日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイによる福音書 14章22節~32節
安心しなさい
弟子たちはガリラヤ湖の上で漕ぎ悩んでいました。何時間もの間、吹き付ける激しい逆風と打ち付ける激しい波に翻弄されて、既に明け方近くになっていました。どんなにか疲れていたことでしょう。どんなにか怖かったことでしょう。しかし、彼らの舟の中にイエス様はおられないのです。目に見える姿でそこにはおられないのです。
そこに見る弟子たちの姿は、ある意味で後の教会の姿を表していると言えます。キリストは十字架にかかられた後、復活して弟子たちに現れました。しかし、復活したキリストの顕現は、その後ずっと続いたわけではありません。使徒言行録によるならば、その期間は四十日であったと伝えられています。その期間の終わりを、聖書は「キリストの昇天」として伝えています。その後二千年にわたる長い教会の歴史において、キリストは目に見える姿で共にいることはありませんでした。
教会が迫害の嵐の中にあった時にも、キリストは見える姿では教会にはおられませんでした。教会がこの世の様々な外部からの力に翻弄されている時、悪魔の力によって内側からかき乱されている時、キリストは目に見える姿で共にはおられませんでした。信仰者が涙を流し、叫び声を上げている時、キリストは、目に見える姿において共にはおられませんでした。漕ぎ悩むキリスト不在の舟。それは一面においてこの世の教会の姿です。
しかし、それはあくまでも一面に過ぎません。物語は次のように続きます。「夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、『幽霊だ』と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。イエスはすぐ彼らに話しかけられた。『安心しなさい。わたしだ。恐れることはない』」(25‐27節)。
「湖の上を歩いて」という表現は実に印象的です。「そんなことあり得ない」と誰もが思いますでしょう。そうです、その通りなのです。ここで重要なことは、まさに「そんなことあり得ない」という仕方でキリストが近づいて来られた、ということなのです。人の思いを超えた仕方で、キリストが近づいて来られ、そして語りかけてくださったのです。
そのように、目に見える姿ではキリストのおられない教会に、目に見える姿ではキリストのおられない信仰者の生活に、キリストが近づいてきてくださいます。そして、語りかけてくださるのです。しかし、それは人間の思考を超えた現実であり、神の霊による出来事なのです。それこそが、代々の教会の経験してきたことでありますし、私たちに与えられている経験でもあるのです。
そして、もう一つ重要なことがあります。キリストが特に湖の上を「歩いて」来られた、と表現されているということです。「湖」と訳されていますが、これは「海」という言葉です。そして、「海」というのは、当時の人々にとっては、人間が支配することのできない恐るべき混沌の力を象徴するものに他ならなかったのです。まさに舟はそのような力によって翻弄され、滅びに瀕しているのです。しかし、キリストはその恐るべき混沌の力を踏みつけて近づいて来られるのです。湖の上を歩いて来られたとはそういうことです。
この箇所を読んでいますと、ヨハネによる福音書に記されているキリストの言葉、最後の晩餐における言葉が思い起こされます。主は弟子たちにこう言われました。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(ヨハネ16:33)。まさに漕ぎ悩む弟子たちに近づいて来られたのは、そのような勝利者キリストの姿に他なりませんでした。
だからこそ、近づいて来られたキリストはこう言われるのです。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」。この「安心しなさい」という言葉は、先ほど引用しましたヨハネによる福音書の「勇気を出しなさい」というのと同じ言葉です。ですから、ここで言われているのは単に「幽霊ではないよ。わたしだよ」と言っているのではありません。「わたしだ」というのは、「わたしがいる」という意味でもあります。つまり、イエス様は御言葉によって御自分を示して、「わたしがいるではないか。安心しなさい。勇気を出しなさい。大丈夫。恐れることはない!」そう言ってくださるのです。
なぜ疑ったのか
そう言ってくださる方がおられるなら、こちら側として重要なのは信頼することなのでしょう。今日の第一朗読においても、次のような言葉が読まれました。「まことに、イスラエルの聖なる方、わが主なる神は、こう言われた。『お前たちは、立ち帰って静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある』と」(イザヤ30:15)。今日の説教題はここから取りました。問題は私たちの側の信頼です。
そこで福音書においても具体的に「信頼」を表した一人の男の話をするのです。ペトロの話です。「すると、ペトロが答えた。『主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。』イエスが『来なさい』と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ」(28‐29節)。
「わたしだ。わたしがいる」。海を踏みつけて歩かれるキリストがおられる。ペトロはそのことを知って、自分自身も海の上に立ち、キリストのもとに行こうとしました。ペトロは「来なさい」とのキリストの言葉を聞いたのです。それゆえに、彼は海の上をキリストのもとへ歩んでいきます。一歩、また一歩と。キリストの言葉を聞き、その御方に信頼するときに、彼もまた海を足の下に踏んで歩くことができたのです。もはや闇の力に翻弄される者ではありません。いかなる力も彼を滅ぼすことはできません。信じる者はキリストと共に海の上に立つのです。
しかし、話はそれで終わりません。次のように続きます。「しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、『主よ、助けてください』と叫んだ。イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、『信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか』と言われた」(30‐31節)。
しばらく行くとペトロは強い風が吹いていることに気付きます。恐れに捕らわれます。そして海に沈み始めます。キリストはそのようなペトロの心の動きを「疑い」と呼ばれました。「なぜ疑ったのか」とキリストは言われるのです。「疑い」とは何でしょうか。これはもともと二つの方向に進んでいくことを意味する言葉です。「二心」という言葉に近いかもしれません。ペトロの心は分かれてしまったのです。
先ほどのイザヤ書の言葉にも続きがありました。主は「お前たちは、立ち帰って静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある」と言われます。しかし、こう続くのです。「しかし、お前たちはそれを望まなかった。お前たちは言った。『そうしてはいられない、馬に乗って逃げよう』と。それゆえ、お前たちは逃げなければならない」(イザヤ30:15‐16)。
主は「信頼せよ」と言われる。しかし、人は言うのです。「そうしてはいられない」と。「そうしてはいられない、馬に乗って逃げよう」と言うのです。だから逃げなければならなくなるのだ、と主は言われるのです。
ペトロもそうでした。一方において、キリストとその御言葉への信頼へと向かいます。しかし、もう一方で彼の心は、風が吹いている中で海の上にいるという現実に向かうのです。そして思うのです。「こうしてはいられない」と。このままでは沈んでしまう、と。だから沈み始めるのです。
主はそんなペトロに言われました。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」。この言葉は身につまされます。実に痛い言葉です。強い風に気がついて怖くなって沈み始めたペトロの姿は人ごとではないからです。「そうしてはいられない」と言って馬に乗って逃げようとする姿も人ごとではないからです。
しかし、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」というこの言葉は私たちにとって慰めでもあります。イエス様は海に沈み行くペトロを海の底に見送りながらそう言ったのではないからです。「主よ、助けてください」と叫ぶペトロに向かって、イエス様はすぐに手を伸ばして捕まえて、そして言った言葉です。「すぐに」です。そして、イエス様がペトロを捕まえたのであって、ペトロが必死で手を伸ばしてイエス様をつかんだのではないのです。
「主よ、助けてください」は字義通りには「主よ、お救いください」という言葉です。「お救いください」と叫ぶペトロをイエス様は沈むままにはさせない。そうです、イエス様は沈むままにはさせないのです。つかんでおられるのは、海の上を歩いて来られた方なのです。「わたしがいるではないか。安心しなさい。勇気を出しなさい。大丈夫。恐れることはない!」と言われる方なのです。
ならば、そのイエス様の言われる「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」は、ただ不信仰をとがめているのではありません。もう一度信じることへの招きに他ならないのでしょう。なぜ疑ったのか。信じなさい。信じなさい。そう主は呼びかけておられるのです。
漕ぎ悩む弟子たちに海を踏みつけて近づかれ、沈み行くペトロの手をつかんで引き上げられたイエス様は今も生きておられます。今日も私たちのところに近づいて来られて語りかけていてくださいます。何度でも私たちを引き上げて語りかけていてくださいます。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」。ここからもう一度、主に信頼し、従ってまいりましょう。