日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 エフェソの信徒への手紙 4章1節~16節
神から招かれたのですから
今日の聖書箇所には「神から招かれたのですから」と書かれていました。そのように聖書は「神の招き」について語ります。そう、私たちは神に招かれて、神に呼ばれてここにいるのです。
教会に身を置いていること、神を礼拝していること、聖書の言葉に耳を傾けていること、神を信じていること、洗礼を受けたこと、これらすべてのことは、単に私たちがそうしたいと思ったから実現したのではありません。思い起こしてみてください。それらは私たちの意志とは無関係に与えられた様々な出来事や様々な出会いがあって、初めて実現したことです。それらはすべて向こうからやってきたものです。
向こうからやってきた全てを通して、神が招いてくださった。そうして、私たちは集められたのです。ですからそのような集まりは初めの頃から「エクレーシア」と呼ばれていました。日本語ですと「教会」と訳されます。しかし、「エクレーシア」とはもともと「呼び集められたもの」という意味です。神に呼び集められた共同体、それが教会です。
神が私たちを集めたのならば、そこには神の意図があるはずです。人が薪を集めるなら、それは火にくべるためです。神が人を集めるならば、それは地獄の火にくべるためであってもおかしくはありません。人間の罪深さを思い、自分自身の罪深さを思うならば、それもまた一つの可能性です。本来ならば、そちらの方の可能性が高いとも言えます。
しかし、集められた私たちは全く異なる言葉を聞いたのです。神からの断罪の言葉ではなく、神に呼び集められて、赦しの言葉を聞いたのです。イエス・キリストは私たちの罪の贖いとして十字架にかかってくださった。その十字架のゆえに「あなたの罪は赦された」という言葉を聞いたのです。
「神から招かれたのですから」。私たちを招き、呼び集めてくださったのは、イエス・キリストの神でした。私たちを救うために、イエス・キリストをこの世に送ってくださった神でした。私たちを愛し、赦し、救ってくださる神が、私たちを招いてくださいました。それゆえに、今、私たちはここにいるのです。
ふさわしく歩みなさい
そのように、聖書は「神の招き」について語ります。ならば、そこには「招かれた者」としてのふさわしい生活があるはずです。それゆえに「神から招かれたのですから」という言葉はこう続くのです。「その招きにふさわしく歩み(なさい)」。
「神の招きにふさわしい歩み」とはどのような生活を意味するのでしょう。神に招かれ、救いの恵みにあずかった人々に、神どのような生活を期待しておられるのでしょうか。先ほどの言葉はこう続くのです。「神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい」(1‐3節)。
神が望んでおられるのは、神に招かれた者たちが一つになることです。単に個々の人間がそれぞれ優れた徳を身に着けることを望んでおられるのではありません。一つになることです。ですから、パウロは「一つ」という言葉を連呼するのです。「体は一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです」(4節)。「体」とはこの場合、教会のことです。私たちは神に招かれた者として、一つの希望、神の国の希望を共有しているのです。
さらに続けます。「主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます」(5‐6節)。
そのように神が望んでおられるのは私たちが一つになることです。引き裂かれたこの世界のただ中で、分かれ争い憎み合っているこの世界のただ中で、招かれた私たちが一つになることです。そのようにして神の国を指し示すしるしとなることです。
そこで大事になってくるのが「一切高ぶることなく、柔和で・・・」と続く部分なのです。「高ぶることなく」と訳されているのは「謙遜」という意味の言葉です。「謙遜」「柔和」「寛容」「忍耐」。これらはすべて人と人との関わりに関係しています。招かれ、呼び集められた者たちが一つとなるために必要とされるものなのです。
そして、それらはすべて「こちら側」のことなのです。人と人とが一つになれない時、私たちは相手側を問題にしてしまうものでしょう。他者を問題にしてしまうものでしょう。しかし、まず省みなくてはならないのは自分自身なのです。「謙遜」「柔和」「寛容」「忍耐」。他者がどうであるかではなく、まずはこちら側のことなのです。
その上で「共に」ということが語られます。「平和のきずなで結ばれて」。この「きずな」というのは「共に結びつけるもの」という意味の言葉です。きずなというのは自分一人が結ばれていても意味がありません。共に結ばれてこそ「一つにする」という意味を持つのです。
共に結びつける「平和のきずな」は自分たちが造り出したものではありません。それは与えられたものです。「神から招かれたのですから」。そのように神から招かれて、与えられたのはキリストでした。
キリストこそが、私たちに与えられた「平和のきずな」です。最初の弟子たちが、ユダヤ人たちを恐れて家の戸に鍵をかけて閉じこもっていたとき、復活したイエス様が真ん中に立ってこう言われました。「あなたがたに平和があるように」。そして、聖書にはこう書かれているのです。「そう言って、手とわき腹とをお見せになった」(ヨハネ20:20)。手とわき腹には傷跡があるのです。十字架にかけられた傷跡があるのです。十字架にかけられたキリストこそが、私たちの平和です。私たちに与えられた「平和のきずな」です。
私たちは、あの御方の十字架のゆえに罪を赦され、あの御方によって共に結びあわされているのです。ならば大事なのは、私たちそれぞれが平和のきずなであるイエス様にしっかりとつながって生きていることでしょう。そうあってこそ、「霊による一致を保つ」ことができるのです。それは神の霊による一致です。
異なる者たちが信仰において一つに
そのように、神が望んでおられるのは私たちが一つになることです。それが神の招きにふさわしく歩むということです。そして、既に述べたように、それは平和のきずなで結ばれた、神の霊による一致です。人為的に造り出されたような全体主義的な一致ではありません。多様性が否定され、皆が同じであることを強要され、個が全体の中に解消されてしまうような一致ではありません。
ですからパウロはさらにこう続けるのです。「しかし、わたしたち一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられています」(7節)。今度は「一人一人」の話が出てくるのです。
一人一人にはキリストの賜物のはかりによって、異なる恵みの賜物が与えられているのです。ここでは特に教会の職務との関連において語られています。「そして、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされたのです」(11節)。実際には今日の私たちの教会においては「使徒」という務めはありませんし、「預言者」という職務も見られません。それらは歴史的に変遷するものです。いずれにせよ、ここで言いたい最も大事なことは、主が異なる働きを各自に与えているということです。
私たちは互いに異なることを重んじなくてはなりません。自分に与えられていないものが他の人に与えられていることを喜ばなくてはなりません。与えられている賜物が異なるのは、務めが異なるからなのだということを認めなくてはなりません。他の人と同じことを同じようにしようとする必要はありませんし、他の人に同じことを同じようにすることを要求してはならないのです。大事なことは、12節にあるように、互いに異なる者が一緒に「キリストの体を造り上げ」ていくことなのです。
パウロが言うように教会はキリストの体です。それは既にキリストの体であるということでもあります。しかし、それゆえにまた教会は「キリストの体」として目に見える形に造り上げられねばならないのです。
それはどのように造り上げられていくのでしょう。今年の年度聖句は今日の聖書箇所から取られました。毎週の週報に書かれています。「キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです」(16節)。
私たちは「神から招かれました」。そして、これが招きにふさわしく歩んで一つとなっていくという具体的な姿です。キリストにあって、あらゆる節々が補い合うことによってしっかりと組み合わされるとは私たちそれぞれにとって何を意味するのか。おのおのの部分が分に応じて働いて体を成長させるということは、この教会にとってどのようなことなのか。自ら愛によって造り上げられていく教会とはいかなる教会であるのか。この課題に今年度じっくり取り組んでいきたいと思います。