2016年10月16日日曜日

「すべての人を一つにしてください」

2016年10月16
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネによる福音書 17章20節~26節

 今日の福音書朗読ではキリストの祈りの言葉が読まれました。場面は最後の晩餐です。この祈りを捧げて、イエス様は弟子たちと共に外に出て行きます。その先に何が待っているかを主はご存じでした。向かった先のゲッセマネの園において、主はユダが率いてきた一隊の兵士たちによって捕らえられることになります。そして、裁きを受け、鞭で打たれ、茨の冠をかぶせられ、十字架にかけられることになります。主はすべてをご存じでした。その意味で、今日お読みした祈りの言葉は死を前にした祈りの言葉であると言えるでしょう。

 しかし、イエス様にとってその時は、この世から父なる神のもとに帰る時に他なりませんでした。最後の晩餐の場面はこのような言葉をもって始まっているのです。「さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」(13:1)。

 そのように、父のもとに帰ろうとしている御子なるイエス様が、この上なく愛し抜かれた弟子たちと食事を共にされました。そこで最後に語っておくべきことを彼らの心に深く刻みつけられました。そして、その締めくくりとして父なる神に捧げた祈り――それが今日お読みしたキリストの祈りです。

 その祈りは17章全体に及んでいますが、はっきりと三つの部分に分かれます。第一は1節から5節までです。そこで主は御自分のために祈ります。第二は6節から19節までです。そこで主は弟子たちのために祈ります。第三は20節から26節までです。そこで主は、教会の宣教によって御自分を信じるようになる人々のために祈ります。今日の朗読箇所はこの第三の部分です。

彼らもわたしたちの内にいるように
 そこで主はこう祈り始められます。「また、彼らのためだけでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも、お願いします」(20節)。彼らというのはキリストの弟子たちです。

 イエス様は御自分の弟子たちのことをよくご存じでした。彼らの弱さもご存じでした。彼らが御自分を見捨てて逃げてしまうこともご存じでした。ペトロについては既にこう言っておられたのです。「はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう」(13:3)。

 しかし、主はそのような弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれたのです。そして、彼らに宣教の言葉を託されました。主は、彼らの言葉を通してキリストを信じる人々の群れを既に心の目で見ておられたのです。主はやがて主を信じることになる多くの人々のために祈っているのです。

 そして、主の心の内にあったことは現実となりました。弟子たちの言葉によってキリストを信じる人々がこの世に存在することとなったのです。なんと、それから二千年後、この日本にも存在することとなりました。ここに確かにキリストを信じる私たちがいるのです。あのときのイエス様の祈りは、ここにいる私たちのための祈りでもあったのです。

 主は私たちのために何を祈ってくださっているのでしょう。キリストの祈りは次のように続きます。「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります」(21節)。

 キリストは私たちが一つとなることを願い、祈っておられます。「すべての人を」と主は言われました。この言葉はあらゆる範囲に及びます。主はこの地球上のすべての教会が一つとなることを願っておられます。主はこの日本のすべての教会が、すべてのキリスト者が一つとなることを願っておられます。主はこの頌栄教会が一つとなることを願っておられます。主は異なるお互いが一つとなることを願っておられます。

 一つとなるとはどういうことでしょうか。主は「あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように」と言われます。単に分裂がないように、仲たがいしないようにということではなさそうです。

 父は子の内に、子は父の内に。そこに言い表されているのは、イエス様と父なる神との交わりです。愛と信頼の絆で結ばれた神との関係をイエス様は見せてくださいました。そして、その交わりの中に私たちもまた加えられることを主は願っておられるのです。「彼らもわたしたちの内にいるようにしてください」とはそういうことです。イエス様が見せてくださった親子の関係の中に、神の家族の中に、私たちもまたいるようにしてくださいと主は祈っていてくださる。それこそが、「一つとなる」ということなのです。

 「すべての人を一つにしてください」。それは単に分裂がないようにということではありません。仲たがいしないようにということではありません。共に神の家族として生きるように、ということです。共に天の父の子供たちとして生きるように、ということです。そのように一つとなるのです。

 ですからそのように一つとなっている目に見える姿は、単にお互い仲良くしている姿ではないのです。同じ父に向かって一緒に祈る姿なのです。一緒に礼拝する姿なのです。互いに異なる者たちが、互いに相容れぬものを持っているかもしれない者たちが、それにもかかわらず同じ父の子供たちとして、共に祈りつつ愛し合う一つの家族となっていく。それこそが「一つにしてください」というイエス様の祈りの答えなのです。 

完全に一つになるために
 そして、主はこのことを別な言葉をもって次のように表現しています。「あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。こうして、あなたがわたしをお遣わしになったこと、また、わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります」(22‐23節)。

 「あなたがくださった栄光」とは神の子としての栄光です。イエス様はその栄光を私たちにも分かち与えてくださいました。私たちもまた、神の子どもたちとして生きることができるようにしてくださいました。「天にまします我らの父よ」と共に祈って生きる者としてくださいました。それは「彼らも一つになるためです」と主は言われます。

 そうです。私たちに与えられている信仰生活は「わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられる」と表現されていますが、それは「彼らが完全に一つになるためです」と主は言われるのです。主はただ私たち個人の救いのために信仰へと招いてくださったのではありません。私たちが同じ父を持つ神の家族として一つとなるために招いてくださったのです。

 そして、そのように同じ父を仰いで一つとなっている姿こそが、キリストをこの世界に証しするものとなるのです。「そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります」(21節)と主は言われました。また、「こうして、あなたがわたしをお遣わしになったこと、また、わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります」(23節)と主は言われるのです。

 確かに、異なる者たちが同じ天の父を仰いで祈る姿を通して福音は伝えられてきたのです。共に礼拝する姿が今日に至るまで途絶えることがなかったからこそ、私たちもまたキリストを知ることができたのでしょう。そして、神に愛されている子どもたちの生活をも知ることができたのでしょう。その意味で、私たちがここに存在していること自体が、既にキリストの祈りの答えであるとも言えるのです。

彼らも共におらせてください
 さらにキリストの祈りはこのように続きます。「父よ、わたしに与えてくださった人々を、わたしのいる所に、共におらせてください。それは、天地創造の前からわたしを愛して、与えてくださったわたしの栄光を、彼らに見せるためです」(24節)。

 最初に申しましたように、この祈りは、死を前にしたキリストの祈りです。この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟っておられるキリストの祈りです。主は父のもとに帰り、父と共にいることになる。しかし、主はこう祈られるのです。「父よ、わたしに与えてくださった人々を、わたしのいる所に、共におらせてください。」

 私たちは、この世において、同じ父に祈る者とされました。この世において、同じ父の子どもたちとして、共に礼拝する者とされました。この世においてイエス様の兄弟姉妹とされ、互いに兄弟姉妹とされました。そして、その絆がこの世の生を終えた後も続くことをイエス様は願っていてくださいます。「わたしのいる所に、共におらせてください」と。

 私たちが願う以前に、イエス様が願っていてくださいます。私たちが祈る前にイエス様が祈っていてくださいます。そして、こう祈られたイエス様は、私たちの罪を贖うために十字架へと向かわれたのです。そこに死を越えた希望を私たちが持ち得る根拠があります。私たちもまた、「この世において共に祈りを捧げてきた父のもとに帰るのだ。イエス様がおられるところに私たちもまたいることになるのだ」と言い得る根拠があるのです。

 「それは、天地創造の前からわたしを愛して、与えてくださったわたしの栄光を、彼らに見せるためです」と主は言われました。主は見せてくださいます。そこにおいて、私たちは神の子の栄光を目の当たりにすることになるのです。栄光に輝く主の姿を見せていただくことになるのですそして、その時私たちは知ることになるのでしょう。その御方の兄弟とされているということ、神の家族に迎え入れられているということが、どれほど栄光に満ちたことであるのかということを。

 この祈りの直前に、主は「あなたがたには世で苦難がある」と言っておられます。確かにそうなのでしょう。しかし、この世のただ中において既に愛されている神の子どもたちとして共に礼拝を捧げる者とされているのです。既にどれほど大きな恵みにあずかっていることか。私たちはまだ本当のところを知らないのでしょう。しかし、やがて知ることになるのです。神の子の栄光を見ることになるのですから。

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