2017年3月19日日曜日

「試練は喜びに」

2017年3月19
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ペトロの手紙Ⅰ 4章12節~19節

ペトロの手紙Ⅰ 4:12-19

驚き怪しんではなりません
 「愛する人たち、あなたがたを試みるために身にふりかかる火のような試練を、何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません」(12節)。そのように聖書は語ります。それは、実際に試練が身にふりかかる時に、「思いがけないこと」が生じたように思う人がかつても今も、少なくないからでしょう。

 考えてみれば不思議です。この手紙が宛てられているのは、今日の私たちよりも迫害がずっと身近であった教会です。キリストを信じたならば苦しみに遭うことになるだろう、と覚悟して洗礼を受けた人たちです。そのような人たちでさえ、実際に試練が身にふりかかってきた時には「思いがけないこと」が生じたように思うことがあり得た。だからこのような言葉を聴かなくてはならなかったのでしょう。ならば、今日の私たちにおいてはなおさらです。その意味では、私たちこそ心に留めなくてはならない御言葉であるとも言えます。

 もしキリストを信じるということが、ただ自分の平安を得るため、ただより良い幸福な生活を手に入れるためであるならば、キリストを信じたゆえに平安を失うような出来事に遭遇したり、「火のような試練」と表現されるような出来事に直面したりするならば、「キリストを信じているのに、いったいどうして?」ということになるでしょう。

 しかし、キリストを信じるということが、ただ自分の平安や幸いを得る手段ではなくて、キリストに従うということであるならば、そしてこの世の救いのために仕えるということであるならば、キリスト者が苦しむことは、ある意味では当然のことなのです。それはなぜか。キリストは私たちを救うために苦しんでくださったからです。キリストを信じて神に立ち帰った者として、今度はキリストの体として救いの御業に参画していくということならば、だれかが神に立ち帰ることを願って生きるならば、キリストの苦しみにも与るのはある意味では当然のことなのです。

むしろ喜びなさい
 とはいえ、ペトロはただ歯を食いしばって試練を耐え抜けと言っているのではありません。「むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど《喜びなさい》」と彼は言うのです。それはむしろ喜ぶべきことだということが分かっているからです。どのような意味において、それは「喜ぶべきこと」なのでしょう。

 試練を喜びとすることについて語っているのはペトロだけではありません。ヤコブもまた次のように言っています。「わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています。あくまでも忍耐しなさい。そうすれば、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります」(ヤコブ1:2‐4)。またパウロも言っています。「わたしたちは知っているのです。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを」(ローマ5:3‐4)。このように試練は一つのプロセスとして理解されているのです。イメージとしては、金属の精錬のようなものでしょう。それは迫害が身近であった教会においては共通の理解だったのだと思われます。そのような意味で、確かに試練は喜ぶべきものと言うことができます。

 しかし、今日の箇所において語られているのはもう一つの別なことです。先ほどお読みした「むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい」という言葉は次のように続きます。「それは、キリストの栄光が現れる時にも、喜びに満ちあふれるためです」(13節)。ペトロは、「キリストの栄光が現れる時」のことを考えているのです。すなわちキリストが再び来られる終わりの時、私たちの救いが完成するその時のことを考えているのです。神の御国において満ち溢れるであろう喜びのことを考えているのです。

 喩えて言うならば、私たちはちょうどプレゼントを手渡されようとしているところにいるのです。プレゼントが差し出されます。相手の手から自分の手に渡るのに、ある程度の時間がかかるでしょう。そのような場面で、皆さんは自分の手にプレゼントが移って初めて喜びますか。そうではないでしょう。まだ自分が手にしていない時に、既に喜んでいるはずです。

 私たちはキリストと結ばれて完全な救いというプレゼントを既に差し出されているのです。それはまだ手にしていなくても既に私たちのものなのです。その差し出されたプレゼントをやがて自分の手に受け取るための「現在」なのです。それは信仰が試される「現在」であるかもしれません。しかし、それはその時を迎えるためのプロセスなのです。

栄光の霊がとどまってくださるから
 そして、もう一つ喜べる理由をペトロは示しています。その喜びは終末に関わるだけではありません。現在にも関わるのです。彼は言います。「あなたがたはキリストの名のために非難されるなら、幸いです。栄光の霊、すなわち神の霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです」(14節)。「とどまってくださる。」これは将来のことではなく、現在のことです。

 ここで神の霊について、あえて「栄光の霊がとどまる」と表現されているのには理由があります。ペトロがイメージしているのは、例えば列王記上8章のような場面なのです。ソロモンが神殿を建て、その至聖所に主の契約の箱が運び入れられた時の話です。そこにはこう書かれています。「祭司たちが聖所から出ると、雲が主の神殿に満ちた。その雲のために祭司たちは奉仕を続けることができなかった。主の栄光が主の神殿に満ちたからである」(列王上8:10‐11)。

 パウロはギリシアの詩人のこのような言葉を引用していました。「我らは神の中に生き、動き、存在する」。それは間違いではありません。確かに神はどこにでもおられます。しかし、今読んだ箇所に書かれているのは別のことです。どこにでも神はおられる、というのではなく、まさに神がここに現臨してくださり、栄光を現してくださる。そのような神の臨在をイスラエルの民は「シェキーナー」と呼びました。

 そして、あの神殿で起こったことが、あなたたちに起こるのだ、とペトロは言っているのです。人はどこで神の臨在に触れるのか、そして、人はどこで神の栄光を輝かせることになるのか。それは試練の中においてなのだ、ということです。人がキリストのゆえに非難される時、その人は栄光を失うのではなくて、むしろそこで神のリアリティに触れ、神の栄光を輝かせるのです。ならば、それは喜びにつながるのでしょう。

キリスト者として苦しみを受けるのなら
 それゆえにペトロは言います。「あなたがたのうちだれも、人殺し、泥棒、悪者、あるいは、他人に干渉する者として、苦しみを受けることがないようにしなさい。しかし、キリスト者として苦しみを受けるのなら、決して恥じてはなりません。むしろ、キリスト者の名で呼ばれることで、神をあがめなさい」(15‐16節)。

 「キリスト者(クリスチャン)」という言葉が出て来ました。原文では「クリスティアノス」。「キリストに属する者」という意味です。もともとアンティオキアにおいて始まった、いわば《蔑称》です。キリストを信じる者をバカにする呼び名でした。いわば「キリスト馬鹿」といったところでしょうか。キリストを信じた人たちが、年がら年中「キリスト」と言って、キリストを愛し、キリストを喜んでいる姿がはたから見たら滑稽だったのでしょう。

 しかし、ペトロはそう呼ばれて馬鹿にされても気にするな。むしろ「神をあがめなさい」と言うのです。このような初期のキリスト者の姿を思います時、改めて考えさせられます。私たちは、馬鹿にされるほど、あるいはそのゆえに苦しめられるほどクリスティアノスだろうか。むしろ単なる善人であるように思われているほうがおかしいのではないか、と。

 私は学生時代に出会った一人の友人を思い起こします。彼は同じ研究室の後輩でした。学部4年の時には完全にアンチ・キリストで、研究室でも下品な冗談ばかりを言っていた男でした。ところがその彼が修士1年目の時にキリスト者となり、一転して毎日口を開けばキリストの話をするようになったのです。

 研究室の皆は彼を馬鹿にしました。彼は陰口をたたかれ、中傷されました。確かにキリストを伝えるのに、もう少し馬鹿にされない工夫はできたかもしれません。しかし、今思い起こすと、まさに彼はクリスティアノスでありました。そして、馬鹿にされても神をあがめていたのです。今日の箇所を読みますと、馬鹿にもされなければ気にもかけられない、もしかしたら信じていることすら知られてもいないキリスト者とは、いったい何なのかと改めて思わせられます。

福音に従わない者たちの行く末を案じて
 そして、さらにペトロは言います。「今こそ、神の家から裁きが始まる時です。わたしたちがまず裁きを受けるのだとすれば、神の福音に従わない者たちの行く末は、いったい、どんなものになるだろうか」(17節)。まず神の御前において問われるのはこの世ではありません。裁きは神の家から始まるのです。キリスト者が受ける苦難は、ある意味においてはまずキリスト者から神の御前に裁かれるということを指し示している出来事であるとも言えるでしょう。

 そこで私たちが救われるとするならば、それはただ一重にキリストの十字架による贖いのゆえです。キリストの十字架がなければ、私たちの内いったい誰が救われると言えるでしょう。間違ってはなりません。私たちが救われるとするならば、それは当然のことなのではないのであって、まさに「正しい人がやっと救われる」のです。そのあのノアの時に、ノアとその家族が、かろうじて救われたようにです。もちろん私たちにおいてその「正しさ」というのは、信仰による義です。そのように十字架のゆえに「やっと救われる」ならば、確かにペトロが言うごとく「神の福音に従わない者たちの行く末は、いったい、どんなものになるだろうか」と案じるのが当たり前ではありませんか。

 ならば自分の平安と幸福の事だけ考えて、試練が降りかかれば「思いがけないこと」のように思うようなキリスト者であってよいはずがありません。私たちが福音を証ししながらこの世をクリスティアノスとして生き抜くということは、この世に対する私たちの大きな責任なのです。ですからペトロは言うのです。「だから、神の御心によって苦しみを受ける人は、善い行いをし続けて、真実であられる創造主に自分の魂をゆだねなさい」と。

以前の記事