2016年8月21日日曜日

「感謝に満ちた生活」

2016年8月21
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 エフェソの信徒への手紙 5章11節~20節

愚かな者としてではなく、賢い者として
 「愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい」(15節)と書かれていました。処世術の話ではありません。この部分は新共同訳では「光の子として生きる」と小見出しがついています。信仰生活の話です。信仰生活においては、愚かな者としてではなく、賢い者として歩む必要があります。「歩む」とは具体的な日々の生活を意味します。与えられた場所で、与えられた関わりの中で、具体的にどう生きていくのか、ということです。そこで愚かな者として生きることもできるし、賢い者として生きることもできるのです。

 では賢い者として生きるとはどういうことでしょう。実は原文において16節は独立した一文ではなく、15節の続きとして「時をよく用いながら」と書かれているのです。賢い者として歩むとは、「時をよく用いる」ことのようです。

 「時をよく用いる」と言いますと、「時間を無駄にせず有効に使うこと」を意味するように聞こえます。確かに時間を有効に用いることは賢い生活かもしれません。しかし、ここで言う「時」とは、誰にも等しく与えられている一日24時間のことではなく、ある特定の「時」、与えられた特別な「時」を表す言葉です。それゆえに多くの翻訳では「機会(opportunity)」と訳されています。これは「与えられた機会を十分に生かして用いなさい」という勧めなのです。それこそが賢い者として歩むということなのです。

 では十分に生かすべき「機会」とは何のための機会でしょう。それは神の御心を行う機会です。この世にあって神の望んでおられることを行う機会です。ですから17節にも「だから、無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい」と勧められているのです。このことについては、今日の箇所の直前にも書かれています。「何が主に喜ばれるかを吟味しなさい」(10節)と。

 主の御心を行うチャンスが与えられているのです。主に喜ばれることを行うチャンスが与えられているのです。そのチャンスを無駄にしない。与えられた機会を十分に生かして用いて、賢い者として歩むように、細かく気を配って歩むようにと勧められているのです。

 それはどうしてでしょうか。パウロは言います、「今は悪い時代なのです」と。「時代」と仰々しく訳されていますが、ここで用いられているのは「日々」という言葉です。パウロは悪い日々を見ているのです。

 実際そうでしょう。パウロはこの手紙を獄中で書いているのです。伝道者が投獄されてしまうような時代、そのような日々をパウロは経験しているのです。それはエフェソの信徒にとっても同じです。イエスを信じているというだけで、いわれのない中傷を受け、不当な扱いを受けることもあるのでしょう。そのような悪い日々を見てきたに違いありません。そして、自分の日々だけでなく、この世界そのものが悪い日々を重ねながら歴史を刻んでいるのを見ていたのです。その意味では私たちが見ている日々も変わらないかもしれません。「今は悪い時代なのです。悪い日々です」と言わざるを得ない。

 しかし、そこでパウロは言うのです。「愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい。時をよく用いなさい」と。そのような時代であるからこそ、そのような日々であるからこそ、そこに与えられた機会もまたあるのです。御心を行う機会もあるのです。

 苦しみを与えられたなら、それは赦しを与える機会ともなるのでしょう。相手に愛を示し、その人のために祈る機会ともなるのでしょう。隔ての壁があるところにこそ、キリストによる和解を実現する機会は与えられているのでしょう。その意味では、チャンスはありとあらゆる場面で与えられているのだと思います。「だから、無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい」と聖書は言います。そうです、今目にしている日々においてこそ、主の御心が何であるかを悟らなくてはなりません。そうでなければ、機会を生かして用いることができません。

霊に満たされなさい
 そのことが信仰生活において実現するために、パウロはさらにこう続けます。「酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです。むしろ、霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい」(18‐19節)。

 「賢い者としての歩み」「時をよく用いた生活」は、ただ人間の決意や努力から生まれるものではなさそうです。涸れ井戸から水を無理に汲み出せば泥水をまき散らすことになります。清い水が満たされている井戸からこそ、清い水を汲み出すことができるのです。それゆえにパウロは言うのです。「霊に満たされなさい」と。

 しかし、その勧めが「酒に酔いしれてはなりません」という言葉から始まっているのは興味深いことです。これは単なる禁酒の勧めではありません。「それは身を持ち崩すもと」であることは、誰もが良く知っているのであって、そのようなことは聖書がわざわざ語らなくても、他の人が言ってくれることです。ここで大切なことは、あくまでもこの言葉が、「霊」すなわち神の霊、聖霊に満たされることと対比されているということです。つまり問題の中心は聖霊が満たすべきところを酒が満たしているということなのです。神が支配すべきところを、酒が支配しているということなのです。

 「今は悪い時代なのです。悪い日々です」。そのような日々を見ている時に、神を求めるのではなく酒を求めることは起こり得ることです。神の霊に満たされることではなく、酒に満たされることを求めてしまうことはあり得ることです。何か他のもので満たされることを求めてしまうのです。そのようにして現実逃避へと流れてしまう。だからこそパウロは言うのです。「むしろ、霊に満たされなさい」と。そして具体的なこととして「詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい」と続けるのです。礼拝について話を進めるのです。

 「詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い」という言葉は、ある意味では奇妙な分かりにくい言葉とも言えます。これについては「交唱」という形で賛美を捧げていたことを指すという理解があります。あるいはコロサイの信徒への手紙には「知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい」(コロサイ3:16)とありますから、賛美を捧げるだけでなく互いに教え合うことも含めて語っているのだ、という理解もあります。そうなのかもしれません。

 いずれにせよ、少なくとも「語り合い」と言うのですから、その言葉は共に集まっていることを前提としています。しかも、「皆それぞれ神様には向いてはいますが、お互いは関係ありません」という集まり方ではありません。「語り合い」というのですから。一緒に神様を賛美しながら、神様の恵みを共有し、喜びを共有し、互いに心が通じ合っている。そういう集まり方を意味するのでしょう。

 そのように集まることが大事なのです。あのペンテコステの日に最初に聖霊が降って一同が聖霊に満たされたのは、皆が集まっていた時でした。初めて異邦人に聖霊が降ったのも、百人隊長コルネリウスの家で皆が集まっていた時でした。今、私たちがこうしているように、集まることは大事です。そして、頌栄教会がもっともっと「詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合っている」と言える教会になっていくは大事なことです。

 しかし、大事なのは集まっている時間だけではありません。集まっている時間そのものは決して長くはありません。ほとんどの時は、それぞれの場所に散らされているわけです。それは当然、エフェソの信徒たちにしても同じでした。ですから、このように続くのです。「そして、いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい」(20節)。これは毎日の生活の話です。

 細かいことを言いますと、日本語ですと19節と20節は切れていますが、原文では繋がった一つの文です。19節は集まっている時について。20節は毎日の生活の話です。そして、この二つは切り離せないのです。

 「そして、いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい」(20節)。霊に満たされて、日曜日の礼拝での賛美がさらには毎日の生活へと広がっていくのです。霊に満たされて、私たちの毎日は感謝の生活へと変えられていくのです。

 それは「父である神」への感謝の生活です。独り子をさえ惜しまず与えてくださった父である神。独り子によって成し遂げられた罪の贖いのゆえに、私たちをも父の子どもたちとしてくださった神。その愛と慈しみを、いつも、あらゆることについて、私たちに注いでくださっている父である神。その神を礼拝する中で、その神への感謝の生活が、霊に満たされて、形づくられていくのです。

 そのような生活においてこそ、時をよく用いることもできるのでしょう。賢い者として歩むこともできるのでしょう。今が悪い時代であっても、目にしているのが悪い日々であっても、そこに与えられている機会を十分に生かして用いることができるのでしょう。主の御心を行う機会として。

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