2017年7月30日日曜日

「神は聞いていてくださる」

2017年7月30
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 創世記 21章9節~21節

イシュマエルの誕生
 「サラは、エジプトの女ハガルがアブラハムとの間に産んだ子が、イサクをからかっているのを見て、アブラハムに訴えた。『あの女とあの子を追い出してください。あの女の息子は、わたしの子イサクと同じ跡継ぎとなるべきではありません』」(9‐10節)。

 ここにはアブラハムの二人の息子が出て来ます。一人はアブラハムの妻サラが産んだ子、イサクです。もう一人は「エジプトの女ハガルがアブラハムとの間に産んだ子」です。その子の名前はイシュマエルと言います。

 イシュマエルはアブラハムが86歳の時の子供です(16:16)。イサクはアブラハムが100歳の時の子供です(21:5)。そうしますと、単純に考えてこの二人の年の差は14歳になります。今日の箇所においては、既にイシュマエルは16歳から17歳ほどになっているはずです。しかし、アブラハムが子供を産んだ年を見てお分かりのように、創世記における年齢は私たちの抱くイメージとはかなり違います。今日お読みした物語においては、まだ二人とも幼子であるものとして読んだ方が理解しやすいでしょう。

 ここにはそのような二人の息子が出て来ます。妻サラの産んだ子だけではありません。エジプト人の女奴隷が産んだ子が出て来るのです。そこには当然、理由があります。イシュマエルが誕生する次第は創世記16章に記されています。次のような話です。

 アブラハムの妻サラには子供がいませんでした。16章ではまだ名前がアブラムとサライとして出てきますが、子供のいないサライがアブラムに一つの提案をしました。「主はわたしに子供を授けてくださいません。どうぞ、わたしの女奴隷のところに入ってください。わたしは彼女によって、子供を与えられるかもしれません。」(16:2)。今日の私たちの常識からすれば驚くべき提案ですが、当時の社会においては大して珍しいことではなかったようです。他の場面でも似たような提案が当然のことのように出てきますから(創世記30章)。

 しかし、重要なのはサライがこう提案した理由です。サライは子供がいなくて寂しいからこのような提案をしたのではないのです。跡継ぎがいないと困るから、このような提案をしたわけでもないのです。これは神の約束に関わっていることだったのです。

 そもそもの出発点は、神がアブラムにこう言われたことでした。「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める、祝福の源となるように」(12:1‐2)。「あなたを大いなる国民にする」とは、要するに子孫を増やすということです。アブラムもサライもこの主の言葉を信じて、旅に出たのです。これがそもそもの発端でした。

 さらには創世記15章においても、主はアブラムを外に連れ出してこう言っておられます。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」そして、言われたのです。「あなたの子孫はこのようになる。」

 しかし、実際には子供は生まれませんでした。先ほど引用した16章はこのような言葉で始まります。「アブラムの妻サライには、子供が生まれなかった」(16:1)。神様の約束が実現に向かって進んでいるとは思えませんでした。昨日も今日も何も変わらないのです。何も変わらない日々は永遠に続くように思えました。そこで出てきたのが先ほどの提案だったのです。「主はわたしに子供を授けてくださいません。どうぞ、わたしの女奴隷のところに入ってください。わたしは彼女によって、子供を与えられるかもしれません」(2節)。

 「主はわたしに子供を授けてくださいません」――要するに、「神がしてくださらないならば、私たちの手で実現しましょう」ということです。「もう神に期待することはやめにして、私たちのできる仕方で実現しましょう」ということです。そして、実現したのです。アブラハムは子孫を得ることとなりました。それがイシュマエルでした。しかし、それは「神の約束の成就」ではありませんでした。

 当然のことながら、アブラハムがイシュマエルを見る時に、「神様、あなたは真実な御方です」と感謝の祈りを捧げることはできなかったはずです。事実は逆だったからです。過去のある時点において、アブラハムもサラも、神が真実な方であることを信じることをやめた時があった。イシュマエルはまさにその事実を指し示す存在だったからです。

もう苦しまなくてよい
 やがて時満ちて、サラにも子供が生まれました。それは神の約束の成就でした。その誕生の次第は今日お読みしました箇所の直前に記されています。アブラハムはその子をイサクと名付けました。「笑い」という意味です。サラは言いました。「神はわたしに笑いをお与えになった。聞く者は皆、わたしと笑い(イサク)を共にしてくれるでしょう」(6節)。その場はまさに喜びと「笑い」に満ちていたことでしょう。真実なる神が与えてくださる喜びです。神の真実なることを知る喜びです。信仰のもたらす喜びがそこにあります。それは確かに信仰生活の一つの姿ではあります。

 しかし、そのすぐ後に今日読まれた聖書の言葉があるのです。「サラは、エジプトの女ハガルがアブラハムとの間に産んだ子が、イサクをからかっているのを見て、アブラハムに訴えた。『あの女とあの子を追い出してください。あの女の息子は、わたしの子イサクと同じ跡継ぎとなるべきではありません』」(9‐10節)。

 「イサクをからかっているのを見て」。自分の子供がからかわれていたら、サラが腹を立てるのも無理はないでしょう。――しかし、これは一つの意訳です。もとの言葉は「笑っている」という言葉です。必ずしも嘲って笑っているとは限りません。

 そうです。イシュマエルは笑っていたのです。その「笑う」という言葉によってイサク誕生の場面とつながります。神が与えてくださった喜びと笑いに満ちたイサクの誕生。その笑いに満ちているはずの生活の中に、こうして敵意と争い、それゆえの苦しみが入り込んでいるのです。「あの女の息子は、わたしの子イサクと同じ跡継ぎとなるべきではありません」。そのように相続問題という形で入り込んできているのです。

 どうしてそのような問題が入り込んできたのか。イシュマエルという存在がはっきりと指し示しています。それは不信仰によってだ、と。過去のある時点において、アブラハムもサラも、神が真実な方であることを信じることをやめた時があった。確かにあった。その事実が、今、形を取って現れてきているのだ、と。

 「このことはアブラハムを非常に苦しめた。その子も自分の子であったからである。」そう書かれています。神の約束においては、もともと相続問題に由来するこの苦しみはなかったことは分かっています。これは過去のある時点において、神が真実な方であることを信じることをやめた結果であることも分かっているのです。

 その結果、自分が苦しむだけではない、サラはサラとして苦しみ、ハガルとイシュマエルも苦しむことになってしまった。アブラハムは、あの時のことを悔やんだかもしれません。なぜ待てなかったのだろう。なぜ神に期待することをやめてしまったのだろう。なぜ神に信頼し続けなかったのだろう。しかし、悔やんでも過去が変わるわけではありません。

 しかし、神はそんなアブラハムに現れてこう言われたのです。「あの子供とあの女のことで苦しまなくてもよい。すべてサラが言うことに聞き従いなさい。あなたの子孫はイサクによって伝えられる。しかし、あの女の息子も一つの国民の父とする。彼もあなたの子であるからだ」(13節)。

 神はこのような事態をもたらしたアブラハムの過去を責めませんでした。そうではなく、「苦しまなくていい。心配しなくていい」と言ってくださったのです。ここに語られていることは何ですか。つまりは不信仰の結果について、神がすべて面倒を見るから、ということでしょう。「あの女の息子も一つの国民の父とする。彼もあなたの子であるからだ」。そう神は言ってくださったのです。

 そのように、たとえそれが人間の不信仰の結果であれ、罪の結果であれ、愚かさの結果であれ、人間がどうすることもできない事態に、神は慈しみ深く関わってくださるのです。そのような御方が言われるのです。だからもう苦しまなくていい。心配しなくていい、と。

神は聞いていてくださる
 そして、神はそのような神であることを、ハガルとその子に対して現されたのでした。それが14節以下に書かれていることです。

 「アブラハムは、次の朝早く起き、パンと水の革袋を取ってハガルに与え、背中に負わせて子供を連れ去らせた」(14節)。こうしてハガルはアブラハムの家を立ち去ることとなりました。彼女と子供はベエル・シェバの荒れ野をさまよいます。やがてハガルの革袋の水が尽きました。もはやどうすることもできません。子供は次第に弱っていきます。自分は子供を助けることができない。目の前で子供が死んでいくのを見るのは耐えられませんでした。ハガルは灌木の日陰に子供を置いて、遠く離れていきました。子供が泣き出します。母親も遠くで泣いている子供を見て、声を上げて泣きました。

 しかし、もはや泣くことしかできないハガルに、神は御使いを遣わしてこう語られたのです。「ハガルよ、どうしたのか。恐れることはない。神はあそこにいる子供の泣き声を聞かれた。立って行って、あの子を抱き上げ、お前の腕でしっかり抱き締めてやりなさい。わたしは、必ずあの子を大きな国民とする」(17‐18節)。

 泣く声を主は聞いておられました。泣く声は神への祈りとして聞かれていたのです。泣く声の中の言葉にならない祈りを主は聞いておられた。その悲しみも、苦しみもすべて神は聞いていてくださった。その上でまず一番必要なものを与えてくださったのです。それは水ではありませんでした。泣いている子供にとっては、母親に抱き締めてもらうこと。ハガルにとっては、その子をしっかりと抱き締めてあげることでした。

 すると彼女の目が開かれたのです。「神がハガルの目を開かれたので、彼女は水のある井戸を見つけた。彼女は行って革袋に水を満たし、子供に飲ませた」(19節)。当然のことながら井戸は前からそこにあったのでしょう。彼女が絶望して大声で泣いていたその時に、既にその側には神の備えがあったのです。神は目を開いて、その事実を見せてくださったのでした。

 もちろん、それでハガルが過去に帰れるわけではありません。彼女は今置かれている現実を受け入れなくてはなりません。しかし、彼女もまたアブラハムと同じように、彼女が知った神の慈しみの中を生きていくのです。泣く声さえも祈りとして聞いていてくださる神。そして、その嘆きの中に既に備えを置いてくださっている神。そのような神を知った人としてハガルは生きていくのです。イシュマエルと共に。イシュマエルという名前には意味があります。「神は聞いていてくださる」という意味です。

2017年7月23日日曜日

「賢い人と愚かな人」

2017年7月23
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイによる福音書 7章24節~29節

この御方はだれですか
 今日は「山上の説教」の最後の部分をお読みしました。次のように締めくくられていました。「イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである」(28‐29節)。

 イエス様の語り方は、ユダヤ人の律法学者たちとは明らかに異なっていました。それは「山上の説教」だけを読んでもわかります。律法学者なら、あくまでも「律法」を権威あるものとして語ります。律法学者はどんなに高名なラビであっても権威ある律法を解釈する者に過ぎません。そのような者として語ります。しかし、イエス様の語り方はそうではありませんでした。律法が命じていることを引き合いに出した上で、「しかし、わたしは言っておく」と続けるのです。

 イエス様は律法のもとに自らを置いて語るのではなく、律法を与えた神の位置に身を置いて語るのです。神の権威をもって神の言葉を語るのです。「彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになった」とはそういうことです。だから群衆は驚いたのです。

 もちろんそれは群衆の驚きだけでは済みません。そんなことをしていれば、やがては律法を重んじる人々の怒りを引き起こすことにもなるのでしょう。律法学者から神を冒涜する者と見なされることにもなるのでしょう。

 しかし、そのようなことは百も承知の上で、イエス様は大胆にもこのように語られるのです。「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている」(24節)と。

 「わたしのこれらの言葉」とは、神の位置に身を置いて語ってきた言葉です。ならばそれを「聞いて行う者」というのは、ただ「教えを実践する者」という意味ではありません。そうです。ここには「聞いて行う者」と「聞くだけで行わない者」が出て来るのですが、ここで問題になっているのは単に「教えを聞いて実践するか否か」ということではないのです。聞くだけで実践しなかったら意味がありませんよ、といった表面的なことではないのです。

 ここで問題とされているのは、そもそも主の御言葉をどのように受け止めているか、ということなのです。イエス様の語られる言葉を「神の言葉」として受け取っているか、そうでないのか。「しかし、わたしは言っておく」と語られるその言葉に神の権威を認めて、その権威に服して生きようとしているのか、そうでないのか、ということなのです。

 それは直接その場でイエス様の言葉を聞いた人に対してだけでなく、この福音書を通してイエス様の言葉を聞いている私たちにも問われていることでもあります。そのつもりでマタイは書いているのです。私たちは本当にその御方に神の権威を認め、その言葉を神の言葉として受け取っているのでしょうか。「わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている」と言われるその御方は、わたしにとって、あなたにとって、いったいどのような御方なのでしょうか。

権威ある者として
 「群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである」。そのようにイエス様は「権威ある者」として語られました。それが「神の権威」であるならば、それは第一に人間に命じることのできる権威を意味するのでしょう。

 神は創造者です。人間は造られた者です。神がそのような神ならば、神は本質的に人間に対して「命じる権威」を持っています。神の律法を与える権威を持っているのです。従順を求める権威を持っているのです。ですから、その権威をもって語られるイエス様も命じるのです。「しかし、わたしは言っておく」と語り、「聞いて行うこと」を求めるのです。従順を求められるのです。

 それゆえに、イエス様の語られる言葉を神の言葉として聞くということは、イエス様が命じる権威を持っていることを認めることでもあります。私たちに対するそのような絶対的な権威を認めるということです。私たちに従順を求めることのできる絶対的な権威を認めて、その権威に服するということです。

 そして、当然のことながら、命ずることができるということは、裁くこともできるといことでもあります。命ずることのできる権威は、命じたことに従わない者を罪に定めることのできる権威でもあるからです。

 神はすべての人間に命じる権威を持っています。神は律法を与える権威を持っています。それゆえに、律法違反を裁く権威を持っています。イエス様に神の権威を認め、イエス様の語られる言葉を神の言葉として聞くということは、イエス様に絶対的な裁きの権威を認めるということでもあります。人間を裁いて罪に定める権威を認めるということです。私たちに対する最後の言葉を持っている御方として、イエス様を見るということです。

 それは恐ろしいことでしょうか。いいえ、そうではありません。罪に定める権威を持っているということは、罪を赦す権威を持っているということでもあるからです。最終的に人間を罪に定めることができるのは神です。それゆえに、最終的に人間の罪を赦すことができるのも神なのです。イエス様の語られる言葉を神の言葉として聞くといことは、この御方に罪を赦す絶対的な権威を認めるということでもあるのです。

 実際、そのことが問われる場面が後の9章に出て来ます。イエス様のもとに連れて来られた中風の人を主が癒された場面です。イエス様はその人を癒される前に、中風の人にこう言われたのです。「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」(9:2)。山上の説教において、権威ある者として教えられたイエス様は、同じ権威をもって、神の権威をもって罪の赦しを宣言されるのです。

 しかし、それを見ていた律法学者が心の中でつぶやくのです。「この男は神を冒涜している」と。イエス様に神の権威を認めなければ、当然そうなるのです。ですから、山上の説教におけるのと同じ事がそこで問われているのです。その御方に神の権威を認め、その言葉を神の言葉として受け取るのかどうかということです。

 イエス様は律法学者たちの心を見抜いてこう言われました。「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう」(9:6)。そして、中風の人にこう命じたのです。「起き上がって床を担ぎ、家に帰りなさい」。そのように、命じる権威と罪に定める権威、罪を赦す権威は一つなのです。

 そのような権威をもって語られているからこそ、山上の説教において繰り返し語られる「あなたがたの天の父は」という言葉もまた意味を持つのです。先週読まれました「あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない」という言葉も意味を持つのです。このような言葉は神の権威を持たない者が語ったとしても、意味がないからです。それは辛い時の気休め程度にはなるかもしれませんが、本質的には無意味でしょう。

 しかし、その御方は権威ある者として語っておられるのです。神の権威をもって語っておられるのです。最終的に罪に定めることのできる権威をもって、それゆえに罪を赦すことのできる絶対的な権威をもって語っておられるのです。「あなたがたの天の父は」と。そのように、私たちを神の子どもたちとして語るのです。そして、今この世にいる時から、神の子どもたちとして生き始めるようにと命じられるのです。神の絶対的な権威をもって「わたしは言っておく」と語られるのです。

嵐が来ても倒れないように
 さて、今日の聖書箇所は岩の上に家を建てた賢い人、砂の上に家を建てた愚かな人について語ります。そこで問題となっているのは土台です。そして、このように語られる神の権威、キリストにおいて現されたこの神の権威こそが、人生を支える揺るぎない土台となるのだということです。それゆえに、イエス様の語られる言葉を「神の言葉」として受け取るか否か、語られるその御方に神の権威を認めて、その権威に服するか否かということが決定的に重要な意味を持つのです。

 もう一度お読みします。イエス様は言われました。「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった」(24‐27節)。

 「雨が降り、川があふれ、風が吹いて」という言葉は様々な意味に取ることができます。それはこの世における様々な試練を意味するとも言えます。最終的に誰もが直面しなくてはならない自分自身の「死」の問題であるとも言えます。あるいは、終わりの日の裁きを意味するとも言えるでしょう。いずれにせよ、洪水や風に象徴されるのは、人間の力が及ばない現実です。人間の力が及ばない現実は襲って来る。そして私たちの存在が根底から揺さぶられるようなその時は来るのです。その時に私たちは岩の上に立っているのでしょうか。それとも砂の上に立っているのでしょうか。

 もちろん、キリスト教との関わり方は幾通りもあるのでしょう。教養としてのキリスト教、生活指針としてのキリスト教、文化としてのキリスト教・・・そのような関わり方もあろうかと思います。「イエス様の言葉は知っています。毎週聞いています」という程度の関わり方もあろうかと思います。

 しかし、どこに家を建ててきたかが問われる時は来るのです。岩の上にあるのか砂の上にあるのかが問われるのです。嵐の中で問われるのです。神の権威をもって語られる御方とどう関わってきたか。神の権威によって裁かれ、神の権威によって罪を赦された者として、神の権威をもって語られた神の言葉をどう受け止めてきたか。どのように従ってきたか。砂の上に建ててきたのか。岩の上に建ててきたのか。それが問われるのです。

 それゆえにこのたとえ話は私たちに対する招きの言葉でもあります。この御方は神の言葉を語られます。神の言葉に聞き従いなさい。あなたの人生という家を、神の権威という揺るぎない岩の上に建てなさい。嵐が来ても倒れないように、と。

2017年7月16日日曜日

「良いものをくださる天の父」

2017年7月16
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイによる福音書 7章1節~14節 

求めなさい
 イエス様は言われました。「求めなさい。そうすれば、与えられる」。大変良く知られた言葉です。一般的には「求めよ、さらば与えられん」という文語で引用されることが多いように思います。そして、文語で使われる時には、一般に、「何であれ熱心に追い求めてこそ得られるものだ」という意味で使われていることが多いようです。「求めよ、さらば与えられん」。世の中、そういうものですよ、と。

 しかし、「求めなさい」というこの言葉は、「追い求めなさい」という意味ではなく、「願い求めなさい」という意味の言葉なのです。イエス様は、「一生懸命に追い求めなさい」と言っているのではなく、「お願いしなさい」と言っているのです。お願いするって、誰にでしょう?それは天の父なる神様にです。ですから、これは言い換えるならば「お祈りしなさい」ということです。

 そのように、「お祈り」とは、単純に「お願いすること」です。子どもが親に願い求めるように、天の父に必要なものを願い求めることです。「お祈り」が何であるかを知りたかったら、まずは小さな子どものようになることです。「最終的には自分だけが頼り」なんて寂しいことを言わないで、いつも天の父のことを思いながら生活し、事々に天の父にお願いすることです。

 パウロという人も、フィリピの教会に宛てて書いた手紙の中でこう言っています。「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい」(フィリピ4:6)。私たちには、いつでもどんな時でも、困っていること、必要としていることを何でも打ち明けて、お話しすることのできる天のお父さんがいるのです。

 だから、私たちは天の父に何でもお願いすべきなのです。求めるべきなのです。「求めなさい。そうすれば与えられる」と主は言われるのですから。問題は私たちが求めるべき方に求めないところにあるのです。お願いしないところにあるのです。私たちの身の回りの問題についても、この世の様々な問題についても、あれこれと論じているばかりで、あるいは他の人を責めるばかりで、私たち自身が一向に父なる神に真剣に求めようとはしない。祈ろうとしない。本当の問題は私たちの無力さにあるのではありません。努力が足りないということでもありません。信じて祈ろうとはしない。求めない。そこにこそ私たちの本当の問題があるのです。

 そして、さらに言うならば、イエス様が言っておられる「求めなさい」という言葉は、「求め続けなさい」という意味合いの言葉です。諦めないで祈り続けることです。失望することなく、倦むことなく祈り続けることです。

 イエス様は失望しないで祈り続けることの大切さを弟子たちに繰り返し教えられました。なぜでしょう。私たちは祈ることをやめてしまうことがあるからです。神様に向くこともやめてしまうことがあるからです。

 私たちには神様のなさる全てが見えているわけではありません。ですから私たちが願い求めても、神の御業は全く進んでいないように見える時があります。逆行しているかのように見える時もあります。神様のなさることが全くわからない時があります。しかし、そのようなことについて、イエス様は説明してはくださいません。ただ父を信頼して祈り続けるようにと教えられたのです。

探しなさい、たたきなさい
 それゆえにまた、イエス様はこう続けられました。「探しなさい。そうすれば、見つかる」。何か無くしたモノを探しなさいと言っているのではありません。「探す」という言葉は、「尋ね求める」とも訳せる言葉です。「尋ね求める」のです。誰を尋ね求めるのでしょう。神様御自身です。

 かつて預言者エレミヤはこのように語りました。「そのとき、あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしに出会うであろう、と主は言われる」(エレミヤ29:12‐14)。

 私たちが祈ることをやめてしまう時、祈り続けることが困難になる時――それは、神様がどのような御方であるかが見えなくなっている時なのでしょう。ならば、「神に求める」とことは大事ですが、「神を求める」ことはもっと大事なことであるに違いありません。神様がどのような方であるかを知るために、神様を尋ね求めるのです。「わたしを尋ね求めるなら、あなたはわたしを見いだす」と神様は言われるのですから。

 イエス様は言われました。「あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない」(9‐11節)と。

 イエス様は天の父がどのような方を知っておられました。子どもたちを愛して、求める以上に良きものを与えようとしていてくださる天の父だということを。だから私たちもまた、その天の父を尋ね求めるのです。天の父を知ることを切に求めるのです。そうするならば「見いだす」と主は言ってくださったのです。

 さらにイエス様は言われました。「門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」。求めること、探すことだけでなく、「門をたたきなさい」と主は言われます。門をたたくことは具体的な行動です。

 門は神様が開いてくださいます。良きものを与えてくださる天の父が開いてくださるのです。押してみようが引いてみようが、自分の力ではどうしたって開くことのできなかった扉、こじ開けようとしても開くことのなかった扉を神様が開いてくださるのです。

 こちらのすべきことは、ただ、たたくことです。たたき続けることです。扉をこじ開けることができなくても、たたくことなら誰にでもできます。そのように、私たちは為し得ることを行うのです。勇気をもって具体的な小さな一歩を踏み出すのです。そして、諦めないで続けていくのです。たたき続けるのです。

 どんなに動かしがたく見えようとも、どんな重く大きな扉であっても、神様が開いてくださると信じるならば、私たちの無力さは問題ではありません。私たちに求められているのはただ門をたたくことなのだと知るならば、その具体的な行動に伴うのは苛立ちと焦燥感ではなくなるのでしょう。イエス様の御言葉によって門をたたく者に
与えられるのは期待と喜びです。

キリストの十字架によって
 そして、私たちは最後に、最も重要な事実に目を向けなくてはなりません。「求めなさい」と言われたイエス様は、自らを献げて十字架へと向かっておられたということです。

 「まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない」とイエス様は言われました。これは本来驚くべき言葉なのです。どうして神様が私たちの「天の父」なのか。どうして「天の父」と呼べるのか。この地上において、神様をないがしろにし、御心に逆らって生きてきた私たちが、どうして恥ずかしげもなくその神様を「天の父」と呼べるのか。本来ならば、「良い物をくださるにちがいない」ではなくて、「あなたたちは自分自身の罪の報いを受けるに違いない」と言われても仕方がない私たちなのでしょう。

 そのような私たちが、安心して神を「天の父」と呼ぶことができるとするならば、それは一重にキリストが私たちの罪を贖ってくださったゆえなのです。そのキリストが言ってくださったのです。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」これはキリストの命の重さをもった言葉です。この御言葉をしっかり受け止めて、信じて祈り続ける私たちでありたいと思います。

2017年7月9日日曜日

「思い悩むな」

2017年7月9
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイによる福音書 6章25節~34節

思い悩むな
 「空の鳥をよく見なさい。」「野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。」そう主は言われました。実際に空を飛び回る鳥たちを見ながら、野に咲き乱れる花々を見ながら、主はこの言葉を語られたのでしょう。その言葉だけを聞くならば、思い描かれるのは実にのどかな風景です。

 しかし、実際にはどうだったのでしょうか。恐らくは、のどかさと呼ぶにはほど遠い光景が目の前に広がっていたに違いありません。4章には次のように書かれていました。「そこで、イエスの評判がシリア中に広まった。人々がイエスのところへ、いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、てんかんの者、中風の者など、あらゆる病人を連れて来たので、これらの人々をいやされた。こうして、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側から、大勢の群衆が来てイエスに従った」(4:24‐25)。

 イエス様が語っているところに集まっていたのは、そのような群衆だったのです。多くの苦しみを負って生きてきた人たちです。たとえそこで病気が癒されたとしても、それで生活がすぐに楽になるわけではありません。まさに命のことで思い悩み、体のことで思い悩まざるを得なかった人たちなのです。生きていくことは苦しい。明日のことを考えると苦しい。今日も不安であり、明日を思えばさらに不安で一杯だ。そんな人たちが目の前にいるのです。

 もちろんそのような人々の中に弟子たちもいるのです。イエス様から「わたしについてきなさい」と言われて、網を捨ててイエス様に従ったペトロとアンデレもいるのです。同じように、漁師の舟を捨ててイエス様に従ったヤコブとヨハネもいるのです。彼らに生活上の不安がなかったかと言えば嘘になるでしょう。

 そのような人々を目の前にして主は言われるのです。「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな」(25節)。

 主は思い悩んでいる人々に「思い悩むな」と言われます。私たちも同じような言葉を口にすることはあるかもしれません。「そんなに思い悩まなくても大丈夫だよ」「そう心配しなさんな。大丈夫だから」などなど。そうです、「大丈夫だから」と言うのです。

 しかし、そう言う時に、実際には何を根拠にそう言っているのでしょう。事情が変われば、そう言っていた人もまた心配で一杯になり、思い悩みで頭を抱えることにもなることを、本当は私たち自身分かっているのでしょう。未来は人の手の内になどない。そのことを嫌というほど身に染みて知っているのではありませんか。

 いざとなったら我が身一つどうすることもできない私たちなのです。ましてや他人様に「思い悩むな」などと言える者ではないのでしょう。そのような私たちが口にするのと、主が「思い悩むな」と言われるのでは意味合いが明らかに違うのです。その言葉はイエス様が口にするからこそ意味があるのです。なぜなら、イエス様は人々にそう語られるだけでなく、自らそのように生きておられたからです。

あなたがたの天の父は
 主は言われました。「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない」(26節)。

 「空の鳥をよく見なさい」。実際に飛び回っている鳥たちを指さして主は語られたのでしょう。彼らもまた厳しい自然の中に生きています。その自然の中で鳥たちは種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしません。明日に備えるわけでもない。明日をも知れぬ命でありながら、鳥たちは少しも思い悩んでいるようには見えません。

 しかし、「だから、あの鳥たちのように生きなさい。鳥たちを模範にしなさい」と言われたら、少々反論もしたくなるかもしれません。鳥たちは確かに倉には入れないけれど、食料を巣に蓄える鳥もいるでしょうに。そもそも、鳥が思い悩んでいないって、どうして言えますか。もしかしたら明日のことを真剣に悩んでいるかも知れないではありませんか。

 実は、イエス様が本当に指し示したいのは鳥たちではないのです。鳥たちのように思い悩まないで生きろと言っているのではないのです。イエス様が指し示したいのは鳥ではなく天の父なのです。だから「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない」という話はこう続くのです。「だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか」。これこそイエス様の仰りたいことなのです。

 それは衣服の話においてはもっと分かりやすくなっています。主は言われました。「野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった」(28‐29節)。これはとっても分かりやすい。「花は思い悩んでいないでしょう。花を模範として生きなさい」と言いたいのではありません。

 明らかに重点は次に来る言葉にあります。「今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ」(30節)。本当に指し示したいのは花ではないのです。装ってくださる神なのです。そして、そのような神こそ先に主が言われた「あなたがたの天の父だ」ということなのです。

 そのように、イエス様は「空の鳥を見なさい」「野の花を見なさい」と言いながら、その背後にいて養ってくださっている「天の父」、装ってくださる「天の父」を指し示すのです。そして、大事なことは、イエス様が「あなたがたの天の父」と語る前に、自らが神を「わたしの父」として生きておられた、ということなのです。「アッバ、父よ」と神を呼びながら、神の子として生きておられた。そのような親子の交わりの中に生きておられたのです。だからイエス様自身は、命のことで、体のことで思い悩む必要はなかったのです。

 その御方が「思い悩むな」と言われるのです。神の子であるイエス様が言われるのです。そのイエス様が「思い悩むな」と言われる時、それはイエス様が持っているものを分かち与えてくださるということを意味するのです。イエス様の持っておられた父との交わり、平和に満ちた父との交わりを私たちにも分かち与えてくださるということなのです。その意味における「思い悩むな」なのです。

 それゆえに、イエス様はあえて、「あなたがたの天の父は」と繰り返し語られるのです。あなたがたの天の父!なんと喜ばしい言葉でしょう。その一言に、私たちにとっての完全な救いが言い表されています。イエス様が「わたしの父」と呼んでおられた方を指して、「あなたがたの天の父は」と語ってくださるのです。

神の国と神の義を求めなさい
 先にも言いましたように、イエス様の目の前には、人生の厳しい現実の中を生きていた人々がいたのです。苦しみ、疲れ果て、思い悩んでいた人々がいたのです。しかし、彼らがその思い悩みから解放されるために必要なのは、彼らが追い求めていたものではないのです。

 食べ物のことで思い悩んでいたならば、食べ物さえ与えられれば、思い悩みから解放されるのに、と思うのでしょう。衣服のことで思い悩んでいた人は、着るものが十分に与えられれば、思い悩みから解放されるのに、と思うのでしょう。そのように、私たちもまた思い悩んでいる時に、「これさえあれば」と思っているものがあるのでしょう。しかし、そうではないのです。「それはみな、異邦人が切に求めているものだ」と主は言われるのです。本当に追い求めるべきものは別にあるということです。

 本当に必要なのは、イエスが持っていたものなのです。イエス様が見せてくださったものなのです。それはイエス様が「わたしの父よ」と呼んでおられた、天の父なる神との関係であり交わりなのです。だから、主は言われるのです。「あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」何を求めるべきなのか。それは「神の国と神の義」であると主は言われます。これこそイエス様が身をもって示してくださったことでした。

 「神の国」とは神が治めておられる救いの世界です。イエス様は神の国の到来を確信しておられました。救いの世界の到来を確信していました。いや、確信していただけではありません。人間の罪の織りなす悲惨な世界の中にありながら、既に神の国に生きておられたのです。思い悩みに満ちているこの世界のただ中で、神の国に生きておられたのです。父なる神との豊かな交わりの中に自ら生き、神の子として生きておられたとはそういうことです。そのような神の国をあなたがたもまず求めなさいと主は言われるのです。続く「神の義」はこの場合、「神の国」を言い換えたものと見てよいでしょう。

 そのように、神の国と神の義とを求めなさいと主は言われました。そうすれば、「これらのもの」すなわち、思い悩みの原因である目の前の必要はすべて「加えて与えられる」と言われるのです。これが正しい順番です。天の父と共に生きること。すなわち信仰によって神と共に生きること、それこそ第一に求めるべきことなのです。そのことをイエス様自らが見せてくださり、私たちにも求めるようにと言われたのです。

 そして最後に、私たちはこれらの言葉を語られたイエス様は、苦難の道を歩まれ、十字架へと向かっておられた方であるということを忘れてはなりません。「思い悩むな」という言葉も、「何よりもまず、神の国と神の義とを求めなさい」という言葉も、これはキリストの命の重さを持った言葉なのです。

 イエス様の耐え忍ばれた苦難も、十字架において流された血も、注ぎ出された命も、すべては私たちが神を「私たちの父」として生きるようになるためでした。私たちがまず神の国を求めて、そして神の国を与えられるためでした。私たちに「あなたがたの天の父は」と語られた御方は、また、私たちが父の子として生きるために必要な全てを成し遂げるつもりでおられたのです。なぜなら、私たちが神の国に生きるためにはまず罪が赦されなくてはならないからです。キリストは苦難を受け、十字架にかかられ、私たちに罪の赦しをもたらしてくださったのです。

 その御方がここにおいても私たちに語っておられます。「思い悩むな」と。そう語られた御方は、その命をかけて御自身が持っておられたものを私たちに分かち与えてくださったのです。

2017年7月2日日曜日

「恵みを知った豊かな人に」

2017年7月2
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 コリントの信徒への手紙Ⅱ 8章1節~15節

人間臭い話ですか?
 今日の第二朗読ではコリントの信徒への手紙(二)の8章が読まれました。この8章と9章には募金の話が書かれています。貧しいエルサレムの教会を助け支えるための募金です。もちろんパウロの内には、貧しいエルサレムの信徒たちを助けたいという熱烈な思いがあったことでしょう。しかし、実はこの募金にはもう一つの大きな目的がありました。この募金を通して、主にユダヤ人から成るエルサレムの教会と主に異邦人から成る各地の教会を結びつけることでした。異邦人伝道が始まって各地に教会が形成されるに当たり、諸教会が一つとなるためにこの募金は大きな意味を持っていたのです。

 そのような中、アカイア州の大都市であるコリントにある教会では、他の教会に先駆けていち早くこの募金が始まったようです。今日お読みした10節もこう書かれていました。「あなたがたは、このことを去年から他に先がけて実行したばかりでなく、実行したいと願ってもいました」(10節)。

 しかし、パウロはこう続けています。「だから、今それをやり遂げなさい。進んで実行しようと思ったとおりに、自分が持っているものでやり遂げることです」(11節)。そこには「やり遂げなさい」と繰り返し語らざるを得ない事情があったようです。この手紙を読みますと、パウロとの関係に困難が生じていたこともわかります。いずれにせよ、募金活動は停滞していたのでしょう。8章から9章に渡る募金に関する長い記述は、そのような事情のもとに書かれたのです。

 そこでパウロはまず他の諸教会の話を持ち出します。マケドニア州の諸教会、すなわちフィリピの教会ややテサロニケの教会の話を始めるのです。「兄弟たち、マケドニア州の諸教会に与えられた神の恵みについて知らせましょう。彼らは苦しみによる激しい試練を受けていたのに、その満ち満ちた喜びと極度の貧しさがあふれ出て、人に惜しまず施す豊かさとなったということです。わたしは証ししますが、彼らは力に応じて、また力以上に、自分から進んで、聖なる者たちを助けるための慈善の業と奉仕に参加させてほしいと、しきりにわたしたちに願い出たのでした」(1‐4節)。

 「神の恵みについて知らせましょう」と言っていますが内容は募金の話です。実は4節で「慈善の業」と訳されているのも同じ「恵み」という言葉です。6節にも同じ「恵み」が出て来ます。なぜ「恵み」という言葉を用いているのかについては後で触れますが、それはともかく、激しい試練と極度の貧しさの中にあったマケドニアの諸教会においても募金が始まった話をパウロは書いています。そのようなマケドニアの諸教会が、強いられてではなく、自分から進んで「参加させて欲しい」としきりに願い出たという話を、コリントの教会にしているのです。

 実は、9章を読むと分かるのですが、パウロは逆のこともしているのです。マケドニアの諸教会にコリントの教会の話をしているのです。こう書かれています。「わたしはあなたがたの熱意を知っているので、アカイア州では去年から準備ができていると言って、マケドニア州の人々にあなたがたのことを誇りました。あなたがたの熱意は多くの人々を奮い立たせたのです」(9:2)。

 そして、さらにはこんなことまで書いています。「そうでないと(つまり、募金を完了して支援金の用意ができていないと)、マケドニア州の人々がわたしと共に行って、まだ用意のできていないのを見たら、あなたがたはもちろん、わたしたちも、このように確信しているだけに、恥をかくことになりかねないからです」(同4節)。

 さて、このような話を読んでどう思いましたでしょうか。「募金」と言いましたけれど、これは教会の中での話しですから、意識としては当然神に献げる「献金」なのです。そのような「献金」を勧めるに当たって、他の人たちの熱心について語る。あるいは既に他の人に言ってしまった手前、できなかったら恥をかくことになるという話をする。どうも「献金」の話にしては、一面において、とても人間臭い話に思えなくもありません。

 しかし、パウロはそのような人間臭い話をするのです。つまり、そのような面を否定しないのです。確かに、募金にせよ献金にせよ、横を見ながら献げるという一面はあるのでしょう。実際、そうではありませんか。それでは純粋な献金にならない。そのようなものは偽善だ不純な行為だと言うこともできるのでしょう。しかし、パウロはそうは言いません。大まじめに他の人の話を持ち出すのです。

 ここでは募金の話ですが、それは募金や献金に留まらないのでしょう。人間の行うあらゆる善き行いについて言えるのだと思います。そこには他の人に影響されたり、あるいは他の人の姿に触発されて「わたしも!」と言って行ったりする面は必ずあるのでしょう。人間の行為である限り、人間の間の相互作用は必ずあるのです。パウロはそれが分かっている。私たちも認める必要があるのでしょう。

 だからこそ、大事なポイントをきっちりと押さえておく必要があるのです。パウロは一面において人間臭い勧め方するのですが、だからこそ大事なポイントを外さないのです。それが8章9節です。パウロはここでキリストについて語るのです。いささか唐突にも思えるような仕方で、しかしここではやはりキリストについて語っておく必要があるのです。

キリストの恵みを知っている
 パウロは言います。「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです」(9節)。

 「主は豊かであったのに」とはどういうことでしょうか。イエス様が生まれたところは馬小屋でした。主が育った家庭は決して豊かではありませんでした。主が弟子たちとともに宣教の働きをしていたときでさえ、「きつねには穴があり、空の鳥には巣がある。しかし、人の子には枕するところがない」と言っていました。この世的に見るかぎり、主が豊かであったことは一度もありませんでした。それでもなお、聖書は「主は豊かであった」と語るのです。

 なぜでしょう。聖書はキリストの生涯を馬小屋から始まったものと見てはいないからです。その前があるのです。主は父なる神と共におられた御子なる神なのです。御子なる神があえて天の栄光を捨てて貧しくなり、この世に来られたのです。ですから、「貧しくなった」というのは、単にこの世において貧しい生活をされたという意味ではないのです。神が人間になられたということです。人間となられてこの世に来られるということは、神にとって究極の貧しさを意味するのです。

 「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた」。その意味するところは、フィリピの信徒への手紙に次のように言い表されています。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(フィリピ2:6‐8)。

 これは当時の讃美歌だと言われます。コリントの信徒たちが知っていたなら、パウロの言葉を聞いてきっとピンときたに違いありません。「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた」とはこういうことだと。

 キリストにとって人間となるということは究極の貧しさを意味すると申しました。それは人間としての様々な制約のもとに置かれるということだけではありません。人間となることの貧しさは、人間が罪ある存在だということに関わっているのです。

 聖書は人間の罪を借金に喩えて語ります(マタイ18:23以下)。私たちは皆、償いきれないものを負っているのです。償いきれない罪の数々を神に対しても人に対しても負っているのです。それは返済しきれない借金を負っているようなものなのです。人間であるとはそういうことなのです。

 キリストはこの世に来られ、そのような人間の一人になられました。キリストは罪のない方ですから唯一負債のない人間であったと言えるでしょう。しかし、そのキリストが私たちすべての人間の罪を代わりに負ってくださったのです。「十字架の死に至るまで」と語られていたのは、まさにそのことです。キリストは私たちの負債を代わりに負って死なれたのです。そこまで貧しくなってくださった。それは私たちのためでした。だから「あなたがたのために貧しくなられた」と語られているのです。

 それは私たちが罪を赦され、救われるためでした。罪を赦された者として神の子供たちとして生き、神の国を受け継ぐ者とされるためだったのです。それは私たちの考え得る究極の豊かさです。それは私たちにとって計り知れないほどに豊かな者となることを意味するのです。「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです」。

 これが「主イエス・キリストの恵み」です。「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています」とパウロは言います。そうです、コリントの人たちはこの恵みを知っていたはずです。ここにいる私たちもまた知っているはずです。それがここに語られているすべての大前提なのです。

 すべての善き業はそこから始まるのです。募金も献金もそうです。まずはキリストの恵みに目を向け、その恵みによって生きることです。パウロが紹介していたマケドニアの諸教会の募金活動の源もそこにあったのです。それは恵みから生まれたものです。だから「神の恵みについて知らせましょう」と語るのです。そして、先ほど申しましたとおり、「慈善の業」を意味するものとして「恵み」という言葉を用いるのです。あえてパウロは「恵み」と表現しているのです。それは恵みから生まれたものであり、その恵みに応えて募金できること自体が「恵み」だからです。

 実際この箇所を改めて読むと不思議な書き方がされていましたでしょう。「兄弟たち、マケドニア州の諸教会に与えられた神の恵みについて知らせましょう。彼らは苦しみによる激しい試練を受けていたのに、その満ち満ちた喜びと極度の貧しさがあふれ出て、人に惜しまず施す豊かさとなったということです」(1節)。このようなことが実際に起こってくる。それは「恵み」だからです。

 私たちの献げ物にしても、横を見て献げるという面もある。他の人に触発されてということもある。それはそれでよいのです。自分のことにしても、他の人のことにしても、それを不純であるとして否定する必要はありません。しかし、だからこそキリストの恵みからは目をそらしてはならないのです。その一点だけは外してはなりません。主は私たちのために何をしてくださったのか。私たちは何ものとされているのか。そのことさえ私たちが忘れていない限り「キリストの恵み」を忘れていない限り、私たちの極めて人間臭い行為もまた、キリストの恵みから生じた、キリストの恵みの現れとなるのです。

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