2017年8月27日日曜日

「心をきれいにすることよりも大事なこと」

2017年8月27
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイによる福音書 12章45節~50節 
     コロサイの信徒への手紙 3章18節~4章1節
 
汚れた霊が出て行くと
 今日の福音書朗読の前半は、イエス様が群衆になさった、こんな話でした。「汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。戻ってみると、空き家になっており、掃除をして、整えられていた。そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を一緒に連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。この悪い時代の者たちもそのようになろう」(43‐45節)。

 汚れた霊が人から出て行ったり、砂漠をうろついてみたり、友達連れて戻ってきたりということは、今日の私たちにはほとんど馴染みのない話題です。しかし、もう一方において、イエス様が言わんとしていることは分かるような気もします。悪いものが出て行って、一時的に状態が良くなる。しかし、長続きしない。気がついてみると元の木阿弥になっている。いや元に戻るどころか、以前よりもっと悪くなっている。それは様々な意味合いにおいてありそうな話ですから。

 例えば、心に悪意を抱いている人は、こんなことではいけないと思って、誰かに対して抱いている悪意を心の中から追い出そうとする。心に嫉妬心を抱いている人は、こんなことではいけないと思って、嫉妬心を追い出そうとする。淫らな思いを抱いている人は、こんなことを考えていてはいけないと思って、淫らな思いを追い出そうとする。いつも先のことを思い煩ってばかりいる人は、こんなことではいけないと思って、不安や思い煩いを一生懸命に追い出そうとする。あるいは心の中に留まらず、生活の中から悪習慣を追い出して、きれいな生活を実現しようとすることもあるのでしょう。

 悪いものを追い出して、きれいな心や生活を実現しようとする努力は、ある程度は成功するようにも思います。しかし、どうも長続きしない。そんな経験をしたことがある人は少なくないのでしょう。気づいて見ると元の木阿弥になっている。いや、結局は努力してもダメだった自分を責めている内に、さらに様々な悪い思いが心の中に満ちてきて、状態は以前よりずっと悪くなってしまうことも起こります。その意味において、汚れた霊が友達を連れて帰って来るという奇妙な話は、案外誰にとっても身近な経験なのかもしれません。

 イエス様は、こんな話をした上で、「この悪い時代の者たちもそのようになろう」と言われました。イエス様が見ていた当時のユダヤ人の社会も、同じようなものだったようです。確かにイエス様の時代のユダヤ人たちは、特にこの直前に出て来るようなファリサイ派の人たちは、皆、自分の内から悪いものを追い出して、生活からも悪いものを追い出して、宗教的にも道徳的にも清く生きることを願っていたのです。とにかく汚れたものは大嫌い。汚れた生活をしている異邦人などとは絶対に付き合わない。律法を守ろうとしない連中となど、絶対に一緒に食事などしない。そのように、清い者となることは、一大関心事だったのです。しかし、イエス様は言われます。そのように汚れたものを追い出して、お掃除したって、あいつらは自分より悪い友達を連れて帰ってくるものだ、と。

 実際、福音書を読んでいますと、イエス様の言われることは本当だと思わずにはいられません。汚れたものを追い出して、遠ざけて、清くあろうとした人たちの内側には、実は彼らも気付かない内に、汚れた霊の友達が一杯住み着いていたのです。例えば、妬み、憎しみ、敵意、殺意などなど。結局それら全てがイエス様に対して噴出することとなりました。既に「ファリサイ派の人々は出て行き、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した」(14節)などとも書かれています。清さを求めた人たちの内に殺意が満ちていたのです。

 皆さん、汚れたものを一生懸命に追い出すこと、そのために努力することは、良いことのように思えるではありませんか。しかも、追い出すだけでなく、掃除をして、整えるのです。そのように努力することはとても良いことのように思えるではありませんか。しかし、イエス様はそれでは掃除をして整えられた空き家のようなものだというのです。そのままでは、そこに悪いものがさらに満ちて、より悪いものになってしまうのです。

心を空き家にしないため
 そこでこの福音書はさらに46節以下の話を続けるのです。今日の朗読の後半部分です。「イエスがなお群衆に話しておられるとき、その母と兄弟たちが、話したいことがあって外に立っていた。そこで、ある人がイエスに、『御覧なさい。母上と御兄弟たちが、お話ししたいと外に立っておられます』と言った。しかし、イエスはその人にお答えになった。『わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか。』そして、弟子たちの方を指して言われた。『見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である』」(46‐50節)。

 「汚れた霊が戻ってくる」という話とこのエピソードは一見関係なさそうに見えるかもしれません。実際、ルカによる福音書ではそれぞれ別の章に記されています。しかし、マタイは「イエスがなお群衆に話しておられるとき」という言葉をもって、あえて関連づけて書。そこで私たちは今日、43節から50節までを一つのまとまりとして読んだのです。

 イエス様は言われました。「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか」。まるで、外に立っているのは母親でも兄弟でも何でもない、と言わんばかりです。しかし、イエス様はこれを母マリアや兄弟たちに向かって言ったのではありません。そうではなくて、彼らが外に立っていることを伝えにきた人に言ったのです。さらに言うならば、ただその人に聞かせるためでもありません。それは弟子たちに聞かせるためでもあったのでしょう。そこには何人かの律法学者たちとファリサイ派の人たちもいたのです。あえて「弟子たちの方を指して言われた」と書かれているのです。その彼らの面前で、弟子たちを指して、イエス様はこう言われたのです。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である」(49‐50節)。

 そのようにイエス様は「ここにいるのはわたしの家族だ」と言われたのです。「わたしにとって外にいる肉親と同じくらい、いやそれ以上に大事なわたしの家族だ。わたしの天の父の御心を共に行っていく家族なのだ」と主は言われたのです。「ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる」と。

弟子たちは、このイエス様の言葉を忘れることができなかったに違いありません。そして、その意味するところを後に深く悟ったことでしょう。まさにそのために、イエス様が十字架にかかり命を献げてくださったのだ、ということを。

 私たちにとっても、何よりも重要なのは、イエス様から「あなたたちはわたしの家族だ」と言われているのだという認識です。そして、イエス様の家族として、イエス様と共に、イエス様が示してくださった天の父の御心を行おうとして生きていくことなのです。そのようにイエス様の家族として、イエス様のことを思い、天の父のことを思って生きることなのです。そして、父の御心を行うために、聖霊に満たされて生きることを求めることです。

それは心をきれいにすることよりも、ずっと大事なことなのです。追い出してきれいに整えることよりも、良きものに満たされていることの方が大事なのです。イエス様の兄弟として天の父の御心を行おうとしている限り、心は空き家にはなりません。そこにはキリストと天の父がおられ、聖なる霊が満たしてくださるから。だから汚れた霊が出て行くならば、友達を連れて戻ってきて、より悪いものが住み着く余地がなくなるのです。

身近な人間関係においても
 さて、本日の第二朗読においては、私たちにとって最も身近な人間関係である「家庭」の事柄が取り上げられていました。「家庭訓」と呼ばれます。ユダヤ人の間においては古くからしばしば論じられてきた事柄です。ここでは夫婦の関係、親子の関係、そして奴隷と主人との関係が取り上げられています。もっとも奴隷と主人の関係は、当時においては家族の事柄だったのですが、現代の私たちにとってはむしろ社会生活における労使関係として適用できるかも知れません。いずれにせよ身近な人間関係において私たちがいかに生きるべきか、具体的な勧めを与えている聖書箇所です。

しかし、ここに書かれていることは、単に身近な人間関係から悪いものを追い出して、より良いものにするための知恵ではありません。ここで大事なのはその直前に書かれていることなのです。「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい」(コロサイ 3:16‐17)。

 そのように、ここに書かれている勧めの大前提となっているのは共に御言葉を聞き、心に宿し、共に神を礼拝し、感謝して生きる生活なのです。つまりは生活のあらゆる領域においてイエス様を思い、天の父を思い、聖霊に満たされて生きる生活です。きれいに整えられた空き家ではなく、良きものに満たされ、良き御方によって治められている生活です。

 だからこそ、そこには妻については「主を信じる者にふさわしく」と書かれ、親については「それは主に喜ばれることです」と書かれているのです。奴隷については、「何をするにも、人に対してではなく、主に対するように、心から行いなさい」と語られ、主人については「知ってのとおり、あなたがたにも主人が天におられるのです」と語られているのです。明らかに、そこでまず大事になってくるのは、主との関係なのです。主が家の外ではなく、家の中に、しかも中心にいてくださることなのです。

2017年8月20日日曜日

「希望を捨ててはなりません」

2017年8月20
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイによる福音書 10章16節~25節  

 今日の聖書箇所の直前には、イエス様が十二弟子を周辺の町々村々に遣わされたことが書かれています。ですから今日お読みした言葉は、イエス様が弟子たちを派遣するに当たって語られた言葉として読むことができます。しかし、その内容を読みます時に、イエス様はただ目の前の十二人のことだけを考えて語っておられるのではなさそうです。ここに語られていることが実際に起こるのは後の教会においてだからです。

 やがてこの弟子たちは、また後のキリスト者は、迫害を受けるようになります。地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれることにもなります。総督や王の前に引き出されることにもなります。十二人を派遣する時には「異邦人の道に行ってはならない」と主は言われましたが、後の時代においては、否応なくこの世の法廷に引き出され、総督や王や異邦人たちにキリストのことを語ることになるのです。そのように、イエス様は未来の弟子たち、未来の教会を念頭において語っておられるのです。

蛇のように賢く、鳩のように素直に
 そのようにキリストが弟子たちを世に遣わすこと、教会を宣教のために世に遣わすことを、主は「狼の群れに羊を送り込むようなものだ」と表現しました。狼の群れに羊が送り込まれたら、羊はたちまち困難に直面することになるのでしょう。しかし、それが主によって遣わされるということであり、宣教するということなのだと主は言われるのです。ならば、宣教は決して容易なことではありません。

 日本の宣教は難しいと言われてきました。しかし、難しくない宣教などないのです。初めから困難を伴うものであることを主は語っておられたのです。それは今日においては必ずしも迫害という形ではないかもしれません。しかし、教会が宣教の使命を果たしていこうとするならば、必ず困難に直面するのです。キリスト者が信仰をもってこの世に生き、キリストを証しして生きようとするならば、必ず困難に直面するのです。

 「だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」(16節)と主は言われるのです。一度聞いたら忘れることができないほどに印象的な言葉です。これが「鳩のように素直に」だけならば、恐らく記憶に残らないでしょう。それはある意味で信仰者のイメージに合致するからです。違和感を覚えるのは前半です。主は「蛇のように賢く」と言われたのです。

 「蛇のように賢く」という言葉の元になっているのは、恐らく創世記の物語です。エバが蛇に誘惑されて禁断の木の実を食べてしまったという話です。その蛇が聖書に登場する際に、こう書かれているのです。「主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった」(創世記3:1)。

 確かに創世記に出て来る蛇の誘惑は実に巧妙です。確かに賢い。ずる賢い。しかし、この世の悪の誘惑はまさにそのように忍び寄ってくるのでしょう。悪魔の誘惑とはそういうものではありませんか。しかし、悪魔が人間を誘惑するほどに、それほどに私たちは賢くあろうとしているのでしょうか。教会はこの世界にキリストを宣べ伝えるために、それほどに賢くあろうとしているのでしょうか。主は言われるのです。「蛇のように賢くなりなさい」と。

 実際、もしこれが迫害の時代ならば、集会を一つ行うにしても知恵が必要だったことでしょう。誰に、いつ、どのようにしてキリストのことを証するのか。そのことにも知恵が必要だったことでしょう。イエス様が言われたことの意味は、身に染みてよくわかったと思います。ともすると私たちには主が言われるほどに「狼の群れに羊を送り込むようなものだ」という意識がないものですから、「蛇のように賢くなりなさい」という主の言葉の重要性を切実には感じていないかもしれません。しかし、異なる時代を生きる私たちにとっても、直面しなくてはならない困難の形が違うだけで、本当は同じことなのでしょう。主は言われるのです。「蛇のように賢くなりなさい」と。

 しかし、たとえ「蛇のように賢く」あったとしても、それでも捕らえられる時は捕らえられるし、地方法院に引き渡されるようなことも起こります。鞭打たれるようなことも起こります。だから、蛇のように賢いだけでなく、「鳩のように素直になりなさい」と主は言われるのです。

 「素直に」というのは「混じり気のない」とか「純真な」という意味合いの言葉です。それはただひたすら神に依り素朴な信仰を意味するのでしょう。主は具体的にこう言われるのです。「引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる。実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である」(19‐20節)。

 たとえ地方法院に引き渡されるようなことになったとしても、そこで父の霊が語ろうとしていることがあるのです。総督の前に引き出されるようなことになったとしても、そこで父なる神がしようとしていることがあるのです。そのように、人間の目には最悪の事態が訪れたように見えたとしても、それでもなおそこで神がなさろうとしていることがあるのです。神の計画は進んでいるのです。人はただ鳩のように素直に、純真素朴に信頼したらよいのです。

最後まで耐え忍ぶ者は救われる
 そして、さらにイエス様は言われました。「兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる」(21‐22節)。

 すでに見てきたように、主は教会の宣教について、初めから困難を伴うものとして語っておられました。繰り返しますが、教会が宣教の使命を果たしていこうとするならば、必ず困難に直面するのです。キリスト者が信仰をもってこの世に生き、キリストを証しして生きようとするならば、必ず困難に直面するのです。

 しかし、迫害の時代のキリスト者が経験していた最も大きな困難は、恐らく宗教的な権威や国家権力により苦しめられることではなく、家族との間に生じる軋轢や断絶だっただろうと想像いたします。「兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう」。家族に限らず、愛する者から理解されないこと、憎まれるようになることほど、辛いことはないでしょう。しかも救いを証しすればするほど、かえって憎まれることになるのです。

 そこで主が語られた言葉はどれほど大きな励ましであったかと思います。主は言われました。「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」。実は、この福音書の24章にもそっくり同じ形でこの言葉が出て来ます。語順も全く同じままマルコによる福音書にも出て来る。恐らく昔の教会において、このままの形で記憶され、皆がしばしば口にしていたイエス様の言葉だったのだと思います。「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」。互いにそう言い交わしながら励まし合ったのだと思います。

 「最後まで」と言われているということは、すなわち「最後がある」ということです。終わりがある。永遠じゃないということです。迫害は永遠ではありません。いかなる苦しみも永遠ではありません。それは限られた期間です。必ず最後がある。トンネルに必ず出口があるように、夜明けは必ず訪れるように、必ず「最後」があるのです。だから「耐える」こともできる。「耐え忍ぶ」のです。

 その「耐え忍ぶ」という言葉は、もともと「留まる」という言葉に由来するものです。「耐え忍ぶ」とは「留まる」ということです。どこに留まるのでしょう。信仰に留まるのです。聖書が語っている「忍耐」とはそういうことです。信仰に留まることです。

 実はこれと同じ言葉が詩編に何度も何度も出て来るのです。詩編はもともとヘブライ語で書かれているのですが、そのギリシャ語訳聖書にこの言葉が何度も使われているのです。興味深いことに、ほとんどの場合、「待ち望む」という意味の訳語として用いられているのです。主を待ち望むということです。例えば、「主を待ち望め、雄々しくあれ、心を強くせよ。主を待ち望め」(詩編27:14)というように。この「待ち望む」と新約聖書の「耐え忍ぶ」は同じ言葉です。

 そのように、「耐え忍ぶ」「忍耐する」とは「待ち望む」ことなのです。主を待ち望むことです。どこまでも待ち望むことです。希望を放棄しないことです。絶望しないことです。信仰に留まって、希望に生きる、どこまでも希望に生きることです。「忍耐する」とはそういうことです。

 「蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」と主は言われました。そして、その上で主が与えられた約束の言葉です。「最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」そうです。希望を捨ててはなりません。

2017年8月13日日曜日

 「天の国を宣べ伝えるために」

2017年8月13
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイによる福音書 10章1節~15節 


 今日の聖書箇所はイエス様が十二人の弟子を呼び寄せたところから始まります。弟子と呼ばれる者たちは、この時点で既に数多くいたに違いありません。しかし、ここで特に十二人が他の者と区別されて呼び寄せられたのです。彼らは後に復活したキリストにお会いし、「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」(28・19)というキリストの言葉を聞くことになる人たちです。

 今日の聖書箇所では、そのような十二人の弟子たちが、生前のキリストによって周辺の町々村々に遣わされた次第を伝えています。これは、後に復活のキリストによって派遣される前の、いわば予行演習であると言ってもよいでしょう。当然のことながら、この出来事は、そこにいた弟子たちだけでなく、後の教会にも関係することとして伝えられたに違いありません。

 今日、私たちはこの聖書箇所において、特に三つのことに心を留めたいと思います。

キリストによって遣わされて
 その第一は、主が十二弟子を派遣するに当たり、「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない」と語られた、ということです。

 彼らは「十二使徒」(2節)と呼ばれています。「使徒」とは「遣わされた者」という意味です。「遣された者」であるということは、自らのために存在しているのではない、ということを意味します。ですから、使徒の派遣から始まる教会は、それ自体のために存在しているのではありません。派遣する主のために、また、その対象であるこの世界のために存在するのです。

 私たちは教会の形成に心を注ぎ、教会が成熟し成長することを願います。しかし、それは教会自身のためではありません。教会が神とこの世界に仕えるためです。私たちが信仰を与えられ、キリスト者とされているのは、ただ単に私たちの救いのためではありません。この世に遣わされるためなのです。

 「世に仕える教会」ということが語られる時、《主によって派遣されたものとして》仕えるのだということを十分に理解することは重要です。派遣された者にとって重要なことは、派遣する御方の御心を行うことです。その意味において、教会の働きの動機は、人道的な使命感とは一線を画します。教会は人道的な使命感によって動いていくのではないのです。

 それは今日の箇所においても良く現れています。5節後半以下を御覧ください。キリストは弟子たちに次のようなことを命じられました。「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい」(5b‐6節)。これは極めて排他的な言葉です。差別的な響きをもっているとも言えます。しかし、私たちは、異邦人やサマリア人を排除し、差別するかのように聞こえるこの言葉を、後の教会が大切に伝えてきたことを良く考えねばなりません。

 「後の教会」とは異邦人にも伝道している教会です。異邦人もいる教会の礼拝において、このようなイエス様の言葉は伝えられてきたのです。《今》はそうではないけれど、《あの時には》異邦人ではなくイスラエルの失われた羊のところへ行けとキリストは言われたのだ。そして弟子たちはその命令に従ったのだ。その事実を、重要なこととして教会は伝えたのです。それが「派遣される」ということだからです。

 この世の中には為した方が良いと思えることがたくさんあります。また為すべきであると思えることもたくさんあります。しかし、一般的な意味で《為した方が良いこと》《為すべきであると思えること》が、必ずしも遣わされている者にとって《その時に為すべきこと》であるとは限りません。

 繰り返しますが、遣わされている者にとって重要なことは、遣わす御方の御心に従うことであって、自分の使命感に従うことではないからです。その意味において、教会がこの世の声に耳を傾ける《前に》、キリストの言葉に耳を傾けることは正しいことです。その順序を間違えてはならないのです。

天の国を宣べ伝えるために
 そして、注目すべき第二は、主が十二弟子を派遣するに当たり、為すべきこととして、まず「行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい」と命じられた、ということです。

 キリストは弟子たちにこう言われました。「行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい」(7‐8節)。

 教会が遣わされている世界は、病気のある世界です。死のある世界です。具体的な様々な苦悩に満ちている世界です。教会はその病気や死に代表される様々な具体的な苦悩に関わります。その癒しのために仕えます。「病人をいやし、死者を生き返らせる」ということは文字通り起こるのでしょうか。文字通りの仕方で起こるかもしれませんし、文字通りの仕方では起こらないかもしれません。しかし、いかなる形にせよ、主が私たちを遣わし、私たちを用いられる時、そこでは広い意味での癒しが起こります。

 しかし、重要なことは、そこで起こることは天の国を指し示すしるしである、ということです。それは神の恵み深い支配を指し示すしるしとなるのです。ですから、ただ癒しのために仕えるのではなく、その前に告げ知らせるべき言葉があると語られているのです。「『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい」と。

 「天の国は近づいた」――これはキリスト自身が宣べ伝えていた言葉です。すでに4章17節に出てきました。そこではこう書かれております。「悔い改めよ。天の国は近づいた」(4:17)。そのように、「天の国は近づいた」と宣べ伝えるということは、「悔い改めよ」と呼びかけることでもあります。「悔い改める」とは、ただ「悪い行いを改める」ということではなく、「神に立ち帰る」ということです。

 神が恵み深く近づいてきてくださいました。天の国は近づきました。しかし、そこに入るには、人間が方向を変えて神に立ち帰らなくてはなりません。弟子たちは、そのことを告げるために送り出されたのです。そのように教会もこの世に遣わされているのです。

 ですから、そこにはまた、「悪霊を追い払いなさい」とも命じられております。悪霊は人を神から引き離そうとする力です。悪霊は人間を罪の縄目に捕らえて離そうとしません。「悪霊」と聞いて、オカルト的な憑依現象のようなものだけを考えてはなりません。そのような現象などは片鱗に過ぎません。まさに神から引き離されたこの世界のありとあらゆる悲惨さが、悪しき霊の支配を現しているのです。

 主は、その悪霊を追い払え、と命じられました。それは悪霊の支配から、神の恵みの支配のもとへと人を回復することに他なりません。ですから、悪霊を追い払うことと、天の国を宣べ伝え、悔い改めを宣べ伝えることは、別々のことではなく一つのことなのです。


キリストの権威によって
 そして、注目すべき第三は、主が十二弟子を派遣するに当たり、彼らの持ち物のほとんどを没収してしまわれた、ということです。

 イエス様は言われました。「帯の中には金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない。働く者が食べ物を受けるのは当然である」(9‐10節)。このように、弟子たちは大きな務めを与えられて遣わされるにもかかわらず、その働きのために必要と思われるものを、彼らは何一つ持っていくことは許されませんでした。

 しかし、彼らには何も無かったのではありません。もう一度1節を御覧ください。「イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった」(1節)と書いてあるのです。この権威・権能は、もともとキリスト御自身の権威・権能です。彼らは、そのキリストの権威を受け取って、その権威を携えて出て行くことが許されていたのです。

 これは彼らに恵みの賜物として与えられたものです。ですから、「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」(8節)と命じられているのです。彼らの働きは、このただで与えられもの、恵みの賜物として与えられたものによって成し遂げられるのであって、彼らが携えていける他の何かによるのではないのです。

 さて、私たちには、この話はあまりにも極端に思えます。何も無かったら、宣教の働きはおろか、旅を続けることさえ不可能ではないか――。そう思ってしまいます。

 一方、今日の教会は状況がずいぶん違います。私たちの教会は経済的に自立していると言えます。教会にはまた、多種多様な才能を持った人もいます。それぞれが受けてきた教育もあります。積んできた経験もあります。なので、往々にして、私たちはそのように自分たちが持っているものによって、自分たちが能力的にできることによって、教会の宣教の働きが続けられると考えてしまいます。私たちは持っているから、与えることができるのだ、と。

 あるいは逆のことも起こり得ます。自分たちは豊かでもないし、能力も乏しく、教育もなく、知識も経験もないから、与えることのできる何をも持っていない。教会として、あるいは個人として、そのように考えてしまうことがあるかもしれません。

 実際、古代の教会にしても、すべての教会が常に履物も杖も下着もないような状態ではなかったでしょう。教会にせよ個人にせよ、置かれている状況は時と共に変わります。豊かにもなれば貧しくもなります。

 しかし、だからこそ、イエス様があの時弟子たちに語られたこの言葉を、教会は大切に伝えてきたのです。宣教の働きというものは、恵みによって賜物として、ただで与えられたものによるのだ、ということを忘れないためです。すなわち、私たちと共にいてくださるキリストの権威と私たちに与えられている福音そのものの力です。

 それゆえにまた、宣教の業は主に依り頼むこと、そして祈ることと不可分なのです。実際、あの弟子たちにしても、手元に何もないならば、天を仰ぐしかなかったでしょう。そして、何も携えずに出ていったあの弟子たちは、それでも確かに天の御国を宣べ伝え、悪霊を追い払うことができたのです。そのことを私たちは忘れてはならないのです。

2017年8月6日日曜日

「罪人を招いてくださる神」

2017年8月6
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイによる福音書 9章9節~15節

わたしに従いなさい
 今日お読みしました物語は、ある徴税人が主によって招かれたところから始まります。その人の名は「マタイ」です。彼は十二弟子の一人でありまして、伝統的にはマタイによる福音書はこの人によって書かれたとされています。既にシモンとアンデレ、ヤコブとヨハネが主の弟子とされた経緯が四章に書かれていました。次第に弟子の群れが形成されつつありました。その弟子の群れにマタイが加えられたというのがここに書かれている出来事です。

 ところで、「弟子」という言葉が繰り返し出てくるのですが、これはユダヤ人の言葉では「タルミード」と言います。そして、「タルミード」と言いますと、一般的には、ユダヤ教の教師(ラビ)のもとで律法を学ぶ生徒を指します。ラビの言葉に耳を傾け、質問をし、聞いたことを復唱し暗記する。また、ラビの生活を倣い、律法に従った生活を学ぶ。それが弟子(タルミード)です。

 実際、イエス様の弟子たちも、そのような一般的なタルミードの生活していたのだと思います。イエス様の言葉に耳を傾け、復唱し暗記する。またイエス様の生活を良く見て倣う。弟子たちがそのようにしてくれたおかげで、イエス様の言葉、イエス様の物語が今日に至るまで残っているのです。

 そのように、外から見るならば、明らかにイエス様は一人のラビであり、シモンやアンデレたちはタルミードでありました。ですから福音書において、イエス様がしばしば「ラビ」とか「先生」と呼ばれているのです。しかし、もう一方において、イエス様はユダヤ教のラビとしてはあまりにも異質な存在であったことも事実です。その故に、他のラビたち、律法学者たちと繰り返し衝突が起こったことを聖書は伝えています。

 そもそも、弟子の取り方からして、イエス様は通常のラビと決定的に違っていました。その違いが今日の聖書箇所に良く表れています。一般的には、タルミード(弟子)になりたい人がラビを選び、弟子入りするのです。そのような世界は、私たちの身近な習い事などにもあるので、容易に理解できるでしょう。そこには当然のことながら、弟子入りする者の求道心が前提とされているのです。

 しかし、イエス様の場合、そうではありませんでした。他の福音書においてイエス様はこんなことを言っています。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」(ヨハネ15:16)。普通のラビはそんなことは言わないのです。しかし、イエス様の言われたことは確かに事実です。ペトロやヨハネがイエス様を教師として選んだのではありませんでした。漁をしていた彼らの生活の中に、イエス様の方から入り込んできたのです。そして、イエス様が彼らを招いて弟子としたのです。

 この場面のマタイも同じです。「イエスはそこをたち」(9節)と書かれています。つまり、これは前の場面の続きなのです。イエス様が自分の町、カファルナウムに帰って来た。その事が知れると、大勢の群衆がイエス様の周りに集まってきました。中風の人を床に寝かせたまま連れて来るような人たちもいたのです。しかし、もちろんすべての人がイエス様のもとに集まったわけではないでしょう。そんなことに関心のない人もいたのです。事実、マタイは行かなかったのです。収税所に座って仕事をしていたのです。ナザレのイエスがカファルナウムに帰ってきたことなど、どうでも良かったのです。

 彼は「収税所に座って」いました。彼は徴税人です。今日の聖書箇所で、繰り返し徴税人は罪人と並べられています。それは理由のないことではありません。異邦人であるローマ人のために同胞から税金を取り立てる仕事が神に逆らうものとして蔑まれていただけではありません。実際、その業務には不正が入り込む余地がいくらでもありましたし、不正な利得が蓄えられることが行われてきたのです。ですから、「収税所に座っていた」と何気なく表現されているのですが、その言葉は、このマタイという人が、その時まさに罪深い生活の中にどっかりと腰をおろしていたことを暗に示しているのです。

 しかし、そのようなマタイに、イエス様の方から目を止められたのでした。そして、彼に言ったのです。「わたしに従いなさい」と。そこで何が起こったのでしょうか。「彼は立ち上がってイエスに従った」と書かれております。

 この「立ち上がる」という言葉は、「復活する」という意味で用いられる言葉でもあります。立ち上がったマタイ、復活したマタイ――確かにそうでした。罪の生活の中にどっかりと腰をおろしていた彼が、神との関わりに新しく生き始めた。それは確かに《復活》と表現することができるでしょう。もちろん、それで突然正しく立派な人間になるわけではないでしょう。しかし、ともかく立ち上がったのです。そして、キリストと共に新たに歩みはじめました。それがマタイに起こり、代々のキリスト者に起こり、そして私たちに起こったことなのです。

わたしが来たのは罪人を招くため
 そのようにイエス様がマタイを招かれたこと、そしてマタイが立ち上がったことを念頭に置きますと、その後の食事の場面の意味が見えてまいります。10節を御覧ください。「イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた」(10節)と書かれています。イエス様は、ここにおいてマタイの仲間と一緒に食事をしているのです。

 このような箇所を読みますときに、ともするとこれを単純に「イエス様は誰をも分け隔てしなかった」という話にしてしまいやすいものです。社会から排斥されていた人たちを、イエス様は差別しなかった。彼らとも一緒に食事をしたのだ、と。そんなイエス様に倣いなさいという話にしてしまいやすい。しかし、これはそのような話ではないのです。

 ファリサイ派の人たちは「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と弟子たちに言いました。その時、イエス様は「誰をも分け隔てしてはならないからだ」とは答えなかった。そうではなくて、イエス様はこう答えられたのです。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(12‐13節)。

 「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」。イエス様が引用された言葉は、お気づきと思いますが第一朗読で読まれたホセア書6章6節の御言葉です。ホセア書では「わたしが喜ぶのは愛であっていけにえではなく」となっていました。そうです、イエス様は父なる神が望んでおられることをしておられたのです。父なる神が喜ぶことをしておられたのです。「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」。それは徴税人や罪人を愛しておられたからです。そこにあったのは、神に背を向けて生きてきた人たちに対する、深い深い憐れみだったのです。

 この福音書を書いたマタイには、その意味することが良く分かっていたに違いありません。なぜなら、にマタイもまたイエス様に招かれた罪人の一人であったからです。そして、イエス様によって生き返らせていただいた一人であったからです。

 イエス様が罪人を招くのは、罪から救うためです。イエス様が自らを医者にたとえたように、イエス様が罪人を招くのは罪の病を癒すためです。罪の病とは神との断絶です。永遠の命の源である神から離れてしまっていることです。そのままでは死んでしまうから、罪によって滅びてしまうから、イエス様は罪人を招かれるのです。それゆえに、招かれた罪人は昔からまことの医者なるキリストに、このように祈ってきたのです。「主イエス・キリストよ、罪人なる私を憐れんでください。」と。

 そして、事実イエス様はこの地上において、罪人に対する憐れみを目に見える姿で現してくださいました。「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」。そうです、主は罪人を招くために来てくださいました。そして、その罪を全て代わりに負って、十字架にかかって死んでくださったのです。

 そして、三日目に復活された憐れみの主が、今も食事の席に私たちを招いてくださっているのです。その意味において、私たちは皆、マタイの家において主と共に食事をする徴税人であり罪人です。この礼拝堂はマタイの家です。罪人たちがイエス様と共に囲んでいる食卓こそ、この聖餐卓なのです。

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