2017年6月11日日曜日

「休ませてあげよう」

2017年6月11
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイによる福音書 11章25節~30節 

休ませてあげよう
 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」。今日読まれましたイエス・キリストの言葉です。

 「疲れた者」と書かれていました。これは「労苦している者」という意味の言葉です。労苦を厭わず、力を尽くして、精一杯頑張って、やるだけやってきました。しかし、重荷を負うつもりではあるものの、負わなくてはならないと分かっているものの、もう疲れ果ててしまいました。ここに呼びかけられているのは、そのような意味での「疲れた者」です。

 また「重荷を負う者」とも書かれていました。これは正確には「重荷を負わされている者」です。受け身で書かれているのです。自ら望んだわけではありません。自分がそうすることを選んだわけでもない。しかし、否応なしに重荷を負わされました。そんな重荷というものが確かにあるものです。負わされた、強制されたと思えば思うほど辛くなる。「なんで私が!」と思えば思うほどに、重荷は重くのしかかってくるのでしょう。「重荷を負う者、負わされている者」とはそういう人々です。

 そのような「疲れた者、重荷を負う者」にイエス様は呼びかけておられます。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」。

 考えてみれば驚くべき言葉です。「だれでもわたしのもとに来なさい」などと、普通は言わないし、言えません。しかも、原文では「《わたしが》休ませてあげよう」と、「わたし」が強調された形で書かれているのです。

 そのような言葉をイエス様は口にされるのです。そして、その言葉が残ったのです。いい加減な言葉だったら残りません。現実と結び着いていなかったら残りません。この言葉が弟子たちの心に残って伝えられたということは、要するに「本当にそうだ」と弟子たちが思ったということでしょう。どんな重荷を負う人であっても、負わされている人であっても、この方のもとで休みを得ることができる。本当の安らぎを得ることができる、と。

 そのように、この言葉は語っている「イエス・キリスト」という存在と切り離すことができないのです。イエス様が言われるからこそ意味があるのです。では、イエス様はどうしてこのような言葉を口にすることができたのでしょう。

 その直前にはこう書かれています。「すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません」(27節)。そこに言い表されているのは父と子の関係です。愛と信頼に満ちた父と子との交わりです。

 「父のほかに子を知る者はない」と主は言われました。確かにそれが現実だったのでしょう。そこにはある意味でキリストの深い孤独が言い表されています。

 一方において、多くの人々がイエス様を追い求めました。ある人々は病気を癒してくれるミラクル・ヒーラーを求めてイエスについてきました。ある人々は政治的な解放者を求めてイエスについてきました。そして、もう一方において多くの人々がイエスに敵対しました。ある者は妬みから、ある者は恐れから、ある者は怒りをもってイエスに敵対しました。

 イエスを追い求める人々も、敵対する人々も、そこで語っている方が誰であるかを本当の意味は知らない。弟子たちも知らない。イエス様は誰にも理解されなかったのです。主は言われます。「父のほかに子を知る者はない」。

 その悲しみは、イエス様の言葉にも表れています。今日の聖書箇所ではありませんが、20節以下にはこのようなことが書かれているのです。「それからイエスは、数多くの奇跡の行われた町々が悔い改めなかったので、叱り始められた。『コラジン、お前は不幸だ。ベトサイダ、お前は不幸だ。お前たちのところで行われた奇跡が、ティルスやシドンで行われていれば、これらの町はとうの昔に粗布をまとい、灰をかぶって悔い改めたにちがいない』」(20‐21節)。

 数多くの奇跡が行われたのでしょう。多くの病人が癒されたに違いない。しかし、コラジンの人々もベトサイダの人々も、悔い改めて神に立ち帰ることはなかったのです。彼らに語っていたのは、父なる神からすべてを任された御子であることを彼らは認めることはありませんでした。

 そこでイエス様が「叱った」と書かれていますが、内容は深い嘆きです。イエス様は「お前は不幸だ」と言っているのです。そう言わざるを得ないイエス様の嘆きです。また、そう言わざるを得ない時点で、イエス様のそれまでの宣教の労苦は無駄に終わったように見えなくもありません。

 しかし、驚いたことに、そこでイエス様は父なる神をたたえるのです。そこからが今日の聖書箇所です。「そのとき、イエスはこう言われた。『天地の主である父よ、あなたをほめたたえます』」と。これは「完全に同意します」という意味合いの言葉でもあります。無駄に終わったように見える宣教の働きの中に、それでもなお父がなさっていることがある。そのような父を知るゆえに、父のなさることに同意し、父をたたえるのです。

 「父のほかに子を知る者はない」。確かにそうなのです。そのような御子として、やがては人々に捨てられ、弟子たちにも逃げられ、十字架にかけられて死んでゆくことになるのです。しかし、それでもなお父には知られているのです。そして、その父を子もまた知っている。「父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません」と主は言われました。そこに言い表されているのは、父と子との関係です。愛と信頼に満ちた父と子との交わりです。

 そのような父と子との関わりに生きていたイエス様が言われるのです。そのようなイエス様だからこそこう言われるのです。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(28節)。

 「休ませてあげよう」――どのようにして?自分がいるところに招くことによってです。天地の主である方を「父よ」と呼ぶ、その交わりの中に招くことによってです。イエス様御自身が休みを得ていた、その交わりの中に招くことによってです。だから「わたしのもとに来なさい」と主は言われるのです。そのようにして、父を知るのは子だけでなくなるのです。「子が示そうと思う者」もまた父を知ることになるのです。

わたしの軛を負いなさい
 そのように主は私たちをも招いてくださいました。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と。そのようにして私たちはイエス様のもとに来て、「天にまします我らの父よ」と祈る集まりに身を置いているのです。

 しかし、主は「休ませてあげよう」と言われたのであって、「重荷を取り去ってあげよう」と言われたのではありませんでした。もちろん、「休ませてあげよう」には重荷を降ろすことも含まれてはいるのでしょう。私たちは主のもとに来て、降ろすことができる重荷はあります。少なくとも、罪の重荷は降ろすことができます。また私たちの思い煩いという重荷も主のもとに降ろしなさいと言われている。そのように私たちが降ろすことのできる重荷、降ろすべき重荷はあります。しかし、それでもなお負わなくてはならない重荷は残るのです。主は「休ませてあげよう」と言われたのです。

 それゆえに主は「休ませてあげよう」と言われた後、さらにこう続けるのです。「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」(29‐30節)。そこでは軛について語られ、負うべき荷物について語られているのです。

 「軛」とは二頭の牛をつなげる道具です。同じくびきを負った二頭は共に荷を負い、共に働くことになるのです。そのようにイエス様は「わたしの軛を負いなさい」と言われるのです。イエス様のもとに来て、父との交わりに入れられた人は、そこでイエス様と同じくびきを負って歩き出すのです。そこではイエス様への従順が求められます。つながれているのですから。

 ここで「軛」について語られているということは、なおそこに負うべき荷物があることを意味します。私たちは休みを与えられてなお負うべき荷物はあるのです。しかし、それは「わたしの荷」とイエス様によって呼ばれています。それは今まで負ってきた重荷と同じものかもしれません。しかし、意味合いが違うのです。それは主につながれている者として、主に学ぶものとして、主と共に負っていく、主にとっての「わたしの荷」なのです。

 主は言われました。「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」(30節)。負っているのは主の軛だから、そして重荷は主の重荷だから、そこからまた背負って歩み出すことができる。主の言葉が真実であることを代々の信仰者は経験してきたのです。だから私たちにも伝えられています。同じ御言葉が、ここにいる私たちにも語られているのです。

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