2017年6月25日日曜日

「不平を言わず、輝く人に」

2017年6月25
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 フィリピの信徒への手紙 2章12節~18節

救いを達成するよう努めなさい
 今日はフィリピの信徒への手紙をお読みしました。これはパウロが獄中から書いた手紙です。さらに言うならば、獄中において殉教の死を覚悟したパウロが書いた手紙です。そのようなパウロの意識が比喩的な表現ではありますが、先ほど読まれた箇所に書かれていました。「更に、信仰に基づいてあなたがたがいけにえを献げ、礼拝を行う際に、たとえわたしの血が注がれるとしても、わたしは喜びます。あなたがた一同と共に喜びます。 同様に、あなたがたも喜びなさい。わたしと一緒に喜びなさい」(17‐18節)。一度耳にしたら忘れることができないような強烈な表現です。殉教を覚悟したパウロは言うのです。「わたしは喜びます。あなたがた一同と共に喜びます。 同様に、あなたがたも喜びなさい。わたしと一緒に喜びなさい」。

 さて、そのようなパウロが今日の聖書箇所においてこのように勧めていました。「だから、わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい」(12節)。

 「救いを達成するように努めなさい」とパウロは言います。パウロの姿を思う時、その意味するところは明らかです。最後まで信仰を全うしなさいということでしょう。迫害の中にあっても、諸々の試練の中にあっても、最後まで信仰を全うしなさいということです。最終的に死に直面するところにおいても、最後まで信仰を全うしなさいということです。しかも、神に信頼して、喜びをもって信仰を全うしなさいということです。「わたしは喜びます。あなたがた一同と共に喜びます」とパウロが言ったように。

 実際、パウロを失うことはフィリピの人たちにとって、どれほど大きな悲しみであるかと思うのです。「なんでこんなことに・・・」と心揺さぶられることでもあるのでしょう。しかし、そこでパウロは「わたしと一緒に喜びなさい」と言うのです。パウロが最後まで信仰を全うしようとしているように、彼らにも喜びをもって最後まで信仰に生きて欲しいのです。

 それはパウロが望んでいるだけではありません。「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです」(13節)と書かれています。神が私たちの内に働いておられるのです。その神が救いの望みを与えてくださったのです。神御自身が救いを達成させようとしていてくださるのです。神御自身が最終的に完全な救いを与えようとしていてくださるのです。そうです、神が救いを与えようとしていてくださるのです。

 だからパウロは「救いを達成するように努めなさい」と語ると共に、神への従順について語るのです。「だから、わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい」。

 従順であるとは信頼して従うことです。何があったとしても信頼して従うことです。どこまでも信頼して従っていくことです。それはあくまでも神との関係においてです。神に信頼して従うのです。そこでパウロが一緒にいるかいないかは本来関係ないのです。ですから「わたしが共にいるときだけでなく」とパウロは言うのです。神への信頼と従順は人に左右されるべきものではないのです。

 先ほど見てきたように、それは最終的にはパウロがこの世にいなくなっても、ということでさえあるのです。それでもなお彼らは信仰によって生きていくのです。神に信頼し、パウロと一緒に喜びをもって、最後まで信仰を全うするのです。「恐れおののきつつ自分の救いを達成するよう努める」とはそういうことです。

不安や理屈を言わずに行いなさい
 ですからそこではまた、「何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい」(14節)と勧められているのです。神に従順であるとは、具体的にはこういうことだからです。そのように書かれているのは、この世に生きている限り、不平を言いたくなることはいくらでもあるからでしょう。人生には不平を言いたくなるようなことがいくらでもあるからでしょう。理不尽に思えることはいくらでもあるのでしょう。

 そのような時、神様が間違っているように見えることもあるのでしょう。それこそこの世を生きる時に、神を信じないための理屈、神に従わないための理屈を並べようと思えば、いくらでも並べることができるのかもしれません。しかし、そこでなお神に信頼するのです。どこまでも神に信頼して従っていくのです。諸々の試練の中にあっても、最後まで信仰を全うするとはそういうことです。

 「何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい」とパウロが言った時、恐らくパウロの心の中にあったのは旧約聖書の書かれているイスラエルの物語であったと思われます。それは出エジプト記と民数記に出てくる物語です。出エジプトの出来事と荒野の旅に関する物語です。

 イスラエルはかつてエジプトにおける奴隷でした。そのような奴隷の民が苦しみの中から神に向かって叫んだ時、神は奴隷であったイスラエルの民をエジプトから解放してくださいました。神が葦の海を二つに分けてその間を歩かせられたという物語は、この救いがただ一重に神の恵みによるものだったことを示しています。それゆえに、この葦の海の奇跡は、洗礼を予表する出来事でもありました。

 そのように神の恵みによって救われた民は、神の恵みに感謝しつつ、約束の地に向かって旅をすることとなったのです。昼は雲の柱、夜は火の柱に導かれての旅でした。それは神様が共におられることのしるしでした。主が共におられるゆえ、それは確実に約束の地に向かう旅であったのです。ただ彼らに求められていたのは信頼して従っていくことでした。それこそが彼らに与えられた救いを達成することだったのです。

 しかし、聖書はなんと語っているでしょうか。彼らがすぐに不平を言い始めたことを私たちに伝えているのです。彼らは、水がない、食べ物がないと言ってつぶやき始めたのです。彼らを救ってくださった御方が真実であることを信じなかったのです。彼らはモーセに言いました。「我々はエジプトの国で、主の手にかかって、死んだ方がましだった。あのときは肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられたのに。あなたたちは我々をこの荒れ野に連れ出し、この全会衆を飢え死にさせようとしている」(出16:3)。

 彼らは救いの恵みを忘れて、彼らの古い生活、エジプトの肉鍋を懐かしんでいるのです。彼らは繰り返しこのように不平を言いました。そしてついには、「エジプトに引き返した方がましだ」(民13:3)とまで言い出したのです。そのようなイスラエルの不信仰と不従順を思いながら、パウロは言うのです。「何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい」と。

星のように輝いて
 そして、さらに彼は言います。「そうすれば、とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つでしょう」(15‐16節)。

 「不平や理屈を言わずに」という言葉はある意味では身近な言葉でよく分かります。しかし、続くこの言葉は、どちらかと言えば、はるか遠くに見える山の頂きのように見えなくもありません。「とがめられるところのない清い者となり」とか「よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として」という言葉を聞くと、いったいそこにたどり着くことなどできるのか、と思えなくもありません。

 しかし、それが遠くに見えたとしても、「世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つでしょう」という言葉には憧れを覚えます。よこしまな曲がった時代の中で、この世の暗さについて語るだけでなく、そこで小さくても星のように光輝く者でありたい。そして、はっきりしていることは、不平をブツブツつぶやきながら光輝いて生きることはあり得ないということでしょう。どんなに遠くに見えても、やはりここから始まるのです。「何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい」。

 実際、私たちはここに、かつてよこしまな曲がった時代の中で、世にあって星のように輝いて生きた人の言葉を読んでいるのです。獄中にあって、ありとあらゆる制約を課せられて、もはや何ができるわけでもない。しかし、その人は確かに命の言葉をしっかり保っているのです。彼はどんな苦しみの中にあっても神への信頼を失わない。神から離れてしまわない。「わたしは喜びます。あなたがた一同と共に喜びます。同様に、あなたがたも喜びなさい。わたしと一緒に喜びなさい」と彼は言うのです。最後まで信仰を全うし、自分の救いを達成するように努めている彼は、確かに世にあって星のように輝いていたのでしょう。その人の言葉を通して、神はここにいる私たちにも語りかけていてくださるのです。「自分の救いを達成するように努めなさい」と。

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