2016年7月17日日曜日

「もう互いに裁き合わないようにしよう」

2016年7月17
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ローマの信徒への手紙 14章10節~23節

互いに裁き合わないようにしよう
 「従って、もう互いに裁き合わないようにしよう」(10節)。そのように語られていました。今日の説教題でもあります。

 「互いに裁き合わないようにしよう」と語られているのは、裁き合っている現実があるからです。自分を正しいものとし互いに他者を断罪するようなことが起こっているからです。ここで問題となっているのは、肉を食べない人と肉を食べる人の裁き合いです。つまらないことに思えますか。しかし、往々にして裁き合いはつまらないことを巡って起こります。

 肉を食べない人はなぜそうしていたのか。細かいことは分かりません。コリントの信徒への手紙を読みますと、偶像に供えられた肉を食べることを避けた人たちが出てきます。一般的に市場に出回っている食用の肉は、多くの場合一度異教の神々に捧げられたものであったという当時の事情がそこにあります。ローマの教会にも、知らずにそのような汚れた肉を食することがないように、むしろ肉食そのものを断った人々がいたのかもしれません。ともかく何らかの理由により、肉を食べることは正しくないことだという判断が働いていたのです。

 その一方で、それが偶像に供えられた肉であろうが何であろうが、肉を食べること自体何ら問題はないと考える人々もいたのです。パウロ自身もそう考えていたようです。それは決して汚れたものなどではない。彼はこう言っています。「それ自体で汚れたものは何もないと、わたしは主イエスによって知り、そして確信しています。汚れたものだと思うならば、それは、その人にだけ汚れたものです」(14節)。

 そのようにパウロ自身は、肉を食べようが食べまいが、それはその人の自由だと考えていました。しかし、パウロはその自由を押しつけようとはしないのです。肉を食べる自由についての主張を展開してこの争いを解決しようとはしないのです。そうでなく、彼は言うのです。「もう互いに裁き合わないようにしよう」。

 それはどうしてか。最終的にそれぞれが神の裁きの座の前に立つことを知っているからです。「それなのに、なぜあなたは、自分の兄弟を裁くのですか。また、なぜ兄弟を侮るのですか。わたしたちは皆、神の裁きの座の前に立つのです」(10節)。そして、彼は言います。「それで、わたしたちは一人一人、自分のことについて神に申し述べることになるのです」(12節)。

 最終的に私たちが神の御前で問われるのは、他の誰かのことではありません。私たち自身のことです。私たち自身がどう生きたかということです。今は他の人のことを語っていられるかも知れません。批判することも裁くことも断罪することもできるかもしれません。しかし、やがては自分自身についてしか語り得ない時が来るのです。

 そこで私たちは、正しい裁きをなされる方によって裁かれるべき者は、他ならぬ私たち自身であることを知ることになるでしょう。赦しと憐れみとを必要としているのは、他の誰かではなく、私たち自身であることを知ることになるのでしょう。そこで私たちは、他ならぬ私たちのために、死んでよみがえってくださった救い主を、裁きの座から仰ぎ望むことになるのです。

 今裁き合っている者たちであっても、その時には共に主の前に膝をかがめ、その舌をもって神を誉め讃えることになるのです。パウロはイザヤ書を引用してこう言いました。「こう書いてあります。『主は言われる。「わたしは生きている。すべてのひざはわたしの前にかがみ、すべての舌が神をほめたたえる」と』」(11節)。

 そのように、やがては神の裁きの座の前に立つ私たちなのです。だからパウロは言うのです。「従って、もう互いに裁き合わないようにしよう」。

自由を部分的に放棄して
 しかし、パウロが言いたいのは、消極的な意味においてただ「裁き合わないように」ということだけではありません。やがては他の人のことではなく自分のことについて申し述べることになるのだから、自分のことだけを考えていればよい、と言っているのではありません。彼はこう続けます。「むしろ、つまずきとなるものや、妨げとなるものを、兄弟の前に置かないように決心しなさい」(13節)。

 「つまずきとなるもの」「妨げとなるもの」とは、信仰生活のつまずきとなるものや妨げとなるものです。それらを置かないようにということは、相手の信仰生活のことを考え、配慮しなさい、ということです。互いに裁き合うのではなく、むしろ相手の信仰生活のことについて配慮しなさい、と。考えてみると、裁き合っている時というのは、相手の信仰生活のことを思い遣って語っている時ではないでしょう。

 先ほども言いましたように、パウロ自身は何を食べようと自由だと考えていました。「それ自体で汚れたものは何もないと、わたしは主イエスによって知り、そして確信しています」と書いているとおりです。ですから、肉を食べる人たちの側に立って、肉を食べる自由を主張することもできたはずなのです。反対意見の人々に向かって語り、論駁することもできたのでしょう。


 しかし、パウロはここで、むしろ自分と同じように自由を主張する人たちに向けて語っているのです。相手の信仰生活のことを考えなさい、配慮しなさい、と。先ほど14節を引用しましたが、続いてパウロはこう言うのです。「あなたの食べ物について兄弟が心を痛めるならば、あなたはもはや愛に従って歩んでいません。食べ物のことで兄弟を滅ぼしてはなりません。キリストはその兄弟のために死んでくださったのです」(15節)。

 強い者の側の論理に立つならばこうはなりません。もしわたしが肉を食べることで誰かが心を痛めるとしても、それは心を痛める側の問題だと言うことができるからです。もしわたしが肉を食べるのを見てつまずいて、信仰を失うようなことが仮にあったとしても、それはその人の側の問題だと言えるのです。なぜなら、わたしは間違ったことをしているわけじゃないから。肉を食べるか食べないかは私の自由ですから。それでつまずいたとしたら、つまずく方が悪いのです。

 そうです、そう言ったとしても、確かに間違いではないかもしれません。しかし、パウロは言うのです。「あなたはもはや愛に従って歩んでいません」と。そして、続く言葉が刺さります。「キリストはその兄弟のために死んでくださったのです」。そうです、この言葉が刺さります。わたしの心にも刺さります。わたしにとって、とても痛い言葉です。

 わたし自身この言葉を読むと、いろいろなことを思い起こすのです。わたしはどちらかというと知らず知らずの内に強い者の側に立ってものを言ってしまう人間です。「こうすることの何がいけませんか。」「これは当然のことでしょう。わたしは間違ったことは言っていませんよね。」若い時から、そう言いながら、多くの人を傷つけて生きてきたのだと思います。キリスト者となってからも、牧師になってからも、これまで多くの人の道につまずきや妨げを置いてきてしまったのだと思います。「キリストはその兄弟のために死んでくださったのです」という言葉の前に、わたしは自分自身の罪と向き合わざるを得ません。仮に正しいことを言っていたとしても愛に従って歩いていないことがいくらでもありましたから。

 「キリストはその兄弟のために死んでくださったのです」。――それは、いわばイエス様から「わたしが命をもってあがなったその人を、あなたは愛してくれるか」と問われているということでもあります。だから、正しい主張であるか否かではなく、愛に従って歩んでいるかどうかという話になるのです。それゆえに、パウロは言っていたのです。「むしろ、つまずきとなるものや、妨げとなるものを、兄弟の前に置かないように決心しなさい」。

 これは「肉を食べることは自由だ」と考える人にとっては、あえて肉を食べないということを意味します。コリントの信徒への手紙においては、パウロ自身がこう言っています。「それだから、食物のことがわたしの兄弟をつまずかせるくらいなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは今後決して肉を口にしません」(1コリント8:13)。

 正しさだけを問題にする人にとっては、それは馬鹿げたことでしょう。しかし、パウロは愛に従って歩くために持っている自由を部分的に放棄するのです。そして、彼はそのことをローマの信徒たちにも求めているのです。自由を主張するならば、愛のゆえにその自由を部分的に放棄することができるほど自由であって欲しいということでもあるのでしょう。

 「従って、もう互いに裁き合わないようにしよう。むしろ、つまずきとなるものや、妨げとなるものを、兄弟の前に置かないように決心しなさい。」互いに裁き合うのではなく、裁き合ってきたお互いであるからこそ、裁き合う代わりに相手の信仰生活のことを考える。それぞれが自分の自由を部分的に放棄し、愛をもって配慮し合う。そのような交わりが形づくられるならば、それはまさに神の国を指し示すものとなるのです。

 今日の聖書箇所にもこのように書かれています。「神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです」(17節)。飲み食いの次元のことにこだわって、互いに裁き合って、本来与えられているはずの、「聖霊によって与えられる義と平和と喜び」を失ってはならないのです。その後で、パウロはさらにこう言っています。「食べ物のために神の働きを無にしてはなりません」(20節)。そのとおりだと思います。

以前の記事