2016年12月25日日曜日

「闇の中に輝く光」

2016年12月25
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネによる福音書 1章1節~14節

光は輝いている
 「光は暗闇の中で輝いている」。先ほど朗読された福音書の中にそうありました。「光は暗闇の中で輝いている」。また、こうも書かれていました。「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」。

 すべての人を照らす光が世に来たというのです。その光が既に輝いている。ならばもう真っ暗闇ではありません。そこに光が来て、光が既に輝いている。ならば、もう恐れる必要はありません。私たちがクリスマスを祝うのは、光が既に輝いているからです。もちろん、聖書はイエス・キリストについて語っているのです。

 イエス・キリストの誕生の次第については、マタイによる福音書とルカによる福音書に詳しく書かれています。その物語は、先週の日曜日の礼拝後にページェント(聖誕劇)として上演されました。さらに昨夜のクリスマス・イヴ礼拝においては、キリスト誕生の物語を伝える聖書の言葉が朗読されました。

 ところがこのヨハネによる福音書には、クリスマスの物語がありません。天使ガブリエルもヨセフも羊飼いたちも登場してきません。しかし、その代わりに、キリストの誕生が次のような言葉で表現されています。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」(14節)。

 たったこれだけ。そうとも言えます。しかし、この短い言葉の中に、キリスト誕生の物語の全てが、さらにはイエス・キリストの御生涯の全てが含まれているとも言えます。なぜこの御方が暗闇を照らす光なのか。なぜこの御方が今も輝いている光なのか。なぜ2016年の今日においてもなおクリスマスが祝われ、光が輝いていることが祝われているのか。今日はこの短い言葉を味わいながら、そのことについて思い巡らしたいと思います。

初めに言があった
 「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」。この「言」とはこの世に来られる前のキリストです。この世に来られる前のキリストについては冒頭に次のように語られていました。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった」(1‐2節)。

 そのように、この世に来られる前のキリストが「言」と呼ばれています。このことについては、多くの事が語られ得ますが、ここでは一つのことだけに触れたいと思います。それはヘブライ語において、「言葉」という単語は同時に「行為」や「出来事」をも意味する、ということです。

 それはある意味では、極めて現実的な物の見方であると言えるかもしれません。というのも、私たちは現実に口から発せられた言葉が良きにせよ悪しきにせよ、何かを行うということを体験的に知っているからです。一度口から出してしまったらもう手遅れで、その言葉が次々と事を引き起こしてしまうということがあるでしょう。だから「言葉」は同時に「行為」であり「出来事」でもあるのです。

 そのような意味合いにおいて、キリストは「言」であると語られているのです。すなわち、イエス・キリストがこの世に生まれ、この地上に生きられたということは、この世に対する神の語りかけであると同時に、神の行為であり、神による出来事なのだ、ということです。

言は肉となって
 その神による出来事を、聖書はさらに「言は肉となって」と表現しています。「肉となった」とは「人間となった」ということです。確かにキリストは私たちと全く変わらぬ人間として産まれました。私たちと同じ人間として生きられました。その意味で言は肉となりました。

 しかし、聖書はあえて「人間となった」と言わずに「肉となった」と語るのです。「肉となった」とは実に強烈な表現です。「人間」であることが「肉」と表現される時、そこには肯定的な喜ばしい響きはありません。しかし、そこには私たち自身がしばしば感じていることが表現されているとも言えるでしょう。

 私たちがこの世界に目を向ける時、人間が織りなすこの社会の諸相に目を留める時、私たちはしばしば人間であることを肯定的に喜ばしいこととして語ることが困難になります。この世に生きている自分の有様を正直に見つめる時、私たちはしばしば人間であることを肯定的に喜ばしいこととして語ることができなくなります。

 私たちは繰り返し、人間であることは悲しいことだと思い知らされます。人間として生きていることは醜いことだと思い知らされます。私たちが繰り返し向き合わされる現実、それが「肉」であるということです。

 それはあたかも深い穴の底でもがいているようなものです。穴から這い上がれば良いことは分かります。泥水の中に沈んでいてはならないことも分かります。壁をよじ登れば良いことも分かります。しかし、手をかけても、足をかけても、すぐにまた泥水の中に落ちてしまう。穴の外までよじ登ることができない。私たちが「肉」であるとはそういうことです。

 しかし、そこで聖書は言うのです。「言は肉となった」と。「言」である方は、いわばその深い穴の中に自ら降りてきてくださったのです。穴の外から「上がってきなさい」と叫んでいるのではなく、自ら穴の中に飛び込んできてくださったのです。そして、穴の底で泥だらけになっている私たちと一緒に、泥だらけになってくださったのです。そのように「言は肉となった」のです。

 さらに言うならば、それはただ単に「肉」であることの悲しみや苦しみを私たちと共有してくださったというだけではありません。それだけならば、イエス様は人間としてこの地上を生きるだけで良かったのです。しかし、福音書はイエス・キリストの御生涯のほとんどの部分に関して沈黙しています。むしろその大きな部分を、最後の一週間を伝えるために割いているのです。キリストは十字架にかけられて死なれたのです。言が「肉」となったのは十字架の上で死ぬためだったのです。

 それは私たち「肉」である者すべての罪を代わりにその身に負うためでした。「肉」である私たちの罪が赦され、神と共に生きる者となるためでした。そうです、私たちが神と共に生きるようになるためでした。

 私たちがそのことを望んだからではありません。神がそのことを望んでくださった。第二朗読において語られていたように、私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛してくださったのです。そして、自ら語り、行動してくださったのです。神が私たちを愛して、神が肉なる私たちの方に手を差し伸べてくださったのです。「言は肉となった」。それこそがまさに暗闇の中にいる私たちにとって、光の到来なのです。まことの光は人間からは来ない。それは神から来て、既に暗闇の中で輝いているのです。

わたしたちの間に宿られた
 しかし、言は肉となって「わたしたちの間に宿られた」と語られていることに私たちは耳を傾けなくてはなりません。

 「宿られた」というのは「テントを張って住む」という意味の言葉です。「言」は権威を振りかざして入り込んできたのではありませんでした。「テントを張って住む」のは寄留者の姿です。それは実につつましやかな宿りです。

 そのように人々が見た最初の姿は、汚い家畜小屋の飼い葉桶に寝かされている赤ん坊でした。人々が見た最後の姿は、むち打たれ、嘲られ、ぼろぼろにされて十字架にかけられて死んでいく惨めな男の姿でした。それはまことに寄留者の姿でした。

 ですからそのように宿られた「言」を人間は受け入れることもできれば、拒否することもできるのです。「言は自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」(11節)と書かれている通りです。

 「言は肉となった」。神が私たちを愛して、語られ、行動されました。しかし、それがたとえ神の全き愛から出た行為であり出来事であっても、神は人間に無理強いしようとはなさいません。受け入れるか拒否するかを人間に委ねられるのです。そうです、神は強制なさらない。神との交わりは、命の交わりは力ずくの強制によっては生み出されないからです。交わりとはそういうものでしょう。


 「光は暗闇の中に輝いている」(5節)。「輝いていた」――ではありません。闇が今もってなお闇であるように、その中に輝く光も変わることなく輝いているのです。今もなおキリストが宣べ伝えられているとはそういうことです。今もなお主の日ごとに私たちが礼拝へと招かれ、今もなお洗礼が授けられ、聖餐が行われているとはそういうことです。そして、神は今もなお全ての人が「言」である方を受け入れ、神と共に生きることを、光の中を生きることを望んでいてくださるのです。「光は暗闇の中に輝いている」とはそういうことです。

2016年12月18日日曜日

「神は私たちと共におられる」

2016年12月18
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイによる福音書 1章18節~23節

 「マリアの胎の子は聖霊によって宿った」と書かれていました。ルカによる福音書では、天使がマリアに現れて、身ごもっていることを伝えたという話が出て来ます。いわゆる「処女降誕」と呼ばれる出来事です。そこには人間の詮索の及ばない、神の領域があります。しかし、私たちがこの物語を読みますとき、マタイによる福音書はこの出来事の不思議さを殊更に強調してはいないことに気づきます。事の重大さを考えますと、語り口は驚くほど控えめです。

 むしろ、不釣り合いなぐらいに強調されていることがあります。それは生まれてくる子供の「名前」についてです。この物語において重要なのは、不思議な誕生の仕方ではなくて名前であり呼び名なのです。「『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である」(23節)。

その名はインマヌエルと呼ばれる
 来週、私たちはクリスマスを迎えます。クリスマスにおいて祝うのは、今日の聖書箇所によるならば、「インマヌエル」と呼ばれる方の誕生です。それは「神は我々と共におられる」という意味であると説明されています。

 さて、皆さんはこの言葉をどのように聞かれますでしょうか。今日の説教題は「神は私たちと共におられる」です。一週間外に貼り出されていたこの説教題を見て不愉快になった人は恐らくいないだろうと思います。多くの人は、神が共にいてくださることを喜ばしいこと、嬉しいこととして受け止めてくださるからです。

 しかし、まず私たちはここで改めて考えたいと思うのです。神が共におられるということは、本当に喜ばしいことなのでしょうか。嬉しいことなのでしょうか。この問いは次のように言い換えることができかも知れません。「神様が共にいて、本当に大丈夫なのでしょうか。」

 新共同訳聖書では、23節には鍵かっこがついています。これは旧約聖書の引用です。預言者イザヤがユダ王国のアハズ王に語った言葉です。時代はイエス・キリストの誕生からさらに730年ほど前に遡ります。

 その時、ユダ王国は国家的危機に直面していました。アラムと北王国イスラエルが連合して攻めてきたのです。その時の様子を聖書はこう伝えています。「ユダの王ウジヤの孫であり、ヨタムの子であるアハズの治世のことである。アラムの王レツィンとレマルヤの子、イスラエルの王ペカが、エルサレムを攻めるため上って来たが、攻撃を仕掛けることはできなかった。しかし、アラムがエフライムと同盟したという知らせは、ダビデの家に伝えられ、王の心も民の心も、森の木々が風に揺れ動くように動揺した」(イザヤ7:1‐2)。

 不安と恐れに襲われて、森の木々が風に揺れ動くように動揺するということは、私たちもしばしば経験することでしょう。そのとき、私たちは何を考えるでしょうか。「さあ、どうしたらよいだろうか」と考えるに違いありません。しかし、神は預言者イザヤを通してアハズ王にこう語られたのでした。「落ち着いて、静かにしていなさい。恐れることはない」(イザヤ7:4)。

 そして、さらにこう言われます。「信じなければ、あなたがたは確かにされない。」(7:9)つまり、神を真実なる確かなお方として信頼しなければ、あなたがたは決してしっかりと立つことはできない、と言われたのです。問題は敵の襲来ではなくて、確かになっていない足下であることを示されたのです。それゆえに、神は「何をすべきか」を考える前に、まず神に信頼することを求められたのです。

 そして、さらに神はアハズに言われました。「主なるあなたの神に、しるしを求めよ。」神がまことに信頼すべき神であるという「しるし」を求めて良いと言われたのです。しかし、アハズはこう答えたのでした。「わたしは求めない。主を試すようなことはしない」(7:12)。

 大変敬虔な答えに聞こえます。しかし、実のところはそうではありません。アハズ王は、しるしを見せられても神に信頼して従う気などないのです。彼は、アッシリアという大国の力によって、この国難を乗り切ろうと考えていたのです。要するに、彼の心の内にあるのは、「こんな大変な時に、神様だ、信仰だなどと言ってられるか!」ということなのです。

 神様は敬虔な装いの下にあるものをご覧になっておられます。その目をごまかすことはできません。そこで語られたのが、マタイに引用されていた預言の言葉なのです。「ダビデの家よ聞け。あなたたちは人間にもどかしい思いをさせるだけでは足りず、わたしの神にも、もどかしい思いをさせるのか。それゆえ、わたしの主が御自ら、あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」(7:14)。

 このように「神は我々と共におられる」という意味の「インマヌエル」という言葉は、もともとの預言においては、それほど喜ばしい響きを持っていないのです。それは先を読むと分かります。17節にはこう書かれています。「主は、あなたとあなたの民と父祖の家の上に、エフライムがユダから分かれて以来、臨んだことのないような日々を臨ませる。アッシリアの王がそれだ」(7:17)。

 つまり、「男の子が生まれる。その名をインマヌエルと呼ぶ」というのは、もともとはアハズにとっては裁きの預言に他ならなかったのです。その不信仰も不従順もすべてお見通しの神が共におられるということですから。神は確かに共におられる。だから不信仰を貫くなら、当面の危機は逃れるかもしれないけれど、最終的に不信仰の実を刈り取ることになる。あなたが頼りにしているアッシリアによって恐るべき日が臨むことになる、とイザヤは語っているのです。

 先ほどの問いに戻ります。神様が共にいて、本当に大丈夫なのでしょうか。私たちの正しさ、とってつけたような敬虔さ、見てくればかりの善良さ――そんなものは神の真実と正しさの前にあってはみんな吹き飛んでしまうようなものに過ぎません。何も神の目から隠れることはありません。私たちに罪がなければ、神が共におられることは救いとなるでしょう。しかし、罪があるならば、神が共におられることは単純に救いとはならないでしょう。むしろそれは災いに他ならないのです。

その子の名はイエス
 しかし、クリスマスの物語は、単にインマヌエルと呼ばれる方の誕生を語っているのではありません。この幼子の誕生において、神は幼子の名前を既に定めておられたのです。ヨセフに対してはこう語られています。「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」(21節)。

 イエスという名前は、ヘブライ語名のヨシュアに当たります。ヨシュアは「主は救い」という意味の名前です。ですから、イエスと名付けなさいと命じられた後に、「この子は自分の民を罪から救うからである」と説明しているのです。

 「罪から救う」。聖書には当たり前のように書かれていますし、そのように日本語にも翻訳されているわけですが、一般的な日本語会話において「罪から救う」という表現はほとんど使われません。「貧困から救う」とか「病気から救う」なら分かります。「火事から救う」も分かります。しかし、「罪から救う」という表現は一般的ではありません。

 しかし、この一般的でない表現こそ、まさにキリスト教の神髄に当たるのです。人間は古代から現代に至るまで多くの苦悩を背負った存在であることに変わりありません。ですから、人は様々な苦しみからの救いを求めてきましたし、様々な救いが与えられてきたのです。しかし、聖書は、人間の決定的な悲惨、根元的な苦悩は神を失っていることだと語るのです。さらに言えば、神が共におられるということが裁きにしかならないという現実、すなわち人間に罪があるという現実こそ、人間の最大の悲惨なのだ、と言っているのです。

 人が渇いているとするならば、その渇いている事実そのものが悲惨なのではなくて、生ける水の泉を持っていないことが悲惨なのです。私たちに欠けているのは、与えられて補われる「何か」ではないのです。そうではなく、私たちに必要なのは神ご自身なのです。それゆえ、私たちに必要とされているのは罪の赦しなのです。私たちが神に帰ることができることなのです。赦された者として神と共に生きることができる、ということなのです。

 「その子をイエスと名付けなさい。」イエスと名付けられることは、罪からの救い主となることを意味しました。それはすべての人の罪を代わりに背負って自ら裁きを受けることを意味したのです。イエスと名付けられることは、それゆえに、十字架への道を歩み出すことに他なりませんでした。

 そのお方が、「インマヌエルと呼ばれる」と言われているからこそ意味があるのです。罪が赦されて、罪から救われて、初めて神が共におられることは裁きではなくなるのです。罪が赦されて、初めて神が共におられることが、新しい命となり喜びとなり力となり希望となるのです。

 このイエスと名付けられた方の到来によって、かつては裁きの言葉に他ならなかった「インマヌエル」が、救いの言葉となりました。私たちは喜びと感謝とをもって、「神は我々と共におられる」と告白し、罪からの救い主であられるイエス・キリストの誕生を、心から共に祝いたいと思うのです。クリスマスの祝いが近づいてきました。

2016年12月11日日曜日

「喜びと平和がここに」

2016年12月11
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 フィリピの信徒への手紙 4章4節~7節

 アドベントの第三週となりました。アドベントに灯される四本のキャンドルの内、第三番目のものは「喜びのキャンドル」と呼ばれます。今日は御一緒に「喜び」について語っている聖書の言葉に耳を傾けたいと思います。

喜びなさい
 先ほど、フィリピの信徒への手紙4章4節以下が読まれました。この手紙には「喜び」という言葉が多く見られますので、しばしば「喜びの手紙」などと呼ばれます。ここにも「喜び」という言葉が繰り返されております。「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい」(4節)と。

 しかし、考えてみると、「喜びなさい」という命令文は私たちの日常ではそう使うものではありません。というのも「喜び」というのは感情であって、感情というものは命じられたからといって簡単にコントロールできるものではないことを知っているからです。ですから人に「喜びなさい」とは言わないし、人から言われても困ります。

 とはいえ、「喜びなさい」「喜べ」という命令文が使われる場面がないわけではありません。例えば、人が山で遭難して死にそうになっている時を考えてみてください。遠くからかすかに捜索隊の呼び声が聞こえてきました。ライトの光も見えてきました。その時、一人が一番弱っているもう一人に言うでしょう。「喜べ。助かったぞ!」これなら分かります。

 もちろん、そこには「喜べ」と言われても喜べない理由は山ほどあるに違いありません。滑落して脚を折っていたら痛いでしょう。死ぬほど空腹かもしれません。何時間も寒さに苦しんできたのかもしれません。しかし、それでもなお捜索隊の声が聞こえたという、喜ぶべき決定的な理由があります。その理由がある時に、言うことができるのです。「喜びなさい」「喜べ」と。

 遭難した人ではありませんが、この手紙を書いているパウロにしても、この手紙を受け取っている教会にしても、喜べない理由はいくらでもあったはずです。教会には分裂と仲違いがありました。教会内部の問題だけではありません。外からの迫害もありました。パウロはこの時、獄中にいるのです。思えば福音の宣教のために働き始めてからというもの、彼の人生は苦難の連続でした。喜べない理由を挙げるなら、それこそ数限りなくあったはずです。しかし、そのパウロが言うのです。「喜びなさい」と。

 そこには喜ぶべき決定的な理由があるからです。そうでなければ「喜びなさい」という言葉は意味をなしません。その決定的な理由とは何か。パウロはそれを「主において」という言葉をもって表現しています。「主において」という言葉は、パウロの手紙に実によく出てくる言葉です。同じ言葉が他の箇所では「主に結ばれて」と訳されています。それが理由です。

 信仰によってキリストと結ばれているのです。キリストの内にいるのです。そのキリストは、私たちを愛し、御自身を献げてくださった御方です。私たちの罪の贖いのために十字架にまでおかかりくださった御方です。その御方と結ばれて、私たちは罪を赦された者として、救われた者として、愛されている者として生きることができるのです。

 その「主において」という事実は、主に結ばれているという事実は、何が起ころうと変わらないのです。どのような状況に置かれても変わらないのです。パウロのように投獄されても変わらないのです。さらに言うならば、死んでも変わらないのです。迫害いよって命を奪われても変わらないのです。パウロは別の手紙で言っています。「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう」(ローマ8:35)と。

 そのように決定的な理由があるのです。それは変わらないのです。だからパウロは「喜びなさい」と言うのです。いや「喜びなさい」だけではありません。「常に喜びなさい」とさえ言うのです。変わらざる理由があるからです。そうです、私たちはどんな時にも、どんな場合においても、喜ぶことのできる変わらない理由を持っているのです。
逆に言うならば、喜ぶことができない理由があればあるほど、この「主において」という決定的な理由が大きな意味を持つことになるのです。

広い心が知られるように
 そして、さらにパウロは言います。「あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい」(5節)。主から来る「喜び」はただ「喜び」として人の内に留まるのではありません。その「喜び」は「広い心」となって他者へと向かうものとなるのです。

 それはある意味では当然のことでしょう。主によって罪を赦された喜びは、他者を赦す心を生み出すのでしょう。主によって受け入れられた喜びは、他者を受け入れる心を生み出すのでしょう。主の寛容が喜びの源なら、その喜びは寛容を生み出すのでしょう。

 「あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい」とは、要するに、「主にあって常に喜びなさい。その喜びをもって人々の中で生きていきなさい」ということに他ならないのです。頑張って広い心になろうとすることではなくて、大事なのは「喜び」なのです。そして、その源である「主」なのです。ですからここでパウロは一言付け加えるのです。「主はすぐ近くにおられます」(5節)と。

 古代教会において合い言葉のように用いられていた言葉がありました。「マラナ・タ」という言葉です。これは「主よ、おいでください」という意味です。それはキリストの再臨を待ち望む祈りです。キリストが再び来られる。そのことをずっと遠い所からやってくるように思い描く人がいるかもしれません。しかし、初代教会が持っていたイメージは異なるのです。そうではなくて、「戸の外に立っておられるキリスト」なのです。もうすぐにでも戸を開けて入ってこられる。救いをもたらすために入ってこられる。そのようなイメージです。

 それは二千年経ってしまった今でも同じはずなのです。やがて主が来られる。今にでも来られる。その時、私たちははっきりと知ることになるのです。罪が赦されたということはどういうことであるか。主によって愛されているということがどういうことか。救われているとはどういうことか。やがて私たちは知ることになるのです。そして、それは思いの外近いのかもしれません。「主はすぐ近くにおられます」。

思い煩うのはやめなさい
 それゆえに、さらにパウロは、「思い煩うのはやめなさい」と語るのです。喜ぶことと思い煩わないことは、同じ主に結ばれた生活の裏と表です。積極的な側面と消極的な側面と言っても良いでしょう。片方だけでは成り立ちません。それゆえに「主は近い」と語ったパウロは、さらに具体的な勧めとして、「何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい」と勧めるのです。つまり、「主において」生きる生活は、祈りと礼拝という具体的な形を取るのだということです。

 パウロにしても、フィリピの信徒たちにしても、喜びを奪っていく要因、思い煩いの種は数え切れないほどあったに違いありません。しかし、そこにおいて思い煩わないで生きるために必要なことは、思い煩いの種を必死になって取り除くことではないのです。そうではなく、主にある者として生き、神に祈って生きることなのです。

 パウロはここで「神に打ち明けなさい」と言っています。これは単なる願いごと以上のことです。それは「感謝を込めて」という言葉が伴っていることからも分かります。しかしながら、「感謝を込めて」というのは、必ずしも常に感謝の言葉だけをもって祈るということではないでしょう。それは旧約聖書の詩編を読んでも分かります。そこには、神の前で嘆き、泣き、訴える人々がいるのです。

 ですから、ここで語られている「感謝を込めて」というのは、無理をして、表面だけをとり繕って、感謝の言葉を神に捧げるということではありません。そうではなくて、いかなる言葉をもって祈ったとしても、その祈りの根底に変わらぬ神への信頼と感謝があるということなのです。

 そこで重要になるのが、先ほどから語っています「主において」ということなのです。祈りが「主において」なされるということです。それは主によって赦され、救われた感謝と喜びをもって献げる祈りであるということです。そのように祈りがなされる時に、それはまた「神は私たちを愛しておられて、私たちに最善を為してくださる」という神への信頼に基づいて献げられる感謝の祈りともなるのです。

 では、そのように「神に打ち明ける」時に、いったい何が起こるのでしょうか。パウロはこう言うのです。「そうすれば、あらゆる人知を越える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう」(7節)。

 人において本当に守られなくてはならないものは何か。それは「心と考え」です。ここで語っているパウロは、獄中にいるのです。いつ引き出されて処刑されるかも知れぬ身なのです。彼は自分の命を自分で守ることができません。しかしパウロは、人知を越える神の平和によって、心と考えとを守られているのです。そのような人をこそ、私たちは「神に守られている人」と呼ぶべきでしょう。

 私たちは、一生懸命に自分の身を守り、立場を守り、メンツを守り、病気から肉体を守り、経済的な困窮から生活を守ろうといたします。しかし、そのように自分を守ることに一生懸命になっているうちに、心と考えがボロボロの雑巾のようになってしまうのです。私たちは、神の平和によって、心と考えとを守っていただかねばならないのです。そして、それは主に結ばれている者として神に祈るならば、パウロに対してそうであったように、私たちにも与えられることが約束されている神の守りなのです。

2016年12月4日日曜日

「この人は大工の息子ではないか」

2016年12月4
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイによる福音書 13章53節~58節

つまずいた人々
 イエス様が故郷のナザレに帰ってきました。かつて大工の子として生活していた場所、マリアの子として、ヤコブやその他の兄弟として知られていた場所に帰ってきたのです。もとの生活に戻るためではありません。宣教のためです。イエス様はカファルナウムでしていたのと同じように、ナザレにおいても会堂で教え始められました。

 人々の反応は「驚き」でした。彼らは驚いてこう言ったのです。「この人は、このような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう」(54節)。

 彼らが注目したのはイエス様の語られる「知恵」でした。またイエス様の持っておられる「奇跡を行う力」でした。奇跡については今日の聖書箇所の最後に「あまり奇跡をなさらなかった」と書かれてはいますが、皆無ではなかったでしょうから、実際に目撃した人もいたのでしょう。あるいは自分で直接目撃していなかったとしても、既にイエス様のなさったことについては広く知れ渡っていましたから、彼らが既に伝え聞いていたことは少なからずあったに違いありません。

 さて、そのように人々はイエス様の「知恵」と「奇跡を行う力」に驚きました。それだけを聞くならば、その驚きはおおむね肯定的なものであると想像できるかもしれません。しかし、聖書はそう伝えてはいません。彼らの反応は極めて否定的なものでした。今日の箇所にはこう書かれています。「このように、人々はイエスにつまずいた」。知恵に驚こうが、その力に驚こうが、結局はイエスにつまずいた。イエスを受け入れることはなかったのです。

 なぜイエス様の語られる「知恵」に驚きながらも、それを受け入れることができなかったのでしょうか。それは既に慣れ親しんできた宗教的な「知恵」があったからです。過去から受け継いできた、それぞれが宗教的コミュニティから受け取ってきた知恵があったからです。その彼らの受け継いできた「知恵」からすれば、イエスの「知恵」はあまりにも異質だったといえるでしょう。

 そして、彼らはイエス様の「奇跡を行う力」に驚いた。しかし、それを受け入れることができなかった。なぜでしょう。それは「奇跡」とは馴染みのない彼らの慣れ親しんできた宗教的な生活があったからです。神が権威を現され、力ある業をなされることを求めることもない、期待することもない宗教的な生活がそこにあったからです。

 そうです、彼らは宗教的ではあったのです。それはナザレという小さな村の共同体での話です。そこでは誰もが生まれて八日目に割礼を受け、幼い時から律法を学び、先祖からの言い伝えを大切にし、それぞれが宗教的な戒律を守って信心深い共同体を形づくっていたに違いありません。

 そこにイエス様が帰って来られた。入って来られたのです。そして、イエス様という存在はあまりにも異質だったのです。今日お読みしたところには「故郷にお帰りになった。会堂で教えておられると…」と書かれていますでしょう。しかし、本当は原文では「《彼らの会堂》で教えておられると」と書かれているのです。そうです、それは「彼らの会堂」だったのです。そこには彼らの会堂を中心とした彼らのコミュニティがあり、彼らの宗教的な生活があったのです。その生活にとって、イエス・キリストという存在はあまりにも異質でした。

 いや、彼らの宗教的な生活があり、それが妨げになっただけではありません。そこには彼らが既に持っていたイエス理解がありました。「人間イエス」としての理解がありました。彼らは言います。「この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。姉妹たちは皆、我々と一緒に住んでいるではないか」(55‐56節)。

 「大工の息子」という言葉自体に軽蔑的なニュアンスはありません。この「大工」というのは家を建てる仕事ではなく、農具や家具を作る仕事であったと考えられています。決して卑しめられるような仕事ではありませんでした。ごく普通のユダヤ人の家庭なら、大工の息子は当然のように小さい時から父親の仕事を手伝うものです。ですからマルコによる福音書では「大工の息子ではないか」ではなくて「この人は、大工ではないか」と書かれています。

 そのようにイエス様自身、大工として知られていたようです。あるいは、父親のヨセフは早くに他界していたと考える人も少なくありません。ならばイエス様は父亡き後、母と弟妹たちのために、一生懸命働いて家計を支えてきたのでしょう。イエス様のことです、コミュニティの中でも、ヨセフの家の良い息子として知られていたに違いありません。

 ですから、「この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。姉妹たちは皆、我々と一緒に住んでいるではないか」という言葉は、決して軽蔑的なニュアンスで語られているわけではないのです。ただ、帰ってきたイエス様は、その言葉にせよ、その行いにせよ、明らかに彼らの既に良く知っているヨセフの息子ではなかったのです。明らかに異質だったのです。

 もし、イエス様が彼らの知っている「人間イエス」の延長上にあったなら、つまずかなかったに違いありません。評判の良い人、尊敬すべき人、人格的にすぐれた人、偉大な人、立派な人、模範的な人、という枠内に収まっていれば、彼らはつまずかなかったのです。むしろ、それこそ尊敬し、受け入れ、その生き方を模範にしたことでしょう。しかし、そうではなかった。イエス様は異質だったのです。

天の国が近づいたのだから
 しかし、それはある意味では起こるべくして起こったことでした。なぜなら、イエス様がナザレに帰ってきたのは、ナザレでの元の生活に戻るためではなく、宣教のためだったからです。「宣教」とは、ある意味では異質なものを持って来ることに他ならないからです。

 イエス様の宣教の始まりは、4章に次のように書かれていました。「イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。『ゼブルンの地とナフタリの地、湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、異邦人のガリラヤ、暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ』そのときから、イエスは、『悔い改めよ。天の国は近づいた』と言って、宣べ伝え始められた」(4:12‐17)。

 「天の国は近づいた」と主は言われました。「天」というのは「神」の言い換えでもあります。ユダヤ人はそのように言い換える。ですから、「天の国」は「神の国」と意味としては同じです。「国」が意味するのは領土ではなくて、王としての支配です。王としての神の支配が近づいたということです。天の方から近づいてこられるのです。

 神が近づいてこられ、天が近づいてこられるならば、そこでは決定的に新しいことが始まります。今まで慣れ親しんできた生活、過去からの延長上にある未来ではなく、全く新しいことが始まるのです。人間が人間に対して行う水平の次元のことではなく、神が人間に対して行う垂直の次元のことが起こるのです。それはマタイがイザヤ書を引用して語っているように、「暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ」という出来事です。そうです。天から光が差し込んでくるのです。

 そのことが既に始まっているのだということをイエス様は語っておられました。それはイエス様の到来と共に始まっているのです。それを示していたのがイエス・キリストの言葉であり、そこに語られている知恵でした。また、それを示していたのがイエス・キリストの奇跡であり、奇跡を行う力だったのです。そのように、イエス・キリストの宣教はこの世の知恵からすれば異質なのです。単なる「より優れた知恵」ではないのです。イエス・キリストの行為も、単なる「より良い行い」ではないのです。キリストの行為が示していたのは、神のあからさまな介入なのであって、それは垂直の次元のことだったのです。

 そのように「天の国は近づいた」のです。イエス様が来られて、神様のなさる決定的に新しいことが既に始まっているのです。暗闇の中に光は差し込んできているのです。

 ならば、そこで今度はこちら側が問われるのでしょう。同じ生き方を続けるのですか。慣れ親しんできたそれまでの生き方をずっと続けていくのですか。人間のことだけ考えて、人間がしてきたこと、人間から受けたこと、人間にできること、人間がしなくてはならないこと、それだけを考え続けて、水平の次元のことだけを思いながら、これまでどおりに生きていくのですか。そうやって水平の次元のことだけを考えていても、宗教的には生きられるのです。しかし、その先に本当に救いはあるのですか。

 イエス様は「天の国は近づいた」という宣言と共に、こう言われたのです。「悔い改めよ」。それは単に悪い行いを正せという意味ではありません。方向を変えることです。生きる方向を変えることなのです。この世界にとっては異質なイエス様を受け入れ、「天の国は近づいた」という宣言を受け止め、そして神がなさっておられることに思いを向け、私たち自身の方向を変えることなのです。

 そこで求められているのは信仰です。不信仰に留まるならば、これまで慣れ親しんだ生活が続いていくだけなのであって、天の国が近づいていることも、それにより全く新しいことが神によって始まっているという現実も見ることはないでしょう。いみじくも今日の箇所にこう書かれているとおりです。「人々が不信仰だったので、そこではあまり奇跡をなさらなかった」(58節)。

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