2017年5月28日日曜日

「平和のきずなで結ばれて」 

2017年5月28
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 エフェソの信徒への手紙 4章1節~16節

神から招かれたのですから
 今日の聖書箇所には「神から招かれたのですから」と書かれていました。そのように聖書は「神の招き」について語ります。そう、私たちは神に招かれて、神に呼ばれてここにいるのです。

 教会に身を置いていること、神を礼拝していること、聖書の言葉に耳を傾けていること、神を信じていること、洗礼を受けたこと、これらすべてのことは、単に私たちがそうしたいと思ったから実現したのではありません。思い起こしてみてください。それらは私たちの意志とは無関係に与えられた様々な出来事や様々な出会いがあって、初めて実現したことです。それらはすべて向こうからやってきたものです。

 向こうからやってきた全てを通して、神が招いてくださった。そうして、私たちは集められたのです。ですからそのような集まりは初めの頃から「エクレーシア」と呼ばれていました。日本語ですと「教会」と訳されます。しかし、「エクレーシア」とはもともと「呼び集められたもの」という意味です。神に呼び集められた共同体、それが教会です。

 神が私たちを集めたのならば、そこには神の意図があるはずです。人が薪を集めるなら、それは火にくべるためです。神が人を集めるならば、それは地獄の火にくべるためであってもおかしくはありません。人間の罪深さを思い、自分自身の罪深さを思うならば、それもまた一つの可能性です。本来ならば、そちらの方の可能性が高いとも言えます。

 しかし、集められた私たちは全く異なる言葉を聞いたのです。神からの断罪の言葉ではなく、神に呼び集められて、赦しの言葉を聞いたのです。イエス・キリストは私たちの罪の贖いとして十字架にかかってくださった。その十字架のゆえに「あなたの罪は赦された」という言葉を聞いたのです。

 「神から招かれたのですから」。私たちを招き、呼び集めてくださったのは、イエス・キリストの神でした。私たちを救うために、イエス・キリストをこの世に送ってくださった神でした。私たちを愛し、赦し、救ってくださる神が、私たちを招いてくださいました。それゆえに、今、私たちはここにいるのです。

ふさわしく歩みなさい
 そのように、聖書は「神の招き」について語ります。ならば、そこには「招かれた者」としてのふさわしい生活があるはずです。それゆえに「神から招かれたのですから」という言葉はこう続くのです。「その招きにふさわしく歩み(なさい)」。

 「神の招きにふさわしい歩み」とはどのような生活を意味するのでしょう。神に招かれ、救いの恵みにあずかった人々に、神どのような生活を期待しておられるのでしょうか。先ほどの言葉はこう続くのです。「神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい」(1‐3節)。

 神が望んでおられるのは、神に招かれた者たちが一つになることです。単に個々の人間がそれぞれ優れた徳を身に着けることを望んでおられるのではありません。一つになることです。ですから、パウロは「一つ」という言葉を連呼するのです。「体は一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです」(4節)。「体」とはこの場合、教会のことです。私たちは神に招かれた者として、一つの希望、神の国の希望を共有しているのです。

 さらに続けます。「主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます」(5‐6節)。

 そのように神が望んでおられるのは私たちが一つになることです。引き裂かれたこの世界のただ中で、分かれ争い憎み合っているこの世界のただ中で、招かれた私たちが一つになることです。そのようにして神の国を指し示すしるしとなることです。

 そこで大事になってくるのが「一切高ぶることなく、柔和で・・・」と続く部分なのです。「高ぶることなく」と訳されているのは「謙遜」という意味の言葉です。「謙遜」「柔和」「寛容」「忍耐」。これらはすべて人と人との関わりに関係しています。招かれ、呼び集められた者たちが一つとなるために必要とされるものなのです。

 そして、それらはすべて「こちら側」のことなのです。人と人とが一つになれない時、私たちは相手側を問題にしてしまうものでしょう。他者を問題にしてしまうものでしょう。しかし、まず省みなくてはならないのは自分自身なのです。「謙遜」「柔和」「寛容」「忍耐」。他者がどうであるかではなく、まずはこちら側のことなのです。

 その上で「共に」ということが語られます。「平和のきずなで結ばれて」。この「きずな」というのは「共に結びつけるもの」という意味の言葉です。きずなというのは自分一人が結ばれていても意味がありません。共に結ばれてこそ「一つにする」という意味を持つのです。

 共に結びつける「平和のきずな」は自分たちが造り出したものではありません。それは与えられたものです。「神から招かれたのですから」。そのように神から招かれて、与えられたのはキリストでした。

 キリストこそが、私たちに与えられた「平和のきずな」です。最初の弟子たちが、ユダヤ人たちを恐れて家の戸に鍵をかけて閉じこもっていたとき、復活したイエス様が真ん中に立ってこう言われました。「あなたがたに平和があるように」。そして、聖書にはこう書かれているのです。「そう言って、手とわき腹とをお見せになった」(ヨハネ20:20)。手とわき腹には傷跡があるのです。十字架にかけられた傷跡があるのです。十字架にかけられたキリストこそが、私たちの平和です。私たちに与えられた「平和のきずな」です。

 私たちは、あの御方の十字架のゆえに罪を赦され、あの御方によって共に結びあわされているのです。ならば大事なのは、私たちそれぞれが平和のきずなであるイエス様にしっかりとつながって生きていることでしょう。そうあってこそ、「霊による一致を保つ」ことができるのです。それは神の霊による一致です。 

異なる者たちが信仰において一つに
 そのように、神が望んでおられるのは私たちが一つになることです。それが神の招きにふさわしく歩むということです。そして、既に述べたように、それは平和のきずなで結ばれた、神の霊による一致です。人為的に造り出されたような全体主義的な一致ではありません。多様性が否定され、皆が同じであることを強要され、個が全体の中に解消されてしまうような一致ではありません。

 ですからパウロはさらにこう続けるのです。「しかし、わたしたち一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられています」(7節)。今度は「一人一人」の話が出てくるのです。

 一人一人にはキリストの賜物のはかりによって、異なる恵みの賜物が与えられているのです。ここでは特に教会の職務との関連において語られています。「そして、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされたのです」(11節)。実際には今日の私たちの教会においては「使徒」という務めはありませんし、「預言者」という職務も見られません。それらは歴史的に変遷するものです。いずれにせよ、ここで言いたい最も大事なことは、主が異なる働きを各自に与えているということです。

 私たちは互いに異なることを重んじなくてはなりません。自分に与えられていないものが他の人に与えられていることを喜ばなくてはなりません。与えられている賜物が異なるのは、務めが異なるからなのだということを認めなくてはなりません。他の人と同じことを同じようにしようとする必要はありませんし、他の人に同じことを同じようにすることを要求してはならないのです。大事なことは、12節にあるように、互いに異なる者が一緒に「キリストの体を造り上げ」ていくことなのです。

 パウロが言うように教会はキリストの体です。それは既にキリストの体であるということでもあります。しかし、それゆえにまた教会は「キリストの体」として目に見える形に造り上げられねばならないのです。

 それはどのように造り上げられていくのでしょう。今年の年度聖句は今日の聖書箇所から取られました。毎週の週報に書かれています。「キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです」(16節)。

 私たちは「神から招かれました」。そして、これが招きにふさわしく歩んで一つとなっていくという具体的な姿です。キリストにあって、あらゆる節々が補い合うことによってしっかりと組み合わされるとは私たちそれぞれにとって何を意味するのか。おのおのの部分が分に応じて働いて体を成長させるということは、この教会にとってどのようなことなのか。自ら愛によって造り上げられていく教会とはいかなる教会であるのか。この課題に今年度じっくり取り組んでいきたいと思います。

2017年5月21日日曜日

「天にまします我らの父よ」

2017年5月21
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイによる福音書 6章5節~15節

奥まった部屋に入りなさい
 今日の福音書朗読はイエス様が祈りについて教えてくださった箇所です。主は言われました。「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている」(5節)。

 ユダヤ人の祈りは基本的に定型文を唱えるという形で行われます。そのような定まった祈りの中に「シェモネ・エスレ」という祈りの言葉があります。「主よ、あなたは讃むべきかな。われらの神、われらの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、偉大にして力強く、また恐るべき神、いと高き神・・・・」という呼びかけから始まります。両手を挙げ、立って祈ります。その祈りは日に三回、定まった時間に唱えられることになっていました。

 ユダヤ人にとって、祈りの立ち姿は敬虔さの証しでもありました。ですから、祈りの時間にちょうど人が集まっている会堂にいること、あるいは大通りの角にいることを好む人も出て来ます。自分が経験なユダヤ教徒であることを人々に示すことができるからです。

 そのような人々をイエス様は「偽善者」と呼びました。もっとも「偽善者」というのは意訳です。もともとは「役者」を意味する言葉です。役者は人々に見せるために舞台に立ち、人々の拍手によって報われます。敬虔さを示すために祈るなら、賞賛された時点で目的は達せられたことになります。だからイエス様は言われるのです。「彼らは既に報いを受けている」と。

 しかし、それでは祈りにはなりません。主は言われます。「だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる」(6節)。

 もちろん、イエス様はこの言葉をもって、「共に祈ること」を否定しているわけではありません。後にイエス様はこのように語っておられます。「また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる」(20:22)。イエス様が教えてくださった「主の祈り」においても、私たちは「天にまします《われらの》父よ」と祈るように教えられているのです。

 しかし、ここではあえて「奥まった自分の部屋に入って戸を閉めなさい」と言うのです。つまり「隠れなさい」ということです。ここで大事なことは何でしょう。「人の目から自由になること」です。実は、この話はそもそも次のような言葉から始まっていたのです。「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい」(1節)。

 人の目ばかりを気にして、人の言葉と評価に振り回されて生きることは実に不自由なことです。それは私たちもある程度経験して知っています。特に、イエス様が生きていたのはユダヤ人の戒律社会でしたから、なおさらです。戒律が支配している社会というものは監視社会でもあります。互いの目が非常に厳しい社会です。人は他の人を厳しい目で見ます。すると、今度は自分がどう見られているかが気になります。だから外側だけを一生懸命に繕うようになります。「見てもらおうとして」何かを行うようになります。

 それは私たちの社会生活においてもある程度起こっていることなので、よく分かることだとも言えます。しかし、信仰生活において本当に大事な部分というのは、人の目からは隠されているところにあるのでしょう。人の目ばかりを気にして、「見てもらおうとして」、外側ばかりを取り繕うことに意識を奪われてしまったら、本来の信仰生活が営めなくなってしまいます。

 だからこそ、「人の目から自由になる時間」が必要なのです。そのために主は「奥まった自分の部屋に入って戸を閉めなさい」と言われたのです。これは当時どの家にもあった貯蔵室のことです。窓のない小部屋です。まさに奥まった隠れた部屋。そこに入るのです。窓がないから人目から全く隔絶されることになる。そこに隠れるのです。

 そのように私たちには人の目から自由になる時間が必要です。そのように奥まった場所に身を置く時間が必要なのです。

あなたの父に祈りなさい
 そのように主は、「奥まった自分の部屋に入って戸を閉めなさい」と言われました。そして、こう続けます。「隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい」。

 この「隠れたところ」がまず意味するのは、祈る者が隠れて身を置いた密室であると言えます。隠れたところに入ると、「隠れたところにおられるあなたの父」がそこにおられるのです。人々の目から解き放たれ、人々の求めからも身を引き離して、隠れたところに一人で入ると、そこには先に待っていてくださる「あなたの父」がいるのです。アンドリュー・マーレーという人はこう勧めています。「御父は隠れたところにおられ、そこで私を待っておられます。心が冷えて祈れなくなっているからこそ、愛の御父の御前に出なさい。」

 そこにおいて「祈り」は、隠れたところにおける親子の対話となります。他の誰も入り込めない、親密な交わりがそこにあります。イエス様はここであえて「あなたの父」という言葉を使われました。イエス様が「あなたの父」と言うのは実は珍しいのです。ほとんどの場合「あなたがたの(天の)父」です。しかし、密室の祈りにおいて向き合うことになるのは「あなたの父」なのです。他の誰も入り込めない、父と子の交わりがそこにあるのです。

 そのように、イエス様は「隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい」と言われました。そして、「隠れたところ」がもう一つ意味するのは、肉の目に隠されているということでもあります。隠れたところにおいて待っていてくださる父は、そこで祈る者に対しても身を隠しておられるのです。

 「隠れたところ」におられるゆえに、祈る人には見えない。それゆえに、時として祈りは独り言のように感じられるかもしれません。しかし、こちらからは見えないのだけれど、そのお方は「隠れたことを見ておられるあなたの父」と言われているのです。ここで「隠れたこと」が示しているのは第一には隠れたところにおける祈りでしょう。こちらからは見えないけれど、見えない神の側からは見えている。ならば本当はこちらから見えないことは問題ではないのです。ちゃんと見ていてくださるのです。

 そして、さらに主はこう言われました。「また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」(6‐7節)。

 「くどくどと述べてはならない」とは、「長い祈りをしてはならない」ということではありません。イエス様がある時には夜を徹して祈られたことを福音書は伝えています(ルカ6:12)。では何が問題なのでしょう。「異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる」ということです。

 それは要するに説得の対象だということです。こちらの必要を知らしめ、説得し、アピールし、なんとかして聞き入れさせねばならない相手となります。それはもはやイエス様が言われる「あなたの父」ではありません。「あなたの父」については、その必要はないのだと主は言われるのです。「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」と。

すべてをご存じであるから
 願う前から必要なものをご存じの神であるならば、なぜ祈る必要があるのか。そう疑問を抱く人がいるかもしれません。願う前から知っているならば祈る必要はないではないかと考えるのでしょう。

 しかし、このイエス様の言葉は、祈ることが「何でないか」をはっきりと示していると言えます。私たちは、神が知らないので教えてあげるのではありません。必要をご存じない神に、私たちの必要を教えて神を動かすのではありません。私たちにどれだけ必要かを認識していない神に、「必要なんだ」とアピールことでもありません。それらは異邦人がしていることだと主は言われるのです。

 私たちは、本当に必要なことがなんであるかをご存じである方に祈るのです。むしろ本当に必要なことがなんであるかを知らないのは私たちの方なのです。

 それはこの世の親子を考えればある程度分かります。まともな大人である親ならば、幼子に何が必要なのか、少なくとも幼子よりは分かっているのでしょう。確かに親の方が分かっている。しかし、だからといって子供に「何も求めるな。わかっているんだから」とは言いません。むしろ幼子の求めに、より大きな知識をもって答えようとするのです。

 子供は子供なりに、必要と思えるものがあるのです。それは時として絶対に必要なのであり、それは泣き叫ぶほどのものなのです。そのように、私たちには、「私たちに絶対に必要と思われるもの」があるのです。時として、私たちもまた求めてもがいて泣き叫ぶのです。様々な必要は、時として私たちを苦しめ、焦らせ、悲しませます。しかし、そのような苦しみや焦りや悲しみを、私たちはどこにも持って行きようがないのではなく、それを安心して持っていくことができる父がおられるのです。なぜならその御方は、私たち以上に必要なものをご存じであるからです。

 その必要を、私たちは隠れたところにおいて、他のだれも介入できないところにおいて、神に打ち明けることができるのです。何も知らない人に一から説明するように祈る必要はありません。神は事の詳細をすでにご存じです。だから、必要と思えることだけを話すことができる。信頼して話すことができるのです。

 パウロは後にこう書いています。「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」(フィリピ4:6-7)

 そして、「隠れたところにおられるあなたの父は報いてくださる」とイエス様は言われるのです。その祈りは、隠れたところにおられる父に語られます。それはときとして壁に向かって語っているように、カーテンに向かって語っているように感じるかもしれません。しかし、そこには見ていてくださり、聞いていてくださる方がおられる。祈りは「報いられる」のです。

 そのような祈りの時間を、教会は昔から「密室の祈り」と呼んで大切にしてきました。後に私たちは「主の祈り」を祈ります。「天にまします我らの父よ」と。その父は、隠れたところであなたと共に時を過ごそうと、あなたを待っていてくださいます。 

2017年5月14日日曜日

「既に光は輝いている」

2017年5月14
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネの手紙Ⅰ 2章1節~11節

掟を持つ共同体
 今日の聖書箇所には繰り返し「掟」という言葉が出て来ました。これは教会に宛てられた手紙です。その手紙には「掟」について書かれています。そのように教会には「掟」があるのです。守られるべき「掟」があるのです。――と、そのようなことを初めて教会に来た人が聞いたなら、「これは恐ろしい集団だ」と思うかもしれません。マフィアの「血の掟」のようなものを連想する人がいるかもしれません。

 しかし、この手紙を受け取った教会は、この「掟」が恐怖で人を支配する類いのものではないことを良く知っていました。その掟とは――「愛すること」なのです。互いに愛し合って生きることなのです。次の章にはこう書かれています。「その掟とは、神の子イエス・キリストの名を信じ、この方がわたしたちに命じられたように、互いに愛し合うことです」(3:23)。さらにこうも言われています。「神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です」(4:21)。

 この掟はイエス・キリストに由来します。最後の晩餐の席において、イエス様は弟子たちに言われました。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)。

 そのように教会には「掟」があるのです。主から与えられた、守られるべき「掟」があるのです。

 しかし、その「掟」が当然のごとく守られていたならば、わざわざ手紙に書く必要はありません。この手紙において「掟」について語られているのは、それが守られていなかったからなのです。

 今日の聖書箇所にこんなことが書かれていました。「『神を知っている』と言いながら、神の掟を守らない者は、偽り者で、その人の内には真理はありません」(4節)。また、後にこのような言葉もあります。「『光の中にいる』と言いながら、兄弟を憎む者は、今もなお闇の中にいます」(9節)。

 私たちが持っている新共同訳では、「神を知っている」という言葉も「光の中にいる」という言葉も鉤括弧に入れられていますでしょう。原文に鉤括弧があるわけではありません。しかし、あえてこのように訳出しているのは、そのように主張する人たちが現実にいたことが知られているからです。その当時の教会に、自分たちには特別な知識が与えられていて「神を知っている」と主張し、また自分たちこそ「光の中にいる」と主張する人たちがいたのです。後に、グノーシス(知識)と呼ばれるようになる異端の人々です。

 その異端の思想そのものはさておき、人が「神を知っている」と言い、「光の中にいる」と主張する背景には、何らかの「体験」というものがあるはずです。特別な知識を与えられたと思える体験がある。それは時として極めて神秘的なスピリチュアルな体験であるかもしれません。

 しかし、そのようなスピリチュアルな体験がイコール「神を知ること」となるのか。それによって「光の中にいること」となるのか。ヨハネは、「そうではない」と言うのです。本当に神を知っているのなら、神の掟を守っているはずでしょう。互いに愛し合っているはずでしょう、と。「わたしたちは、神の掟を守るなら、それによって、神を知っていることが分かります」(3節)とヨハネは言うのです。

 だから彼はこう続けます。「『神を知っている』と言いながら、神の掟を守らない者は、偽り者で、その人の内には真理はありません」(4節)。また、こうも言っています。「『光の中にいる』と言いながら、兄弟を憎む者は、今もなお闇の中にいます」(9節)と言うのです。

 そこに互いに愛し合って共に生きているという現実がなかったら、そこで分かれ争い憎み合って生きているのなら、それは「神を知っている」ことにならないでしょう。「光の中にいる」ことにはならないでしょう。彼はそう言っているのです。

 しかし、実際にヨハネがこの手紙を書いた時代に限らず、教会の歴史の中には繰り返しこのようなことは起こってきたのでしょう。敵対し争い合うのは往々にして「神を知っている」という人たちです。憎み合い袂を分かってきたのは「光の中にいる」すなわち、「わたしには見えている」と主張する人たちです。

 いや、それは教会の歴史に留まりません。現代においても憎み合い殺し合うことさえしているのは「神を知っている」という人たちです。「光の中にいる」と言い、「わたしには見えている」と主張する人たちです。それはここにいる私たちにとっても他人事ではないのでしょう。

それは新しい掟
 だからこそ、「掟」について語る聖書の言葉に耳を傾けたいと思うのです。「愛する者たち、わたしがあなたがたに書いているのは、新しい掟ではなく、あなたがたが初めから受けていた古い掟です。この古い掟とは、あなたがたが既に聞いたことのある言葉です」(7節)。そうです、この手紙を受け取った人たちにとっても、ここにいる私たちにとっても、既に聞いたことがある言葉です。「互いに愛し合いなさい」という言葉は既にイエス様から聞かされているのです。そもそもそれは旧約聖書において既に語られていたことなのです。「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」(レビ19:18)と。今日ここで初めて聞く言葉ではありません。

 しかし、ヨハネはこれを新しく語り直します。「しかし、わたしは新しい掟として書いています。そのことは、イエスにとってもあなたがたにとっても真実です。闇が去って、既にまことの光が輝いているからです」。

 イエス様御自身が「新しい掟」と呼びました。そして、私たちにもまた「新しい掟」として与えられているのです。どうして「新しい掟」なのか。「闇が去って、既にまことの光が輝いているからです」とヨハネは言うのです。既に輝いているまことの光のもとで、その「掟」について新しく語り直しているのです。

 では、「闇が去って、既にまことの光が輝いている」とはどういうことでしょう。この手紙の一章には次のような言葉が書かれています。「神は光であり、神には闇が全くない」(1:5)。「神は光である!」。それこそが「まことの光」です。その「光が輝いている」とは、神が御自身をはっきりと現されたということでしょう。

 どのようにしてでしょう。イエス・キリストを遣わされることによってです。キリストを十字架にかけられることによってです。キリストを復活させることによってです。神はキリストによって、御自身をこの世界に対してはっきりと現されたのです。「闇が去って、既にまことの光が輝いている」。

 神はどのような御方として、御自身を現されたのでしょうか。先ほど「神は光である」という言葉を読みました。しかし、それだけではありません。この手紙においてヨハネは言います。「神は愛です」と。私たちを愛してくださっている御方として、御自身を現されたのです。この手紙の四章には次のように書かれています。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」(4:10)。

 そのように「闇が去って、既にまことの光が輝いている」のです。その「光の中にいる」と言うならば、見えていなくてはならないものがあるのでしょう。それは自分の正しさではなくて、自分の罪なのです。神の御子が償いの犠牲とならなかったら、到底赦されるはずもなかった私たちの罪なのです。そして、そのような私たちをそれでもなお愛してくださった神の愛なのです。本来ならば滅ぼされてしかるべき私たちのために、御子をさえ惜しまず与えてくださった神の愛なのです。

 それゆえに先ほどの言葉は次のように続きます。「愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです」(同11節)。新しい掟です。闇が去って、既にまことの光が輝いているからこその、新しい掟です。

 私たちは、この光の中をこそ歩まなくてはなりません。この光を退けて暗闇の中に留まってはならないのです。「『光の中にいる』と言いながら、兄弟を憎む者は、今もなお闇の中にいます」。闇の中に留まるならば、何が起こりますか。闇の中を歩き続けるなら、何が起こりますか。必ず何かにつまずくことになるでしょう。ですからヨハネはこう言うのです。「兄弟を愛する人は、いつも光の中におり、その人にはつまずきがありません。しかし、兄弟を憎む者は闇の中におり、闇の中を歩み、自分がどこへ行くかを知りません。闇がこの人の目を見えなくしたからです」(10‐11節)。

 いや、つまずくだけだったら、まだ良いのです。「兄弟を憎む者は闇の中におり、闇の中を歩み、自分がどこへ行くかを知りません」。真っ暗闇の中を突っ走っている姿を考えて見てください。すぐにつまずいて倒れたならまだ良いのでしょう。また立ち上がることができるかもしれないから。しかし、そうではなくて、そのまま走って行ってしまうなら、それこそ恐ろしいことになります。その先には崖があるかもしれません。

 そのように神の愛の光を退けて、兄弟を憎むという暗闇の中を、どこへ行くかを知らないまま進んでいくならば、それは恐ろしいことです。何が先に待っているか分からないのです。それは滅びへと向かうことになるかもしれない。憎しみを抱いたまま先へと進んでいくということは、そういうことなのです。

 「闇が去って、既にまことの光が輝いている」。そうです、既に光は輝いています。神は私たちに対する愛を示されたのです。私たちはその事実を知らされているのです。そして、その光の中を歩くようにと招かれたのです。そのための掟です。新しい掟です。「愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです」。

2017年5月7日日曜日

「わたしは復活であり命である」

2017年5月7
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネによる福音書 11章17節~27節

わたしを信じる者は、死んでも生きる
 イエス様は言われました。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」。

 イエス様はこのようなことを言われる御方です。こういうことを大まじめに言われる御方です。そして、「このことを信じるか」と問われるのです。

 これは直接的にはある一人の女性に言われた言葉です。イエス様は彼女に「このことを信じるか」と問われました。しかし、この言葉は福音書に記され、今日に至るまで伝えられてきました。しかも、イエス・キリストが復活して今も生きておられると信じる教会によって伝えられてきたのです。それはすなわち、復活して今も生きておられるキリストの問いかけとして代々の教会がこの言葉を聞いてきたということでしょう。

 4月16日は復活祭でした。私たちはイエス・キリストの復活を祝いました。そのキリストが今、私たちに問いかけておられます。「わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。あなたはこのことを信じますか」と。

ある葬儀での出来事
 それはある葬儀における出来事でした。亡くなったのはラザロという男でした。イエス様が到着した時、既に死んで四日経っていました。ユダヤ人の間では、死んだ人の魂は三日間遺体のまわりを漂っていると考えられていました。しかし、既に墓に葬られて四日目です。それはユダヤ人の俗信においてさえも完全に死んだことを意味します。

 ラザロにはマリアとマルタという二人の姉妹がいました。イエス様が来られたと聞いて、マルタは村の外まで迎えに出ました。マルタは主に言いました。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」。そのようなマルタに対して、イエス様は言われました。「あなたの兄弟は復活する」。するとマルタは答えます。「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」(24節)。

 「存じております。知っています。」そうマルタは言いました。「終わりの日の復活の時に復活すること。」それは当時のユダヤ教ファリサイ派における正統的な教理でした。確かに教理は知っているのです。しかし、死の現実に直面した彼女にとって何の助けにもなっていないのです。

 そのようなマルタに言われたのが先ほど引用したイエス様の言葉でした。主はこう言われたのです。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」(25‐26節)。

 イエス様は悲しみに暮れるマルタに、改めて復活の教理を説明しようとはされませんでした。そうではなくて「わたしは(I am)」と言われたのです。自分を指し示したのです。本当に必要なことは教えや説明ではないからです。本当に必要なのは救い主なのです。「わたしは復活であり、命である」と宣言するイエス・キリストという救い主なのです。

 私たちが単に教えを求めて教会に集まっているならば、このマルタと同じところに留まっていることになるでしょう。しかし、私たちが、イエス・キリストという御方を求めて教会に集まっているならば、私たちは救い主に出会うのです。そして、その御方は私たちに問われます。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」と。

 「わたしこそが、あなたが言っているその《復活》そのものなのだ、永遠の《命》そのものなのだ」と主は言われるのです。復活は「終わりの日」という遠い彼方にあるのではなく、永遠の命も遠い彼方にあるのではないのです。復活の命は、絶望に満ちたこの世界のただ中に来ているのです。イエス様を信じる者は、《いつかその時に》ではなく、《今ここにおいて》永遠の命に与ることができるのです。

 そして、永遠の命をいただいているならば、「死んでも生きる」のです。永遠の命をいただいているならば、本質的な意味においては、もはや「決して死ぬことはない」。主はそう言われるのです。

ラザロ、出て来なさい
 さて、今日お読みした聖書箇所はそこまでです。しかし、この話には続きがあります。イエス様がラザロの葬られている墓に赴き、ラザロを生き返らせたという奇跡物語が続くのです。

 イエス様は、ラザロが葬られている墓に来られました。墓は洞穴で、石でふさがれていました。イエス様は「その石を取りのけなさい」と言われました。人々が石を取りのけると、主は父なる神に祈り、そして大声で叫びました。「ラザロ、出て来なさい」。墓の中にキリストの声が響き渡ります。「すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た」。これが今日の箇所の続きとして書かれていることです。

 今日の聖書箇所ではありませんから、奇跡そのものについて多くを語ることはいたしません。ただ一つの大事なことに注目したいと思います。それは、ここでの出来事がユダヤ人たちの殺意を引き起こす直接の原因になった、ということです。

 45節以下にはこう書かれています。「マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。しかし、中には、ファリサイ派の人々のもとへ行き、イエスのなさったことを告げる者もいた」(45‐46節)。そして、このことが最高法院における議論にまで発展するのです。このようなしるしを行う者を放置しておけば、皆が彼を信じるようになる。それは現体制を危機にさらすことになる。ということで、「彼には死んでもらうことにしよう」というのが大祭司の提案でした。そのゆえに53節には「この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ」と書かれているのです。

 もっとも、このことは何も驚くべきことではなく、必然的な流れであったと言えます。イエス様がエルサレムに近いベタニアのラザロの家に行くこと自体、既に危険なことだったのです。「ラビ、ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか」(8節)と言って、弟子たちは反対したのです。そう、イエス様には分かっていたのです。ユダヤにおいて何が待っているのか、自分がどこに向かっているのか、イエス様は分かっておられたのです。主は確かに、十字架の死に向かって歩みを進めておられたのです。

 そのような緊迫した状況の中で、イエス様は、「わたしは復活であり、命である」と言われたのです。それは十字架へと向かっている御方の言葉に他ならないのです。また、主は十字架へと向かっているお方として、このしるしを行われたのです。

 イエス様は墓の中のラザロに向かって、「大声で叫ばれた」と書かれています。このしるしを行うことが、御自分の身に何をもたらすかを知った上で、主は大声で叫ばれたのです。いわばこれはイエス様の命がけの叫びです。イエス様は御自分の命と引き替えに、ラザロを墓から呼び出されたのです。「ラザロ、出て来なさい」と。

キリストの死とひきかえに与えられた命
 それまで墓に葬られていたラザロの姿は象徴的な意味において、私たち全ての者の姿であると言えるでしょう。私たちは皆、死の支配のもとにあるのです。生まれた時から既に必ず死ぬことが定まっているのです。もちろんその事実を忘れていることはできます。あたかも死なない者であるかのように生きることは可能です。一時的には。しかし、最後までそのように生き続けることはできません。ラザロもそうでした。マリアもマルタもそうでした。墓のまわりで泣いていた人たちもそうでした。どこかで死の支配の現実と直面することになります。その意味では、意識しようがしまいが、皆既に墓のなかにいるようなものです。

 しかし、その墓の前にイエス様が立たれるのです。そして、自分の命をかけて大声で叫ばれるのです。命と引き替えに、ラザロを墓から呼び出されるのです。「ラザロ、出て来なさい」と。それゆえに、この出来事は一つのしるしとなったと言えるのです。私たち全ての者にキリストがどのような方であるかを示すしるしとなったのです。

 主は私たちに対しても大声で呼びかけておられます。「出て来なさい」と。死の支配の中より出て来なさい、と。復活は「終わりの日」という遠い彼方にあるのではなく、永遠の命も遠い彼方にあるのではないのです。復活の命は、絶望に満ちたこの世界のただ中に来ているのです。イエス様に呼びかけられて、イエス様を信じる者は、《いつかその時に》ではなく、《今ここにおいて》永遠の命に与ることができるのです。もはや死に支配されて生きる必要はないのです。

 そして、その永遠の命はキリストの死を通して私たちに与えられるのです。キリストの死とひきかえに私たちに与えられるのです。ラザロに起こったことは、そのことを指し示すしるしとなったのです。

 キリストは私たちの罪を贖うために十字架にかかってくださいました。私たちに罪の赦しをもたらし、神との交わりを与えるためでした。この永遠なる神との交わりこそが永遠の命なのです。この永遠の命を与えてくださるキリストと共にあるならば、「死んでも生きる」のです。復活であり命であるお方によって、永遠なる神との交わりの中にあるならば、「決して死ぬことはない」のです。もはや死の支配の中にはいないのです。

 「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」。ここにいる私たちへの問いかけです。

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