2016年11月20日日曜日

「怒り続ける必要はありません」

2016年11月20
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネの黙示録 19章11節~16節

迫害の中で読まれた書物
 今日の読まれましたのはヨハネの黙示録です。ヨハネの黙示録が書かれたのは紀元一世紀も終わり頃、ドミティアヌス帝の治世であると言われます。それは皇帝礼拝が強要された時代でした。皇帝を神として礼拝すること、またローマの神々を礼拝することを拒否する者には容赦ない迫害が加えられた時代でした。それは教会にとってまさに苦難の時代でした。

 そのような中でキリスト者はなおも集まって礼拝をしていました。それはある意味では命がけのことでした。集まることは危険なことでしたから。信仰を公にせず、隠れて個人でキリストを信じて、表面的には皇帝を礼拝して生きていれば危険はありませんでした。しかし、彼らはそうしなかったのです。共に集まって聖餐を行うこと、共に祈ること、互いに信仰を励まし合うことを、ある意味では自分の命よりも大事なこととして考えていたのです。

 そのような人々の、そのような礼拝の中で朗読されるために、この書物は書かれました。内容はヨハネの見た幻です。迫害の中でパトモス島に抑留されていたヨハネが神によって見せられた幻です。それは一人の人間の極めて特殊な神秘体験とも言えます。しかし、それが単に個人に関わることではなく、その時代の教会にも、さらには後の教会にも大きな意味を持っているからこそ、このような書物となり、教会で読み継がれてきたのです。私たちは、そのような書物を今日読んでいるのです。

「誠実」と呼ばれる御方
 今日読まれましたのは、この書も終わりに近くなった19章の一部でした。そこでヨハネは何を見ているのでしょうか。このように書かれていました。「そして、わたしは天が開かれているのを見た。すると、見よ、白い馬が現れた。それに乗っている方は、『誠実』および『真実』と呼ばれて、正義をもって裁き、また戦われる」(11節)。

 「誠実」および「真実」と呼ばれている白馬の騎手はキリストです。その名前である「誠実」という言葉は、「忠実」と訳すこともできます。そして、その言葉がこの黙示録の初めの方に、大変印象深い表現として出て来るのです。キリストが迫害の中にあるスミルナの教会に対してこう言うのです。「死に至るまで忠実であれ」(2:10)。しかし、スミルナの教会だけでなく、苦難の中にある教会にとっては、まさにそれこそがキリストを信じるということだったのでしょう。苦難の中にあって、キリストから離れてしまうのか、それともキリストに留まるのかを常に問われていたわけですから。

 しかし、ここに至ってキリストが「誠実」すなわち「忠実」と呼ばれる御方として登場するのです。「死に至るまで忠実であれ」と言われる方は、自ら「忠実」であり「誠実」である御方なのです。考えてみれば当然のことかもしれません。「死に至るまで忠実であれ」とは誰もが言える言葉ではないからです。それは最後まで責任を持ってくださる方でなければ言うことができない。決して見捨てることはない。約束してくださったとおり、必ず救ってくださる。そのような御方であるからこそ、「死に至るまで忠実であれ」。わたしから離れるな。わたしに留まれ。そう言うことができるのです。

戦いの姿で
 そして、そのようなキリスト、そのような名を持つ御方が、この幻においては戦いの姿をもって現れるのです。「正義をもって裁き、また戦われる」と書かれているのです。そのような戦いの姿のキリストは、私たちが普段思い描いているキリストの姿と、もしかしたら異なるかもしれません。

 しかし、この戦いの姿のキリストは、その幻を見たヨハネに大きな喜びをもたらしただろうと想像します。また、この言葉を礼拝において聞いた教会にとっても大きな喜びであってに違いありません。

 何に対してであれ、「自分で戦える」と思っている人、「自分が戦わなくてはならない」と思っている人にとっては、戦士の姿で現れるキリストは大した喜びにはならないだろうと思います。自分で裁いている人、自分を正義の執行者としている人にとっては、正義をもって裁く御方が幻に現れても喜びにはならないでしょう。しかし、ヨハネも当時の教会も全く違っていたのです。彼らは無力でした。彼らは自ら戦えないのです。この世の不義の力の方が圧倒的に大きくて勝負にならないのです。だからこそ、神はヨハネに見せたのです。戦ってくださるキリストをヨハネに見せたのです。彼らが無力であっても、最終的にはキリストの正義が貫かれることを神は彼らに示されたのです。

口からは剣が
 しかも、さらにキリストの描写はこう続くのです。「また、血に染まった衣を身にまとっており、その名は『神の言葉』と呼ばれた」(13節)。キリストの名がここでは「神の言葉」と呼ばれているのです。そして、15節を見ると、そこにはこう書かれているのです。「この方の口からは、鋭い剣が出ている」。

 口から鋭い剣が出ている「神の言葉」と呼ばれるキリストの姿。思い描いてみてください。その姿は喜びとなりますか。しかし、そのようなキリストのお姿は、既に1章に出てくるのです。私たちがキリストを思う時、思い描くべき一つのイメージがここにあるということです。

 そして、そのイメージは、苦難の中にあったヨハネにとっても、教会にとっても、大きな喜びであったに違いないのです。なぜなら、しばしば「言葉」というものはあまりに無力に思えるからです。ヨハネは神の言葉を宣べ伝えてきました。しかし、ヨハネは島流しになり、語ることは封じられました。教会も神の言葉を宣べ伝えてきました。しかし、その教会は大きな力によって繰り返し散らされることになります。帝国の力に翻弄されている現実があるのです。

 神の言葉が宣べ伝えられることにどれだけ意味があるのか。伝道することに、いったいどれほどの意味があるのか。神の言葉には本当に力があるのか。伝道者ならば一度は悩むことでもあります。ヨハネもそうだったことでしょう。現実的に考えるならば、ローマの兵士が持っている剣の方がよほど力があるように見える。実際、教会を武装へと駆り立てる誘惑は決して小さくはなかったでしょう。

 しかし、ヨハネはキリストの口から出る剣を見たのです。黙示録において見た神の言葉は、まさにキリストの口から出ている鋭い剣だったのです。まさにキリストがその剣をもって戦ってくださる。その幻を見せていただいたのです。教会は御言葉を語り続けることによって戦っていくのです。

神の怒りを見せられて
 さて、そのような姿でキリストが現れるわけですが、この幻は次第にとてもグロテスクな描写となっていきます。既にキリストの衣が「血に染まった衣」と表現されていました。
 「血に染まった衣」がまず意味するのは、明らかに返り血を浴びた衣ということです。それは直接的には15節後半の描写へと続きます。「この方はぶどう酒の搾り桶を踏むが、これには全能者である神の激しい怒りが込められている」。

 ぶどう酒の搾り桶を踏んでいるキリスト。それは明らかにイザヤ書63章から来ているイメージです。そこには、こう書かれています。「わたしはただひとりで酒ぶねを踏んだ。諸国の民はだれひとりわたしに伴わなかった。わたしは怒りをもって彼らを踏みつけ、憤りをもって彼らを踏み砕いた。それゆえ、わたしの衣は血を浴び、わたしは着物を汚した」(イザヤ63:3)。そこに語られているのは神の怒りの描写です。黙示録においては、その神の怒りをキリストが執行しているのです。

 今日読みました箇所の先まで読むと、さらにヨハネは一人の天使が鳥たちにこう言うのを耳にします。「さあ、神の大宴会に集まれ。王の肉、千人隊長の肉、権力者の肉を食べよ。また、馬とそれに乗る者の肉、あらゆる自由な身分の者、奴隷、小さな者や大きな者たちの肉を食べよ」(17‐18節)。明らかに、彼らが殺されて放置された死体を鳥がついばむということを言っているのです。それが「神の大宴会」と言われているのです。どう思いますか。

 ヨハネはこの幻を見ながら何を思ったことでしょう。ここで中心となっているのは「怒り」です。そして、「怒り」ということについて言えば、ヨハネや当時のキリスト者にとって、決して無縁ではなかったと思います。彼らはキリスト者であるから迫害されても怒りの感情が湧かなかったと思いますか。酷い仕打ちを受けても、常にただ愛だけが溢れていたと思いますか。それはあまりにも非現実的でしょう。彼らだって怒ることもあったに違いない。迫害者たちを踏みつけてやりたい。殺してやりたい、鳥の餌にしてやりたいと思うこともあったに違いないのです。実際には、そのような感情を抑えるのにどれほど苦しんだかもしれません。

 しかし、ヨハネはここで想像を絶するような神の怒りを目の当たりにすることになったのです。そして、圧倒するような激しい怒りに、まさに自分の怒りもまた呑み込まれてしまうような思いになったのではないでしょうか。もちろんそれは現実に起こっていることではなく、あくまでも見せられた幻なのです。しかし、あたかも現実に起こっているかのように天使の口から「王の肉、千人隊長の肉、権力者の肉を食べよ」という言葉を聞いた時に、自分が手を降す必要は全くない、怒り続ける必要はない、そもそも怒る必要さえないことを実感しただろうと思います。むしろ彼らのために神の憐れみを祈り求めるべきだとさえ思えるかもしれません。

 いやさらに言えば、神が正義の神であるならば、神がこれほどの怒りを降すことのできる神ならば、なぜ自分が裁きの酒ぶねで踏まれるのでなく、また自分の肉が鳥についばまれるのでもないのか、改めて考えずにはいられなかったことでしょう。

 本当はそのこと自体、驚くべきことであるに違いないのです。なぜ私たちはこの幻に見る激しい怒りによって滅ぼされるのではなく、今、この礼拝の場にいるのでしょうか。なぜ神に愛されている子どもたちとして、「天にまします我らの父よ」と祈ることが許されているのでしょうか。それは明らかに私たちが正しいからでもふさわしいからでもないのでしょう。それはただキリストの救いによるのです。救いの根拠は私たち自身にではなく、キリストにしかない。それゆえにキリストは「死に至るまで忠実であれ」と。そして、誠実なるキリストは必ず私たちを救ってくださるのです。

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