2016年7月31日日曜日

「わたしたちは決して負けません」

2016年7月31
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネの手紙Ⅰ 5章1節~5節

恵みによる二度目の誕生
 ある夜、ファリサイ派の議員であり教師でもあるニコデモという人がイエス様を訪ねてきたという話がヨハネによる福音書にあります。その時、イエス様は彼にこう言いました。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」(ヨハネ3:3)。

 後に使徒ペトロが小アジア地方他の諸教会に宛てた手紙の中でこう書いています。「あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです」(1ペトロ1:23)。

 イエス様が言われたことが、教会において実現しています。「あなたがたは…新たに生まれたのです」とはそういうことです。そのように人は「新たに生まれる」ことができる。言い換えるならば、二度生まれることができる。聖書は確かにそう教えています。

 一度目の誕生は、通常の意味における誕生です。毎年「お誕生日おめでとう」を繰り返す、あの誕生のことです。私たちは必ず誰かを親として生まれてきます。誰かを親とする家族の中に生まれてきます。もちろん、実際にはその親が親としての役目を果たさず、家族が家族としての機能を果たさず、親も家族をも知らないで育つということはあり得ます。しかし、いずれにせよどのような形であれ、私たちは必ず誰かの子として生まれてくるのであるし、家族の中に生まれてくるのです。そのようにして私たちはこの人生をスタートする。これが一度目の誕生です。

 この誕生だけを経験して一つの人生を生き、一生を終える人もいます。しかし、聖書によるならば、人はもう一度誕生することができる。新しく生まれることができる。二度目の誕生。それは信仰による誕生です。信仰によってもう一つの人生がスタートします。一度目の誕生において、親の子供として生まれたように、二度目の誕生においては、「神の子供としてのわたし」が生まれます。一度目の誕生において、この世の家族の中に生まれたように、二度目の誕生においては、「神の家族の中にいるわたし」が生まれます。

 毎週私たちはイエス様がお教えくださった「主の祈り」を共に捧げております。あの「主の祈り」こそ、まさに新しい誕生に関わっている祈りです。つまり、私たちは神の子供として「天にまします我らの《父よ》」と祈りながら生き始めたのです。神の家族として「天にまします《我らの》父よ」と祈りながら生き始めたのです。そのように私たちは二度目の誕生によって始まるもう一つの人生を生きていくのです。それが信仰生活です。

 そのような二度目の誕生について、今日の聖書箇所でヨハネは次のように語っています。「イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者です」(1節)。ここでは二度目に生まれた人について、はっきりと「神から生まれた者」と表現されています。

 神から生まれたならば既に「神の子供」です。何もしていないうちから神の子供です。神の子供らしくなったから神の子供としてもらったのではありません。王の子供として生まれたら、何もしないうちから既に王子です。どら息子でも王子は王子です。王子らしくなったから王子になるのではありません。そのように神から生まれた者は既に神の子供です。「信じる人は皆」とありますでしょう。神の子供とされるのは、神との新しい関係が与えられるのは、ただ信仰により、神の恵みによるのです。

恵みに対する応答
 そのように神の一方的な恵みとして神から生まれ、神の子供としていただくとするならば、その神の恵みに私たちはどうお応えしたらよいのでしょう。

 「恵み」に対するふさわしい応答とは「愛」です。神を愛することです。ですから「生んでくださった方を愛する人は皆」と続くのです。そして、神を愛するならば、そこから必然的に生まれてくることがあります。もう一度1節の初めからお読みします。「イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者です。そして、生んでくださった方を愛する人は皆、その方から生まれた者をも愛します。このことから明らかなように、わたしたちが神を愛し、その掟を守るときはいつも、神の子供たちを愛します」(1‐2節)。

 ここに「掟」という言葉が出てきました。この直後にも「神を愛するとは、神の掟を守ることです」と語られています。神の掟については、今日の箇所の直前にもこう書かれています。「神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です」(4:21)。

 「神の掟」という表現は実にいかめしく感じますが、しかし、それは神を愛することのごく自然な帰結であるとも言えるでしょう。私たちを生んでくださったお父さんは子供たちが愛し合って共に生きることを望んでおられるのです。そのお父さんの思いに応えて生きることこそ恵みに対するふさわしい応答なのしょう。

 「イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者です」。自分が神から生まれた者、まことの親の子であることを意識して生活することは大切です。自分を見つめて「わたしはふさわしくない」とか「わたしは神の子供には見えない」とか言っているのではなく、生んでくださった方を見上げて「わたしは神から生まれた者です」と言ったら良いのです。

 そうすれば、隣の人も「神から生まれた者」であることが見えてくる。神が愛してやまない神の子供であることが見えてくる。父にとって大切この上ない父の子供であることが見えてくる。そうしてこそ、「生んでくださった方を愛する人は皆、その方から生まれた者をも愛します」ということが起こってくるのです。

世に打ち勝つ信仰
 そのように、神から生まれて神との間が親子の絆で結ばれ、そして神から生まれたお互いが兄弟の絆で結ばれていく。それが私たちの信仰です。そして、このような信仰こそが世に打ち勝つ信仰なのだとヨハネは言うのです。「世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です」(4節)と。

 ヨハネは手紙にこの言葉を書き記したとき、一つの場面を思い起こしていたに違いありません。かつてイエス様の口からこの言葉を聞いたその情景がありありと思い起こされたことでしょう。それはイエス様がまさに捕らえられようとしていたその夜、弟子たちと食した最後の晩餐の席でのことでした。主は不安と恐れの中にある弟子たちに多くのことを語られた後、最後にこう言われたのです。「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(ヨハネ16:33)。

 「わたしは既に世に勝っている」。確かに主はそう言われた。その「世」とは何でしょう。神の愛を現されたイエス様が十字架につけられて殺されてしまうような世界のことです。愛の力よりも憎しみと怒りの力の方がはるかにまさって強力に支配しているように見えるこの世界のことです。命よりも死の方がはるかに強力に支配しているように見えるこの世界です。神様よりも悪魔の方がはるかに強力に支配しているように見えるこの世界のことです。そう、私たちもそのように見ている、この世界のことです。

 しかし、そこで主は言われたのです。「勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」と。主は勝利宣言をされたのです。イエス様は負けない。世に負けない。絶対に負けない。その強さはどこから来ていたのでしょう。イエス様の強さはどこにあったのでしょう。イエス様御自身がはっきり語っておられます。「だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ」(ヨハネ16:32)。

 そうです、イエス様が見せてくださった本当の強さとは、どこまでも「父が、共にいてくださる」と言い得る強さだったのです。神の子としての強さだったのです。そして、その御方は私たちをも、同じ父との交わりの中に入れてくださったのです。私たちに二度目の誕生を与え、神の子供としての誕生を与え、神から生まれた者として、私たちもまた、「父が、共にいてくださる」と言い得るようにしてくださったのです。

 私たちは神から生まれた者です。私たちは、神の家族の中に新しく生まれたのです。私たちには、まことの父がいます。この世よりも大いなるまことの父がいます。私たちには、世に打ち勝った神の子イエスがいます。「勇気を出しなさい」と言ってくださる、いわば最強のお兄さんがいるのです。そして、私たちには、同じように弱さを抱えてはいますが、互いに愛し合って生きるようにと与えられている、他の子供たちがいるのです。共に父を仰ぐ兄弟がおり、姉妹がいるのです。

 だから、私たちは負けません。世に生きることがいかに過酷であったとしても、決して負けることはありません。私たちは負けて滅びる者ではなく、キリストの勝利にあずかって、完全な救いに至るのです。私たちは暗闇に引きずり込まれていくのではなく、光へと命へと向かって生きていくのです。いかなるものも神の子供たちを滅ぼすことはできません。「世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です」。

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