2017年5月7日日曜日

「わたしは復活であり命である」

2017年5月7
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネによる福音書 11章17節~27節

わたしを信じる者は、死んでも生きる
 イエス様は言われました。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」。

 イエス様はこのようなことを言われる御方です。こういうことを大まじめに言われる御方です。そして、「このことを信じるか」と問われるのです。

 これは直接的にはある一人の女性に言われた言葉です。イエス様は彼女に「このことを信じるか」と問われました。しかし、この言葉は福音書に記され、今日に至るまで伝えられてきました。しかも、イエス・キリストが復活して今も生きておられると信じる教会によって伝えられてきたのです。それはすなわち、復活して今も生きておられるキリストの問いかけとして代々の教会がこの言葉を聞いてきたということでしょう。

 4月16日は復活祭でした。私たちはイエス・キリストの復活を祝いました。そのキリストが今、私たちに問いかけておられます。「わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。あなたはこのことを信じますか」と。

ある葬儀での出来事
 それはある葬儀における出来事でした。亡くなったのはラザロという男でした。イエス様が到着した時、既に死んで四日経っていました。ユダヤ人の間では、死んだ人の魂は三日間遺体のまわりを漂っていると考えられていました。しかし、既に墓に葬られて四日目です。それはユダヤ人の俗信においてさえも完全に死んだことを意味します。

 ラザロにはマリアとマルタという二人の姉妹がいました。イエス様が来られたと聞いて、マルタは村の外まで迎えに出ました。マルタは主に言いました。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」。そのようなマルタに対して、イエス様は言われました。「あなたの兄弟は復活する」。するとマルタは答えます。「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」(24節)。

 「存じております。知っています。」そうマルタは言いました。「終わりの日の復活の時に復活すること。」それは当時のユダヤ教ファリサイ派における正統的な教理でした。確かに教理は知っているのです。しかし、死の現実に直面した彼女にとって何の助けにもなっていないのです。

 そのようなマルタに言われたのが先ほど引用したイエス様の言葉でした。主はこう言われたのです。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」(25‐26節)。

 イエス様は悲しみに暮れるマルタに、改めて復活の教理を説明しようとはされませんでした。そうではなくて「わたしは(I am)」と言われたのです。自分を指し示したのです。本当に必要なことは教えや説明ではないからです。本当に必要なのは救い主なのです。「わたしは復活であり、命である」と宣言するイエス・キリストという救い主なのです。

 私たちが単に教えを求めて教会に集まっているならば、このマルタと同じところに留まっていることになるでしょう。しかし、私たちが、イエス・キリストという御方を求めて教会に集まっているならば、私たちは救い主に出会うのです。そして、その御方は私たちに問われます。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」と。

 「わたしこそが、あなたが言っているその《復活》そのものなのだ、永遠の《命》そのものなのだ」と主は言われるのです。復活は「終わりの日」という遠い彼方にあるのではなく、永遠の命も遠い彼方にあるのではないのです。復活の命は、絶望に満ちたこの世界のただ中に来ているのです。イエス様を信じる者は、《いつかその時に》ではなく、《今ここにおいて》永遠の命に与ることができるのです。

 そして、永遠の命をいただいているならば、「死んでも生きる」のです。永遠の命をいただいているならば、本質的な意味においては、もはや「決して死ぬことはない」。主はそう言われるのです。

ラザロ、出て来なさい
 さて、今日お読みした聖書箇所はそこまでです。しかし、この話には続きがあります。イエス様がラザロの葬られている墓に赴き、ラザロを生き返らせたという奇跡物語が続くのです。

 イエス様は、ラザロが葬られている墓に来られました。墓は洞穴で、石でふさがれていました。イエス様は「その石を取りのけなさい」と言われました。人々が石を取りのけると、主は父なる神に祈り、そして大声で叫びました。「ラザロ、出て来なさい」。墓の中にキリストの声が響き渡ります。「すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た」。これが今日の箇所の続きとして書かれていることです。

 今日の聖書箇所ではありませんから、奇跡そのものについて多くを語ることはいたしません。ただ一つの大事なことに注目したいと思います。それは、ここでの出来事がユダヤ人たちの殺意を引き起こす直接の原因になった、ということです。

 45節以下にはこう書かれています。「マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。しかし、中には、ファリサイ派の人々のもとへ行き、イエスのなさったことを告げる者もいた」(45‐46節)。そして、このことが最高法院における議論にまで発展するのです。このようなしるしを行う者を放置しておけば、皆が彼を信じるようになる。それは現体制を危機にさらすことになる。ということで、「彼には死んでもらうことにしよう」というのが大祭司の提案でした。そのゆえに53節には「この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ」と書かれているのです。

 もっとも、このことは何も驚くべきことではなく、必然的な流れであったと言えます。イエス様がエルサレムに近いベタニアのラザロの家に行くこと自体、既に危険なことだったのです。「ラビ、ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか」(8節)と言って、弟子たちは反対したのです。そう、イエス様には分かっていたのです。ユダヤにおいて何が待っているのか、自分がどこに向かっているのか、イエス様は分かっておられたのです。主は確かに、十字架の死に向かって歩みを進めておられたのです。

 そのような緊迫した状況の中で、イエス様は、「わたしは復活であり、命である」と言われたのです。それは十字架へと向かっている御方の言葉に他ならないのです。また、主は十字架へと向かっているお方として、このしるしを行われたのです。

 イエス様は墓の中のラザロに向かって、「大声で叫ばれた」と書かれています。このしるしを行うことが、御自分の身に何をもたらすかを知った上で、主は大声で叫ばれたのです。いわばこれはイエス様の命がけの叫びです。イエス様は御自分の命と引き替えに、ラザロを墓から呼び出されたのです。「ラザロ、出て来なさい」と。

キリストの死とひきかえに与えられた命
 それまで墓に葬られていたラザロの姿は象徴的な意味において、私たち全ての者の姿であると言えるでしょう。私たちは皆、死の支配のもとにあるのです。生まれた時から既に必ず死ぬことが定まっているのです。もちろんその事実を忘れていることはできます。あたかも死なない者であるかのように生きることは可能です。一時的には。しかし、最後までそのように生き続けることはできません。ラザロもそうでした。マリアもマルタもそうでした。墓のまわりで泣いていた人たちもそうでした。どこかで死の支配の現実と直面することになります。その意味では、意識しようがしまいが、皆既に墓のなかにいるようなものです。

 しかし、その墓の前にイエス様が立たれるのです。そして、自分の命をかけて大声で叫ばれるのです。命と引き替えに、ラザロを墓から呼び出されるのです。「ラザロ、出て来なさい」と。それゆえに、この出来事は一つのしるしとなったと言えるのです。私たち全ての者にキリストがどのような方であるかを示すしるしとなったのです。

 主は私たちに対しても大声で呼びかけておられます。「出て来なさい」と。死の支配の中より出て来なさい、と。復活は「終わりの日」という遠い彼方にあるのではなく、永遠の命も遠い彼方にあるのではないのです。復活の命は、絶望に満ちたこの世界のただ中に来ているのです。イエス様に呼びかけられて、イエス様を信じる者は、《いつかその時に》ではなく、《今ここにおいて》永遠の命に与ることができるのです。もはや死に支配されて生きる必要はないのです。

 そして、その永遠の命はキリストの死を通して私たちに与えられるのです。キリストの死とひきかえに私たちに与えられるのです。ラザロに起こったことは、そのことを指し示すしるしとなったのです。

 キリストは私たちの罪を贖うために十字架にかかってくださいました。私たちに罪の赦しをもたらし、神との交わりを与えるためでした。この永遠なる神との交わりこそが永遠の命なのです。この永遠の命を与えてくださるキリストと共にあるならば、「死んでも生きる」のです。復活であり命であるお方によって、永遠なる神との交わりの中にあるならば、「決して死ぬことはない」のです。もはや死の支配の中にはいないのです。

 「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」。ここにいる私たちへの問いかけです。

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