2017年2月19日日曜日

「弱いときにこそ強い」

2017年2月19
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 コリントの信徒への手紙Ⅱ 12章1節~10節

わたしも誇ることにしよう
 「わたしは誇らずにいられません。誇っても無益ですが、主が見せてくださった事と啓示してくださった事について語りましょう」(1節)。誇ることは無益だと分かっています。わかった上で、パウロはあえて誇ってみせるのです。それは今日お読みした12章から始まっているのではありません。既に11章から始まっています。パウロはあえて多くの言葉を費やして誇ってみせるのです。

 それはなぜなのか。前の章にこう書かれています。「多くの者が肉に従って誇っているので、わたしも誇ることにしよう」(11:18)。それだけ聞くならば、「みんなが自慢話をするならば、わたしだってできなくはないぞ」と言っているだけに聞こえなくもありません。しかし、もちろんパウロはそんな理由で自分を誇ったりはしません。

 問題はこの「多くの者」が誰かということなのです。それは異なる教えを宣べ伝える教師たちのことなのです。パウロが11章で「偽使徒」(11:13)と呼んでいる人々です。彼らはパウロがコリントの教会を去った後に入ってきた教師たちです。彼らが教会にもたらした混乱が、コリントの教会に宛てたパウロの手紙の背景となっているのです。

 既に彼らはコリントの教会において大きな影響力を持つようになっていました。彼らがいかに強力な支配力をもっていたかは、「実際、あなたがたはだれかに奴隷にされても、食い物にされても、取り上げられても、横柄な態度に出られても、顔を殴りつけられても、我慢しています」(11:20)という言葉にも現れております。これだけ読むとまるで今日のカルト教団のようです。そのような教師たちに、コリントの教会はついて行ったのです。

 なぜ彼らについて行ったのか。「多くの者が肉に従って誇っている」とありました。誇っているのは、誇れるものを持っていたからです。その一つとして考えられるのは神秘体験です。ですから、パウロも今日の箇所において神秘体験について語るのです。他にも誇り得る特別な何かを持っている教師たちだったのでしょう。

 そのような教師たちにコリントの人たちはついて行きました。誇り得る特別なものを持っている彼らについていきました。それは明らかに、自分もまたそれを得たいからでしょう。誇り得る何かを得たいからでしょう。自分には誇り得る何もないと思っている人ならば、なおさらではありませんか。誇り得る何かを持っている人は魅力的に見える。「あなたも持てるよ」と言われればついていきたくもなる。

 しかし、問題は彼らについていっても、キリストのもとにはたどり着かないということにあるのです。彼らに支配に徹底的に従ったとしても、神に従って生きることにはならない。たとえ彼らのように自らを誇れる人間になれたとしても、キリストと共に生きる人にはなれないということなのです。

 そこでパウロは一緒に誇ってみせるのです。「多くの者が肉に従って誇っているので、わたしも誇ることにしよう」と言って誇ってみせるのです。先にも言いましたように、彼らの誇りの一つは神秘体験でした。だから今日の箇所ではパウロも自らの体験を語り出すのです。「わたしは誇らずにいられません。誇っても無益ですが、主が見せてくださった事と啓示してくださった事について語りましょう」と。

弱さ以外に誇るつもりはありません
 しかし、そのようにあえて誇ってみせるのは、自分を優位に見せるためではないのです。「私の方が偽使徒の彼らより優れているのだから、わたしに従いなさい」という意味ではないのです。パウロは「誇っても無益だ」ということは分かっているのです。どちらが誇るべきものを持っているかを比較することも、どちらが優位にあるかを競うことも、全く無益だということを知っているのです。

 ですから、パウロは「主が見せてくださった事と啓示してくださった事について」語るのですが、それを全く他人事として語るのです。「わたしは、キリストに結ばれていた一人の人を知っていますが、その人は十四年前、第三の天にまで引き上げられたのです。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。わたしはそのような人を知っています。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。彼は楽園にまで引き上げられ、人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉を耳にしたのです」(2‐4節)。

 「十四年前」。パウロはそれがいつ起こったかもはっきりと覚えていました。彼は天の楽園にまで引き上げられた。それが実際に起こったことか幻であったのかは分かりません。本人にも分からないのです。しかし、それは主が見せてくださった事、啓示してくださった事として強烈に記憶に刻まれたことなのでしょう。

 そのような体験は、コリントの教会の人たちが、それこそ喉から手が出るほどに欲しかったものだったのだと思います。それはまさに他の人の持っていないものを持つことになるから。自らを優位に置くものを持つことになるから。宗教的な世界においては、他の人に誇り得るものを持つことになるから。

 しかし、パウロはそれを自分が誇るべきこととしては語らないのです。「キリストに結ばれていた一人の人」のこととして語るのです。そして、「このような人のことをわたしは誇りましょう」と言うのです。つまり偽使徒たちが肉に従って誇っているようなことならパウロにもないわけではない。しかし、パウロはあえて自分のこととして誇らない、というのです。それは本当に誇るべきものは別にあるからです。「このような人のことをわたしは誇りましょう。しかし、自分自身については、弱さ以外には誇るつもりはありません」(5節)。

 すべてはこのことを語るためだったのです。「多くの者が肉に従って誇っているので、わたしも誇ることにしよう」と言って誇ってきたのはこのためだったのです。「誇っても無益だ」と分かっていながら、あえて誇ってきたのはこのためだったのです。「自分自身については、弱さ以外に誇るつもりはありません」。それは11章で誇った後においても、既に語られていたことでした。「誇る必要があるなら、わたしの弱さにかかわる事柄を誇りましょう」(11:30)。

キリストの力が宿るように
 そこでパウロは自分の身に与えられた「とげ」の話を始めるのです。「それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました」(7節)。この「とげ」が具体的に何を意味するのかは語られていません。古くから様々な推測がなされてきました。ある人は、パウロはてんかんであったかもしれないと言います。パウロは目の病気であったのかもしれないと言う人もあります。いずれにせよ、それは何らかの苦しみが続いていたということなのでしょう。

 そして、それはいかなる意味においても、誇りとは結び着かないものとして語られています。それは「思い上がることのないように」と与えられたものだ、と。しかも、その苦しみによって人間が磨かれたという意味合いもない。「艱難汝を玉にす」というものでもない。それは「わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使い」だと言うのです。そこには、この「とげ」が少なからず宣教の妨げになったという意味合いも含まれているのかもしれません。

 いずれにせよ、その「とげ」自体が誇りとなり得る要素は完全に排除されているのです。純粋な意味で「弱さ」。誇りとは対極にある「弱さ」です。

 しかし、パウロはそのような「弱さを誇る」と言うのです。それはなぜか。パウロは話を続けます。「この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。すると主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」(8‐9節)。

 誇り得る何かを持つこと、そのようにして自らを誇り得る人間になることよりも、もっともっと大事なことがあることをパウロは示しているのです。キリストの力が宿ること。キリストの力が弱さの中において現れること。私たちの人生が私たちの力の現れではなく、キリストの力の現れとなること。教会の働きが、私たちの力の現れではなく、キリストの力の現れとなることです。

 私たちにおいて、どう考えても誇りとは結び着かない弱さはどこにありますか。キリストの力の現れを必要としている弱さはどこにありますか。「サタンから送られた使い」としか言いようのない「とげ」はどこに刺さっていますか。

 そこにこそキリストの力が現れるのだと信じるのでなければ、弱さを嘆いて、弱さを卑下して生きるだけのことでしょう。しかし、そこにこそキリストの力が現れるのだと信じる人は、弱さをもった自分をそのまま差し出して祈るのでしょう。人は卑下して生きることもあり得るし、だからこそキリストを求める人となることもできるのです。

 主は私たちにも言われます。「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」。この言葉を、信仰によって私たちへの言葉として受け止めますか。そうならば、パウロと共に信仰をもって言い表しましょう。「だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」

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