2016年6月5日日曜日

「喜びに満ちた生活を妨げるもの」

2016年6月5日
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネによる福音書 3章22節~36節

競争相手か友だちか
 「だから、わたしは喜びで満たされている」(29節)。今日の福音書朗読にありました洗礼者ヨハネの言葉です。ここに喜びで満たされている人がいます。しかし、その周りには同じ立場にあり、同じものを見、同じことを聞いているのに、明らかに喜びで満たされてはいない人々もいます。ヨハネの弟子たちです。では彼らは何で満たされているのでしょう。それは「妬み」です。

 「喜びに満ちた生活を妨げるもの」という説教題をつけました。「喜びに満ちた生活を妨げるもの」、それは何かと問うならば、ありとあらゆる答えが返ってくることでしょう。しかし、今日考えたいのは人間の「妬み」についてです。喜びと妬みが同時に人を満たすことはあり得ません。妬みが満ちるなら喜びは出て行きます。

 妬みが生じるのは相手を競争相手と見なすときです。優劣を問題にするときです。大きいか小さいか、上か下か、先か後かを問題にするときです。ヨハネの弟子たちにとって、イエスとその弟子たちはまさにそのような存在だったようです。そのような存在となってしまった、と言ってよいかもしれません。

 その頃、洗礼者ヨハネはヨルダン川沿いのアイノンで洗礼を授けていました。まだヨハネが投獄される前のことでした。ちょうど同じ頃、イエス様は弟子たちとユダヤ地方に行き、そこに滞在して人々に洗礼を授けておられました。そんなある日、ヨハネの弟子たちとあるユダヤ人の間で、清めのことで論争が起こります。その後に書かれているヨハネの弟子たちの反応から察するに、それは洗礼についての論争だったと思われます。

 恐らくは、そのユダヤ人が「みんなあのイエスの方に行っているようだが、あのイエスの洗礼とヨハネの洗礼とどちらの方が人を清めることができるだろうか」とでも言ったのでしょう。ヨハネの弟子たちはすぐにヨハネのところに行ってこう訴えます。「ラビ、ヨルダン川の向こう側であなたと一緒にいた人、あなたが証しされたあの人が、洗礼を授けています。みんながあの人の方へ行ってしまいます」(26節)。

 イエスの一行と自分たちの比較。競争意識。それはそのユダヤ人との論争によって俄に生じたわけではないでしょう。それは初めからのことであったに違いないのです。

 この福音書の一章には、ヨハネの弟子であった二人がイエスの後についていったエピソードが記されています。一人はシモン・ペトロの兄弟アンデレです。もう一人は名前が書かれていません。いずれにせよ、そのようにヨハネの弟子からイエスの弟子になった者は彼らだけではなかったに違いありません。今日の箇所に出て来るヨハネの弟子たちの中核は、いわばヨハネのもとにあえて残った人々です。

 そのような人たちがこちらのラビと向こうのラビを比較し、弟子の群れとしての優劣を問題にしたことは自然な成り行きだったと思われます。そのような中で、「みんながあの人の方へ行ってしまいます」という事態が起こった。当然妬みが生じ、妬みが彼らを満たします。彼らの心情はよく分かります。

 しかし、イエスとその弟子たちは本当に争わなくてはならない相手なのでしょうか。本当に競争相手なのでしょうか。どちらが優れているか、どちらが上であるか、どちらが前であるかを問題にしなくてはならない相手なのでしょうか。これはヨハネとイエス、ヨハネの弟子たちとイエスの弟子たちの間の話ですが、本当に争わなくてはならない相手なのかという問いは、私たちにとってもしばしば大事な問いなのだと思います。本当にそうなのか。喜びを失ってでもその競争に留まる必要はあるのか。

 「そうじゃないだろう」とヨハネは言っているのです。それがここに書かれていることです。彼は答えて言うのです。「天から与えられなければ、人は何も受けることができない。わたしは、『自分はメシアではない』と言い、『自分はあの方の前に遣わされた者だ』と言ったが、そのことについては、あなたたち自身が証ししてくれる(27‐28節)。

 「天から与えられなければ、人は何も受けることはできない」とは言い換えるならば、「受けているものは天から与えられたのだ」ということです。そうです、確かに人には天から与えられているものと与えられていないものがある。ある人に与えられているものが、ある人には与えられていないのです。ですから神様のなさることは時としてはなはだ不公平に見えます。しかし、不公平に見えようがどう見えようが、大切なことは、与えられているものをしっかりと受け止めることなのでしょう。

 「天から与えられなければ、人は何も受けることはできない」。それは具体的にヨハネにとっては「自分はメシアではない」ということであり、「自分はあの方の前に遣わされた者だ」ということでした。ヨハネにとっては、それが天から与えられていないものであり、また与えられているものでした。

 ヨハネは「あの方の前に遣わされた者だ」という現実、キリストの先駆者とされているという現実を受けとめたのです。それが天から与えられたものだからです。先駆者はやがて必要なくなるのです。しかし、その現実を受けとめたのです。だからこそ百パーセント先駆者として生き得たのです。

 そのことをヨハネは花婿と介添え人を例として語ります。「花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている」(29節)。介添え人が花婿を競争相手と見なすなら、花嫁を迎えることができる花婿に対して妬みが生まれます。しかし、そんな馬鹿なことは普通起こりません。この「介添え人」と訳されている言葉は「友だち」という言葉なのです。彼は競争相手ではないのです。自分は彼の友なのです。友として自分の役割を果たすのです。そこにこそ真の喜びがあるのです。花婿が喜びの声を上げて花嫁を迎えるなら、友として務めを果たした自分もまた喜びに満たされる。ヨハネはその喜びに満たされているのです。

絶対的なことと相対的なこと
 そのように語るヨハネはいったい何を見ていたのでしょう。ヨハネはその大きな喜びをもって言います。「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」(30節)。「ねばならない」とは、神の御心によって定められているという意味です。神によってそうなることになっている。ヨハネは喜びに満たされてそう語ります。そして、31節から再びキリストについて語り始めるのです。ヨハネによる福音書においては、これを最後に表舞台から姿を消します。実際にはこの後に投獄され、首をはねられてその生涯を終えることになるのです。その意味でここに書かれているのはヨハネの最後のキリスト証言とも言えます。ヨハネが何を見、何を証言していたかに耳を傾けてみましょう。

 ヨハネはイエス様を「上から来られる方」、「天から来られる方」、「神がお遣わしになった方」として語り、「御父は御子を愛して、その手にすべてをゆだねられた」と語ります。あのイエスという方が単なるこの世の思想家のひとりであるならば、その人を信じようと信じまいと大したことはありません。どんなに偉大な教師であっても、ヨハネが言うように「地から出る者は地に属し、地に属する者として語る」に過ぎないのです。しかし、イエスはそのような存在ではないのだ、とヨハネは言っているのです。彼は天から来られた方であり、神から遣わされ、神を語り、神の言葉を語るのです。そのような方が来られた。そのようにヨハネが見ていたのは、およそこの世の比較や競争が入り込む余地のない出来事なのです。

 ですから、今日お読みした箇所の最後にもこのようなことが書かれていました。「御父は御子を愛して、その手にすべてをゆだねられた。御子を信じる人は永遠の命を得ているが、御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる」(35‐36節)。ここで全く対照的な二つの言葉がでてきます。「永遠の命を得る」という言葉と「神の怒りがとどまる」という言葉です。

 「永遠の命を得る」とは、「救いを得る」と言い換えてもよいですし、「永遠なる神との交わりを得る」と言い換えてもよいでしょう。要するに、そこに語られているのは神との関係の話です。神に背いて生きてきた人が、神によって赦していただいて、神との交わりに生きるようになるのか。それとも、神に背いて生きてきた人の上に、神の怒りが留まるのか。これは180度異なる神との関わりです。

 人間にとって決定的に重要なことは、神との関係がどうなっているのか、ということなのでしょう。私たちにイエス・キリストが伝えられているということは、この最大の問いの前に立たされているということでもあるのです。私たちと神との関係はどうなっているのか。神に背いてきた私たちは本当に赦されるのか。神に顔を上げて、平安の内に神との交わりの中に生きることができるのか。それとも神の怒りがとどまるのか。そして、その問いの前に立つ私たちに対して、「御子を信じる者は永遠の命を得ている」と語られているのです。

 御子を信じる者として私たちはここに集められ、御子を信じる教会として今私たちは礼拝を捧げているのです。罪を赦され、永遠の命を与えられ、永遠なる御方をほめたたえ、永遠なる神との交わりの中に生かされているのです。

 そのように既に決定的に重要なことが起こっていることに目を向ける時、重要でないものが重要でないものとして認識されるようになるのです。比較や競争が問題になる相対的な事柄とそうでない絶対的な事柄がはっきりと分かれるのです。天との関わりにおいて決定的に重要なことが起こっていることを知っていたヨハネは、さらりと言ってのけているではありませんか。「天から与えられなければ、人は何も受けることができない」と。

 永遠の命を得ているとは、神との交わりが与えられているとは、いわば天そのものが与えられているということです。天そのものが与えられているならば、この地上において天から何かが与えられていないことは少なくとも最も重要なことではありません。与えられているものをしっかり受け止めて、与えられている役割を見出してしっかり果たしたらそれでよいのです。天から与えられたのが介添え人の役割なら、花婿と競うことも争うことも必要ありません。妬む必要もありません。妬みに喜びを締め出させてはなりません。「花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている」。

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