2017年1月8日日曜日

「愛されている神の子として」

2017年1月8
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイによる福音書 3章13節~17節

 「そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである」(13節)。

 「そのとき」と書かれていました。「そのとき」がどのようなときかは、今日の箇所の直前に書かれています。ヨハネがヨルダン川で洗礼を授けていたときです。ヨハネが「悔い改めよ。天の国は近づいた」と宣べ伝えていたときです。ヨハネがやってきたファリサイ派やサドカイ派の人々に対して「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ」(7‐8節)と語っていた「そのとき」です。「斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」(10節)。そのような神の裁きが語られていた、「そのとき」です。

 「そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。」そのように、イエス様はヨハネの語る神の裁きのメッセージを背景に登場して来られたのです。人間が神の裁きのもとにあるということが語られている、まさに「そのとき」イエス様が来られたのです。人間が神の裁きのもとにあるということは、人間の罪が問われているということです。そこにイエス様が救い主として登場してこられるのです。罪からの救い主として登場してこられるのです。それが本日朗読された聖書の言葉です。

正しいことをすべて行うことは
 その登場の仕方は、自らヨルダン川で洗礼を受けるという形でなされました。ヨハネのもとに来て罪を告白し、彼から洗礼を受ける人々の列に自ら加わるという形でなされたのです。そのようにして、イエス様は洗礼者ヨハネの前に立ちました。

 洗礼者ヨハネは自分の前に立っているのが誰であるかを知っていたようです。どのようにして知ったのかは分かりません。しかし、明らかにヨハネはその方を知っています。彼は言います。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか」(14節)。そう言って、思いとどまらせようとしたと書かれています。

 ヨハネが何を知っていたのかがはっきりと現れています。ヨハネは知っていた。この方は洗礼を受ける必要はない。なぜならこの方には罪がないから。罪がないというのは、神の前において罪がないということです。神の裁きのもとにない。そのような方を目の前にしていたのです。

 真っ白な方の前に立つ時、自分の汚れを思わずにはいられなくなります。明るい光の前に立つ時、自分の内に暗闇があることを知らされます。その方の前に立ったとき、自分こそが神の裁きのもとにあることを思わずにはいられなかったのでしょう。イエス様を知るとはそういうことです。だからヨハネは言いました。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか」。

 しかし、そのときイエス様はこう言われました。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」(15節)。イエス様が洗礼を受けるためにヨハネのもとに来られたのは、それが「正しいこと」だから。それが理由でした。その「正しいこと」とは神の目から見て「正しいこと」という意味です。神の御心に適うことであり、言い換えるなら「神が望んでおられること」ということです。

 いいえ、それだけではありません。イエス様は、「正しいことを《すべて》行うのは」と言われたのです。すべての「義」を満たさなくてはならない。ですから、イエス様が念頭に置いておられるのは、罪人の一人として洗礼を受けることだけではないのです。神の望んでおられる一連のことがあるのです。その《すべて》を成し遂げなくてはならないのです。

 神はまず、罪のない救い主が、罪ある人間の一人として、罪人と共に洗礼の水の中に立つことを望まれました。そして、それで終わりではないことをイエス様は分かっておられたのです。罪人と一緒に水の中に立ったら、それだけでは終わらない。続きがあるのです。その続きはこの福音書にすべて書かれています。

 既にこの福音書を読まれた方は、話はどこに向かっているかご存じでしょう。十字架です。罪人の一人として水の中に沈まれたイエス様は、やがて罪人の一人として裁かれ、十字架にかけられることになるのです。それが「正しいこと」、神が望まれたことです。神の裁きのメッセージを背景に登場された方に、そのことが起こることを神は望まれた。人間の罪が問われているこの世界のただ中で、そのことが起こることを神は望まれたのです。

 ならばそれは何を意味しますか。罪のない救い主が、罪人の一人として、すべての人の罪を代わりに背負って死んでいくということです。人々の救いのために苦しみ、そして死んでいくことです。なぜなら、あの方は、罪からの救い主だから。十字架への歩みは、洗礼において既に始まっているのです。

これはわたしの愛する子
 しかし、そこである出来事が起こりました。こう書かれています。「イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。そのとき、『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』と言う声が、天から聞こえた」(16‐17節)。

 天が開きました。しかし、それはあくまでも「イエスに向かって」です。イエス様御自身の体験です。また神の霊が降ってくるのを御覧になった。「御覧になった」のはもちろんイエス様です。そして、声が聞こえた。この流れからすれば、明らかにイエス様に聞こえたということでしょう。ですからマルコによる福音書では、もっとはっきりとイエス様が聞いた言葉として書かれています。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」。イエス様は確かに天から響く父の声を聴いたのです。「あなたはわたしの愛する子だ」と。

 この言葉がイエス様に必要でした。なぜなら、イエス様は十字架への道、苦しみの道を歩くことになるからです。もちろんイエス様は既に自分の苦しみが何であるかをご存じでした。イエス様は罪のない御方ですから、自分の罪の故に苦しむ必要はありませんでした。イエス様の人生には、自分の罪が招いた苦しみはありませんでした。御自分の苦しみは救い主としての苦しみであることを知っておられました。父の御心はわかっているのです。しかし、そのようなイエス様でさえなお、苦難の道を歩んで行く上でどうしても、この語りかけを必要としたのです。イエス様に必要であるからこそ、父は語られたのです。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と。

愛されている子供たちとして生きる
 さて、イエス様が「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という神の語りかけを聞いているのは、「ヨルダン川」においてです。イエス様が、まさに人間の一人として、罪人の列の中に並んで洗礼を受けたという場面においてです。イエス様は永遠に父なる神と共におられる御子なる神として、「あなたはわたしの愛する子」という声を聞いているのではないのです。もしそうならば、何もこの場面でなくても良いのです。イエス様はあくまでも洗礼を受けている人間として、私たちと同じ人間として立ちながら、この声を聞いておられるのです。ならばイエス様が受けられた洗礼と、私たちが受ける洗礼とは無関係ではなくなります。

 ですからマタイによる福音書は、イエス様が受けられた洗礼の話だけで終わらないのです。この福音書の最後で弟子たちにこう命じているのです。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(28:18‐20)。最後には「洗礼を授けよ」とイエス様が命じたという話が出て来るのです。教会が授ける洗礼の話が出て来るのです。

 イエス様の受けた洗礼。教会が授けよと命じられている洗礼。その二つの間には何がありますか。3章と28章の間には何がありますか。十字架と復活の出来事があるのです。「洗礼を授けよ」とイエス様が命じられる前に、イエス様が「正しいこと」をすべて行ってくださったのです。神の御心に従って十字架へと歩みを全うされ、救いの御業を成し遂げてくださったのです。この救いの御業のゆえに、教会が授ける洗礼は意味を持つのです。成し遂げられた救いの御業のゆえに、あのヨルダン川で起こったことが、今日の教会において私たちの間にも起こるのです。

 あの時、「天がイエスに向かって開いた。」同じように神の裁きのもとにあった私たちにも天が開かれるのです。イエス様が罪の贖いを成し遂げてくださったからです。主の御業のゆえに、開かれた天は私たちに対してもはや決して閉ざされることはないのです。 そして、「イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。」同じように、私たちにも神の霊が与えられるのです。私たちは洗礼において、ただ水による儀式を行っているのではありません。私たちは水と霊によって新しく生まれるのです。このことについて、パウロはこう語っています。「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは『アッバ、父よ』と呼ぶのです」(ローマ8:15)。

 それゆえに神御自身が私たちにもこう言ってくださるのです。「あなたはわたしの愛する子供だ」と。そうです、私たちもまた、イエス様が耳にした神の愛の宣言を聞きながら、愛されている神の子供たちとして生きていくのです。神の裁きのもとにあって戦々恐々として生きていくのではなく、むしろたとえ苦難の中にあったとしてもなお、神の子供たちとして、神の愛を信じて生きていくのです。

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