2017年5月21日日曜日

「天にまします我らの父よ」

2017年5月21
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイによる福音書 6章5節~15節

奥まった部屋に入りなさい
 今日の福音書朗読はイエス様が祈りについて教えてくださった箇所です。主は言われました。「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている」(5節)。

 ユダヤ人の祈りは基本的に定型文を唱えるという形で行われます。そのような定まった祈りの中に「シェモネ・エスレ」という祈りの言葉があります。「主よ、あなたは讃むべきかな。われらの神、われらの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、偉大にして力強く、また恐るべき神、いと高き神・・・・」という呼びかけから始まります。両手を挙げ、立って祈ります。その祈りは日に三回、定まった時間に唱えられることになっていました。

 ユダヤ人にとって、祈りの立ち姿は敬虔さの証しでもありました。ですから、祈りの時間にちょうど人が集まっている会堂にいること、あるいは大通りの角にいることを好む人も出て来ます。自分が経験なユダヤ教徒であることを人々に示すことができるからです。

 そのような人々をイエス様は「偽善者」と呼びました。もっとも「偽善者」というのは意訳です。もともとは「役者」を意味する言葉です。役者は人々に見せるために舞台に立ち、人々の拍手によって報われます。敬虔さを示すために祈るなら、賞賛された時点で目的は達せられたことになります。だからイエス様は言われるのです。「彼らは既に報いを受けている」と。

 しかし、それでは祈りにはなりません。主は言われます。「だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる」(6節)。

 もちろん、イエス様はこの言葉をもって、「共に祈ること」を否定しているわけではありません。後にイエス様はこのように語っておられます。「また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる」(20:22)。イエス様が教えてくださった「主の祈り」においても、私たちは「天にまします《われらの》父よ」と祈るように教えられているのです。

 しかし、ここではあえて「奥まった自分の部屋に入って戸を閉めなさい」と言うのです。つまり「隠れなさい」ということです。ここで大事なことは何でしょう。「人の目から自由になること」です。実は、この話はそもそも次のような言葉から始まっていたのです。「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい」(1節)。

 人の目ばかりを気にして、人の言葉と評価に振り回されて生きることは実に不自由なことです。それは私たちもある程度経験して知っています。特に、イエス様が生きていたのはユダヤ人の戒律社会でしたから、なおさらです。戒律が支配している社会というものは監視社会でもあります。互いの目が非常に厳しい社会です。人は他の人を厳しい目で見ます。すると、今度は自分がどう見られているかが気になります。だから外側だけを一生懸命に繕うようになります。「見てもらおうとして」何かを行うようになります。

 それは私たちの社会生活においてもある程度起こっていることなので、よく分かることだとも言えます。しかし、信仰生活において本当に大事な部分というのは、人の目からは隠されているところにあるのでしょう。人の目ばかりを気にして、「見てもらおうとして」、外側ばかりを取り繕うことに意識を奪われてしまったら、本来の信仰生活が営めなくなってしまいます。

 だからこそ、「人の目から自由になる時間」が必要なのです。そのために主は「奥まった自分の部屋に入って戸を閉めなさい」と言われたのです。これは当時どの家にもあった貯蔵室のことです。窓のない小部屋です。まさに奥まった隠れた部屋。そこに入るのです。窓がないから人目から全く隔絶されることになる。そこに隠れるのです。

 そのように私たちには人の目から自由になる時間が必要です。そのように奥まった場所に身を置く時間が必要なのです。

あなたの父に祈りなさい
 そのように主は、「奥まった自分の部屋に入って戸を閉めなさい」と言われました。そして、こう続けます。「隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい」。

 この「隠れたところ」がまず意味するのは、祈る者が隠れて身を置いた密室であると言えます。隠れたところに入ると、「隠れたところにおられるあなたの父」がそこにおられるのです。人々の目から解き放たれ、人々の求めからも身を引き離して、隠れたところに一人で入ると、そこには先に待っていてくださる「あなたの父」がいるのです。アンドリュー・マーレーという人はこう勧めています。「御父は隠れたところにおられ、そこで私を待っておられます。心が冷えて祈れなくなっているからこそ、愛の御父の御前に出なさい。」

 そこにおいて「祈り」は、隠れたところにおける親子の対話となります。他の誰も入り込めない、親密な交わりがそこにあります。イエス様はここであえて「あなたの父」という言葉を使われました。イエス様が「あなたの父」と言うのは実は珍しいのです。ほとんどの場合「あなたがたの(天の)父」です。しかし、密室の祈りにおいて向き合うことになるのは「あなたの父」なのです。他の誰も入り込めない、父と子の交わりがそこにあるのです。

 そのように、イエス様は「隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい」と言われました。そして、「隠れたところ」がもう一つ意味するのは、肉の目に隠されているということでもあります。隠れたところにおいて待っていてくださる父は、そこで祈る者に対しても身を隠しておられるのです。

 「隠れたところ」におられるゆえに、祈る人には見えない。それゆえに、時として祈りは独り言のように感じられるかもしれません。しかし、こちらからは見えないのだけれど、そのお方は「隠れたことを見ておられるあなたの父」と言われているのです。ここで「隠れたこと」が示しているのは第一には隠れたところにおける祈りでしょう。こちらからは見えないけれど、見えない神の側からは見えている。ならば本当はこちらから見えないことは問題ではないのです。ちゃんと見ていてくださるのです。

 そして、さらに主はこう言われました。「また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」(6‐7節)。

 「くどくどと述べてはならない」とは、「長い祈りをしてはならない」ということではありません。イエス様がある時には夜を徹して祈られたことを福音書は伝えています(ルカ6:12)。では何が問題なのでしょう。「異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる」ということです。

 それは要するに説得の対象だということです。こちらの必要を知らしめ、説得し、アピールし、なんとかして聞き入れさせねばならない相手となります。それはもはやイエス様が言われる「あなたの父」ではありません。「あなたの父」については、その必要はないのだと主は言われるのです。「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」と。

すべてをご存じであるから
 願う前から必要なものをご存じの神であるならば、なぜ祈る必要があるのか。そう疑問を抱く人がいるかもしれません。願う前から知っているならば祈る必要はないではないかと考えるのでしょう。

 しかし、このイエス様の言葉は、祈ることが「何でないか」をはっきりと示していると言えます。私たちは、神が知らないので教えてあげるのではありません。必要をご存じない神に、私たちの必要を教えて神を動かすのではありません。私たちにどれだけ必要かを認識していない神に、「必要なんだ」とアピールことでもありません。それらは異邦人がしていることだと主は言われるのです。

 私たちは、本当に必要なことがなんであるかをご存じである方に祈るのです。むしろ本当に必要なことがなんであるかを知らないのは私たちの方なのです。

 それはこの世の親子を考えればある程度分かります。まともな大人である親ならば、幼子に何が必要なのか、少なくとも幼子よりは分かっているのでしょう。確かに親の方が分かっている。しかし、だからといって子供に「何も求めるな。わかっているんだから」とは言いません。むしろ幼子の求めに、より大きな知識をもって答えようとするのです。

 子供は子供なりに、必要と思えるものがあるのです。それは時として絶対に必要なのであり、それは泣き叫ぶほどのものなのです。そのように、私たちには、「私たちに絶対に必要と思われるもの」があるのです。時として、私たちもまた求めてもがいて泣き叫ぶのです。様々な必要は、時として私たちを苦しめ、焦らせ、悲しませます。しかし、そのような苦しみや焦りや悲しみを、私たちはどこにも持って行きようがないのではなく、それを安心して持っていくことができる父がおられるのです。なぜならその御方は、私たち以上に必要なものをご存じであるからです。

 その必要を、私たちは隠れたところにおいて、他のだれも介入できないところにおいて、神に打ち明けることができるのです。何も知らない人に一から説明するように祈る必要はありません。神は事の詳細をすでにご存じです。だから、必要と思えることだけを話すことができる。信頼して話すことができるのです。

 パウロは後にこう書いています。「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」(フィリピ4:6-7)

 そして、「隠れたところにおられるあなたの父は報いてくださる」とイエス様は言われるのです。その祈りは、隠れたところにおられる父に語られます。それはときとして壁に向かって語っているように、カーテンに向かって語っているように感じるかもしれません。しかし、そこには見ていてくださり、聞いていてくださる方がおられる。祈りは「報いられる」のです。

 そのような祈りの時間を、教会は昔から「密室の祈り」と呼んで大切にしてきました。後に私たちは「主の祈り」を祈ります。「天にまします我らの父よ」と。その父は、隠れたところであなたと共に時を過ごそうと、あなたを待っていてくださいます。 

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