2016年11月27日日曜日

「救いは近づいています」

2016年11月27
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ローマの信徒への手紙 13章8節~14節

 教会の暦においては今日から新しい年に入りました。今日からクリスマスに至るまでの期間はアドベント(待降節)と呼ばれます。「アドベント」という呼び名は、「到来」を意味するラテン語に由来します。アドベントは、かつてイスラエルの民がキリストの到来を待ち望んだことを思い起こす時であると同時に、世の終わりにおけるキリストの到来(再臨)を思う時でもあります。

 その意味では、この期間は教会暦の冒頭に置かれていますが、内容的には「始まり」よりも「終わり」に深く関わっている期間です。初めにおいて、終わりを思う。言い換えるならば、終わりを思いながら、新たに歩み出す。そのような時であると言えます。その期間を私たちはどう過ごすのか。今日与えられている御言葉に聴きたいと思います。

愛の負債を抱える者として
 本日はローマの信徒への手紙が読まれました。そこで私たちがまず耳にしたのは、「互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません」(8節)というたいへん不思議な言葉でした。

 「愛する」ということが「借り」すなわち「負債」として語られています。だれに対しても借りがあってはならない。ただし、お互いに他者を「愛する」という「借り」は別です。そのようにパウロは言っているのです。

 「愛する」という借りだけは例外。借りがあってもよい。その負債は残っていてもよい。どうしてでしょうか。「愛する」という借りは返しきれないからです。どうしても残るからなのです。

 この不思議な表現を理解するのに助けになるのは、ヨハネの言葉です。彼は手紙の中でこう書いています。「愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです」(1ヨハネ4:11)。

 「愛し合うべきです」とヨハネは言います。これは「愛することを負っている」というのが直訳です。「愛する」いう負債がある。借りがあるということです。借りがあるのはどうしてか。「神がこのようにわたしたちを愛されたから」だと言うのです。つまり、私たちは《神様に対して》莫大な愛の借りがあるということです。

 神がまず、私たちを愛してくださいました。罪人である私たちを愛してくださいました。神に敵対していた私たちを愛してくださいました。裁かれて滅ぼされて然るべき私たちを愛してくださいました。その直前には「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」(1ヨハネ4:11)と書かれています。「神がこのようにわたしたちを愛された」とはそういうことです。

 私たちの信仰生活は、いわば莫大な愛の借りがある人が、とても返しきれるものではないのだけれど、せめて愛の僅かばかりを神様にお返しして生きていく、そんな恩返しの人生に他なりません。しかし、そのように神様に愛をお返ししようとする時に、神様は私たちに言われるのです。「もしあなたが返そうと思うなら、わたしにではなく、あなたの兄弟に、あなたの隣人に返しなさい」と。

 だから、「愛する」という借りは残るのです。莫大な愛の負債を抱えている者が、それを少しずつでも隣人に返していくのです。莫大な愛の負債を抱えているお互いが、お互いに愛を少しずつでも返していくのです。それこそが神の求めていることなのです。

 神の求めていること、それを「律法」と言います。今日の箇所には具体的に「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」などの十戒の文言が挙げられていますが、要するに「律法」とは神が人間に対して求めておられることです。そして、「人を愛する者は、律法を全うしているのです」と聖書は言っているのです。

 律法を守るから神が愛してくださるのではありません。律法は救いの条件ではありません。先に神が愛してくださったという事実があるのです。莫大な愛の負債が先にあるのです。莫大な愛の負債を抱えている者が、それを少しずつでも隣人に返していく。そのことが律法を全うすることになるのです。

 自分が莫大な愛の負債者であることを自覚するならば、律法を行ったとしても、他者のために何をしたとしても、それは誇りにはならないでしょう。私たちが莫大な愛の負債者であることを自覚するならば、まわりの人々について「愛がない」と言って裁くこともないでしょう。「わたしにこうしてくれない、ああしてくれない」と言って大騒ぎすることもないでしょう。むしろそこにおいて、愛する機会、愛の負債を返す機会が与えられていることを喜ぶことができるのでしょう。

目覚めるべき時が来ています
 そして、互いに愛し合うという借りがある私たちを、今日の聖書箇所はさらに「終わりに向かう」というコンテキストの中に置くのです。このように続きます。「更に、あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです」(11節)。

 先ほど、アドベントという期間は「終わりを思いながら、新たに歩み出す」という時であると申しました。しかし、そこで重要なのはどのような「終わり」を思うかということです。パウロは何を思っているのか。そこに「救い」を見ているのです。「救い」に向かっている者として語っているのです。「今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです」と。

 そのことを彼はさらに「夜は更け、日は近づいた」と表現しています。「夜は更けた」という言葉には、時の流れが表現されています。「更けた」と訳されているのは、前に進むことを表現する言葉なのです。実際、私たちは時の流れがそのようなものであることを知っています。決して後戻りすることはありません。

 後戻りしないという事実は喜びとは結び着かないことが多いのでしょう。もう11月も終わりです。一年はあっという間に過ぎていきます。そうして一つ歳をとります。肉体は弱り、精神も衰えていく。時の流れに伴って、人は多くのものを失いながら生きていきます。そして最後はこの世の命を失います。行き着くところは墓以外のどこでもない。それはこの世界についても同じです。この世界の有様を真面目に見るならば、その行き着くところはやはり破局と崩壊しか見えてこない。それはちょうど夜が更けていくといよいよ暗さが増していく様子と重なります。

 しかし、彼はただ「夜は更けた」とだけ語りはしません。こう続くのです。「夜は更け、日は近づいた」と。逆戻りすることのない時の流れに、もう一つの事実を見ているのです。朝が刻一刻と近づいている、ということです。「今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです」と。

 どうしてそう語り得たのか。莫大な愛の負債者として生きているからです。既に圧倒的な神の愛によって愛されていることを知っているからです。返しきれないほどに愛されていることを知っているからです。だから、たとえ今苦しみの中にあったとしても、大きな悲しみの中にあったとしても、「夜は更けた」としか言いようのない真っ暗闇の中にいたとしても、それが「終わり」ではないことが分かるのです。それが最終的に行き着くとこではないことが分かるのです。これは途中なのだということが分かるのです。夜は明けるのです。刻一刻と夜明けに近づいているのです。「今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです」。その「救い」とは神に愛されていたという事実がはっきりと形を取って現される時です。そのような夜明けが必ず来るのです。

 だから、「あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています」と語られているのです。「救い」という「終わり」に向かっていることを忘れて眠りこけてしまっていることがあるからです。まだ夜明けが来ていないからと言って、夜明けに向かっていることを忘れて、眠りこけてしまっていることがあるからです。そのような私たちであるからこそ、「終わりを思いながら、新たに歩み出す」というアドベントの期間も必要なのでしょう。そこで私たちは今年も「あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています」と呼びかけられているのです。

 それは、消極的に表現するならば、「闇の行い」を脱ぎ捨てることである、とパウロは言います。汚い服を脱ぎ捨てるように、闇の行いを脱ぎ捨てることです。時は確実に流れていきます。私たちに与えられているこの時は、莫大な愛の負債者として少しでも愛を互いに返していくための大切な時間です。やがて朝の光の中で愛してくださった御方にまみえる時に備えるための大切な時間です。その時間を、闇の行いによって無駄にしてはならないのです。

 その描写は具体的です。パウロは三組の言葉をもってこれを表しています。「酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみ」です。理性と引き替えにして享楽に身を委ねることに、この貴重な時を費やしてはならないのです。欲望を満たすことを追い求めながらその欲望に振り回され、他者を傷つけ自らを傷つけて生きることに、この貴重な時を費やしてはならないのです。果てしない争いとねたみのために、この大切な時を費やしてはならないのです。

 私たちは朝を待つ者として生きるようにと招かれているのです。朝の日差しに、罪の悪臭漂うぼろぼろの惨めな服は相応しくありません。パウロは「そんなものは脱ぎ捨ててしまいなさい」と言うのです。

 それは、積極的には「光の武具を身に着けましょう」と勧められています。さらには「主イエス・キリストを身にまといなさい」と勧められているのです。「人を愛する者は、律法を全うしているのです」と先ほどお読みしましたが、その究極はやはりこの世を生きられたイエス・キリストの御姿なのでしょう。そのキリストを身にまとうということです。

 「身にまとう」という表現は、中身は変わらないで外側だけを変えるような印象を与えるかもしれません。しかし、当時の言葉遣いにおいてこの表現が意味するのは「一体となる」ということです。そのような意味において「主イエス・キリストを身にまとう」ということが何を意味するのかは、愛の負債者として与えられている周りの人々、置かれているそれぞれの状況によって異なることでしょう。

 「あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています」と呼びかけられているこのアドベントの期間、「主イエス・キリストを身にまとう」とは具体的に何を意味するのか深く思い巡らし、救いである終わりを思いつつ、新たに歩み出したいものです。

2016年11月20日日曜日

「怒り続ける必要はありません」

2016年11月20
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネの黙示録 19章11節~16節

迫害の中で読まれた書物
 今日の読まれましたのはヨハネの黙示録です。ヨハネの黙示録が書かれたのは紀元一世紀も終わり頃、ドミティアヌス帝の治世であると言われます。それは皇帝礼拝が強要された時代でした。皇帝を神として礼拝すること、またローマの神々を礼拝することを拒否する者には容赦ない迫害が加えられた時代でした。それは教会にとってまさに苦難の時代でした。

 そのような中でキリスト者はなおも集まって礼拝をしていました。それはある意味では命がけのことでした。集まることは危険なことでしたから。信仰を公にせず、隠れて個人でキリストを信じて、表面的には皇帝を礼拝して生きていれば危険はありませんでした。しかし、彼らはそうしなかったのです。共に集まって聖餐を行うこと、共に祈ること、互いに信仰を励まし合うことを、ある意味では自分の命よりも大事なこととして考えていたのです。

 そのような人々の、そのような礼拝の中で朗読されるために、この書物は書かれました。内容はヨハネの見た幻です。迫害の中でパトモス島に抑留されていたヨハネが神によって見せられた幻です。それは一人の人間の極めて特殊な神秘体験とも言えます。しかし、それが単に個人に関わることではなく、その時代の教会にも、さらには後の教会にも大きな意味を持っているからこそ、このような書物となり、教会で読み継がれてきたのです。私たちは、そのような書物を今日読んでいるのです。

「誠実」と呼ばれる御方
 今日読まれましたのは、この書も終わりに近くなった19章の一部でした。そこでヨハネは何を見ているのでしょうか。このように書かれていました。「そして、わたしは天が開かれているのを見た。すると、見よ、白い馬が現れた。それに乗っている方は、『誠実』および『真実』と呼ばれて、正義をもって裁き、また戦われる」(11節)。

 「誠実」および「真実」と呼ばれている白馬の騎手はキリストです。その名前である「誠実」という言葉は、「忠実」と訳すこともできます。そして、その言葉がこの黙示録の初めの方に、大変印象深い表現として出て来るのです。キリストが迫害の中にあるスミルナの教会に対してこう言うのです。「死に至るまで忠実であれ」(2:10)。しかし、スミルナの教会だけでなく、苦難の中にある教会にとっては、まさにそれこそがキリストを信じるということだったのでしょう。苦難の中にあって、キリストから離れてしまうのか、それともキリストに留まるのかを常に問われていたわけですから。

 しかし、ここに至ってキリストが「誠実」すなわち「忠実」と呼ばれる御方として登場するのです。「死に至るまで忠実であれ」と言われる方は、自ら「忠実」であり「誠実」である御方なのです。考えてみれば当然のことかもしれません。「死に至るまで忠実であれ」とは誰もが言える言葉ではないからです。それは最後まで責任を持ってくださる方でなければ言うことができない。決して見捨てることはない。約束してくださったとおり、必ず救ってくださる。そのような御方であるからこそ、「死に至るまで忠実であれ」。わたしから離れるな。わたしに留まれ。そう言うことができるのです。

戦いの姿で
 そして、そのようなキリスト、そのような名を持つ御方が、この幻においては戦いの姿をもって現れるのです。「正義をもって裁き、また戦われる」と書かれているのです。そのような戦いの姿のキリストは、私たちが普段思い描いているキリストの姿と、もしかしたら異なるかもしれません。

 しかし、この戦いの姿のキリストは、その幻を見たヨハネに大きな喜びをもたらしただろうと想像します。また、この言葉を礼拝において聞いた教会にとっても大きな喜びであってに違いありません。

 何に対してであれ、「自分で戦える」と思っている人、「自分が戦わなくてはならない」と思っている人にとっては、戦士の姿で現れるキリストは大した喜びにはならないだろうと思います。自分で裁いている人、自分を正義の執行者としている人にとっては、正義をもって裁く御方が幻に現れても喜びにはならないでしょう。しかし、ヨハネも当時の教会も全く違っていたのです。彼らは無力でした。彼らは自ら戦えないのです。この世の不義の力の方が圧倒的に大きくて勝負にならないのです。だからこそ、神はヨハネに見せたのです。戦ってくださるキリストをヨハネに見せたのです。彼らが無力であっても、最終的にはキリストの正義が貫かれることを神は彼らに示されたのです。

口からは剣が
 しかも、さらにキリストの描写はこう続くのです。「また、血に染まった衣を身にまとっており、その名は『神の言葉』と呼ばれた」(13節)。キリストの名がここでは「神の言葉」と呼ばれているのです。そして、15節を見ると、そこにはこう書かれているのです。「この方の口からは、鋭い剣が出ている」。

 口から鋭い剣が出ている「神の言葉」と呼ばれるキリストの姿。思い描いてみてください。その姿は喜びとなりますか。しかし、そのようなキリストのお姿は、既に1章に出てくるのです。私たちがキリストを思う時、思い描くべき一つのイメージがここにあるということです。

 そして、そのイメージは、苦難の中にあったヨハネにとっても、教会にとっても、大きな喜びであったに違いないのです。なぜなら、しばしば「言葉」というものはあまりに無力に思えるからです。ヨハネは神の言葉を宣べ伝えてきました。しかし、ヨハネは島流しになり、語ることは封じられました。教会も神の言葉を宣べ伝えてきました。しかし、その教会は大きな力によって繰り返し散らされることになります。帝国の力に翻弄されている現実があるのです。

 神の言葉が宣べ伝えられることにどれだけ意味があるのか。伝道することに、いったいどれほどの意味があるのか。神の言葉には本当に力があるのか。伝道者ならば一度は悩むことでもあります。ヨハネもそうだったことでしょう。現実的に考えるならば、ローマの兵士が持っている剣の方がよほど力があるように見える。実際、教会を武装へと駆り立てる誘惑は決して小さくはなかったでしょう。

 しかし、ヨハネはキリストの口から出る剣を見たのです。黙示録において見た神の言葉は、まさにキリストの口から出ている鋭い剣だったのです。まさにキリストがその剣をもって戦ってくださる。その幻を見せていただいたのです。教会は御言葉を語り続けることによって戦っていくのです。

神の怒りを見せられて
 さて、そのような姿でキリストが現れるわけですが、この幻は次第にとてもグロテスクな描写となっていきます。既にキリストの衣が「血に染まった衣」と表現されていました。
 「血に染まった衣」がまず意味するのは、明らかに返り血を浴びた衣ということです。それは直接的には15節後半の描写へと続きます。「この方はぶどう酒の搾り桶を踏むが、これには全能者である神の激しい怒りが込められている」。

 ぶどう酒の搾り桶を踏んでいるキリスト。それは明らかにイザヤ書63章から来ているイメージです。そこには、こう書かれています。「わたしはただひとりで酒ぶねを踏んだ。諸国の民はだれひとりわたしに伴わなかった。わたしは怒りをもって彼らを踏みつけ、憤りをもって彼らを踏み砕いた。それゆえ、わたしの衣は血を浴び、わたしは着物を汚した」(イザヤ63:3)。そこに語られているのは神の怒りの描写です。黙示録においては、その神の怒りをキリストが執行しているのです。

 今日読みました箇所の先まで読むと、さらにヨハネは一人の天使が鳥たちにこう言うのを耳にします。「さあ、神の大宴会に集まれ。王の肉、千人隊長の肉、権力者の肉を食べよ。また、馬とそれに乗る者の肉、あらゆる自由な身分の者、奴隷、小さな者や大きな者たちの肉を食べよ」(17‐18節)。明らかに、彼らが殺されて放置された死体を鳥がついばむということを言っているのです。それが「神の大宴会」と言われているのです。どう思いますか。

 ヨハネはこの幻を見ながら何を思ったことでしょう。ここで中心となっているのは「怒り」です。そして、「怒り」ということについて言えば、ヨハネや当時のキリスト者にとって、決して無縁ではなかったと思います。彼らはキリスト者であるから迫害されても怒りの感情が湧かなかったと思いますか。酷い仕打ちを受けても、常にただ愛だけが溢れていたと思いますか。それはあまりにも非現実的でしょう。彼らだって怒ることもあったに違いない。迫害者たちを踏みつけてやりたい。殺してやりたい、鳥の餌にしてやりたいと思うこともあったに違いないのです。実際には、そのような感情を抑えるのにどれほど苦しんだかもしれません。

 しかし、ヨハネはここで想像を絶するような神の怒りを目の当たりにすることになったのです。そして、圧倒するような激しい怒りに、まさに自分の怒りもまた呑み込まれてしまうような思いになったのではないでしょうか。もちろんそれは現実に起こっていることではなく、あくまでも見せられた幻なのです。しかし、あたかも現実に起こっているかのように天使の口から「王の肉、千人隊長の肉、権力者の肉を食べよ」という言葉を聞いた時に、自分が手を降す必要は全くない、怒り続ける必要はない、そもそも怒る必要さえないことを実感しただろうと思います。むしろ彼らのために神の憐れみを祈り求めるべきだとさえ思えるかもしれません。

 いやさらに言えば、神が正義の神であるならば、神がこれほどの怒りを降すことのできる神ならば、なぜ自分が裁きの酒ぶねで踏まれるのでなく、また自分の肉が鳥についばまれるのでもないのか、改めて考えずにはいられなかったことでしょう。

 本当はそのこと自体、驚くべきことであるに違いないのです。なぜ私たちはこの幻に見る激しい怒りによって滅ぼされるのではなく、今、この礼拝の場にいるのでしょうか。なぜ神に愛されている子どもたちとして、「天にまします我らの父よ」と祈ることが許されているのでしょうか。それは明らかに私たちが正しいからでもふさわしいからでもないのでしょう。それはただキリストの救いによるのです。救いの根拠は私たち自身にではなく、キリストにしかない。それゆえにキリストは「死に至るまで忠実であれ」と。そして、誠実なるキリストは必ず私たちを救ってくださるのです。

2016年11月13日日曜日

「この親にしてこの子あり」

2016年11月13日 子ども祝福礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイによる福音書 5章43節~48節

(この日は説教に先立って、子どもたち一人ひとりの上に神さまの祝福を祈り求めました。)

 祝福を受けた皆さん、どこに座っていますか。もう一度手を挙げて見せてください。神様は今日皆さんをここに招いて祝福してくださいました。今日は、特に祝福を受けた皆さんにお話ししたいと思います。よく聞いていてくださいね。そして、わたしがお話しするだけでなく、神様が皆さんの心に語りかけてくださいますから、よく耳を澄ませて聞いてください。

敵を無くす方法
 さて、わたしが小学生の時、近所にW君という友だちが住んでいました。彼はいい奴なのですけど、時々ふざけて腹を殴ってきたりします。それがちょうどみぞおちに当たるととても痛いわけです。痛いから、「何するんだよ!」とこちらも殴り返します。殴り返す時は、少し力が入ってしまうものです。すると相手は、「そんなに強く殴ったかよ」と言って今度は結構強く殴り返してくる。「お前からやってきたんだろ」と言ってわたしは本気で殴り返す。こうして、やがてとっくみあいの喧嘩が始まります。そういうことが度々ありました。

 とはいえ、所詮は子どものケンカです。大したことはありません。しかし、「やられたらやり返す」ということで、世の中では殺し合いにまでなることがあります。大きくなれば戦争も起こります。テロも起こります。毎日、何人死者が出たというニュースが流れます。小さいことから大きいことまで、「やられたらやり返す」の繰り返しです。

 残念ながら、人間の世界には、このように「やられたらやり返す」が絶えません。だからいつもどこかに敵がいます。やり返したりやり返されたりする敵がいる。敵がいるって、幸せなことでしょうか。そのような敵対関係があるって、幸せなことでしょうか。そうではありませんね。では敵を無くすにはどうしたら良いでしょう。

 敵を無くす方法はあります。方法その1。敵をみんなやっつけてしまうことです。これはゲームの世界でお馴染みです。敵が出現すると、全部やっつけたら一面クリア。しかし、そのようなゲームばかりやっていると、いつの間にか、「敵がいるならやっつけたら解決するんだ」って思ってしまうようになります。

 実際、この世の中の多くの大人たちはそう思っています。相手をやっつけて、「もう降参です」って相手が言えば解決すると思っているものです。しかし、本当に解決するのでしょうか。いいえ、そこに憎しみは残ります。そして、憎しみは必ず違った形で現れてきます。違った形で敵対関係が残ります。

 どうしたらよいのでしょう。イエス様は、普通では思いつかないような、もう一つの方法を教えてくださいました。先ほど読んだ聖書の箇所に書いてありました。「敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」。そうイエス様は言っていました。

 敵を無くすもう一つの方法は、敵を友に変えてしまうことです。仲間に変えてしまうことです。敵を友に変える方法は?愛することです。最初に話したことで言うならば、相手が殴ってきた。そこで、やられたらやり返すのではなく、相手を殴ろうとした手をおろして、仲良くしようと言って手を差し出すことです。そして、愛することです。

神様の方法
 しかし、それはとても難しい。現実的とも思えない。しかし、イエス様がそれを言うのには理由があるのです。それは、それが「神様の方法」だからなのです。

 イエス様はこんなことも言っています。「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである」(45節)。「父」というのはイエス様の父なる神様のことです。神様は悪人にも善人にも太陽を昇らせてくださる。悪人というのは、ただ「悪い人」という意味だけでなくて、神様に逆らっている人という意味です。神様に背いている。神様の敵になっている人と言ってもいいかもしれない。

 でも、悪人、神様に敵対している人には、太陽が昇らないということってありますか。そんなことはないですね。どんな悪い人の上にも太陽は昇る。あるいは、正しくない人の畑にだけ雨が降らない。そんなことってありますか。ないですよね。正しくない人の上にも雨は降る。そうでしょう。

 いや、太陽が昇るとか、雨が降るとかだけではありません。本当に言いたいことは、神様が愛していてくださるということでしょう。正しくない人でも神様は愛して生かしてくださる。滅ぼしてしまうことはなさらない。考えてみてください。神様は不遜にも敵対する人は全員滅ぼしてしまうこともできるのです。敵を無くす第一の方法は、敵を全部やっつけてしまうことだから。神様にはできるはずです。でも、神様はそうならさらないのです。

 わたしは祝福を受けた皆さんと同じように、小学校の時に教会で祝福を受けていたものでした。みんなと一緒に礼拝して、讃美歌を歌っていた。でも、中学生ぐらいから、信じなくなったのです。神様を侮って、信じている大人たちのこともバカにするようになりました。

 そのように神様を侮って、バカにして、信じている人もバカにしていた私を、神様はすぐに滅ぼすこともできたと思います。地獄に落とすこともできたと思います。しかし、神様はそうなさいませんでした。神様はわたしを愛してくださいました。ぼくがバカにしていた信じている大人たちは、わたしに言い続けてくださいましたよ。「神様はあなたを愛してるよ」って。それは神様がその人たちを通して、教会を通して、わたしに言い続けてくださったことだと思います。

 神様は、神様に背いているこの世界を滅ぼしてしまいませんでした。そうではなく、敵である私たちを愛してくださったのです。神様は、「わたしはあなたを愛している」と呼びかけ続けて、最後には独り子イエス様をさえこの世界に送ってくださったのです。敵である私たちを愛するためです。愛していることを示して、呼びかけるためです。帰ってきなさい。敵であることをやめなさい、と。神様は今も愛して呼びかけていてくださるのです。

天の父の子となるために
 そう、イエス様はそれが神様の方法だって分かっていたのです。敵を愛することが、父なる神様の方法だってわかっていた。だからその父の独り子であるイエス様は、父なる神様と同じようになさったのです。敵を愛したのです。

 イエス様はやがて捕らえられて十字架にかけられることになりました。イエス様は自分を十字架にかけようとしている人々をやっつけることができたと思います。イエス様は奇跡を行う力があるのですから。しかし、イエス様はそうなさらなかった。そうではなくて、敵を愛されたのです。迫害する者のために祈ったのです。

 十字架にかけられた時、イエス様は御自分を十字架にかけた人々のために祈りました。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」。イエス様は彼らを愛しました。そして、背いていた私たちをも愛してくださいました。

 「この親にしてこの子あり」。今日の説教題です。まさにこの言葉が一番ぴったり来るのは、天の父とイエス様の関係でしょう。しかし、イエス様は言われるのです。神様は、あなたたちの天の父でもあるのですよ、と。今日の箇所でもイエス様は言っておられます。「あなたがたの天の父の子となるためである」って。

 これは敵を愛したら神の子どもにしてもらえるという意味ではありません。イエス様は既に「あなたがたの天の父」という言葉を使っているのです。他の箇所でも繰り返し「あなたがたの天の父は」と言っておられる。実際、イエス様に教えられて「天にまします我らの父よ」と祈っているではありませんか。

 神様は敵であった私たちをも愛して、立ち帰るように呼びかけて、みもとに招いてくださって、背き続けてきた私たちの罪をも赦して、神の子どもにしてくださったのです。だからこそ「天の父の子」になるのです。天の父の子として生きるのです。天の父がしてくださったように、私たちも同じようにしなさいとイエス様は言ってくださるのです。聖書の別の箇所にはこう書かれています。「あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい」(エフェソ5:1)。

 「敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」。確かに難しいかもしれません。しかし、せっかく神様の子どもとして生き始めたのですから、「やられたらやり返す」ではなくて、神様の方法に倣いたいと思います。「この親にしてこの子あり」。そんな子どもたちになりたいものです。

2016年11月6日日曜日

「良き羊飼いと幸いな羊たち」

2016年11月6
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 詩編 23章1節~6節

 今日は先に天に召された方々を記念して礼拝をお捧げするためにここに集まりました。今年は初めてご出席のお返事をいただいた御遺族のために「御遺族席」を用意しました。すると礼拝堂の半分は遺族席になりました。これはある意味ではとても嬉しいことです。天に召された方々のご家族がそれだけ大勢、この礼拝のためにお集まりくださったということですから。

 先に召された方々も、ご家族の皆さんが今この礼拝の場に身を置いているのを見て、主と共に喜んでおられることと思います。中にはそれらの方々が地上にある時には、一緒に礼拝を捧げる機会を得なかったご家族もあるのでしょう。あるいは、故人が召された時にはまだ小さかった、お孫さん、ひ孫さんもこの中にはおられるのでしょう。そのお一人お一人が、今、この礼拝の場に一緒にいるということは、天においてどれほど大きな喜びをもたらしていることかと思います。

 ここは天と地が一つとなるところです。天に召された方々も、今、ここにいる私たちも同じ神様を仰ぎ、同じ神様を礼拝しているとはそういうことです。その意味で礼拝堂とは天と地が一つとなるところなのです。今日お集いになられた方々は、その意味において、先に召された方々と一緒にいるのだという思いをもって、この礼拝の時をお過ごしいただけたらと思います。

わたしには欠けることがない
 さて、そのような今年の記念礼拝において読まれましたのは、詩編23編の言葉です。もう一度、1節から3節までをお読みします。

    賛歌。ダビデの詩。
    主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。
      主はわたしを青草の原に休ませ
    憩いの水のほとりに伴い
    魂を生き返らせてくださる。
                           (23・1‐3a)
 「ダビデの詩」いう表題が付けられています。ダビデ本人が作った歌かもしれませんし、あるいはダビデを思いながら後の人が作った歌であるかもしれません。しかし、ダビデにせよ、他の誰かにせよ、明らかにこれはその人の若い日の歌ではありません。内容からすると、むしろ長い人生を歩んできた人のその晩年における歌であると察せられます。

 この詩は、神様を羊飼いとして、そして自分をその羊飼いに養われる羊として歌ったものです。しかし、人生の夕暮れにさしかかった時、この人が歌ったのは、「わたしはここまで真面目な羊として羊飼いに立派に従ってきました」という歌ではありませんでした。そうではなくて、「良き羊飼いのもとにいて、わたしは幸せな羊でした」と言って喜んでいる歌です。

 それにしても「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない」という言葉は不思議な言葉でもあります。人は生きていれば、「欠け」を経験することはいくらでもあるからです。不足する。乏しさを覚える。何かを失っていく。何かが奪われていく。そのようなことが人生の途上でいくらでも起こります。ある意味で、一つ一つを失いながら生きていくのが人生だとも言えます。親を失い、友人を失い、自分の健康を失っていく。できたことができなくなっていく。そして、最後はこの地上の命を失うことになる。

 失っていくものに目を留めれば、確かにそうです。失ったものを思えば乏しさを覚えることはある。欠けを覚えることはあるのでしょう。しかし、この人はそう言わない。今与えられているものに目を留めるのです。与えてくださっている御方に目を留めるのです。一緒にいてくれる羊飼いのことを考えているのです。「主は羊飼い」。そして、それで十分なのです。「わたしには何も欠けることがない」と。

死の陰の谷を行くときも
 そして、続く3節と4節にはこう書かれています。

     主は御名にふさわしくわたしを正しい道に導かれる。
   死の陰の谷を行くときもわたしは災いを恐れない。
   あなたがわたしと共にいてくださる。
    あなたの鞭、あなたの杖
    それがわたしを力づける。
                              (23・3b‐4)
 ここで一つの変化が起こっていることに気づきます。これまで「主は羊飼い」「主はわたしを青草の原に休ませ」「主は…正しい道に導かれる」と語ってきたのですが、いつしか「あなたが…」と神様に向かって語り始めるのです。「あなたがわたしと共にいてくださる」「あなたの鞭、あなたの杖、それがわたしを力づける」と。

 「主は御名にふさわしくわたしを正しい道に導かれる」。そう語った時、彼は神様がこれまでどのような道を導いてくださったのか、改めて思い起こし、思い巡らしたことでしょう。それは必ずしも平坦な道ではなかったに違いありません。「死の陰の谷を行くときも」と彼は言っていますから。実際にこの人は「死の陰の谷」を行くような経験をしてきたのでしょう。

 ならば、そのようなこれまでの人生を思い起こし、「死の陰の谷を行く」ときについて語る時に、「あなたが」という言葉が口をついて出て来たとしても不思議ではありません。なぜなら、彼は「死の陰の谷」を行く時に、そこで繰り返し繰り返し神様を呼び求めながら、神様に呼びかけながら、神様に祈りながら生きてきたに違いないからです。確かにその人は「わたし」と「あなた」という関係において神と共に生きてきた。「死の陰の谷を行くときもわたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる」とはそういう言葉です。

 ある程度長く生きていれば「死の陰の谷」を通ることは人生において避けられないことなのかもしれません。さらに言うならば、人は必ずその人生の最後には、本当の意味で「死の陰の谷」を行くことになるのでしょう。その時に共にいてくださる羊飼いに向かって、「あなたがわたしと共にいてくださる」と呼びかけることのできる人は幸いです。

 実際、ここを読みながら、そのようにして最後の「死の陰の谷」を通って行った人たちの姿が思い起こされます。また、「死の陰の谷」を行く中で、そこで初めて羊飼いに向かって語り始めた幾人かの方々の姿を思い出すのです。そう、彼らは決して一人ではありませんでした。

わたしを苦しめる者を前にしても
 そして、「あなたは」と言って彼が向き合っている神様の姿がここで変わっていきます。羊飼いから家の主人に変わっていくのです。それもまた彼が知ってきた神様の姿です。
 
    わたしを苦しめる者を前にしても
        あなたはわたしに食卓を整えてくださる。
    わたしの頭に香油を注ぎ
    わたしの杯を溢れさせてくださる。             
                    (23・5)
 そこには敵によって苦しめられている者を受け入れ、豊かにもてなしてくれる家の主人がいます。彼は苦しめる者のただ中にある。それは変わらない。しかし、そのような苦しい現実のただ中にあって、そこで家の主人として豊かにもてなし、力づけ、喜びに満たしてくださる神様について語られているのです。

 私たちはそこでもしかしたら、言いたくなるかも知れません。「神様、食事どころではありません。敵に囲まれているのですから。苦しめられているのですから。彼らを追い払うか、私を安全なところへ逃がしてください。」しかし、神様は必ずしもただちにそうしてくださるとは限らない。この詩編に描き出されている神様は、あたかもこう言っておられるかのようです。「いや、まずあなたは豊かな霊の食事に与りなさい。今いるそこで力を得なさい。そこで喜びを得なさい。元気になりなさい。私がそうしてあげよう。」

 これこそ死の陰の谷を行くときも「あなたが共にいてくださる」と言っていたこの人が、人生において繰り返し経験してきたことであったに違いありません。「わたしを苦しめる者を前にしても、あなたはわたしに食卓を整えてくださる」と。
 
主の家に帰ろう
 そして、彼はこの詩編をこう締めくくります。

    命のある限り
    恵みと慈しみはいつもわたしを追う。
    主の家にわたしは帰り
    生涯、そこにとどまるであろう。              
                    (23・6)

 良き羊飼いと共にある羊の幸いなることを歌ってきた彼は、帰るべきところ、とどまるべきところについて語ります。それは「主の家」です。それは「神殿」を意味します。それは共に礼拝する場所です。まさに「あなたがわたしと共にいてくださる」と言える場所、そして主御自身が食卓を整えてくださる場所。そう、私たちもまた今、そこに身を置いているのです。ここは天に召された皆さんのご家族が、繰り返し繰り返し帰ってきて身を置いていた場所です。

 そして、それは永遠なる神の世界とつながっているのです。この地上の「主の家」はあくまでもひな形に過ぎません。その実体は天にあります。私たちには帰るべきところがあるのです。

 6節の後半にある「生涯」という言葉は、しばしば「永遠に」と訳される言葉です。帰るべきところ。それは永遠に主と共に住まう主の家です。この人生において慈しみ深く導き続け、養い続けてくださった方のもとに私たちはやがて帰っていきます。そして、永遠にそのお方と住まうのです。

 私たちは既に召された方々を記念して礼拝していますが、私たちもまたやがて彼らの列に加えられることになります。やがて終わりの来る一生。残された人生において「何をするか」ということも大切ではありますが、どこに目を向けて生きているかということはもっと大切なことでしょう。導かれるべきお方に導かれ、帰るべきところに向かっていてこそ、私たちの限られた人生もまた永遠の意味を持つのです。

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