2016年11月27日日曜日

「救いは近づいています」

2016年11月27
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ローマの信徒への手紙 13章8節~14節

 教会の暦においては今日から新しい年に入りました。今日からクリスマスに至るまでの期間はアドベント(待降節)と呼ばれます。「アドベント」という呼び名は、「到来」を意味するラテン語に由来します。アドベントは、かつてイスラエルの民がキリストの到来を待ち望んだことを思い起こす時であると同時に、世の終わりにおけるキリストの到来(再臨)を思う時でもあります。

 その意味では、この期間は教会暦の冒頭に置かれていますが、内容的には「始まり」よりも「終わり」に深く関わっている期間です。初めにおいて、終わりを思う。言い換えるならば、終わりを思いながら、新たに歩み出す。そのような時であると言えます。その期間を私たちはどう過ごすのか。今日与えられている御言葉に聴きたいと思います。

愛の負債を抱える者として
 本日はローマの信徒への手紙が読まれました。そこで私たちがまず耳にしたのは、「互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません」(8節)というたいへん不思議な言葉でした。

 「愛する」ということが「借り」すなわち「負債」として語られています。だれに対しても借りがあってはならない。ただし、お互いに他者を「愛する」という「借り」は別です。そのようにパウロは言っているのです。

 「愛する」という借りだけは例外。借りがあってもよい。その負債は残っていてもよい。どうしてでしょうか。「愛する」という借りは返しきれないからです。どうしても残るからなのです。

 この不思議な表現を理解するのに助けになるのは、ヨハネの言葉です。彼は手紙の中でこう書いています。「愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです」(1ヨハネ4:11)。

 「愛し合うべきです」とヨハネは言います。これは「愛することを負っている」というのが直訳です。「愛する」いう負債がある。借りがあるということです。借りがあるのはどうしてか。「神がこのようにわたしたちを愛されたから」だと言うのです。つまり、私たちは《神様に対して》莫大な愛の借りがあるということです。

 神がまず、私たちを愛してくださいました。罪人である私たちを愛してくださいました。神に敵対していた私たちを愛してくださいました。裁かれて滅ぼされて然るべき私たちを愛してくださいました。その直前には「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」(1ヨハネ4:11)と書かれています。「神がこのようにわたしたちを愛された」とはそういうことです。

 私たちの信仰生活は、いわば莫大な愛の借りがある人が、とても返しきれるものではないのだけれど、せめて愛の僅かばかりを神様にお返しして生きていく、そんな恩返しの人生に他なりません。しかし、そのように神様に愛をお返ししようとする時に、神様は私たちに言われるのです。「もしあなたが返そうと思うなら、わたしにではなく、あなたの兄弟に、あなたの隣人に返しなさい」と。

 だから、「愛する」という借りは残るのです。莫大な愛の負債を抱えている者が、それを少しずつでも隣人に返していくのです。莫大な愛の負債を抱えているお互いが、お互いに愛を少しずつでも返していくのです。それこそが神の求めていることなのです。

 神の求めていること、それを「律法」と言います。今日の箇所には具体的に「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」などの十戒の文言が挙げられていますが、要するに「律法」とは神が人間に対して求めておられることです。そして、「人を愛する者は、律法を全うしているのです」と聖書は言っているのです。

 律法を守るから神が愛してくださるのではありません。律法は救いの条件ではありません。先に神が愛してくださったという事実があるのです。莫大な愛の負債が先にあるのです。莫大な愛の負債を抱えている者が、それを少しずつでも隣人に返していく。そのことが律法を全うすることになるのです。

 自分が莫大な愛の負債者であることを自覚するならば、律法を行ったとしても、他者のために何をしたとしても、それは誇りにはならないでしょう。私たちが莫大な愛の負債者であることを自覚するならば、まわりの人々について「愛がない」と言って裁くこともないでしょう。「わたしにこうしてくれない、ああしてくれない」と言って大騒ぎすることもないでしょう。むしろそこにおいて、愛する機会、愛の負債を返す機会が与えられていることを喜ぶことができるのでしょう。

目覚めるべき時が来ています
 そして、互いに愛し合うという借りがある私たちを、今日の聖書箇所はさらに「終わりに向かう」というコンテキストの中に置くのです。このように続きます。「更に、あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです」(11節)。

 先ほど、アドベントという期間は「終わりを思いながら、新たに歩み出す」という時であると申しました。しかし、そこで重要なのはどのような「終わり」を思うかということです。パウロは何を思っているのか。そこに「救い」を見ているのです。「救い」に向かっている者として語っているのです。「今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです」と。

 そのことを彼はさらに「夜は更け、日は近づいた」と表現しています。「夜は更けた」という言葉には、時の流れが表現されています。「更けた」と訳されているのは、前に進むことを表現する言葉なのです。実際、私たちは時の流れがそのようなものであることを知っています。決して後戻りすることはありません。

 後戻りしないという事実は喜びとは結び着かないことが多いのでしょう。もう11月も終わりです。一年はあっという間に過ぎていきます。そうして一つ歳をとります。肉体は弱り、精神も衰えていく。時の流れに伴って、人は多くのものを失いながら生きていきます。そして最後はこの世の命を失います。行き着くところは墓以外のどこでもない。それはこの世界についても同じです。この世界の有様を真面目に見るならば、その行き着くところはやはり破局と崩壊しか見えてこない。それはちょうど夜が更けていくといよいよ暗さが増していく様子と重なります。

 しかし、彼はただ「夜は更けた」とだけ語りはしません。こう続くのです。「夜は更け、日は近づいた」と。逆戻りすることのない時の流れに、もう一つの事実を見ているのです。朝が刻一刻と近づいている、ということです。「今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです」と。

 どうしてそう語り得たのか。莫大な愛の負債者として生きているからです。既に圧倒的な神の愛によって愛されていることを知っているからです。返しきれないほどに愛されていることを知っているからです。だから、たとえ今苦しみの中にあったとしても、大きな悲しみの中にあったとしても、「夜は更けた」としか言いようのない真っ暗闇の中にいたとしても、それが「終わり」ではないことが分かるのです。それが最終的に行き着くとこではないことが分かるのです。これは途中なのだということが分かるのです。夜は明けるのです。刻一刻と夜明けに近づいているのです。「今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです」。その「救い」とは神に愛されていたという事実がはっきりと形を取って現される時です。そのような夜明けが必ず来るのです。

 だから、「あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています」と語られているのです。「救い」という「終わり」に向かっていることを忘れて眠りこけてしまっていることがあるからです。まだ夜明けが来ていないからと言って、夜明けに向かっていることを忘れて、眠りこけてしまっていることがあるからです。そのような私たちであるからこそ、「終わりを思いながら、新たに歩み出す」というアドベントの期間も必要なのでしょう。そこで私たちは今年も「あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています」と呼びかけられているのです。

 それは、消極的に表現するならば、「闇の行い」を脱ぎ捨てることである、とパウロは言います。汚い服を脱ぎ捨てるように、闇の行いを脱ぎ捨てることです。時は確実に流れていきます。私たちに与えられているこの時は、莫大な愛の負債者として少しでも愛を互いに返していくための大切な時間です。やがて朝の光の中で愛してくださった御方にまみえる時に備えるための大切な時間です。その時間を、闇の行いによって無駄にしてはならないのです。

 その描写は具体的です。パウロは三組の言葉をもってこれを表しています。「酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみ」です。理性と引き替えにして享楽に身を委ねることに、この貴重な時を費やしてはならないのです。欲望を満たすことを追い求めながらその欲望に振り回され、他者を傷つけ自らを傷つけて生きることに、この貴重な時を費やしてはならないのです。果てしない争いとねたみのために、この大切な時を費やしてはならないのです。

 私たちは朝を待つ者として生きるようにと招かれているのです。朝の日差しに、罪の悪臭漂うぼろぼろの惨めな服は相応しくありません。パウロは「そんなものは脱ぎ捨ててしまいなさい」と言うのです。

 それは、積極的には「光の武具を身に着けましょう」と勧められています。さらには「主イエス・キリストを身にまといなさい」と勧められているのです。「人を愛する者は、律法を全うしているのです」と先ほどお読みしましたが、その究極はやはりこの世を生きられたイエス・キリストの御姿なのでしょう。そのキリストを身にまとうということです。

 「身にまとう」という表現は、中身は変わらないで外側だけを変えるような印象を与えるかもしれません。しかし、当時の言葉遣いにおいてこの表現が意味するのは「一体となる」ということです。そのような意味において「主イエス・キリストを身にまとう」ということが何を意味するのかは、愛の負債者として与えられている周りの人々、置かれているそれぞれの状況によって異なることでしょう。

 「あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています」と呼びかけられているこのアドベントの期間、「主イエス・キリストを身にまとう」とは具体的に何を意味するのか深く思い巡らし、救いである終わりを思いつつ、新たに歩み出したいものです。

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