日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 創世記 21章9節~21節
イシュマエルの誕生
「サラは、エジプトの女ハガルがアブラハムとの間に産んだ子が、イサクをからかっているのを見て、アブラハムに訴えた。『あの女とあの子を追い出してください。あの女の息子は、わたしの子イサクと同じ跡継ぎとなるべきではありません』」(9‐10節)。
ここにはアブラハムの二人の息子が出て来ます。一人はアブラハムの妻サラが産んだ子、イサクです。もう一人は「エジプトの女ハガルがアブラハムとの間に産んだ子」です。その子の名前はイシュマエルと言います。
イシュマエルはアブラハムが86歳の時の子供です(16:16)。イサクはアブラハムが100歳の時の子供です(21:5)。そうしますと、単純に考えてこの二人の年の差は14歳になります。今日の箇所においては、既にイシュマエルは16歳から17歳ほどになっているはずです。しかし、アブラハムが子供を産んだ年を見てお分かりのように、創世記における年齢は私たちの抱くイメージとはかなり違います。今日お読みした物語においては、まだ二人とも幼子であるものとして読んだ方が理解しやすいでしょう。
ここにはそのような二人の息子が出て来ます。妻サラの産んだ子だけではありません。エジプト人の女奴隷が産んだ子が出て来るのです。そこには当然、理由があります。イシュマエルが誕生する次第は創世記16章に記されています。次のような話です。
アブラハムの妻サラには子供がいませんでした。16章ではまだ名前がアブラムとサライとして出てきますが、子供のいないサライがアブラムに一つの提案をしました。「主はわたしに子供を授けてくださいません。どうぞ、わたしの女奴隷のところに入ってください。わたしは彼女によって、子供を与えられるかもしれません。」(16:2)。今日の私たちの常識からすれば驚くべき提案ですが、当時の社会においては大して珍しいことではなかったようです。他の場面でも似たような提案が当然のことのように出てきますから(創世記30章)。
しかし、重要なのはサライがこう提案した理由です。サライは子供がいなくて寂しいからこのような提案をしたのではないのです。跡継ぎがいないと困るから、このような提案をしたわけでもないのです。これは神の約束に関わっていることだったのです。
そもそもの出発点は、神がアブラムにこう言われたことでした。「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める、祝福の源となるように」(12:1‐2)。「あなたを大いなる国民にする」とは、要するに子孫を増やすということです。アブラムもサライもこの主の言葉を信じて、旅に出たのです。これがそもそもの発端でした。
さらには創世記15章においても、主はアブラムを外に連れ出してこう言っておられます。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」そして、言われたのです。「あなたの子孫はこのようになる。」
しかし、実際には子供は生まれませんでした。先ほど引用した16章はこのような言葉で始まります。「アブラムの妻サライには、子供が生まれなかった」(16:1)。神様の約束が実現に向かって進んでいるとは思えませんでした。昨日も今日も何も変わらないのです。何も変わらない日々は永遠に続くように思えました。そこで出てきたのが先ほどの提案だったのです。「主はわたしに子供を授けてくださいません。どうぞ、わたしの女奴隷のところに入ってください。わたしは彼女によって、子供を与えられるかもしれません」(2節)。
「主はわたしに子供を授けてくださいません」――要するに、「神がしてくださらないならば、私たちの手で実現しましょう」ということです。「もう神に期待することはやめにして、私たちのできる仕方で実現しましょう」ということです。そして、実現したのです。アブラハムは子孫を得ることとなりました。それがイシュマエルでした。しかし、それは「神の約束の成就」ではありませんでした。
当然のことながら、アブラハムがイシュマエルを見る時に、「神様、あなたは真実な御方です」と感謝の祈りを捧げることはできなかったはずです。事実は逆だったからです。過去のある時点において、アブラハムもサラも、神が真実な方であることを信じることをやめた時があった。イシュマエルはまさにその事実を指し示す存在だったからです。
もう苦しまなくてよい
やがて時満ちて、サラにも子供が生まれました。それは神の約束の成就でした。その誕生の次第は今日お読みしました箇所の直前に記されています。アブラハムはその子をイサクと名付けました。「笑い」という意味です。サラは言いました。「神はわたしに笑いをお与えになった。聞く者は皆、わたしと笑い(イサク)を共にしてくれるでしょう」(6節)。その場はまさに喜びと「笑い」に満ちていたことでしょう。真実なる神が与えてくださる喜びです。神の真実なることを知る喜びです。信仰のもたらす喜びがそこにあります。それは確かに信仰生活の一つの姿ではあります。
しかし、そのすぐ後に今日読まれた聖書の言葉があるのです。「サラは、エジプトの女ハガルがアブラハムとの間に産んだ子が、イサクをからかっているのを見て、アブラハムに訴えた。『あの女とあの子を追い出してください。あの女の息子は、わたしの子イサクと同じ跡継ぎとなるべきではありません』」(9‐10節)。
「イサクをからかっているのを見て」。自分の子供がからかわれていたら、サラが腹を立てるのも無理はないでしょう。――しかし、これは一つの意訳です。もとの言葉は「笑っている」という言葉です。必ずしも嘲って笑っているとは限りません。
そうです。イシュマエルは笑っていたのです。その「笑う」という言葉によってイサク誕生の場面とつながります。神が与えてくださった喜びと笑いに満ちたイサクの誕生。その笑いに満ちているはずの生活の中に、こうして敵意と争い、それゆえの苦しみが入り込んでいるのです。「あの女の息子は、わたしの子イサクと同じ跡継ぎとなるべきではありません」。そのように相続問題という形で入り込んできているのです。
どうしてそのような問題が入り込んできたのか。イシュマエルという存在がはっきりと指し示しています。それは不信仰によってだ、と。過去のある時点において、アブラハムもサラも、神が真実な方であることを信じることをやめた時があった。確かにあった。その事実が、今、形を取って現れてきているのだ、と。
「このことはアブラハムを非常に苦しめた。その子も自分の子であったからである。」そう書かれています。神の約束においては、もともと相続問題に由来するこの苦しみはなかったことは分かっています。これは過去のある時点において、神が真実な方であることを信じることをやめた結果であることも分かっているのです。
その結果、自分が苦しむだけではない、サラはサラとして苦しみ、ハガルとイシュマエルも苦しむことになってしまった。アブラハムは、あの時のことを悔やんだかもしれません。なぜ待てなかったのだろう。なぜ神に期待することをやめてしまったのだろう。なぜ神に信頼し続けなかったのだろう。しかし、悔やんでも過去が変わるわけではありません。
しかし、神はそんなアブラハムに現れてこう言われたのです。「あの子供とあの女のことで苦しまなくてもよい。すべてサラが言うことに聞き従いなさい。あなたの子孫はイサクによって伝えられる。しかし、あの女の息子も一つの国民の父とする。彼もあなたの子であるからだ」(13節)。
神はこのような事態をもたらしたアブラハムの過去を責めませんでした。そうではなく、「苦しまなくていい。心配しなくていい」と言ってくださったのです。ここに語られていることは何ですか。つまりは不信仰の結果について、神がすべて面倒を見るから、ということでしょう。「あの女の息子も一つの国民の父とする。彼もあなたの子であるからだ」。そう神は言ってくださったのです。
そのように、たとえそれが人間の不信仰の結果であれ、罪の結果であれ、愚かさの結果であれ、人間がどうすることもできない事態に、神は慈しみ深く関わってくださるのです。そのような御方が言われるのです。だからもう苦しまなくていい。心配しなくていい、と。
神は聞いていてくださる
そして、神はそのような神であることを、ハガルとその子に対して現されたのでした。それが14節以下に書かれていることです。
「アブラハムは、次の朝早く起き、パンと水の革袋を取ってハガルに与え、背中に負わせて子供を連れ去らせた」(14節)。こうしてハガルはアブラハムの家を立ち去ることとなりました。彼女と子供はベエル・シェバの荒れ野をさまよいます。やがてハガルの革袋の水が尽きました。もはやどうすることもできません。子供は次第に弱っていきます。自分は子供を助けることができない。目の前で子供が死んでいくのを見るのは耐えられませんでした。ハガルは灌木の日陰に子供を置いて、遠く離れていきました。子供が泣き出します。母親も遠くで泣いている子供を見て、声を上げて泣きました。
しかし、もはや泣くことしかできないハガルに、神は御使いを遣わしてこう語られたのです。「ハガルよ、どうしたのか。恐れることはない。神はあそこにいる子供の泣き声を聞かれた。立って行って、あの子を抱き上げ、お前の腕でしっかり抱き締めてやりなさい。わたしは、必ずあの子を大きな国民とする」(17‐18節)。
泣く声を主は聞いておられました。泣く声は神への祈りとして聞かれていたのです。泣く声の中の言葉にならない祈りを主は聞いておられた。その悲しみも、苦しみもすべて神は聞いていてくださった。その上でまず一番必要なものを与えてくださったのです。それは水ではありませんでした。泣いている子供にとっては、母親に抱き締めてもらうこと。ハガルにとっては、その子をしっかりと抱き締めてあげることでした。
すると彼女の目が開かれたのです。「神がハガルの目を開かれたので、彼女は水のある井戸を見つけた。彼女は行って革袋に水を満たし、子供に飲ませた」(19節)。当然のことながら井戸は前からそこにあったのでしょう。彼女が絶望して大声で泣いていたその時に、既にその側には神の備えがあったのです。神は目を開いて、その事実を見せてくださったのでした。
もちろん、それでハガルが過去に帰れるわけではありません。彼女は今置かれている現実を受け入れなくてはなりません。しかし、彼女もまたアブラハムと同じように、彼女が知った神の慈しみの中を生きていくのです。泣く声さえも祈りとして聞いていてくださる神。そして、その嘆きの中に既に備えを置いてくださっている神。そのような神を知った人としてハガルは生きていくのです。イシュマエルと共に。イシュマエルという名前には意味があります。「神は聞いていてくださる」という意味です。