2016年9月25日日曜日

「この世の体が滅びても」

2016年9月25
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 コリントの信徒への手紙Ⅱ 5章1節~10節

地上の幕屋が滅びても
 「わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです。わたしたちは、天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って、この地上の幕屋にあって苦しみもだえています」(1‐2節)。ここでパウロがたとえを用いて表現しているのは、この世における信仰者の生活です。

 「わたしたちの地上の住みかである幕屋」「この地上の幕屋」について語られていました。幕屋とはテントのことです。テントにたとえられているのは、私たちのこの体です。私たちのこの体をもって生きるこの世の生活がテント住まいの生活にたとえられているのです。それは感覚的に良く分かります。テントは暫定的な一時的な住まいです。私たちはこの体というテントが何百年も持たないことを知っています。綻びてきますから、修理しながら生活することになります。やがてはこのテントは役目を終わることも知っています。

 私たちの生活は、そのようなテント住まいの生活です。そして、「この地上の幕屋にあって苦しみもだえている」と彼は言います。そのことについても私たちは良く知っています。この体をもって生きることは、苦しいことです。それは弱さを負いながら、綻びを繕いながら生きる苦しみでもあるでしょう。あるいはパウロは迫害の中にありましたから、この体を持っているがゆえに、他者の罪によって苦しめられるという苦しみもあるでしょう。

 あるいは、別の手紙で「わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです」(ローマ7:18)ということも書いています。この体をもって生きることの大きな苦しみは、他者の罪によって苦しめられるだけでなく、自分の罪によって苦しむということでもあるのでしょう。

 そのように、私たちのこの世の生活は「この地上の幕屋にあって苦しみもだえている」と表現することができます。しかし、私たちには既に知らされており、信じていることがあるのです。「わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています」とパウロが言っているとおりです。この世の体は「幕屋」です。しかし、神は「建物」を備えていてくださる。テントのように綻びない、弱らない。一時的なものでもない。それは「永遠の住みか」です。

 だからパウロはただ「苦しみもだえている」とだけ言っているのではないのです。「わたしたちは、天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って…」と言い添えているのです。苦しみもだえているとしても、それは「願いつつ」の苦しみなのです。そして、願うことができるのは、既に備えられていることを知っているからです。

 そうです。それは備えられている。ですから、やがてはその願いが実現する時が来るのです。天から与えられる住みかを上に着る時が来るのです。それはいわば、最終的な救いの完成に他なりません。私たちは罪と死から完全に解放された体を着せられるのです。そのことを4節では「死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまう」と表現しています。そのことを願いつつ、待ち望みつつ、「天から与えられる住みかを上に着たい」と彼は言うのです。そのように「天から与えられる住みかを上に着たい」と切に願いつつのテント住まい――それがこの世における信仰者の生活です。

 そのすべては神の恵みに基づきます。「人の手で造られたものではない」と書かれていましたでしょう。天にあるものが人の手で造られたものでないのは当然です。しかし、あえてそう書かれているのは、それが純粋に神の恵みとして備えられたものだからでしょう。5節にもこう書かれています。「わたしたちを、このようになるのにふさわしい者としてくださったのは、神です」。どのようにして「ふさわしい者としてくださった」のでしょう。この手紙を受け取った人にもわかったはずです。それはキリストの十字架によってだと。

 もともと「天にある永遠の住みか」は私たちにはふさわしくはなかったのです。神に背いて生きてきた私たちにふさわしいのは、地上の幕屋と共に滅びていくことだったのでしょう。しかし、神はそのような私たちを憐れんで、キリストを与えてくださいました。罪の赦しを与えてくださいました。そして、死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまうようにと、永遠の住みかを備えてくださったのです。天から与えられる住みかを上に着たいと願うことができるようにしてくださったのです。

 「神は、その保証として“霊”を与えてくださったのです」とパウロは言います。聖霊を与えられ、信仰を与えられ、今、私たちがこうして共に礼拝を捧げているということは、まさにふさわしくない者がただ神によってふさわしい者としていただいたということを物語っているのです。

主に喜ばれる者に
 「それで、わたしたちはいつも心強い」とパウロは言います。すべてが私たちによるのなら、なんと心許ないことかと思います。すべてを私たちが備えなくてはならないとするならば、それこそ天幕が滅びた後のことについては、私たちはどうすることもできないのですから、このテント住まいの生活はなんと心許ないことかと思います。

 しかし、そうではないのです。「人の手で造られたものではない天にある永遠の住みか」が備えられ、神御自身が「ふさわしい者として」くださったのです。それは私たちの手によるのではなく、キリストにおいて成し遂げられた救いによるのです。ですからテント住まいでありながら、「わたしたちはいつも心強い」と言うことができる。それがこの世における信仰者の生活です。

 しかし、もう一方で「体を住みかとしているかぎり、主から離れていることも知っています」とパウロは言います。ここにパウロが何を一番大事に考えていたかということがよく表れていると言えるでしょう。

 先ほど見たように、パウロは「この地上の幕屋にあって苦しみもだえている」と言っていました。迫害の時代です。現実に彼は多くの苦しみを負っていたのでしょう。そうです、「体を住みかとしているかぎり」その苦しみを負わなくてはならないのです。

 しかし、パウロがそこで考えていたのは、単純に苦しみから解放されることではなかったのです。彼が天から与えられる住みかを上に着たいと願っていたのは、最終的な救いを待ち望んでいたのは、ただ苦しみから救われることを待ち望んでいたのではないのです。彼の心を占めていたのは、「体を住みかとしているかぎり、主から離れている」ということだったのです。

 もちろん目に見えずとも、信仰において主と共にあるのです。それはパウロも分かっているのです。しかし、そこにはまた幕屋住まいにおける限界がある。それもまた事実です。ですから「体を離れて、主のもとに住むことをむしろ望んでいます」と彼は言うのです。苦しみから離れるためではないのです。主のもとに住むためなのです。

 そのように彼にとって最も重要なのは、主と共にあること、主との関係、主との交わりでした。ですから彼の一番の願いもまた、それは「主に喜ばれる者」であることだと言うのです。「だから、体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい」(9節)と。

 そして、そこにテント住まいをしているこの地上の人生の意味もまたあるのです。この世の生活は、この世の体は、主に喜ばれる者として生きるための生活であり、体なのです。確かに苦しみがあります。罪との戦いもあります。不当な仕打ちを耐え忍ばなくてはならないこともあるかもしれません。しかし、そのようなこの世の人生こそ、主を愛し、主に喜ばれることを求めて生きる実践の場に他ならないのです。

 だからまた、主もまたそのような私たちの生活を、関心をもって見ていてくださるのでしょう。私たちがこの地上における人生をどう生きるかは主にとっての重大な関心事なのです。10節に書かれているのはそういうことです。「なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです」(10節)。

 キリストの裁きの座の前に立つ。そのキリストは私たちの罪を十字架において贖ってくださった御方です。そして、信仰によって私たちの罪を赦し、義としてくださった御方です。ですから、その裁きとは、私たちが救われるか滅びるかの裁きではありません。そうではなく、私たちの報いに関わる裁きです。

 主は私たちのこの地上の人生を、関心をもって見ていてくださいます。ですから「悪」もまたその御前にあるのです。それゆえに、私たちは「どうせ赦されるのだから」と言って、主を侮るような生活をしてはならない。当たり前のことです。

 しかし、そこでは「悪」だけが裁かれるのではないのです。「善」もまた裁かれるのです。「善であれ悪であれ」と書かれていましたでしょう。主の目に善しとされること。それはもしかしたら、積極的な善行というよりは、ある場合にはただ主を信じて苦難を耐え忍ぶだけのことかもしれません。耐え忍びながら愛を示して仕えることかもしれません。そこには、この世において報われないことはたくさんあるかもしれません。しかし、気に病む必要はないのです。主が報いてくださるからです。報いを受けるのです。すべては報われるのです。私たちは、この世において報われるかどうかを気にしないで、ただひたすら主に喜ばれることを考えて生きたらよいのです。それがこの世における信仰者の生活です。

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