2017年6月4日日曜日

「それは突然はじまった」

2017年6月4日 聖霊降臨祭
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 使徒言行録 2章1節~11節

神のお働きに心を向けよう
 今日はペンテコステ(聖霊降臨祭)です。毎年この日には使徒言行録2章が読まれます。教会がどのように誕生し、その宣教の歴史がどのようにスタートしたかを伝える聖書箇所です。もう一度お読みします。

 「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」(使徒2:1‐4)。

 実に奇妙な描写です。しかし、代々の教会はこの奇妙な物語を毎年繰り返し朗読しながら聖霊降臨祭を祝ってきたのです。それはなぜでしょう。それはこの物語に耳を傾けて、繰り返し思い出さなくてはならないことがあるからです。「宣教は神が開始され、神が継続しておられる、神のお働きである」ということです。私たちが、まず人間がすることにではなく、まず神のお働きに思いを向けるようにと、この出来事は伝えられているのです。

 先ほどの聖書箇所を御覧ください。2節に「突然」と書かれています。それは「突然」始まったのです。つまり人間が考えて、人間が計画して、人間が準備して実現したことではない、ということです。

 続いて、「激しい風が吹いて来るような音」が聞こえたと書かれています。「ような」という言葉は大事です。あくまでもその「ような」音なのであって、私たちが日常に経験する「激しい風」とは異なるものです。また、それは「天から」聞こえた、と記されております。それは、単に方向を言っているのではありません。この世界の中からではなくて、向こうから、神から来ていることを意味しています。また「炎のような舌」が現れたことが記されています。これも明らかに人間の経験の中にある「炎」でもなければ「舌」でもありません。

 これらすべての表現は、この出来事が向こうから到来したことを示しています。こちらが引き起こしたのではない。人間が教会を生み出したのではないし、人間が宣教を開始したのでもないのです。教会は、誰か強力な指導力を持つ人物が現れて弟子たちをとりまとめて作ったのではないのです。弟子たちが自主的に一つのイデオロギーのもとに団結して教会を作ったというのでもない。共通の課題や共通の敵に対して一つにまとまった結果、教会が生まれたのでもないのです。

 既に見たように、ここに書かれている激しい風も、炎も、この世界から出たのではなく、神からのものです。この風はこの世の思想の風でもないし、この炎は人間が煽って燃え上がる熱狂や情熱でもありません。そんなものとは全く関係なく教会は誕生し、教会の働きは開始したのです。

 だから代々の教会は、教会の全ての営みにおいても、天からの出来事、聖霊による出来事が起こっていると信じてきたのです。

 例えば、この後に洗礼式があります。水を用意することも、水をかけることも人間がすることです。しかし、もし洗礼式が単に人間が行うことであり、この世のことであるに過ぎないなら、これほどつまらないものはありません。洗礼を受ける人は、水をかけられて冷たい思いをするだけです。しかし、実際にはそうではないからこそ、2000年間も教会はこれを続けてきたのです。

 迫害があろうが何があろうが、止めなかったのです。単なるこの世のことではないからです。そこで天からの出来事が起こるからです。神の霊による出来事が起こるからです。そこで人はキリストと一つになり、キリストによる罪の贖いにあずかり、キリストと共に死んで新しく生まれるのです。そこに天からの出来事、神による目に見えない出来事が起こるのです。

 その後の聖餐も同じです。小さなパンのかけらと小さなカップが分けられます。パンとぶどう汁を用意することも、それを分け与えることも人間がすることです。この世のことです。もし聖餐式がこの世のことであるに過ぎないなら、これほどつまらないものはありません。しかし、実際にはそうではないからこそ、2000年間も教会はこれを続けてきたのです。

 途中で止めてしまわなかった。迫害があろうが何があろうが、止めなかったのです。なぜなら、単なるこの世のことではないからです。そこで天からの出来事が起こる。神の霊による出来事が起こる。私たちがパンを目で見、この舌で味わい、食べて内に入るように、それほど確かに、キリストの十字架による罪の贖いの恵みに私たちは繰り返し与るのです。またパンがこの肉体の命を養うように、キリストの体と血とにあずかって、永遠の命の養いを受けるのです。

 いや、特に洗礼と聖餐だけに限りません。この礼拝そのものが既に神の御業なのです。私たちがこうして目に見えない御方に向かい、心を合わせて讃美をしている。毎日辛い目に遭っている人であっても日曜日にはここに来て神を誉めたたえる。当たり前のことですか。しかも、もともと全く違うところにいた私たちが、全く違うように生きてきた私たちが、今、こうして心を合わせて礼拝を捧げている。当たり前のことですか。そうではありません。そこで既に天からの出来事に触れているのです。私たちは今日、ここにおいて神の大きなお働きのただ中にいるのです。

神のお働きのために用いていただこう
 今年もこの奇妙な物語が読み上げられました。私たちはこれを聞いて、まず神のお働きに思いを向けてきました。「宣教は神が開始され、神が継続しておられる、神のお働きである」と。

 その上で、今度は「人間」に思いを向けることにしましょう。そこには「激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ」たことや「炎のような舌が分かれ分かれに現れ」たことだけが書かれていたのではありません。さらに次のように書かれていたのです。「すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」(4節)。

 聖霊に満たされたのは人間です。ほかの国々の言葉で話しているのも人間です。わたしや皆さんと同じ人間です。この物語は明らかに人間についても語っているのです。「聖霊に満たされた」人間についてです。

 「聖霊に満たされる」という言い方に良く似た表現が聖書には出て来ます。例えば、「怒りに満たされる」。新共同訳ですと「憤慨する」(ルカ4:28)などと意訳されています。あるいは、「恐れに満たされる」という表現。「妬みに満たされる」という表現。いずれも意味合いは分かりますでしょう。

 怒りに満たされたことありますか。もう腹が立って、腹が立って仕方がない。もう我慢ができなくなってしまう。自分の押さえが利かなくなってしまう。怒りによって動かされるままに、言わなくてもいいことを言ったりいたします。叩いてはいけないのに叩いたりしてしまうこともある。そのように、「満たされる」というのは、「支配される」ことなのです。自分が自分を支配できずに、怒りによって支配され、動かされてしまう。それが「怒りに満たされる」ということです。

 満たされるのが「怒り」であるのは決して望ましいことではありませんが、これが「聖霊」だったらどうでしょう。聖霊によって満たされ、神の霊によって支配されるのなら、それは実に喜ばしいことです。神の愛によって動かされる、すべての人を救いたいという神の思いによって動かされる。この世界を救う神の力に満たされ、私たちを通して神の救いの力が現れ、神の御業が現れる。そのように、まさに神様御自身に支配され、神様が御自身を現してくださる。それが聖霊に満たされるということです。

 「一同は聖霊に満たされた」。神様はそこにいた一同を聖霊に満たしたのです。何のためですか。もちろん、彼らを用いるためにです。そのようにして、あらゆる国々、あらゆる言語を持つすべての民族に、救いを実現するためです。その意味で、「“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」という出来事は、極めて象徴的な出来事だったと言えるでしょう。神はこの世界の救いのために彼らを用いようとしておられたのです。

 考えて見れば不思議なことです。この世界を救うならば、神様が直接なさった方がよいのではないでしょうか。それこそ激しい風が吹いて来るような音が天から響くような仕方で、炎のような舌が現れるような不思議な仕方で、完全に超自然的な仕方で天から直接人々を救ったらよいではありませんか。

 ところが、どうも神様はそのようなことを望んではおられないようです。あくまでも神様は人間を用いて人間を救おうとしておられる。激しい風が吹いて来るような音が天から響いたのは最初だけです。炎のような舌が現れたのも最初のこの時一回限りです。それ以降は、人を聖霊に満たし、人を用いて、人を通して神様は救いの御業を進めてこられたのです。

 そのようにして、この下北沢に教会が存在しているのです。そのようにして、私たちもここに集められているのです。実際そうでしょう。突然、炎のような舌が現れて、その舌に導かれてここに来た人、いますか?いないだろうと思います。誰かが神に用いられたから、わたしがここにいるし、皆さんもここにいるのでしょう。そのように、人間を通して働かれる神の御業の中に私たちも存在しているのです。ならば、今度は私たちの番ではありませんか。神様は私たちをも聖霊に満たし、私たちを用いて、さらに救いの御業を進めようとしておられるのです。

 聖霊に満たされることを求めましょう。あの弟子たちが「心を合わせて熱心に祈っていた」ように、ひたすら祈り求めましょう。怒りや恐れに満たされて、妬みに満たされて、支配されて、人生を使われてしまうのは悲しいことです。聖霊に満たされ、聖霊に支配されて生きることを求めましょう。それは単に私たち自身のためではありません。私たちの家族の救いのためであり、友人の救いのためであり、さらに言えば、この世の救いのためなのです。神は私たちを用いて人を救おうとしておられる。神の救いを運ぶ器とならせていただきましょう。

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