2016年12月18日日曜日

「神は私たちと共におられる」

2016年12月18
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイによる福音書 1章18節~23節

 「マリアの胎の子は聖霊によって宿った」と書かれていました。ルカによる福音書では、天使がマリアに現れて、身ごもっていることを伝えたという話が出て来ます。いわゆる「処女降誕」と呼ばれる出来事です。そこには人間の詮索の及ばない、神の領域があります。しかし、私たちがこの物語を読みますとき、マタイによる福音書はこの出来事の不思議さを殊更に強調してはいないことに気づきます。事の重大さを考えますと、語り口は驚くほど控えめです。

 むしろ、不釣り合いなぐらいに強調されていることがあります。それは生まれてくる子供の「名前」についてです。この物語において重要なのは、不思議な誕生の仕方ではなくて名前であり呼び名なのです。「『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である」(23節)。

その名はインマヌエルと呼ばれる
 来週、私たちはクリスマスを迎えます。クリスマスにおいて祝うのは、今日の聖書箇所によるならば、「インマヌエル」と呼ばれる方の誕生です。それは「神は我々と共におられる」という意味であると説明されています。

 さて、皆さんはこの言葉をどのように聞かれますでしょうか。今日の説教題は「神は私たちと共におられる」です。一週間外に貼り出されていたこの説教題を見て不愉快になった人は恐らくいないだろうと思います。多くの人は、神が共にいてくださることを喜ばしいこと、嬉しいこととして受け止めてくださるからです。

 しかし、まず私たちはここで改めて考えたいと思うのです。神が共におられるということは、本当に喜ばしいことなのでしょうか。嬉しいことなのでしょうか。この問いは次のように言い換えることができかも知れません。「神様が共にいて、本当に大丈夫なのでしょうか。」

 新共同訳聖書では、23節には鍵かっこがついています。これは旧約聖書の引用です。預言者イザヤがユダ王国のアハズ王に語った言葉です。時代はイエス・キリストの誕生からさらに730年ほど前に遡ります。

 その時、ユダ王国は国家的危機に直面していました。アラムと北王国イスラエルが連合して攻めてきたのです。その時の様子を聖書はこう伝えています。「ユダの王ウジヤの孫であり、ヨタムの子であるアハズの治世のことである。アラムの王レツィンとレマルヤの子、イスラエルの王ペカが、エルサレムを攻めるため上って来たが、攻撃を仕掛けることはできなかった。しかし、アラムがエフライムと同盟したという知らせは、ダビデの家に伝えられ、王の心も民の心も、森の木々が風に揺れ動くように動揺した」(イザヤ7:1‐2)。

 不安と恐れに襲われて、森の木々が風に揺れ動くように動揺するということは、私たちもしばしば経験することでしょう。そのとき、私たちは何を考えるでしょうか。「さあ、どうしたらよいだろうか」と考えるに違いありません。しかし、神は預言者イザヤを通してアハズ王にこう語られたのでした。「落ち着いて、静かにしていなさい。恐れることはない」(イザヤ7:4)。

 そして、さらにこう言われます。「信じなければ、あなたがたは確かにされない。」(7:9)つまり、神を真実なる確かなお方として信頼しなければ、あなたがたは決してしっかりと立つことはできない、と言われたのです。問題は敵の襲来ではなくて、確かになっていない足下であることを示されたのです。それゆえに、神は「何をすべきか」を考える前に、まず神に信頼することを求められたのです。

 そして、さらに神はアハズに言われました。「主なるあなたの神に、しるしを求めよ。」神がまことに信頼すべき神であるという「しるし」を求めて良いと言われたのです。しかし、アハズはこう答えたのでした。「わたしは求めない。主を試すようなことはしない」(7:12)。

 大変敬虔な答えに聞こえます。しかし、実のところはそうではありません。アハズ王は、しるしを見せられても神に信頼して従う気などないのです。彼は、アッシリアという大国の力によって、この国難を乗り切ろうと考えていたのです。要するに、彼の心の内にあるのは、「こんな大変な時に、神様だ、信仰だなどと言ってられるか!」ということなのです。

 神様は敬虔な装いの下にあるものをご覧になっておられます。その目をごまかすことはできません。そこで語られたのが、マタイに引用されていた預言の言葉なのです。「ダビデの家よ聞け。あなたたちは人間にもどかしい思いをさせるだけでは足りず、わたしの神にも、もどかしい思いをさせるのか。それゆえ、わたしの主が御自ら、あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」(7:14)。

 このように「神は我々と共におられる」という意味の「インマヌエル」という言葉は、もともとの預言においては、それほど喜ばしい響きを持っていないのです。それは先を読むと分かります。17節にはこう書かれています。「主は、あなたとあなたの民と父祖の家の上に、エフライムがユダから分かれて以来、臨んだことのないような日々を臨ませる。アッシリアの王がそれだ」(7:17)。

 つまり、「男の子が生まれる。その名をインマヌエルと呼ぶ」というのは、もともとはアハズにとっては裁きの預言に他ならなかったのです。その不信仰も不従順もすべてお見通しの神が共におられるということですから。神は確かに共におられる。だから不信仰を貫くなら、当面の危機は逃れるかもしれないけれど、最終的に不信仰の実を刈り取ることになる。あなたが頼りにしているアッシリアによって恐るべき日が臨むことになる、とイザヤは語っているのです。

 先ほどの問いに戻ります。神様が共にいて、本当に大丈夫なのでしょうか。私たちの正しさ、とってつけたような敬虔さ、見てくればかりの善良さ――そんなものは神の真実と正しさの前にあってはみんな吹き飛んでしまうようなものに過ぎません。何も神の目から隠れることはありません。私たちに罪がなければ、神が共におられることは救いとなるでしょう。しかし、罪があるならば、神が共におられることは単純に救いとはならないでしょう。むしろそれは災いに他ならないのです。

その子の名はイエス
 しかし、クリスマスの物語は、単にインマヌエルと呼ばれる方の誕生を語っているのではありません。この幼子の誕生において、神は幼子の名前を既に定めておられたのです。ヨセフに対してはこう語られています。「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」(21節)。

 イエスという名前は、ヘブライ語名のヨシュアに当たります。ヨシュアは「主は救い」という意味の名前です。ですから、イエスと名付けなさいと命じられた後に、「この子は自分の民を罪から救うからである」と説明しているのです。

 「罪から救う」。聖書には当たり前のように書かれていますし、そのように日本語にも翻訳されているわけですが、一般的な日本語会話において「罪から救う」という表現はほとんど使われません。「貧困から救う」とか「病気から救う」なら分かります。「火事から救う」も分かります。しかし、「罪から救う」という表現は一般的ではありません。

 しかし、この一般的でない表現こそ、まさにキリスト教の神髄に当たるのです。人間は古代から現代に至るまで多くの苦悩を背負った存在であることに変わりありません。ですから、人は様々な苦しみからの救いを求めてきましたし、様々な救いが与えられてきたのです。しかし、聖書は、人間の決定的な悲惨、根元的な苦悩は神を失っていることだと語るのです。さらに言えば、神が共におられるということが裁きにしかならないという現実、すなわち人間に罪があるという現実こそ、人間の最大の悲惨なのだ、と言っているのです。

 人が渇いているとするならば、その渇いている事実そのものが悲惨なのではなくて、生ける水の泉を持っていないことが悲惨なのです。私たちに欠けているのは、与えられて補われる「何か」ではないのです。そうではなく、私たちに必要なのは神ご自身なのです。それゆえ、私たちに必要とされているのは罪の赦しなのです。私たちが神に帰ることができることなのです。赦された者として神と共に生きることができる、ということなのです。

 「その子をイエスと名付けなさい。」イエスと名付けられることは、罪からの救い主となることを意味しました。それはすべての人の罪を代わりに背負って自ら裁きを受けることを意味したのです。イエスと名付けられることは、それゆえに、十字架への道を歩み出すことに他なりませんでした。

 そのお方が、「インマヌエルと呼ばれる」と言われているからこそ意味があるのです。罪が赦されて、罪から救われて、初めて神が共におられることは裁きではなくなるのです。罪が赦されて、初めて神が共におられることが、新しい命となり喜びとなり力となり希望となるのです。

 このイエスと名付けられた方の到来によって、かつては裁きの言葉に他ならなかった「インマヌエル」が、救いの言葉となりました。私たちは喜びと感謝とをもって、「神は我々と共におられる」と告白し、罪からの救い主であられるイエス・キリストの誕生を、心から共に祝いたいと思うのです。クリスマスの祝いが近づいてきました。

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