2017年3月26日日曜日

「このままでは終わらない」

2017年3月26
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイによる福音書 17章1節~8節

キリストの復活の輝き
 「六日の後、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた」(1節)と書かれていました。六日前に何があったかは16章に書かれています。ペトロがイエス様に対して「あなたはメシア、生ける神の子です」(16:16)と信仰を言い表しました。またその日を境に、イエス様は御自分の受難について語り始められました。「このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた」(同21節)。それから六日の後のことでした。

 イエス様に連れられて高い山に登ったペトロとヤコブとヨハネは、そこで不思議な光景を目にすることになりました。「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった」(2節)。しかし、彼らが目にしたのは一緒にいるイエス様の姿が変化したことだけではありませんでした。彼らはそこに二人の人物を見たのです。一人はモーセ。もう一人はエリヤでした。モーセは律法を代表する人物です。エリヤは預言者を代表する人物です。この二人で旧約聖書全体を代表していると言えます。そのような二人が現れてイエス様と語り合っていたのをペトロたちは見たのです。

 イエス様と共にモーセとエリヤが立っている。すなわち、イエス様と共に旧約聖書が立っている。それは何を意味するのか。イエス様が受けることになる苦難は、旧約聖書と無関係ではない、ということです。それは起こるべきこととして旧約聖書に既に語られていたということです。聖書の預言の言葉によって指し示されていた。言い換えるなら、それはすべて神の御心によるのだ、神の御計画によるのだ、ということです。

 ならば苦難は苦難で終わらない。十字架で終わらない。人間の罪がキリストを十字架にかけて、それで終わりではない。全てが成し遂げられたなら、その先があるのです。イエス様は言われました。「三日目に復活することになっている」と。

 あの日、あの山の上でペトロたちが見たキリストの顔は太陽のように輝いていたと書かれていました。服は光のように白くなったと書かれていました。ペトロたちがあの山の上で見せていただいたのは、まさに天の御国の輝き、復活の輝きに他なりませんでした。ちょうど雨雲の隙間から太陽の光が差し込むように、復活の光がイエス様の御生涯の一こまに差し込むのを彼らは前もって見せていただいたのです。

 彼らはやがてキリストが捕らえられるのを見ることになるのでしょう。この御方が不当な裁きにかけられ、鞭打たれ、ボロボロにされて十字架につけられるのを見ることになるのでしょう。そして、見捨てられた者として死んでいくのを見ることになるのでしょう。しかし、神は彼らに前もって見せてくださったのです。すべては神の御手の中にあり、ご計画の中にあることを。そして、その御心において十字架の先には復活があることを。ペトロたち三人は先に見せていただいたのです。

 とはいえ、その意味はあの山の上にいた時には分からなかったに違いありません。イエス様が実際に十字架にかけられ、そして復活されるまでは、この山の上の出来事の意味も分からないのです。ですから、今日の箇所の直後にはこう書かれているのです。「一同が山を下りるとき、イエスは、『人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちに命じられた」(9節)。

 そのように、あの山の上の出来事は一旦封印されたのでした。しかし、そのように封印された出来事が、今やこうして福音書に記されているのです。やがて後の日に、口止めされていた彼らが語り出したのです。キリストが復活したからです。その意味を知った彼らが語り出したのです。キリストの受難の前に、既に彼らが復活の光を垣間見ていたことを、彼らは語り出したのです。今日の第二朗読においてもペトロが書いていましたでしょう。「わたしたちの主イエス・キリストの力に満ちた来臨を知らせるのに、わたしたちは巧みな作り話を用いたわけではありません。わたしたちは、キリストの威光を目撃したのです」(2ペトロ1:16)。

私たちもまた変えられる
 そのように、三人の弟子たちが山の上における神秘的な体験の中で目にしたのは、やがて起こるキリストの復活を指し示す出来事でした。しかし、それだけではありません。彼らが目にしたのは、彼ら自身の復活、そしてここにいる私たちの復活をも指し示す出来事だったのです。

 今日お読みした箇所において、特に「イエスの姿が彼らの目の前で《変わり》」と書かれていることを見落としてはなりません。この福音書は単にペトロたちが栄光に輝くキリストを見たことを語り伝えてきたのではないのです。キリストがペトロたちの目の前で《変化したこと》を伝えてきたのです。

 実はこの「変わる」という言葉ですが、それは例えば芋虫が蝶になるような変化を表すような言葉です。しかも、厳密に言いますと、それは「変わる」と書かれているのではなくて、「イエスの姿が《変えられた》」と受け身で書かれているのです。「変わる」のと「変えられる」のでは意味合いが違います。イエス様は神の御子でありながら、神の側にいる者としてではなく、私たちと同じ人間の側に身を置いて、「(神によって)変えられた」と書かれているのです。この御方は一人の人間として栄光の姿に「変えられた」のです。

 ならばペトロが見たものは、ただキリストの復活を指し示すだけではありません。それは私たちの復活をも指し示す出来事なのです。救われた人間が神によって最終的にどのように変えられるのか、ということを示す出来事でもあるのです。主は一人の人間として「変えられた」姿を垣間見せてくださった。天の御国の姿を垣間見せてくださった。それは私たちもまた変えられるのだ、という希望を与えるためでしょう。

 先ほどの続きを御覧ください。キリストの御姿が変わり、モーセとエリヤと共に語り合っている姿を見たペトロは、イエス様にこう言いました。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです」(4節)。彼の言っていることは明らかに変でしょう。簡単な幕屋であったとしても、にわかにそんな仮小屋など作れるはずないのですから。しかし、その気持ちは分かります。そこにいつまでも留まりたかったのでしょう。栄光に輝くキリスト、その栄光に包まれて現れたモーセやエリヤと共に留まりたい。天の栄光に触れたその甘美な恍惚感の中に少しでも長く留まりたかったのでしょう。

 しかし、ペトロたちは山の上に留まるために連れて来られたのではないのです。ですからペトロの提案は却下されました。光り輝く雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がしたのです。神自らペトロたちにこう語られました。「これはわたしの愛する子。わたしの心に適う者。これに聞け」。「聞け」とは「聞き従え」という意味です。

 父なる神は、確かにイエス様について「これはわたしの愛する子」と言われました。その「愛する子」は、神秘の山の上に留まっている御方ではないのです。山の下へと向かわれるのです。そして、弟子たちに「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(24節)と言われるのです。

 ならば弟子たちは山の上に留まっていることはできません。キリスト教信仰は、山の上のようなところ、非日常的な神秘の世界に逃げ込むためにあるのではありません。キリスト教信仰は、現実から逃避するためのものではありません。そうではなくて、現実としっかりと向き合うことができるために、信仰は与えられているのです。まさにキリストが遣わされたこの世界のただ中で、日常生活のただ中で、イエス様に従っていくのです。

 そして私たちが山の上ではなく、現実の世界のただ中に身を置いて、そこでキリストに従って生きようとするならば、そこで初めて本当の意味で自分の罪深さも見えてくるのでしょう。いかに愛に欠けているか、いかに自己本位であるか、いかに自分が醜いエゴイストであるかが分かります。そう、わが内にこそ罪の暗闇がある。その時、悔い改めと罪の赦しを求める祈りも切実なものとなるのです。

 そして、もう一つ――自分は変えていただかなくてはならないことが、骨身に染みて分かるようになるのでしょう。自分の醜さを知るゆえに、変えられたいと切に願う。自分が芋虫の姿であると知るゆえに、変えられたいと切に願う。それは自分を捨て、自分の十字架を負ってキリストに従おうとする時にこそ、切実な願いとなるのです。

 その時、この山の上の出来事は私たちにとって決定的に大きな意味を持つのです。キリストの姿が変えられた。その姿を指し示して神は私たちに言われるのです。あなたも変えられると。あなたはいつまでも芋虫のままじゃない。あなたは蝶になるのだ。あなたは栄光に輝くキリストと同じ姿となるのだ、と。

 後にパウロが次のように語っています。「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです」(2コリント3:18)。この「造りかえられる」という言葉は、先ほどイエス様に用いられていた「変えられる」という言葉と同じです。私たちもまた「変えられる」のです。主と同じ姿に。この「主と同じ姿に」とは、ペトロたちが垣間見た復活の栄光の姿のことです。

 そのように私たちに、驚くべきことが起こります。天の御国において実現します。芋虫はいつまでも芋虫のままではありません。私たちは、いつまでも芋虫のままではないのです。やがて復活の栄光の姿に変えられるのです。そして、それは既に信仰生活において、主の霊の働きによって始まっているのです。この世において味わうのは一部分に過ぎないかもしれませんが、確かに始まっているのです。だからこのままでは終わらない。だから私たちは絶望しません。絶望しないで現実と向き合うことができます。絶望しないで自分とも向き合うことができます。天の御国において完成する私たちの姿を主が既に見せてくださったからです。

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