2017年7月23日日曜日

「賢い人と愚かな人」

2017年7月23
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイによる福音書 7章24節~29節

この御方はだれですか
 今日は「山上の説教」の最後の部分をお読みしました。次のように締めくくられていました。「イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである」(28‐29節)。

 イエス様の語り方は、ユダヤ人の律法学者たちとは明らかに異なっていました。それは「山上の説教」だけを読んでもわかります。律法学者なら、あくまでも「律法」を権威あるものとして語ります。律法学者はどんなに高名なラビであっても権威ある律法を解釈する者に過ぎません。そのような者として語ります。しかし、イエス様の語り方はそうではありませんでした。律法が命じていることを引き合いに出した上で、「しかし、わたしは言っておく」と続けるのです。

 イエス様は律法のもとに自らを置いて語るのではなく、律法を与えた神の位置に身を置いて語るのです。神の権威をもって神の言葉を語るのです。「彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになった」とはそういうことです。だから群衆は驚いたのです。

 もちろんそれは群衆の驚きだけでは済みません。そんなことをしていれば、やがては律法を重んじる人々の怒りを引き起こすことにもなるのでしょう。律法学者から神を冒涜する者と見なされることにもなるのでしょう。

 しかし、そのようなことは百も承知の上で、イエス様は大胆にもこのように語られるのです。「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている」(24節)と。

 「わたしのこれらの言葉」とは、神の位置に身を置いて語ってきた言葉です。ならばそれを「聞いて行う者」というのは、ただ「教えを実践する者」という意味ではありません。そうです。ここには「聞いて行う者」と「聞くだけで行わない者」が出て来るのですが、ここで問題になっているのは単に「教えを聞いて実践するか否か」ということではないのです。聞くだけで実践しなかったら意味がありませんよ、といった表面的なことではないのです。

 ここで問題とされているのは、そもそも主の御言葉をどのように受け止めているか、ということなのです。イエス様の語られる言葉を「神の言葉」として受け取っているか、そうでないのか。「しかし、わたしは言っておく」と語られるその言葉に神の権威を認めて、その権威に服して生きようとしているのか、そうでないのか、ということなのです。

 それは直接その場でイエス様の言葉を聞いた人に対してだけでなく、この福音書を通してイエス様の言葉を聞いている私たちにも問われていることでもあります。そのつもりでマタイは書いているのです。私たちは本当にその御方に神の権威を認め、その言葉を神の言葉として受け取っているのでしょうか。「わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている」と言われるその御方は、わたしにとって、あなたにとって、いったいどのような御方なのでしょうか。

権威ある者として
 「群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである」。そのようにイエス様は「権威ある者」として語られました。それが「神の権威」であるならば、それは第一に人間に命じることのできる権威を意味するのでしょう。

 神は創造者です。人間は造られた者です。神がそのような神ならば、神は本質的に人間に対して「命じる権威」を持っています。神の律法を与える権威を持っているのです。従順を求める権威を持っているのです。ですから、その権威をもって語られるイエス様も命じるのです。「しかし、わたしは言っておく」と語り、「聞いて行うこと」を求めるのです。従順を求められるのです。

 それゆえに、イエス様の語られる言葉を神の言葉として聞くということは、イエス様が命じる権威を持っていることを認めることでもあります。私たちに対するそのような絶対的な権威を認めるということです。私たちに従順を求めることのできる絶対的な権威を認めて、その権威に服するということです。

 そして、当然のことながら、命ずることができるということは、裁くこともできるといことでもあります。命ずることのできる権威は、命じたことに従わない者を罪に定めることのできる権威でもあるからです。

 神はすべての人間に命じる権威を持っています。神は律法を与える権威を持っています。それゆえに、律法違反を裁く権威を持っています。イエス様に神の権威を認め、イエス様の語られる言葉を神の言葉として聞くということは、イエス様に絶対的な裁きの権威を認めるということでもあります。人間を裁いて罪に定める権威を認めるということです。私たちに対する最後の言葉を持っている御方として、イエス様を見るということです。

 それは恐ろしいことでしょうか。いいえ、そうではありません。罪に定める権威を持っているということは、罪を赦す権威を持っているということでもあるからです。最終的に人間を罪に定めることができるのは神です。それゆえに、最終的に人間の罪を赦すことができるのも神なのです。イエス様の語られる言葉を神の言葉として聞くといことは、この御方に罪を赦す絶対的な権威を認めるということでもあるのです。

 実際、そのことが問われる場面が後の9章に出て来ます。イエス様のもとに連れて来られた中風の人を主が癒された場面です。イエス様はその人を癒される前に、中風の人にこう言われたのです。「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」(9:2)。山上の説教において、権威ある者として教えられたイエス様は、同じ権威をもって、神の権威をもって罪の赦しを宣言されるのです。

 しかし、それを見ていた律法学者が心の中でつぶやくのです。「この男は神を冒涜している」と。イエス様に神の権威を認めなければ、当然そうなるのです。ですから、山上の説教におけるのと同じ事がそこで問われているのです。その御方に神の権威を認め、その言葉を神の言葉として受け取るのかどうかということです。

 イエス様は律法学者たちの心を見抜いてこう言われました。「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう」(9:6)。そして、中風の人にこう命じたのです。「起き上がって床を担ぎ、家に帰りなさい」。そのように、命じる権威と罪に定める権威、罪を赦す権威は一つなのです。

 そのような権威をもって語られているからこそ、山上の説教において繰り返し語られる「あなたがたの天の父は」という言葉もまた意味を持つのです。先週読まれました「あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない」という言葉も意味を持つのです。このような言葉は神の権威を持たない者が語ったとしても、意味がないからです。それは辛い時の気休め程度にはなるかもしれませんが、本質的には無意味でしょう。

 しかし、その御方は権威ある者として語っておられるのです。神の権威をもって語っておられるのです。最終的に罪に定めることのできる権威をもって、それゆえに罪を赦すことのできる絶対的な権威をもって語っておられるのです。「あなたがたの天の父は」と。そのように、私たちを神の子どもたちとして語るのです。そして、今この世にいる時から、神の子どもたちとして生き始めるようにと命じられるのです。神の絶対的な権威をもって「わたしは言っておく」と語られるのです。

嵐が来ても倒れないように
 さて、今日の聖書箇所は岩の上に家を建てた賢い人、砂の上に家を建てた愚かな人について語ります。そこで問題となっているのは土台です。そして、このように語られる神の権威、キリストにおいて現されたこの神の権威こそが、人生を支える揺るぎない土台となるのだということです。それゆえに、イエス様の語られる言葉を「神の言葉」として受け取るか否か、語られるその御方に神の権威を認めて、その権威に服するか否かということが決定的に重要な意味を持つのです。

 もう一度お読みします。イエス様は言われました。「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった」(24‐27節)。

 「雨が降り、川があふれ、風が吹いて」という言葉は様々な意味に取ることができます。それはこの世における様々な試練を意味するとも言えます。最終的に誰もが直面しなくてはならない自分自身の「死」の問題であるとも言えます。あるいは、終わりの日の裁きを意味するとも言えるでしょう。いずれにせよ、洪水や風に象徴されるのは、人間の力が及ばない現実です。人間の力が及ばない現実は襲って来る。そして私たちの存在が根底から揺さぶられるようなその時は来るのです。その時に私たちは岩の上に立っているのでしょうか。それとも砂の上に立っているのでしょうか。

 もちろん、キリスト教との関わり方は幾通りもあるのでしょう。教養としてのキリスト教、生活指針としてのキリスト教、文化としてのキリスト教・・・そのような関わり方もあろうかと思います。「イエス様の言葉は知っています。毎週聞いています」という程度の関わり方もあろうかと思います。

 しかし、どこに家を建ててきたかが問われる時は来るのです。岩の上にあるのか砂の上にあるのかが問われるのです。嵐の中で問われるのです。神の権威をもって語られる御方とどう関わってきたか。神の権威によって裁かれ、神の権威によって罪を赦された者として、神の権威をもって語られた神の言葉をどう受け止めてきたか。どのように従ってきたか。砂の上に建ててきたのか。岩の上に建ててきたのか。それが問われるのです。

 それゆえにこのたとえ話は私たちに対する招きの言葉でもあります。この御方は神の言葉を語られます。神の言葉に聞き従いなさい。あなたの人生という家を、神の権威という揺るぎない岩の上に建てなさい。嵐が来ても倒れないように、と。

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