日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ローマの信徒への手紙 1章16節~17節
わたしは福音を恥としない
この教会には塔があってその頂には十字架が掲げられています。礼拝堂の中に入りますと正面に大きな十字架が目に飛び込んできます。いかにも教会らしいと言えるでしょう。しかし、これが十字架ではなくてギロチン台だったらどうでしょう。塔にはギロチン台が掲げられている。正面にはギロチン台が置かれている。そんな教会に来たいと思いますか。
しかし、皆さん、十字架はもともとギロチン台と同じように死刑の道具だったのです。ですから、教会に十字架が掲げられているということは、ギロチン台が掲げてあるほどに、本来は奇妙なことなのです。そして、さらに言うならば、その死刑の道具にかけられて他の犯罪人と共に処刑された一人のユダヤ人を指さして、この方こそ神からのメシア、救い主なのだと宣べ伝えてきたのです。それは本来、とても奇妙なことなのです。この世の観点からするならば、まことに愚かなこと、馬鹿馬鹿しいことであり、受け入れがたいことであるはずなのです。
さて、今日の第二朗読においてパウロはローマの教会に書き送っています。「ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を告げ知らせたいのです」と。福音というのは「良い知らせ」という意味です。グッド・ニュースです。良い知らせなら、当然、伝えたいと思うのでしょう。しかし、その良い知らせ、福音についてパウロはさらにこう言います。「わたしは福音を恥としない」(16節)と。
「恥とする」とか「恥としない」という話題が出て来るのはなぜでしょう。考えてみてください。誰もが聞いて容易に納得できること、十人中十人が口を揃えて「本当にそのとおりですね。嬉しいことですね」と言ってくれることについては、「恥じとする」とか「恥としない」ということは問題になりません。しかし、本当は「良い知らせ」なのだけれど、簡単には受け入れがたいこと、一見愚かに見えること、バカにされたり、拒否されたりするかもしれないことであるならば話は別です。それをなおもあえて語り続けるのか、それとも引っ込めてしまうのか、「恥とするのか恥としないのか」が問題になるのです。
そして、先にも見ましたように、死刑の道具である十字架をかかげて、十字架にかけられた救い主について語る「福音」は、明らかに後者なのです。教会は、誰もが当たり前のように受け入れることができるような話を伝えてきたのではないのです。しかし、パウロは言うのです。「わたしは福音を恥としない」と。そして、教会もそう言い続けてきたのです。教会はそれを引っ込めませんでした。語り続けたのです。そのようにして、今日もなお十字架をかかげているのです。それはなぜでしょうか。
パウロは単純にその理由を次のように語ります。「福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです」(ローマ1:16)。これが理由です。どんなに愚かに見えようとも、その福音は信ずる者に救いをもたらす神の力だからです。馬鹿にされようが笑われようが、現実にその神の力を知っているからです。
福音は救いをもたらす神の力である
この「神の力」について考えてみましょう。「神の力」について語られているのは、ここだけではありません。聖書において繰り返し語られています。なぜ「神の力」が頻繁に話題に上るのでしょうか。――その理由ははっきりしています。それは人間が無力であるからです。聖書において「神の力」が語られる時、その背景にあるのは人間の弱さであり無力さなのです。
パウロが「救いをもたらす神の力」について語る時もまた同様です。彼もまた、人間の弱さと徹底的に向き合うところにおいて、神の力について語っているのです。では、人間の弱さ、無力さが最も鮮明に現れるのはどこにおいてでしょうか。――それはこの手紙において明らかにされています。それは究極的には《罪と死の問題》においてなのです。人間は罪に対して、死に対して、全く無力な存在なのです。
パウロはこの同じ手紙の中で、人間というものの現実を次のように語っています。「わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです」(ローマ7:18‐19)。
わたしの中に悪いものが住んでいる!それをパウロは「罪」と呼びます。この罪の力はリアルです。内に住んでいる悪いものは、様々な目に見える結果を生み出します。私たちの人生はその目に見える結果の集積です。私たちが自分で気づいていることばかりではありません。気づいていないこともまた、いくらでもあります。忘れてしまっていることもあります。確かに私たちは自分の罪深い行いを忘れることはできます。しかし、例えば借金を忘れたからと言って借金が消えないように、罪を忘れても罪の事実は消えません。罪は水に流れません。人間はそのように罪を宿したまま、そして罪の結果という負債を抱えたまま、必ず死を迎えます。人生の終わりを迎えます。そのことに関して人間はどうすることもできません。
そのように人間は、罪と死という人生の根本問題について全く無力なのです。だからこそ、そこにおいては「神の力」が語られなくてはならないのです。本当に力ある御方が救ってくださるのでなければ、希望はないからです。そのように、自分が罪に対しても死に対しても無力であるという事実を認めるところにおいてこそ、神の力が語られ得るのです。また救いをもたらす神の力を信ずる信仰が語られ得るのです。言い換えるならば、幻想を捨てて、徹底的にリアリストになるところから、信仰は始まると言うことができるのです。
福音には神の義が啓示されている
そのように福音は「救いをもたらす神の力」だと語られていました。では、どのような意味において、福音は「救いをもたらす神の力」なのでしょう。福音はどのように救いをもたらすのでしょうか。パウロは次のように言っています。「福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです」(17節)。
福音には「神の義」が啓示されている!だから福音は救いをもたらす神の力なのだと、彼は言っているのです。しかし、その「神の義」とは何でしょう。「義」という言葉を漢和辞典などで調べますと、第一の意味は「正しい、道にかなった」などと説明されています。この言葉で私たちが思い浮かべる第一の言葉は「正義」でしょう。そうしますと、「神の義」は「神の正しさ」、人間の罪を正しく裁く「神の正義」を意味することになります。
しかし、神の義が、一面的にそのような裁きをもたらす「神の正しさ」ということだけを意味するとするならば、そのような「神の義」が啓示されることは福音にはならないはずです。罪ある私たち人間は、その御前でただ恐れおののくばかりです。ですからルターはかつて「わたしはあの『神の義』という言葉を憎んでいた」とさえ書いています。それは喜びにはなり得ないのです。
ですから、ここで語られている「神の義」とは、単に罪人を罰する神の正しさのことではありません。もちろん、神は正しい御方です。しかし、その正しい神は、その正しさによって人間を滅ぼしてしまわれるのではなく、人間を神との正しい関係に回復しようとされたのです。そのように神が与えてくださる神との正しい関係――それこそがここで語られている「神の義」なのです。
では、神はどのようにして、人間を御自身との正しい関係に回復してくださるのでしょう。――それは罪の赦しによってです。かつて預言者ミカは言いました。「あなたのような神がほかにあろうか、咎を除き、罪を赦される神が。…主は再び我らを憐れみ、我らの咎を抑え、すべての罪を海の深みに投げ込まれる」(ミカ7:18‐19)。
神は、私たちの罪を海の深みに投げ込んで沈めてしまうことのできる御方です。そうやって私たちは義とされるのです。実際には、神は私たちの罪を海の深みに投げ込まれたのではありませんでした。そうではなくイエス・キリストという御方の人生に投げ込まれたのです。イエス・キリストは、私たちの罪を投げ込まれた者として、たった一人で私たちすべての者の罪を背負って、罪の贖いの犠牲として、十字架の上で死なれたのです。
この十字架にこそ、神の義が啓示されているのです。この十字架のゆえに、ユダヤ人であろうが、ギリシア人であろうが、どんな人であろうが、罪を赦されて、義とされて、神との正しい関係に、神との交わりに生きることができるのです。もはやただ死にゆく罪人として生きる必要はないのです。罪の負債を背負ったまま、死んでいく必要はないのです。神との関わりにおいて、新しい命、永遠の命に生きることができるのです。その意味において、この福音こそ、私たちを救う神の力なのです。
ですから、教会はこの福音を引っ込めてしまわなかったのです。十字架の言葉が、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものであったとしても、それを引っ込めてしまわなかったのです。「福音を恥としない」と言い続けたのです。宣べ伝え続けたのです。そして信じることを求めたのです。
私たちも今、十字架がかかげられている礼拝堂において、礼拝を捧げています。それはこの世に対する表明でもあります。私たちもまた、「福音を恥としない」ということを、主の日の礼拝という私たちの行動をもって示しているのです。そして、私たちは一週間の生活の場へと散らされていきます。十字架の福音を恥としないものとして、この福音をたずさえて、この世に出ていくのです。