2017年2月12日日曜日

「心の貧しい人々は幸いだ」 

2017年2月12
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイによる福音書 5章1節~3節

弟子たちへの言葉
 「イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた」(1‐2節)と書かれていました。ちなみに原文では「そこで、イエスは口を開き、《彼らに》教えられた」となっています。つまり近くに寄って来た「弟子たち」に教えられたと書かれているのです。

 もちろん、そこには群衆もまたいるのです。今日の箇所の直前には「大勢の群衆が来てイエスに従った」(4:25)と書かれていますから。この大群衆を見て、イエス様は山に登られたのです。もちろん群衆も付いていったことでしょう。しかし、そこで主は群衆全体に語りかけるのではなくて、近くに寄って来た弟子たちに語られた。それがこの5章から7章の山上の説教です。

 ですから構図的にはそこに二重の輪があることを心に留めなくてはなりません。内側には弟子たちがいます。外側には群衆がいます。内側にはイエス様の語りかけを自分自身に対する語りかけとして聞いている人々がいます。外側には、いわば外からそれを見ている人々がいる。彼らはイエス様が弟子たちに語りかけるのを見ています。その「教え」について外側から評価します。その評価は彼らの反応として現れます。山上の説教の最後にはこう書かれています。「イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた」(7:28)。その教えはまことに驚くべきものであった。それは外側からなされた評価です。

 さて、そこで問題は「では私たちはどこにいるのか」ということです。もしかしたら群衆がいる外側の輪であるかもしれません。外から見て、外から聞いて、外から評価して、判断を下して、それで終わり、ということは起こり得ます。しかし、福音書に記されている言葉は、明らかに群衆の位置から読まれることを意図されてはいないのです。今日お読みした言葉もそうです。それは《私への語りかけ》として聞くように書かれているのです。

幸いなるかな!
 そこで今日読まれたイエス様の第一声はこのような言葉でした。「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」(3節)。ぜひとも、私たちは内側の輪に入って、私たち自身への語りかけとして、この言葉を聞こうではありませんか。

 イエス様のこの言葉は文語訳の聖書ではこうなっていました。「幸福(さいはひ)なるかな、心の貧しき者。天國はその人のものなり。」この方が語順としては原文に忠実です。イエス様の言葉は「幸福なるかな!」という叫びから始まります。聞いている者たちに「あなたたちはなんて幸せなんだ」と言うのです。この言葉を自分自身への語りかけとして聞いていますか。

 イエス様は私たちに対して「幸いなるかな!」と言った上で、さらに私たちを「心の貧しき者」と呼ぶのです。「幸福(さいはひ)なるかな、心の貧しき者。」一度聞いたら忘れられないような強烈な言葉です。それが強烈なのは、あまりにも意外な組み合わせだからでしょう。

 それはその場で直接この言葉を耳にした人にしても同じだったろうと思います。むしろ私たちが考える以上にインパクトが強かったはずです。というのも、ここで言われている「貧しさ」というのは、少々不足しているとか何かが足りないというレベルの話ではないからです。これは「物乞い」とさえ表現できる言葉なのです。いわば何も持っていない。そのような極度の貧しさを意味する言葉なのです。そのような極度の貧しさと「幸いなるかな!」という叫びはどうしたってリンクしないのです。

 しかも、イエス様はここで「心の貧しい人々は」と言っているのです。実は、ルカによる福音書では単純に「貧しい人々は、幸いである」(ルカ6:20)となっています。それはそれで意外な組み合わせと言えなくもありません。しかし、この福音書ではわざわざ「心の貧しい人々は」と言っているのです。この「心」というのは一般的には「霊」と訳される言葉なのです。それはいわば人間存在の最も深い本質的部分と言っていい。その「霊」における貧しさについて語られているのです。ただ物質的に困窮しているというだけでないのです。本質的に根源的に「貧しい人々」と言われているのです。

極度の貧しさ
 そこで私たちはまず私たちの「貧しさ」に目を向けなくてはならないのでしょう。そもそも私たちは本質的に根源的に「貧しい人々」なのでしょうか。いや、ここで言う「貧しさ」を知るためには、「私たちは貧しいのだろうか」と問うよりも、「私たちは本当に貧しくないのだろうか」と問う方が良いのかもしれません。私たちは何かを持っているのでしょうか。持っているとするならば、それはいったい何なのでしょう。

 それが財産であれ、健康であれ、愛する人であれ、何かが失われる時、それは私たちの意志とは無関係に失われることを私たちは知っています。本質的には何一つ私たちの支配下にはないということです。言い換えるならば、本当の意味で私たちが所有するものは何一つないということです。

 実際、自分の「命」ほど、「これは私のものだ」と思いたいものはないでしょう。「私のもの」と主張したい。他の誰の手にも渡したくない。しっかりと自分の手で握りしめていたい。最後まで自分の思い通りになるものであって欲しい。それが「命」です。でも、実際にはどうですか。この世における「命」。この世における人生。絶対に思い通りにはならない。そうです「命」ですら、本当は「私のもの」ではないのです。

 その一方で、間違いなく私たち自身に属するものはあります。私たちが確実に持っているものがある。何でしょう。あえて言うならば、私たちに本質的に属するのは「罪」と「死」です。

 私たちが人に対して負っている「負い目」、そして神に対して負っている「負い目」は、間違いなく《私たち自身》が人生において行ってきたことに由来します。それは間違いなく私たち自身の「罪」であり、私たちが神の御前において支払うべき負債なのであって、それは間違いなく「私たちのもの」です。

 そして、「死」もまた「私たちのもの」です。「死」は未来のどこかにあるのではありません。私たちは常に死を背負いながら生きているのです。私たちは生きながらにして「死」を負った存在ですから、それゆえに誕生した時から私たちは常に「死につつある(dying)」存在なのです。

 そのように、私たちが確実に持っているのは「罪」と「死」だけだと言うことができます。いわば借用証書だけを所有しているようなものです。それは本質的、根源的な貧しさです。その根源的な貧しさの中から、ただ「憐れんでください」と叫ぶしかない。物乞いがそうするように、神に向かって「憐れんでください」と叫ぶしかない。救ってもらうしかない。それが聖書の教える私たち人間の現実なのです。

天の御国は彼らのもの
 しかし、そのような貧しい者として、憐れんでもらうしかない、救ってもらうしかない者として、ともかく彼らはイエス様の元にたどり着いたのです。私たちもまた、こうしてイエス様のもとにたどり着いたのです。そして、イエス様の弟子として、イエス様の語りかけを私自身への語りかけとして聞いて生きていこうとしているのです。そのような彼らに対して、そしてここにいる私たちに対して、イエス様は言われるのです。「幸いなるかな!」と。

 それはなぜなのか。主はこう続けられます。「天の国はその人たちのものである」。貧しいならば与えていただくしかありません。憐れんでいただくしかありません。救っていただくしかありません。しかし、それでも幸いなのです。なぜなら「天の国はその人たちのものである」と宣言することのできる御方のもとにいるからです。天の国とは神の救いです。神による完全な救いです。主はその救いを宣言してくださるのです。なぜなら、イエス様こそがその救いを与えるために来られた御方だからです。

 ここで「幸いなるかな」と叫んでおられる方について、使徒パウロはコリントの教会に宛てて書いた手紙の中でこう言っています。「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです」(2コリント8:9)。

 豊かであった主が貧しくなってくださいました。罪の負債のない方が、私たちの負債を肩代わりしてくださいました。死に支配されない御方が私たちの死を引き受けてくださいました。そのようにして、私たちを貧しさの極みから救ってくださいました。そのようにして、天の国から限りなく遠かった私たちに天の国を与えてくださいました。

 「天の国はその人たちのものである」と主は言ってくださったのです。「天の国はいつかその人たちのものとなるだろう」と言われたのではないのです。キリストのもとにあって、既に「幸いなるかな!」という宣言を聞いているのです。天の国は既に私たちのものなのです。既に天の国の生活が始まっているのです。キリストのもとにあって、救われた者として神と共に生きる生活が既に始まっているのです。外の輪から眺めているのではなくて、主の言葉を、私たち自身への語りかけとして聞こうとしているのなら、それは私たちに語りかけられている言葉なのです。「心の貧しい人々は、幸いである、天の国は彼らのものである」。

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