2017年6月18日日曜日

「神は遠く離れてはおられません」

2017年6月18
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 使徒言行録 17章22節~27節

知られざる神に
 今日の第二朗読は、アテネにおいて語られたパウロの説教でした。それはアレオパゴスにおいて語られたものです。「アレオパゴス」とはアテネにある一つの丘の名前です。しかし、この場合はそこにあった評議所、すなわちアテネ最古の裁判と会議の場所を指しています。パウロはそのような場所に連れて行かれることとなりました。その経緯を簡単にお話ししますと、こういうことです。

 それはパウロの2回目の宣教旅行の途上での出来事でした。当初、パウロはアテネでの宣教は予定していませんでした。パウロがアテネに滞在したのは、後から来るシラスとテモテと落ち合うためでした。

 しかし、二人を待っている間に、パウロはその町の至るところに偶像があるのを目にします。その夥しい数は、当時、人の数よりも神々の数の方が多いとさえ言われたほどです。パウロはそれを見て心を動かされます。彼はアテネにおいてイエスとその復活とを宣べ伝え始めました。安息日にはユダヤ人の会堂において人々と論じ、他の日には広場で居合わせた人々と論じ合うこととなりました。

 パウロと討論をしていたエピクロス派やストア派の哲学者たちの中には、「このおしゃべりは、何を言いたいのだろうか」と言う者もいれば、「彼は外国の神々の宣伝をする者らしい」と言う者もいた、と書かれています。「おしゃべり」と訳されているのはクズ拾いを意味するような極めて侮蔑的な言葉です。そのような人々が、パウロをアレオパゴスに連れて行ったわけです。

 その際に、彼らはこう言ったと書かれています。「あなたが説いているこの新しい教えがどんなものか、知らせてもらえないか。奇妙なことをわたしたちに聞かせているが、それがどんな意味なのか知りたいのだ」(19‐20節)。しかし、状況的に考えて、純粋に興味関心から話を聞こうというのでないことは明らかです。パウロはそこに好意的に迎えられたわけではないのです。恐らくパウロは尋問されるためにアレオパゴスに連れて行かれたのです。新しい宗教や哲学が入ってくるのを監督するのはアレオパゴスの議員の権限であり責任でもあったからです。

 そのようなアレオパゴスの真ん中に立つこととなったパウロは口を開き語り出しました。「アテネの皆さん、あらゆる点においてあなたがたが信仰のあつい方であることを、わたしは認めます。道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると、『知られざる神に』と刻まれている祭壇さえ見つけたからです。それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう」(22‐23節)。

 先にも触れましたように、アテネの町には夥しい数の偶像がありました。それは一面において、アテネの人たちの信心深さを表していると言えるでしょう。彼らは極めて宗教的な人々でした。パウロはそのことに敬意を払いつつ語り始めます。しかし、すぐに問題の核心に迫ることになります。「知られざる神に」と刻まれている祭壇に言及することによって、彼らの信心深さの中に存在する問題を取り上げることになるのです。

 そもそも、なぜ「知られざる神に」と刻まれているような奇妙な祭壇が存在するのでしょう。そのような祭壇が存在し得るのでしょう。人々にとって、そこで拝まれているのが誰であるかは、さして重要なことではないからです。礼拝において祈っている相手を知ることは、大して重要なことではないからです。

 「知られざる神に」という祭壇が造られた背景には一説によれば紀元前六世紀に流行した疫病があるとも言われます。確かにそれは考えられることです。人間が神々を祭るとき、当然のことながら、そこには神々にして欲しいことがあるわけです。叶えて欲しい願望がある。また、その一方において、しては欲しくないこともある。免れさせて欲しい災いがある。そういうものでしょう。願望と恐れです。

 人間の願望が多岐にわたるなら、それを満たしてくれる神々の数も当然増えていきます。一つの災いが起こった。その災いが二度と起こらないように神を祭るとするならば、災いの数だけ神々の数も増えていくことになります。

 そこで必ずしもどの神に願って良いか分からないことも起こるのでしょう。ならばとりあえず「知られざる神に」願っておくのがよいでしょう。目的とすることが欲求の満たしと災いの回避しかないならば、それを実現してくれるのは別に誰であってもよいのですから。

 そのように、「何を得られるか」ということにしか関心がないならば、別に「知られざる神」でもよいのです。もし仮に神ではなくて人間でもそれを実現してくれるのであれば、別に神でなくてもよいことにもなります。「知られざる神に」という祭壇が意味しているのはそういうことです。

わたしはお知らせしましょう
 しかし、パウロはそこでこう語るのです。「それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう」(23節)。

 「お知らせしましょう」。パウロはそう言いました。それはアテネの人たちにとっては余計なお世話とも言えます。欲求の満たしと災いの回避については「知られざる神」で事足りているわけですから。「何を得られるか」ということについては、夥しい数の神々でもう十分なのですから。

 しかし、それでもなおパウロは「お知らせしましょう」と言うのです。ある意味では、そのために危険な宣教旅行を続けてきたとも言えます。命をかけて「お知らせしましょう」を続けてきたのです。

 それはなぜなのか。神が望んでおられるからです。神は知られることを望んでおられる神だからです。神は知られることを望んで、独り子さえもこの世界に送られる神であるからです。そのようなことをすれば罪ある人間によって十字架にかけられてしまうことも承知の上で、あえて自らを啓示するために御子を遣わされる神だからです。パウロはそのことを知るゆえに宣教旅行を続けてきたのです。

 ですからここでも「お知らせしましょう」とパウロは言って、こう続けます。「世界とその中の万物とを造られた神が、その方です。この神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません。また、何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません。すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えてくださるのは、この神だからです」(24‐25節)。

 先に触れましたように、パウロについては「彼は外国の神々の宣伝をする者らしい」と言われていたのです。そのような人たちが、パウロをアレオパゴスに立たせたのです。同じようにこの国においても、かつて宣教師たちは言われたのでしょう。「彼は外国の神々の宣伝をする者らしい」と。

 しかし、そうではないのです。この国の神も外国の神もないのです。神は世界とその中の万物とを造られた神だからです。神は天地の主なのです。だからユダヤ人である彼がアテネのギリシア人にまで、このことを語るのです。命と息と、その他すべてのものを与えられていることについては、ユダヤ人もギリシア人もないからです。

 さらにパウロは続けます。「神は、一人の人からすべての民族を造り出して、地上の至るところに住まわせ、季節を決め、彼らの居住地の境界をお決めになりました」(26節)。命を吹き入れられた多くの民族は、同じ神によって導かれ、定められた季節と定められた居住地の中に生かされているのです。神はすべての民族にかかわって治めていてくださる。それは何のためなのか。パウロは言います。「人に神を求めさせるためだ」と。「これは、人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにということなのです。実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません」(27節)。そのようにパウロは語るのです。

 そのように神は知られることを望んでおられる神です。見いだされることを望んでおられる神なのです。人間が知らなくても、求めていなくても、神は命と息と、その他すべてのものを与えてくださっているのでしょう。私たちが生きていられるのは、すべて神から与えられるものによってなのでしょう。人はいただくものさえいただければ、それで十分と言うかもしれません。「知られざる神に」でも良いのです、と。しかし、神にとっては良くないのです。それはなぜでしょうか。神は愛によって世界を創造し、人間を創造されたからです。共に生きるために創造されたからです。ですから、神は与えるだけでなく、私たちと共に生きることを望んでおられるのです。永遠に共に生きることを望んでおられるのです。

 「実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません」。神はそのような神です。探し求めさえすれば、神を見いだすことができるのです。


 さて、ここからは私たちの話です。パウロがアテネで目にしたのは「知られざる神に」と刻まれた祭壇でした。この礼拝堂に集められている私たちは今どのような祭壇に向かっているのでしょう。私たちが向かうべき祭壇はキリストが屠られたあの祭壇なのでしょう。愛なる神が御自身を完全に表された、あの祭壇なのでしょう。

 しかし、そこに向かっているはずの私たちが、いつの間にか「知られざる神に」という祭壇に向かって礼拝していることはあり得ることなのかもしれません。願っていることが叶うか、災いを免れることができるか、要するに「何を得られるか」ということにしか関心が向いていないということはあり得ることかもしれません。いったいどのような御方を礼拝しているのか、どのような御方に祈っているのかということには関心がないし、実際知ろうともしていない。「知られざる神に」ということで良しとしているということは、あり得ることかもしれません。

 「実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません」。神は私たちと永遠に共に生きるために、私たちに知られることを望んでいてくださいます。主を知ることを切に求める熱心が私たちにも与えられますように。 

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