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