2017年4月30日日曜日

「預言者ヨナのしるし」

2017年4月30
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイによる福音書 12章38節~42節

しるしを見せてください
 何人かの律法学者とファリサイ派の人々がイエス様に言いました。「先生、しるしを見せてください」。――「しるし」とは証拠です。「あなたがメシアであるという証拠を見せてください」ということです。

 そのように彼らは「しるし」を求めました。それ自体はなんら特別なことではありません。パウロも手紙の中で「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探します」(1コリント1:21)と言っています。もともとユダヤ人の世界には「しるしを見て信じる」という伝統があるのです。

 例えば、モーセがイスラエルの民に遣わされた時、彼は神に遣わされたという証明として人々の前で不思議なことを行いました。しるしを見せるわけです。主がそうしなさいと言われたからです。そして、そのしるしを見て人々が信じたということが書かれているのです。

 今日の第一朗読(列王記上17:17‐24)で読まれたエリヤの物語もそうです。エリヤによって死んだ息子を生き返らせてもらった母親が言うのです。「今わたしは分かりました。あなたはまことに神の人です。あなたの口にある主の言葉は真実です」と。そのような言葉が当たり前のように書かれています。

 そのように、神から遣わされた者にはしるしが伴う。神が遣わされたのなら神自らが証明なさる。それはユダヤ人の伝統的な考え方なのです。ですから逆に言えば、どんなに雄弁な人が「主はこう言われる」と語り出しても、どんなに有り難いことを言ってくれたとしても、それだけでやたらに信じたりはしないのです。しるしを求めるのです。本当に神から遣わされたかを確認するのです。それはそれとして大事なことなのでしょう。

 しかし、そのように律法学者とファリサイ派の人々が「しるしを見せてください」と言ってきた時、イエス様はこう答えられたのです。「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」(39節)。そのように、彼らの求めに応じて、目の前で「しるしを見せる」ことを拒否されたのです。それはどうしてか。彼らが《信じるために》しるしを求めているのではなく、《信じないために》しるしを求めていることが分かっていたからです。

 そもそも、「しるしを見せてください」と言うならば、既にしるしは見せてもらっているとも言えます。今日の聖書箇所は「すると」という言葉で始まります。これは「その時」という意味の言葉です。「その時」とはどのような時か。どのような場において、彼らは「しるしを見せてください」と言ったのか。それはこの章の22節以下に書かれています。それは彼らの目の前である奇跡が行われたという場面なのです。しるしを彼らは目にしたのです。

 その時、悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人がイエス様のもとに連れて来られました。いつものように、イエス様は憐れに思って彼を癒されました。ものが言え、目が見えるようになりました。長い間苦しんできた人が癒され解放されました。想像しますに、その人はどれほど嬉しかったことでしょう。いや、彼だけではありません。その人を連れてきた人たちがいるのです。彼のことをこれまで心に懸けていた人たちがいた。その人が癒されることを願っていた人たちが彼を連れてきたのです。どれほど嬉しかったことか。

 そのように、イエス様が病人を癒されたその場は喜びに包まれていたに違いありません。そして、その喜びの出来事の中に、メシアの到来のしるしを見た人たちがいたのです。「この人はダビデの子ではないだろうか」(23節)と。

 しかし、同じ出来事を目の当たりにしても、ファリサイ派の人たちはこう言ったのです。「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」(24節)。彼らはこれを悪霊の頭の仕業であると宣言したのです。

 何を見せられても、何を経験しても、信じたくなければ信じないでいられます。いくらでも拒否することはできるのです。そのような人たちにイエス様は言われました。「わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」(28節)と。しかし、彼らはその言葉をも受け入れることはありませんでした。

本当に必要なこと
 そのように先に拒絶があるのです。いやファリサイ派や律法学者の拒絶は一つの先駆けに過ぎません。やがて彼らだけでなく、民衆もまたやがて叫び始めることになるのです。「十字架につけよ!」と。

 それはメシアがこの世に来られたことにおいて必然であったとも言えます。なぜなら、メシアが来られるということは、光がもたらされるだけでなく、影もまたくっきりと現れることでもあるからです。神の救いの喜びがもたらされるだけでなく、救われなくてはならない人間の現実が明らかにされるということでもあるからです。人間の罪がいかに深いか、人間がいかに救いから遠いかが明らかにされることでもあるのです。

 ここに出て来る律法学者とファリサイ派の人々は、当時の社会においては最も尊敬されていた人々です。最も敬虔であると見なされていた人たちです。最も救われるに相応しいと見られていた人たちです。しかし、イエス様は彼らに言うのです。「蝮の子らよ、あなたたちは悪い人間であるのに、どうして良いことが言えようか。人の口からは、心にあふれていることが出て来るのである」(34節)。今日の箇所の直前に書かれていることです。

 「人の口からは、心にあふれていることが出て来る」。確かにそうです。もしあのファリサイ派の人たちが、苦しんでいる人たちの解放と癒しを願っていたならば、そのような愛と憐れみが心にあふれていたならば、心にあふれているものが口から出たことでしょう。この場面で喜びの言葉が口から出て来たことでしょう。しかし、自分より力ある者に対する妬みや敵意しか心に満ちていないなら、その心にあふれているものが口から出て来るのでしょう。彼らは冷ややかにこう言ったのです。「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」(24節)。

 先にも言いましたように、表面的には敬虔そのものに見える彼らです。しかし、イエス様の存在と言葉は彼らの内に何が満ちているかを知っていたのです。その彼らの姿を明らかにしました。主は言われます。「蝮の子らよ、あなたたちは悪い人間であるのに、どうして良いことが言えようか。人の口からは、心にあふれていることが出て来るのである」。

 光が来ました。しかし、だからこそ影もまた現れることになるのです。イエス様と向き合うということは、その言葉に耳を傾けるということは、自分の見たくなかった暗闇とも向き合うことでもあるのです。神が赦して救ってくださるのでなければ、到底救われようのない自分自身の姿とも向き合うことでもあるのです。

 そして、そのような自分自身を見たくないならば、認めたくないならば、光の方を拒絶するしかありません。だから彼らは「その時」こう言ったのです。「先生、しるしを見せてください」。その意味合いははっきりしています。「お前がメシアだと言うならば、証拠を見せてみろ。我々はお前を神から遣わされたとは認めない。メシアとは認めない。」

 それゆえに主は言われたのです。「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを求める」と。ならば彼らにとって本当に必要なことは、そこでしるしを与えられることではないのです。奇跡を経験することでもないのです。そうではなくて、光に照らされて既に見えてしまっている自分自身の姿を認めることなのです。本当は自分でも分かっている自分の姿を認めることなのです。明らかにされた自分自身を認めて、主の御前にひれ伏して、わたしの罪を赦してください、わたしを清めてください、わたしを癒してください、わたしを変えてください、わたしを救ってくださいと願い求めることなのです。そうでなければ、結局は光の方を拒絶して偽りの正しさの中に生きていくことになるのです。

預言者ヨナのしるしは与えられる
 だから主は彼らの求めに応じて、目の前で「しるしを見せる」ことを拒否されました。しかし、「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、しるしは与えられない」とは言われなかったのです。そうです、「信じようとしないあなたたちに、しるしは与えられない」とは言われなかった。そうではなく、「預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」と言われたのです。つまり、「そのようなあなたたちであってもなお預言者ヨナのしるしは与えられる」と言われたのです。

 「預言者ヨナのしるし」とは何でしょう。主は言われました。「ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる」(40節)。人の子が三日三晩大地の中にいるというのは、十字架にかけられて死なれたイエス様が葬られて三日目に復活することを指しています。(三日目ですので、厳密に言えば「三日三晩」ではないのですが、これはヘブライ的な表現です。)そのように、イエス様がしるしを行うのではなく、イエス様が自分の命をささげて、イエス様自身がしるしとなるのです。罪の贖いを成し遂げた上で、自分自身が神の赦しと救いのしるしとなるのです。

 そのしるしが与えられると主は言われました。そうです、律法学者とファリサイ派の人々に主はそう言われたのです。彼らにも与えられるのです。イエス様をその時拒絶していた人々にも与えられるのです。しかも、実際には彼らによって十字架にかけられて殺されることによって、彼らに「預言者ヨナのしるし」が与えられるのです。そこにあるのはただ神の憐れみです。

 そして実際、彼らにもまたキリストの復活は宣べ伝えられたのでした。初期の宣教の様子は使徒言行録に見ることができますが、拒絶されようが迫害されようが、まず福音はいつもユダヤ人の会堂において語られてきたことを思います。預言はヨナのしるしは与えられました。その時こそ、本当の意味で彼らは問われることになったのでしょう。ニネベの人々は、ヨナの説教を聞いて悔い改めました。そして、主は言われたのです。「ここに、ヨナにまさるものがある」。そうです、「預言者ヨナのしるし」はまさに、ヨナ自身にまさるものでした。そのヨナのしるし、キリストの復活は、私たちにも与えられたのでした。それゆえに、今、私たちが信じる群れとしてここにいるのです。それは一重に神の憐れみによるのです。

2017年4月16日日曜日

「終わりは新しい始まりに」

2017年4月16日 復活祭
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイによる福音書 28章1節~10節

終わりを見つめる人々
 今年もこうして復活祭を共に祝えますことを嬉しく思います。復活祭は喜びの祝祭です。その喜びの祝祭においてキリスト復活の物語が朗読されました。今年はマタイによる福音書から読まれました。それは喜びの物語です。

 しかし、先ほど読まれましたように、その物語は喜びから始まっているわけではありません。それは深い深い悲しみから始まります。こう書かれていました。「さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った」(1節)。

 そのように、彼女たちは「墓を見に行った」と書かれています。実際には墓を見に行ったわけではありません。他の福音書を読むと分かります。彼らは香料と油を塗って御遺体の処置をするために行ったのです。しかし、今日お読みした箇所では、単純に「墓を見に行った」と書かれているのです。

 その二日前、イエス様が葬られたその日にも、墓を見つめる二人の姿がそこにありました。聖書にはこう書かれています。「ヨセフはイエスの遺体を受け取ると、きれいな亜麻布に包み、岩に掘った自分の新しい墓の中に納め、墓の入り口には大きな石を転がしておいて立ち去った。マグダラのマリアともう一人のマリアとはそこに残り、墓の方を向いて座っていた」(59‐61節)。

 葬りを終えてヨセフが立ち去った後も、ずっとそこに座ったまま墓を見つめ、墓の入り口をふさぐ大きな石を見つめて動こうとしない彼女たちの姿がそこにありました。その思いは、ある意味で痛いほど分かります。彼女たちが墓を見つめていたのは、そこにイエス様が葬られたからです。それはイエス様の最終的に行き着いた場所だったからです。それは彼女たちが行き着いた場所でもありました。

 どれほど前かはわかりませんが、彼女たちにもイエス様との出会いの時があったのでしょう。それぞれイエス様に従い始めました。一緒に旅をしてきました。喜びも悲しみも共有しながら一緒に歩いてきました。

 しかし、そのイエス様が捕らえられてしまいました。イエス様が鞭打たれて血まみれになっていたとき、彼女たちは何もすることができませんでした。イエス様が十字架の上で苦しみの極みにあったとき、彼女たちは何もすることができませんでした。イエス様から多くの多くの愛を受けてきました。けれど何一つお返しできませんでした。何もしてあげられませんでした。そして、彼女たちが見つめる中で、イエス様は息を引き取られました。

 イエス様の遺体は取り下ろされ、墓に葬られました。終わりました。すべては終わったのです。あの日二人はイエス様が葬られた墓を見つめて座っていました。すべては終わったという事実を見つめて座っていました。

 そして、三日目の朝、二人は再びその同じ場所に向かいました。彼女たちは「墓を見に行った」。そこに物語の終わりがあるから。終わったという事実があるから。

 また、この場面に登場してはきませんが、この二人の背後に、やはり同じように終わりを見つめている人々がいました。イエス様の弟子たちです。

 彼らが今日の箇所に登場しないのは、彼らがイエス様を見捨てて逃げてしまったからです。「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と誓ったペトロ。口々に同じように言った弟子たち。しかし、実際には、鶏が二度鳴く前に三度イエス様を知らないと否んでしまいました。他の弟子たちも、イエスを残して逃げてしまいました。

 見捨てられることによる絶望というものがあります。しかし、誰かを見捨てることによる絶望もあります。裏切った自分自身、見捨ててしまった自分自身に対する自責の念による絶望。それは同じように深いものだと言えるかもしれません。

 彼らにもイエス様との出会いの時がありました。イエス様に従い始めました。一緒に旅をしてきました。喜びも悲しみも共有しながら一緒に歩いてきました。イエス様から多くの多くの愛を受けてきました。しかし、そのイエス様を彼らは見捨ててしまいました。見捨てられたイエス様は十字架にかけられて死にました。墓に葬られました。

 すべては終わりました。イエス様が葬られた墓。そこにあったのはイエス様と弟子たちの物語の終わりでもありました。

終わりは新しい始まりに
 あの朝、二人の婦人たちは、そのような「墓を見に行った」のです。そこに終わりがあるから。終わったという事実があるから。その事実を彼女たちは改めて目にすることになるはずでした。

 しかし、そこで彼女たちは全く異なるものを見ることになりました。彼女たちはこのような言葉を聞きました。「さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい」。どうしてか。どうしても見なくてはならないものがあったからです。そこにイエスはおられない、ということです。

 主の御使いは彼女たちにこう言いました。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい」(5‐6節)。

 二人がそこに見たのは、「終わり」ではなく、「始まり」でした。終わりであると思われたところにキリストはおられませんでした。復活されたキリストは既に墓から歩み出しておられました。キリストは既に先に進んでおられました。神によって新しいことが既に始まっていました。「さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい」。御使いを通して神が見せてくださったのは、「終わり」ではなく新しい「始まり」でした。

 神は、「終わり」を「始まり」に変えることのできる神です。神がそのような神でなかったら、あそこで終わっていたのです。墓で終わっていたのです。弟子たちも終わっていたのです。教会が世に存在することもなく終わっていたのです。神が「終わり」を「始まり」に変えることができる神であるからこそ、弟子たちはあそこで終わりになりませんでした。それゆえにキリスト教会が今日もなお存在しているのです。そのような神であるゆえに、今、私たちもここにいるのです。

 あの婦人たちは、新しい始まりとなった墓を見せていただきました。いや、見せていただいただけでなく、それを伝える人になりました。神の使いは彼女たちにこう言ったのです。「それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました」(7節)。

 こうして、彼女たちは伝える人になりました。終わりではないことを伝える人になりました。彼女たちは弟子たちに伝えることを託されたのです。キリストはよみがえられた。神は終わりを始まりに変えてしまわれた。もうキリストは先に進んでおられる。先に進んで待っていてくださる。だから弟子たちもまた、そこに立ち止まっていてはいけないのだ、と。

 「もう終わりだ」と思っているところに立ち止まっていてはいけない。絶望の暗闇に座り込んでいてはいけない。後悔と自責の暗闇に座り込んでいてはいけない。そう、彼らもまたそこから歩み出さなくてはならないのです。なぜなら、キリストが先に進んで行って、そこで待っていてくださるから。神によって既に新しいことが始まっているのだから。弟子たちのところに行って言いなさい。「あの方は、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる」と。

 ガリラヤ――それは弟子たちがイエス様に出会った場所です。そこで主が待っていてくださる。そこから彼らはもう一度イエス様に従い始めることができるのです。しかし、それは単にこの三年余りの時間の経過がなかったかのように、時間軸上を逆戻りするということではありません。ただ単に「振り出しに戻る」ということではありません。

 確かに人は過去に戻れたらと思うかもしれない。過去に戻ってやり直せたらどんなにいいだろう、と思うかもしれない。しかし、必要なのは過去に戻ることではないのです。元に戻ることではないのです。

 弟子たちはイエス様と出会った場所に戻ります。ガリラヤに戻るのです。しかし、ガリラヤで待っているのは、復活されたキリストなのです。十字架にかかられ、そして復活されたキリストなのです。つまり最初に従ったあの時と、神によって新しく与えられた歩みとの間には、十字架が立っているのです。罪の贖いの十字架が立っているのです。

 神は終わりを新しい始まりにしてくださる。それは十字架に基づくのです。罪の赦しの恵みに基づくのです。だから必要なのは元に戻ることではないのです。そうではなくて、罪を赦していただいて新しく歩み出すことなのです。

 イエスを見捨てて逃げていったあの弟子たちは、罪を赦された者として、神の恵みによって新たに生かされた者として従い始めるのです。一度死んでよみがえった者として、キリストに従い始めるのです。そのようにして絶望の中から歩み出し、復活の主に従い始めた弟子たちから教会は始まりました。そのようにして、今日に至るまであの日の知らせは伝えられ続けているのです。

 弟子たちに伝えられたキリスト復活の福音は、私たちにも伝えられています。私たちもまた、終わりを新しい始まりにしてくださる神によって、新しく歩み出すことができるのです。

2017年4月9日日曜日

「十字架につけられたキリスト」

2017年4月9
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイによる福音書 27章32節~56節

 今日の福音書朗読は、イエス様が十字架にかけられ、息を引き取られるまでのことを伝えている聖書箇所でした。

 それは世界の片隅で起こった小さな出来事でした。特殊な力をもったあるユダヤ人が宗教裁判にかけられ、後にローマ人の法廷において裁かれ、十字架刑に処せられて死んだというだけの話です。十字架刑で処刑された人などいくらでもいた時代ですから、そこで起こった出来事も、後の時代の誰からも心に留められることなく忘れ去られたとしても不思議ではなかったのです。

 しかし、現実にはそうはなりませんでした。その人の話は二千年後の遠く離れた日本においても語り継がれ、あの日の出来事はこの世界を変えた出来事として記憶されてきたゆえに、あの時用いられた死刑の道具が、二千年後の日本の教会にもこうして掲げられているのです。

 あの日、あそこで何が起こったのか。あの方が十字架の上で死んだことはいったい何を意味するのか。聖書は実に様々な仕方で、言葉を尽くして、あの出来事の意味を伝えようとしています。今日読まれた箇所も例外ではありません。

 そこには確かに今日の私たちが首をかしげてしまうようなことが書かれています。昼の十二時に全地は真っ暗になった。神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。さらには墓が開いて、死者が生き返ったという話まで出て来ます。明らかにマタイが伝えようとしているのは、人間が行った何かではありません。あの十字架の出来事は、ただ人間が人間に対して行ったことではないのだ、ということを伝えようとしているのです。そこには神がなさった特別なことがあるのです。それは何なのか。一つ一つ見ていきましょう。

全地は暗くなった
 まず書かれているのは「昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた」(45節)ということです。

 この箇所を理解する上で重要なのは、その背景にある旧約聖書の言葉です。最も明るいはずの真昼が暗闇となることを告げている旧約聖書の言葉があるのです。アモス書に次のように書かれています。「その日が来ると、主なる神は言われる。わたしは真昼に太陽を沈ませ、白昼に大地を闇とする。わたしはお前たちの祭りを悲しみに、喜びの歌をことごとく嘆きの歌に変え、どの腰にも粗布をまとわせ、どの頭の髪の毛もそり落とさせ、独り子を亡くしたような悲しみを与え、その最期を苦悩に満ちた日とする」(アモス8:9‐10)。

 アモスが語っているのは裁きの預言です。彼は神がこの世の罪を裁かれる「その日」について語るのです。アモスは「その日」を「主の日」と呼びます。そして、暗闇として到来する「主の日」について語っているのはアモスだけではありません。イザヤも語り、ヨエルも語っていたことです。それは繰り返し語られてきたことなのです。

 そして、マタイはついに「その日が来た」と伝えているのです。旧約聖書の預言のとおり、「昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた」と。エルサレムに十字架が立てられたあの日、神の裁きの日が到来したのです。神が白昼に大地を闇とする日、そして、神が喜びの歌をことごとく嘆きの歌に変えられる日、苦悩に満ちた日が、ついに到来したのです。

 しかし、地上に神の裁きが行われる「その日」が到来したにもかかわらず、現実に起こったことは、アモスの預言の通りではありませんでした。地上の人々は嘆きの歌など口にしていませんでした。――そうです、たった一人を除いては。

 神に見捨てられて嘆きの歌を口にしていたのは、ただ一人、十字架の上のキリストだけでした。イエス様だけが大声でこう叫んでおられたのです。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」。それは「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味であると説明されています。そのように、ただキリストだけが神に裁かれ、見捨てられた者として、苦悩の叫びを上げておられたのです。

 他の人々は、主の日が到来し、神の裁きが地上に行われているなどと夢にも思ってはいませんでした。ある人は言いました。「この人はエリヤを呼んでいる」と。他の人は言いました。「エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」。その時、誰も知りませんでした。本当は神の正しい裁きのもとに苦悩しながら滅びるしかなかった自分であることを誰も知ることはありませんでした。神から見捨てられた者として滅びるしかなかった自分であることを誰も知ることはありませんでした。

 自分の罪が神の裁きにおいて明らかにされていることを知ることもなく、人々はキリストに向かってあざけりの言葉を投げつけていたのです。そして、そのただ中で、罪なきキリストが、まるで避雷針のように、すべての人に代わって、罪を裁く神の怒りを一身に受けられたのです。地上に注がれた神の怒りを、受けるべき杯として、ただ一人で飲み干しておられたのです。

 そして、主は死なれました。「イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた」(50節)と書かれています。主の最後の叫び、それは「成し遂げられた」という叫びであったとヨハネによる福音書は伝えています。救い主が成すべきことは成し遂げられたのです。救い主がこの地上における目的を果たされたのです。ならば、それはまた、この地上に決定的な何かが始まった瞬間でもあるのでしょう。

 それゆえに、マタイは「そのとき」という言葉をもって、さらに神のなされた二つのことを伝えるのです。ちなみに「そのとき」というのは、「すると、見よ!」というのが直訳です。「見よ!」という言葉でその決定的な瞬間から始まった出来事に注目させているのです。そこで注目すべきは単に事柄の不思議さでも異常さでもありません。大事なのは、それが何を意味しているのかということです。先にも申しましたように、聖書は言葉を尽くして、あの日の出来事の意味を伝えようとしているのです。

垂れ幕が裂かれた
 まずそこに語られているのは、「神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け」たということです。

 「垂れ幕」とは、神殿の一番奥にある「至聖所」と呼ばれる部屋の前にかかっている垂れ幕のことです。その至聖所には通常誰も入ることができません。ただ一年に一回だけ、大祭司が垂れ幕を通って至聖所に入ることが許されています。大祭司は罪を贖う犠牲の血を携えて入るのです。贖いの血を携えなければ通ることができない神殿の垂れ幕は、神と人間との隔てを象徴しています。人間には罪があるゆえに、罪の贖いの犠牲なくしては聖なる神に近づくことはできない。そのことを意味する垂れ幕です。

 しかし、その垂れ幕が真っ二つに裂けたのです。「裂けた」と書かれていますが、正確には「裂かれた」と書かれているのです。誰が裂いたのか。神が引き裂いたのです。ですから「上から下まで」と書かれているのです。人間が裂いたら「下から上まで」となるでしょう。あの瞬間、キリストが息絶えた瞬間、神御自身が垂れ幕を引き裂いたのです。

 キリストが成し遂げてくださったことのゆえに、もはや神と人間とを隔てるものはなくなりました。神によって垂れ幕は引き裂かれた。そこにあるのは罪の赦しです。罪の赦しによって、人間が神に近づく道が永遠に開かれました。その道が神の御手によって開かれました。これが、あの瞬間にこの地上において起こった第一のことです。

墓が開いた
 そして、さらにこう書かれております。「地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた」(51‐52節)。

 私たちの目に大地は動かざるものと映ります。人間はその確かさの上に家を建て、町を築きます。しかし、大地は決して動かざるものではありません。地震が起これば揺れ動きます。そして、決して裂けるとは思えなかった岩が裂けるのです。

 キリストの死において始まったのは、まさにそのような出来事でした。最も確かに思えたものが揺り動かされ、打ち壊されたのです。

 人間にとって最も確かなことは何か。それは人間が「死ぬ」ということです。死の支配ほど確かなものはありません。死の中に閉じこめられない者は誰もいません。墓に入った者は、二度と外に出てくることはありません。それが最も確かなことです。そうです、確かなことであったはずでした。しかし、その最も確かなものが揺り動かされ、打ち壊されたのです。死の支配が打ち壊されたのです。「墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った」という描写が意味しているのは、そういうことです。

 そして、墓が開かれたことが、神殿の垂れ幕が裂かれたことと共に記されているのです。この二つは切り離すことができないのです。

 考えてみてください。私たちが死んだ後で、再び墓から出てくることが出来れば、それが救いになるでしょうか。本当の意味で死の克服になるでしょうか。あるいは、そのまま永遠に長生きして死なないとするならば、それは死の克服になるでしょうか。いいえ、ただそれだけならば、それはきっと地獄を意味するに違いありません。

 本当に必要なのは、罪の赦しであり、隔てが取り除かれた者として神との交わりが回復されることなのです。そのこと抜きにして、ただ墓から出てくるだけなら、苦悩の日々が伸びるだけなのです。

 私は、今まで病の床にて共に祈り、そして亡くなっていった方々を思い起こします。人が人生の終局にさしかかる時、もはや富も名誉も大きな意味を持ち得ません。豪華なご馳走も、意味を持ちません。最終的に死が克服されるために必要なのは、キリストの十字架であり、「あなたの罪は赦された」という神の宣言であり、神と人との隔てが取り除かれることなのです。そこにこそ真の救いはあるのです。


 私たちは十字架におけるキリストの死において実現したことを見てきました。今日から受難週に入ります。イースターまでの一週間、キリストの十字架において成し遂げられた救いの恵みを深く思い巡らす時として過ごしましょう。




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