2017年7月16日日曜日

「良いものをくださる天の父」

2017年7月16
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイによる福音書 7章1節~14節 

求めなさい
 イエス様は言われました。「求めなさい。そうすれば、与えられる」。大変良く知られた言葉です。一般的には「求めよ、さらば与えられん」という文語で引用されることが多いように思います。そして、文語で使われる時には、一般に、「何であれ熱心に追い求めてこそ得られるものだ」という意味で使われていることが多いようです。「求めよ、さらば与えられん」。世の中、そういうものですよ、と。

 しかし、「求めなさい」というこの言葉は、「追い求めなさい」という意味ではなく、「願い求めなさい」という意味の言葉なのです。イエス様は、「一生懸命に追い求めなさい」と言っているのではなく、「お願いしなさい」と言っているのです。お願いするって、誰にでしょう?それは天の父なる神様にです。ですから、これは言い換えるならば「お祈りしなさい」ということです。

 そのように、「お祈り」とは、単純に「お願いすること」です。子どもが親に願い求めるように、天の父に必要なものを願い求めることです。「お祈り」が何であるかを知りたかったら、まずは小さな子どものようになることです。「最終的には自分だけが頼り」なんて寂しいことを言わないで、いつも天の父のことを思いながら生活し、事々に天の父にお願いすることです。

 パウロという人も、フィリピの教会に宛てて書いた手紙の中でこう言っています。「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい」(フィリピ4:6)。私たちには、いつでもどんな時でも、困っていること、必要としていることを何でも打ち明けて、お話しすることのできる天のお父さんがいるのです。

 だから、私たちは天の父に何でもお願いすべきなのです。求めるべきなのです。「求めなさい。そうすれば与えられる」と主は言われるのですから。問題は私たちが求めるべき方に求めないところにあるのです。お願いしないところにあるのです。私たちの身の回りの問題についても、この世の様々な問題についても、あれこれと論じているばかりで、あるいは他の人を責めるばかりで、私たち自身が一向に父なる神に真剣に求めようとはしない。祈ろうとしない。本当の問題は私たちの無力さにあるのではありません。努力が足りないということでもありません。信じて祈ろうとはしない。求めない。そこにこそ私たちの本当の問題があるのです。

 そして、さらに言うならば、イエス様が言っておられる「求めなさい」という言葉は、「求め続けなさい」という意味合いの言葉です。諦めないで祈り続けることです。失望することなく、倦むことなく祈り続けることです。

 イエス様は失望しないで祈り続けることの大切さを弟子たちに繰り返し教えられました。なぜでしょう。私たちは祈ることをやめてしまうことがあるからです。神様に向くこともやめてしまうことがあるからです。

 私たちには神様のなさる全てが見えているわけではありません。ですから私たちが願い求めても、神の御業は全く進んでいないように見える時があります。逆行しているかのように見える時もあります。神様のなさることが全くわからない時があります。しかし、そのようなことについて、イエス様は説明してはくださいません。ただ父を信頼して祈り続けるようにと教えられたのです。

探しなさい、たたきなさい
 それゆえにまた、イエス様はこう続けられました。「探しなさい。そうすれば、見つかる」。何か無くしたモノを探しなさいと言っているのではありません。「探す」という言葉は、「尋ね求める」とも訳せる言葉です。「尋ね求める」のです。誰を尋ね求めるのでしょう。神様御自身です。

 かつて預言者エレミヤはこのように語りました。「そのとき、あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしに出会うであろう、と主は言われる」(エレミヤ29:12‐14)。

 私たちが祈ることをやめてしまう時、祈り続けることが困難になる時――それは、神様がどのような御方であるかが見えなくなっている時なのでしょう。ならば、「神に求める」とことは大事ですが、「神を求める」ことはもっと大事なことであるに違いありません。神様がどのような方であるかを知るために、神様を尋ね求めるのです。「わたしを尋ね求めるなら、あなたはわたしを見いだす」と神様は言われるのですから。

 イエス様は言われました。「あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない」(9‐11節)と。

 イエス様は天の父がどのような方を知っておられました。子どもたちを愛して、求める以上に良きものを与えようとしていてくださる天の父だということを。だから私たちもまた、その天の父を尋ね求めるのです。天の父を知ることを切に求めるのです。そうするならば「見いだす」と主は言ってくださったのです。

 さらにイエス様は言われました。「門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」。求めること、探すことだけでなく、「門をたたきなさい」と主は言われます。門をたたくことは具体的な行動です。

 門は神様が開いてくださいます。良きものを与えてくださる天の父が開いてくださるのです。押してみようが引いてみようが、自分の力ではどうしたって開くことのできなかった扉、こじ開けようとしても開くことのなかった扉を神様が開いてくださるのです。

 こちらのすべきことは、ただ、たたくことです。たたき続けることです。扉をこじ開けることができなくても、たたくことなら誰にでもできます。そのように、私たちは為し得ることを行うのです。勇気をもって具体的な小さな一歩を踏み出すのです。そして、諦めないで続けていくのです。たたき続けるのです。

 どんなに動かしがたく見えようとも、どんな重く大きな扉であっても、神様が開いてくださると信じるならば、私たちの無力さは問題ではありません。私たちに求められているのはただ門をたたくことなのだと知るならば、その具体的な行動に伴うのは苛立ちと焦燥感ではなくなるのでしょう。イエス様の御言葉によって門をたたく者に
与えられるのは期待と喜びです。

キリストの十字架によって
 そして、私たちは最後に、最も重要な事実に目を向けなくてはなりません。「求めなさい」と言われたイエス様は、自らを献げて十字架へと向かっておられたということです。

 「まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない」とイエス様は言われました。これは本来驚くべき言葉なのです。どうして神様が私たちの「天の父」なのか。どうして「天の父」と呼べるのか。この地上において、神様をないがしろにし、御心に逆らって生きてきた私たちが、どうして恥ずかしげもなくその神様を「天の父」と呼べるのか。本来ならば、「良い物をくださるにちがいない」ではなくて、「あなたたちは自分自身の罪の報いを受けるに違いない」と言われても仕方がない私たちなのでしょう。

 そのような私たちが、安心して神を「天の父」と呼ぶことができるとするならば、それは一重にキリストが私たちの罪を贖ってくださったゆえなのです。そのキリストが言ってくださったのです。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」これはキリストの命の重さをもった言葉です。この御言葉をしっかり受け止めて、信じて祈り続ける私たちでありたいと思います。

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