2017年7月9日日曜日

「思い悩むな」

2017年7月9
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイによる福音書 6章25節~34節

思い悩むな
 「空の鳥をよく見なさい。」「野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。」そう主は言われました。実際に空を飛び回る鳥たちを見ながら、野に咲き乱れる花々を見ながら、主はこの言葉を語られたのでしょう。その言葉だけを聞くならば、思い描かれるのは実にのどかな風景です。

 しかし、実際にはどうだったのでしょうか。恐らくは、のどかさと呼ぶにはほど遠い光景が目の前に広がっていたに違いありません。4章には次のように書かれていました。「そこで、イエスの評判がシリア中に広まった。人々がイエスのところへ、いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、てんかんの者、中風の者など、あらゆる病人を連れて来たので、これらの人々をいやされた。こうして、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側から、大勢の群衆が来てイエスに従った」(4:24‐25)。

 イエス様が語っているところに集まっていたのは、そのような群衆だったのです。多くの苦しみを負って生きてきた人たちです。たとえそこで病気が癒されたとしても、それで生活がすぐに楽になるわけではありません。まさに命のことで思い悩み、体のことで思い悩まざるを得なかった人たちなのです。生きていくことは苦しい。明日のことを考えると苦しい。今日も不安であり、明日を思えばさらに不安で一杯だ。そんな人たちが目の前にいるのです。

 もちろんそのような人々の中に弟子たちもいるのです。イエス様から「わたしについてきなさい」と言われて、網を捨ててイエス様に従ったペトロとアンデレもいるのです。同じように、漁師の舟を捨ててイエス様に従ったヤコブとヨハネもいるのです。彼らに生活上の不安がなかったかと言えば嘘になるでしょう。

 そのような人々を目の前にして主は言われるのです。「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな」(25節)。

 主は思い悩んでいる人々に「思い悩むな」と言われます。私たちも同じような言葉を口にすることはあるかもしれません。「そんなに思い悩まなくても大丈夫だよ」「そう心配しなさんな。大丈夫だから」などなど。そうです、「大丈夫だから」と言うのです。

 しかし、そう言う時に、実際には何を根拠にそう言っているのでしょう。事情が変われば、そう言っていた人もまた心配で一杯になり、思い悩みで頭を抱えることにもなることを、本当は私たち自身分かっているのでしょう。未来は人の手の内になどない。そのことを嫌というほど身に染みて知っているのではありませんか。

 いざとなったら我が身一つどうすることもできない私たちなのです。ましてや他人様に「思い悩むな」などと言える者ではないのでしょう。そのような私たちが口にするのと、主が「思い悩むな」と言われるのでは意味合いが明らかに違うのです。その言葉はイエス様が口にするからこそ意味があるのです。なぜなら、イエス様は人々にそう語られるだけでなく、自らそのように生きておられたからです。

あなたがたの天の父は
 主は言われました。「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない」(26節)。

 「空の鳥をよく見なさい」。実際に飛び回っている鳥たちを指さして主は語られたのでしょう。彼らもまた厳しい自然の中に生きています。その自然の中で鳥たちは種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしません。明日に備えるわけでもない。明日をも知れぬ命でありながら、鳥たちは少しも思い悩んでいるようには見えません。

 しかし、「だから、あの鳥たちのように生きなさい。鳥たちを模範にしなさい」と言われたら、少々反論もしたくなるかもしれません。鳥たちは確かに倉には入れないけれど、食料を巣に蓄える鳥もいるでしょうに。そもそも、鳥が思い悩んでいないって、どうして言えますか。もしかしたら明日のことを真剣に悩んでいるかも知れないではありませんか。

 実は、イエス様が本当に指し示したいのは鳥たちではないのです。鳥たちのように思い悩まないで生きろと言っているのではないのです。イエス様が指し示したいのは鳥ではなく天の父なのです。だから「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない」という話はこう続くのです。「だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか」。これこそイエス様の仰りたいことなのです。

 それは衣服の話においてはもっと分かりやすくなっています。主は言われました。「野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった」(28‐29節)。これはとっても分かりやすい。「花は思い悩んでいないでしょう。花を模範として生きなさい」と言いたいのではありません。

 明らかに重点は次に来る言葉にあります。「今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ」(30節)。本当に指し示したいのは花ではないのです。装ってくださる神なのです。そして、そのような神こそ先に主が言われた「あなたがたの天の父だ」ということなのです。

 そのように、イエス様は「空の鳥を見なさい」「野の花を見なさい」と言いながら、その背後にいて養ってくださっている「天の父」、装ってくださる「天の父」を指し示すのです。そして、大事なことは、イエス様が「あなたがたの天の父」と語る前に、自らが神を「わたしの父」として生きておられた、ということなのです。「アッバ、父よ」と神を呼びながら、神の子として生きておられた。そのような親子の交わりの中に生きておられたのです。だからイエス様自身は、命のことで、体のことで思い悩む必要はなかったのです。

 その御方が「思い悩むな」と言われるのです。神の子であるイエス様が言われるのです。そのイエス様が「思い悩むな」と言われる時、それはイエス様が持っているものを分かち与えてくださるということを意味するのです。イエス様の持っておられた父との交わり、平和に満ちた父との交わりを私たちにも分かち与えてくださるということなのです。その意味における「思い悩むな」なのです。

 それゆえに、イエス様はあえて、「あなたがたの天の父は」と繰り返し語られるのです。あなたがたの天の父!なんと喜ばしい言葉でしょう。その一言に、私たちにとっての完全な救いが言い表されています。イエス様が「わたしの父」と呼んでおられた方を指して、「あなたがたの天の父は」と語ってくださるのです。

神の国と神の義を求めなさい
 先にも言いましたように、イエス様の目の前には、人生の厳しい現実の中を生きていた人々がいたのです。苦しみ、疲れ果て、思い悩んでいた人々がいたのです。しかし、彼らがその思い悩みから解放されるために必要なのは、彼らが追い求めていたものではないのです。

 食べ物のことで思い悩んでいたならば、食べ物さえ与えられれば、思い悩みから解放されるのに、と思うのでしょう。衣服のことで思い悩んでいた人は、着るものが十分に与えられれば、思い悩みから解放されるのに、と思うのでしょう。そのように、私たちもまた思い悩んでいる時に、「これさえあれば」と思っているものがあるのでしょう。しかし、そうではないのです。「それはみな、異邦人が切に求めているものだ」と主は言われるのです。本当に追い求めるべきものは別にあるということです。

 本当に必要なのは、イエスが持っていたものなのです。イエス様が見せてくださったものなのです。それはイエス様が「わたしの父よ」と呼んでおられた、天の父なる神との関係であり交わりなのです。だから、主は言われるのです。「あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」何を求めるべきなのか。それは「神の国と神の義」であると主は言われます。これこそイエス様が身をもって示してくださったことでした。

 「神の国」とは神が治めておられる救いの世界です。イエス様は神の国の到来を確信しておられました。救いの世界の到来を確信していました。いや、確信していただけではありません。人間の罪の織りなす悲惨な世界の中にありながら、既に神の国に生きておられたのです。思い悩みに満ちているこの世界のただ中で、神の国に生きておられたのです。父なる神との豊かな交わりの中に自ら生き、神の子として生きておられたとはそういうことです。そのような神の国をあなたがたもまず求めなさいと主は言われるのです。続く「神の義」はこの場合、「神の国」を言い換えたものと見てよいでしょう。

 そのように、神の国と神の義とを求めなさいと主は言われました。そうすれば、「これらのもの」すなわち、思い悩みの原因である目の前の必要はすべて「加えて与えられる」と言われるのです。これが正しい順番です。天の父と共に生きること。すなわち信仰によって神と共に生きること、それこそ第一に求めるべきことなのです。そのことをイエス様自らが見せてくださり、私たちにも求めるようにと言われたのです。

 そして最後に、私たちはこれらの言葉を語られたイエス様は、苦難の道を歩まれ、十字架へと向かっておられた方であるということを忘れてはなりません。「思い悩むな」という言葉も、「何よりもまず、神の国と神の義とを求めなさい」という言葉も、これはキリストの命の重さを持った言葉なのです。

 イエス様の耐え忍ばれた苦難も、十字架において流された血も、注ぎ出された命も、すべては私たちが神を「私たちの父」として生きるようになるためでした。私たちがまず神の国を求めて、そして神の国を与えられるためでした。私たちに「あなたがたの天の父は」と語られた御方は、また、私たちが父の子として生きるために必要な全てを成し遂げるつもりでおられたのです。なぜなら、私たちが神の国に生きるためにはまず罪が赦されなくてはならないからです。キリストは苦難を受け、十字架にかかられ、私たちに罪の赦しをもたらしてくださったのです。

 その御方がここにおいても私たちに語っておられます。「思い悩むな」と。そう語られた御方は、その命をかけて御自身が持っておられたものを私たちに分かち与えてくださったのです。

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