2016年6月26日日曜日

「安心して生きていくためには」

2016年6月26
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネによる福音書 4章43節~54節

 人生の土台が大きく揺さぶられる時があります。今日の聖書箇所にはそのように揺さぶられた一人の人が出てきます。彼は「王の役人」であったと書かれています(46節)。そこで用いられているのは宮廷の高官を意味する言葉です。領主ヘロデ・アンティパスに直接仕えていた有力な高官のようです。彼が裕福であったことは、後に「僕たち」が彼を迎えに来ることからも分かります。しかし、その「王の役人」の人生が根底から揺さぶられることになりました。

 それが彼にとってどれほど大きな危機であったかは、カファルナウムから直線距離で30キロは離れているカナまで自ら旅をし、ユダヤ人当局からは危険視され始めていたイエスのもとに来て、見得もプライドもかなぐり捨てて、すがりつくようにして助けを求めたことからわかります。彼をそこまで揺るがしたのは子供の病気というたった一つの出来事でした。その時、地位であれ財産であれ、彼の持っているおよそすべてのものは彼を支え得ませんでした。

 実際、「王の役人」に限らず、人間がその土台としているものは何ともろいものかと思います。たった一つの病、たった一つの失敗、たった一つの事件、いやそれどころか、誰かが偶然発したたった一言の言葉によってさえ、揺さぶられ、もろくも崩れていくことが起こります。

 しかし、人生の土台が大きく揺らいだ時に、彼は救い主のもとに赴き、神との出会いを経験することになりました。「人間のピンチは神のチャンスである」と言われます。揺らいだ時こそ、揺るぎない御方に出会うチャンスでもあるのです。

しるしを見て信じた人々
 この出会いが起こった背景をまず見ておきましょう。「二日後、イエスはそこを出発して、ガリラヤへ行かれた」(43節)と書かれていました。イエス様は故郷のガリラヤへと向かっていました。ユダヤを去ってガリラヤへと向かわれた理由については、この章の初めに次のように書かれていました。「さて、イエスがヨハネよりも多くの弟子をつくり、洗礼を授けておられるということが、ファリサイ派の人々の耳に入った。イエスはそれを知ると、…ユダヤを去り、再びガリラヤへ行かれた」(1、3節)。そのように、もともとガリラヤへと向かわれた一つの理由は、ファリサイ派の人々との不要な衝突を避けたかったことにありました。

 しかし、それだけではありません。イエス様が向かったガリラヤについて、先の言葉の続きはこうなっています。「イエスは自ら、『預言者は自分の故郷では敬われないものだ』とはっきり言われたことがある」(44節)。翻訳では分からないのですが、実は文頭に「なぜなら」という言葉があるのです。それが理由だというのです。つまりイエス様は御自分が敬われないであろうことを予期しながら、それだからこそあえて故郷に行かれたということなのです。

 それはなぜなのか。――イエス様が王の役人に語った言葉から見えてくることがあります。主は言われました。「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」(48節)。このようなことが語られるということは、もう一方において、《しるしや不思議な業を見たから》信じた人が少なからずいたということを意味します。

 実は既に2章にこう書かれているのです。「イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた」(2:23)。多くの人がイエス様を信じたのです。それは喜ばしいことではないでしょうか。しかし、聖書はこう続けるのです。「しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。それはすべての人のことを知っておられ、人間についてだれからも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである」(同24‐25節)。

 イエス様のなさるしるし、不思議な業、奇跡を見て信じた人たちがいた。具体的には病気の癒しなどでしょう。それが「しるし」と呼ばれているのは、それが指し示しているものがあるからです。神がイエス・キリストを遣わされたこと。神がイエス・キリストを通して語っておられること。神がイエス・キリストを通して御自分との交わりへと招いてくださっていること。イエス・キリストによって永遠の命を与えようとしておられること。それは神の救いを指し示す「しるし」でした。

 しかし、しるしを見て信じた人々の心の内に何があるかをイエス様はご存じだったというのです。「イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである」。すなわち、人々が求めているのは奇跡なのであって神ではないこと。奇跡を起こすイエス様の力を求めているのであって、イエス様を遣わされた父なる神ではないこと。救いをもたらす神の言葉ではないこと。

 ある人々は病気を癒すイエスの力を求めてきました。ある人々は彼らを政治的にローマの支配から解放してくれるイエスの力を求めてきました。後にイエスを王にしようとする人たちまで出てきます。だから彼らが求めているものが与えられなければ、期待どおりにならなければ、やがては「十字架につけよ」と叫び出すことにもなるのです。人間の心の内にあるものをイエス様はご存じでした。

 だからこそ、そのような人間的な歓迎と熱狂が拡大することを避けて、むしろ歓迎を期待できない故郷へと向かったのです。むしろ歓迎されないことの方がはるかに望ましかったということです。

 しかし、予想に反して、ガリラヤの人々はイエスを歓迎しました。なぜか。こう書かれています。「ガリラヤにお着きになると、ガリラヤの人たちはイエスを歓迎した。彼らも祭りに行ったので、そのときエルサレムでイエスがなさったことをすべて、見ていたからである」(45節)。

 残念ながら、ここにもしるしを見て信じた人々がたくさんいたのです。そして、イエス様のしるしと奇跡を期待して待っていたのです。これが本日の聖書箇所が記している場面であり、その背景です。そこにおいて、先ほど申し上げました宮廷の高官とイエス様との出会いが起こったのです。

御言葉を信じて帰って行った
 47節からお読みします。「この人は、イエスがユダヤからガリラヤに来られたと聞き、イエスのもとに行き、カファルナウムまで下って来て息子をいやしてくださるように頼んだ。息子が死にかかっていたからである。イエスは役人に、『あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない』と言われた」(47‐48節)。

 この人は必死でした。しかし、イエス様のもとに来たその心の内にあったものは、基本的にはユダヤにおいて「しるしを見て信じた」人々となんら変わるものではありませんでした。彼はイエス様が病気を癒してくださる方だということを聞いたのでしょう。だから、その癒しの力が必要だと思った。病気である彼の息子にその癒しの奇跡が必要だと思ったのです。

 確かに彼の息子には癒しが必要なのでしょう。しかし、彼は重大なことを見落としていました。それは、救いを必要としているのは自分自身なのだ、という事実です。人生が根底から揺さぶられているのは彼自身なのです。たった一つの出来事で容易に崩れてしまうような人生の土台しか持っていないことを突きつけられているのは彼自身なのです。死を越えた真の拠り所がないままに生きてきたのは彼自身なのです。本当に必要なのは、目の前の個々の問題の解決ではなくて、神御自身なのだということに彼は気づいていないのです。

 そう、この役人は気付いていません。だから、イエス様が「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」と問題を指摘しても、「主よ、子供が死なないうちに、おいでください」と願うのです。彼はなおもイエスの持っている癒しの力を息子のために求めます。そのような父親にイエス様はそのようなこう言われたのでした。

 「帰りなさい。あなたの息子は生きる」(50節)。イエス様はその父親に信じることを求めたのでした。イエス様の御言葉を信じることを求めたのです。御言葉を信じるということは、イエス様御自身を信じるということでもあります。それはイエス様を父なる神から遣わされた御方として信じることでもあります。それは遣わしてくださった父を信じることでもあります。そのように先の見えない現実について、神とキリストとその御言葉に全幅の信頼を置くことです。

 そして、イエス様は信じたように行動することを求めました。信じたのなら、そこから立ち上がって実際に一歩を踏み出さねばなりません。主は言われます。「帰りなさい」と。「あなたの息子は生きる」と言われる主を信じるなら、彼は立ち上がって、カファルナウムに向かって一歩を踏み出さなくてはならないのです。

 彼はそうしました。「その人は、イエスの言われた言葉を信じて帰って行った」(50節)とあります。そして、奇跡が起こりました。息子は癒されました。そうです、奇跡は起こります。しかしそれは、ただ奇跡を求め、癒しをもたらす力を求めてそれを得たからではありませんでした。信頼すべき御方とその御言葉に信頼して生きたときに、奇跡は賜物として与えられたのです。

 だから、奇跡が起こり、癒しが起こって、「ああ、よかった」で終わりませんでした。ただ次なる奇跡や癒しを求めるようになったのでもありませんでした。そうではなく、この出来事はまさに「しるし」となったのです。神がイエス・キリストを遣わされたこと。神がイエス・キリストを通して語っておられること。神がイエス・キリストを通して御自分との信頼に満ちた交わりへと招いてくださっていること。イエス・キリストによって永遠の命を与えようとしておられること。それは神の救いを指し示す「しるし」となりました。

 そして、「彼もその家族もこぞって信じた」と書かれています。イエス様は「あなたの息子は生きる」と言いましたが、今や、家族すべてが「生きる」ものとなりました。そう、本当の意味で生きたのは息子だけではありませんでした。なぜなら、後に主がこう言っておられるからです。「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」(17:3)。あの父親も家族も命にあずかることとなりました。

2016年6月12日日曜日

「あなたの内から命の水が湧き上がる」

2016年6月12日
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネによる福音書 4章5節~26節

生きた水
 イエス様がサマリアをお通りになられた時、旅に疲れて井戸のそばに座っておられました。するとそこに一人の女性が水を汲みに来ました。名前は書かれていません。「サマリアの女」とだけ書かれています。それは正午頃のことでした。通常、日中の暑い盛りに水を汲みに来る人はいません。明らかに人目を避けるためにその時間を選んで来た人でした。

 イエス様はその人に、「水を飲ませてください」と言われました。彼女は驚いて言いました。「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませて欲しいと頼むのですか」(9節)。彼女の驚きは無理もありません。ユダヤ人とサマリア人の間には長きにわたる確執があったからです。

 しかし、驚く彼女に対して、イエス様はたいへん不思議なことを語り始められます。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう」(10節)。

 「生きた水」という表現は私たちにあまり馴染みがありませんが、彼女にとっては日常の言葉でした。それは溜めてある水ではなくて、泉から湧き出て流れていくような新鮮な水を意味したのです。ですから、彼女は問い返すのです。「どこからその生きた水を手にお入れになるのですか」(11節)。それは当然の疑問でした。

 しかし、イエス様は流れる水の話をしているのではないのです。「もしあなたが、神の賜物を知っており」と言っていましたでしょう。神の賜物、神からの水の話をしているのです。かつて預言者エレミヤは言いました。「まことに、わが民は二つの悪を行った。生ける水の源であるわたしを捨てて、無用の水溜めを掘った。水をためることのできない、こわれた水溜めを」(エレミヤ2:13)。そのように「生きた水」の源は神御自身なのです。

 そして、この福音書を読み進んでいきますと、やがてイエス様が神殿において人々にこの「生きた水」について語っておられるのを見ることになります。主は祭りに集まった人々に大声で言われました。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」(7:37‐38)。そして、このように説明が加えられているのです。「イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである」。イエス様が言っておられる「生きた水」とは神の霊、聖霊を指しているのです。

 「『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば」と主は言われました。そう、知っていたならば、あなたの方からその人に頼むだろう、「水をください」と。その方は、「生きた水」を与えてくださる御方だから。聖霊を与えてくださる御方だから。

 だから主はその女の人に言われたのです。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」(13‐14節)。神の賜物、神から来る「生きた水」、神の霊、聖霊こそが人間の根源的な渇きを癒します。それは一杯の水のようなものではありません。巨大な水源につなげられることを意味します。聖霊が与えられ、神との交わりに生きるとはそういうことです。水源につながるから泉となるのです。人は自分の中に泉を持つことができるのです。そこから永遠の命に至る水がわき出るのです。

その水をください
 この言葉を聞いてその女の人は言いました。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください」(15節)。この人が考えているのは、まだこの世の水のことです。しかし、「その水をください」と言ったこと自体は間違いではありません。神の賜物なのですから、ただ願い求めるところからしか始まりません。イエス様は「その水をください」と言う彼女に「生きた水」を与えようしておられるのです。

 そこで主は言われました。「行って、あなたの夫をここに呼んできなさい」(16節)。彼女は答えました。「わたしには夫はいません。」その話は避けたかったに違いない。だからそう言って話を終えようとしたのでしょう。その背後には、彼女が人目を避けて暑い盛りに水を汲みにこなくてはならないような事情があるのです。そこには入り込んで欲しくない。しかし、イエス様は続けるのです。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ」(18節)。

 繰り返しますが、イエス様は「その水をください」と言う彼女に、「生きた水」を与えようとしておられるのです。「生きた水」を与えてくださる方が、「あなたの夫を呼んできなさい」と言うのです。そこには光を当てて欲しくない人生の暗闇があるのでしょう。誰の前にも出すことのできない罪に満ちた過去があるのでしょう。「あなたの夫」という言葉に全ては集約されているのでしょう。

 その「あなたの夫」を呼んで来るように主は言われるのです。イエス様の眼差しの前に全て持って来るように言われるのです。いや連れて来るまでもなく、既に明らかなのです。そのことを彼女は悟らされることになったのです。もはやこの人は水を汲むものと携えた人、旅人に水を飲ませてあげる側の人としてイエス様の前に立つことはできなくなりました。これまでの人生を背負ったひとりの罪人としてイエス様の前に立たざるを得なくなりました。

 だからこそ、彼女にとってイエス様こそが唯一「生きた水」を与えてくださる御方となるのです。過去に光が当てられたひとりの罪人が、それでもなお罪を赦されて、「生きた水」を与えられるとするならば、聖霊を与えられて神との交わりに生きられるとするならば、それはイエス様によるしかないのです。イエス様に「その水をください」と言って、与えていただくしかないのです。

 私たちはやがてこの福音書だけが伝えているイエス様の最後の姿に行き着くことになります。そこにはこう記されています。「イエスのところに来てみると、既に死んでおられたので、その足は折らなかった。しかし、兵士の一人が槍でイエスのわき腹を刺した。すると、すぐ血と水とが流れ出た」(19:33‐34)。そして、この福音書は「血と水とが流れ出た」ということに非常にこだわっているのです。先の言葉はこのように続きます。「それを目撃した者が証ししており、その証しは真実である。その者は、あなたがたにも信じさせるために、自分が真実を語っていることを知っている」(同35節)。

 水は血と共に流れ出たのです。水だけではないのです。血と共にです。血がなければ水はないのです。血はなんでしょうか。血はキリストによる罪の贖いです。罪の贖いなくして聖霊の注ぎはありません。罪が赦されることなくして「生きた水」が与えられることはありません。水は血と共に来るのです。血を受ける者は水をも受けるのです。

霊と真理による礼拝
 そして、この二人の対話は核心へと向かいます。霊と真理によって捧げる礼拝です。

 彼女は言いました。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています」(19‐20節)。

 もともと同じルーツを持つユダヤ人とサマリア人が宗教的に完全に分立したのは紀元前五世紀のことでした。捕囚から帰還したユダヤ人が再建したエルサレムの神殿に対抗して、サマリア人はゲリジム山に神殿を築いたのです。そして、ゲリジム山こそ神の選ばれた聖所であると主張したのです。サマリアの女が「この山」と呼んでいるのは、このゲリジム山のことです。エルサレムとゲリジム山、どちらが神に選ばれた場所か。これは私たちにはつまらない問いに思えるかも知れませんが、彼らにとっては何百年に渡る宗教的な論争の中心でした。彼女はこの問題を持ち出してきたのです。

 もしかしたら自分自身に直接関わる話題を避けて、一般的な宗教論争の話題に移行したかっただけかもしれません。しかし、イエス様はそのような彼女の問いかけを足がかりに、まことの礼拝について語り始めます。主は言われるのです。「あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る」(21節)。そして、その礼拝についてこう言われたのです。「まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」(23‐24節)。

 もはやゲリジム山かエルサレムかという話ではありません。世界中至るところで、ということです。ユダヤ人かサマリア人かという枠の中の話ではありません。いかなる民族であろうが「まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る」と主は言われたのです。そのように、この世界が父なる神を霊と真理をもって礼拝するようになるために、イエス・キリストは、父によって遣わされ、この世界に来られたのです。なぜか。父がそのように礼拝する者を求めておられるからだと主は言われるのです。

 「霊と真理をもって父を礼拝する時が来る」。イエス様こそ、人をまことの礼拝者とする真理です。主は言われました。「わたしは道であり真理であり命である」(14:6)。イエスは私たちに父を啓示してくださいました。私たちはもはや漠然と神を礼拝するのではありません。私たちを愛して、私たちの罪を赦すため、御子をさえ惜しまず与えてくださった、父なる神を礼拝するのです。キリストは、父なる神を私たちに示してくださった真理そのものです。

 その御方が私たちに「生きた水」である聖霊を与えてくださいます。私たちは罪を赦され、聖霊を与えられ、その霊をもって父を礼拝するのです。主が与えてくださる「生きた水」は、人をまことの礼拝者とする霊なのです。私たちはただ自分の渇きの癒しを求めて「その水をください」と言うのではありません。まことの礼拝者となるために「その水をください」と真理である御方に願うのです。なぜなら父がそのような礼拝者を求めておられるからです。

2016年6月5日日曜日

「喜びに満ちた生活を妨げるもの」

2016年6月5日
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネによる福音書 3章22節~36節

競争相手か友だちか
 「だから、わたしは喜びで満たされている」(29節)。今日の福音書朗読にありました洗礼者ヨハネの言葉です。ここに喜びで満たされている人がいます。しかし、その周りには同じ立場にあり、同じものを見、同じことを聞いているのに、明らかに喜びで満たされてはいない人々もいます。ヨハネの弟子たちです。では彼らは何で満たされているのでしょう。それは「妬み」です。

 「喜びに満ちた生活を妨げるもの」という説教題をつけました。「喜びに満ちた生活を妨げるもの」、それは何かと問うならば、ありとあらゆる答えが返ってくることでしょう。しかし、今日考えたいのは人間の「妬み」についてです。喜びと妬みが同時に人を満たすことはあり得ません。妬みが満ちるなら喜びは出て行きます。

 妬みが生じるのは相手を競争相手と見なすときです。優劣を問題にするときです。大きいか小さいか、上か下か、先か後かを問題にするときです。ヨハネの弟子たちにとって、イエスとその弟子たちはまさにそのような存在だったようです。そのような存在となってしまった、と言ってよいかもしれません。

 その頃、洗礼者ヨハネはヨルダン川沿いのアイノンで洗礼を授けていました。まだヨハネが投獄される前のことでした。ちょうど同じ頃、イエス様は弟子たちとユダヤ地方に行き、そこに滞在して人々に洗礼を授けておられました。そんなある日、ヨハネの弟子たちとあるユダヤ人の間で、清めのことで論争が起こります。その後に書かれているヨハネの弟子たちの反応から察するに、それは洗礼についての論争だったと思われます。

 恐らくは、そのユダヤ人が「みんなあのイエスの方に行っているようだが、あのイエスの洗礼とヨハネの洗礼とどちらの方が人を清めることができるだろうか」とでも言ったのでしょう。ヨハネの弟子たちはすぐにヨハネのところに行ってこう訴えます。「ラビ、ヨルダン川の向こう側であなたと一緒にいた人、あなたが証しされたあの人が、洗礼を授けています。みんながあの人の方へ行ってしまいます」(26節)。

 イエスの一行と自分たちの比較。競争意識。それはそのユダヤ人との論争によって俄に生じたわけではないでしょう。それは初めからのことであったに違いないのです。

 この福音書の一章には、ヨハネの弟子であった二人がイエスの後についていったエピソードが記されています。一人はシモン・ペトロの兄弟アンデレです。もう一人は名前が書かれていません。いずれにせよ、そのようにヨハネの弟子からイエスの弟子になった者は彼らだけではなかったに違いありません。今日の箇所に出て来るヨハネの弟子たちの中核は、いわばヨハネのもとにあえて残った人々です。

 そのような人たちがこちらのラビと向こうのラビを比較し、弟子の群れとしての優劣を問題にしたことは自然な成り行きだったと思われます。そのような中で、「みんながあの人の方へ行ってしまいます」という事態が起こった。当然妬みが生じ、妬みが彼らを満たします。彼らの心情はよく分かります。

 しかし、イエスとその弟子たちは本当に争わなくてはならない相手なのでしょうか。本当に競争相手なのでしょうか。どちらが優れているか、どちらが上であるか、どちらが前であるかを問題にしなくてはならない相手なのでしょうか。これはヨハネとイエス、ヨハネの弟子たちとイエスの弟子たちの間の話ですが、本当に争わなくてはならない相手なのかという問いは、私たちにとってもしばしば大事な問いなのだと思います。本当にそうなのか。喜びを失ってでもその競争に留まる必要はあるのか。

 「そうじゃないだろう」とヨハネは言っているのです。それがここに書かれていることです。彼は答えて言うのです。「天から与えられなければ、人は何も受けることができない。わたしは、『自分はメシアではない』と言い、『自分はあの方の前に遣わされた者だ』と言ったが、そのことについては、あなたたち自身が証ししてくれる(27‐28節)。

 「天から与えられなければ、人は何も受けることはできない」とは言い換えるならば、「受けているものは天から与えられたのだ」ということです。そうです、確かに人には天から与えられているものと与えられていないものがある。ある人に与えられているものが、ある人には与えられていないのです。ですから神様のなさることは時としてはなはだ不公平に見えます。しかし、不公平に見えようがどう見えようが、大切なことは、与えられているものをしっかりと受け止めることなのでしょう。

 「天から与えられなければ、人は何も受けることはできない」。それは具体的にヨハネにとっては「自分はメシアではない」ということであり、「自分はあの方の前に遣わされた者だ」ということでした。ヨハネにとっては、それが天から与えられていないものであり、また与えられているものでした。

 ヨハネは「あの方の前に遣わされた者だ」という現実、キリストの先駆者とされているという現実を受けとめたのです。それが天から与えられたものだからです。先駆者はやがて必要なくなるのです。しかし、その現実を受けとめたのです。だからこそ百パーセント先駆者として生き得たのです。

 そのことをヨハネは花婿と介添え人を例として語ります。「花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている」(29節)。介添え人が花婿を競争相手と見なすなら、花嫁を迎えることができる花婿に対して妬みが生まれます。しかし、そんな馬鹿なことは普通起こりません。この「介添え人」と訳されている言葉は「友だち」という言葉なのです。彼は競争相手ではないのです。自分は彼の友なのです。友として自分の役割を果たすのです。そこにこそ真の喜びがあるのです。花婿が喜びの声を上げて花嫁を迎えるなら、友として務めを果たした自分もまた喜びに満たされる。ヨハネはその喜びに満たされているのです。

絶対的なことと相対的なこと
 そのように語るヨハネはいったい何を見ていたのでしょう。ヨハネはその大きな喜びをもって言います。「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」(30節)。「ねばならない」とは、神の御心によって定められているという意味です。神によってそうなることになっている。ヨハネは喜びに満たされてそう語ります。そして、31節から再びキリストについて語り始めるのです。ヨハネによる福音書においては、これを最後に表舞台から姿を消します。実際にはこの後に投獄され、首をはねられてその生涯を終えることになるのです。その意味でここに書かれているのはヨハネの最後のキリスト証言とも言えます。ヨハネが何を見、何を証言していたかに耳を傾けてみましょう。

 ヨハネはイエス様を「上から来られる方」、「天から来られる方」、「神がお遣わしになった方」として語り、「御父は御子を愛して、その手にすべてをゆだねられた」と語ります。あのイエスという方が単なるこの世の思想家のひとりであるならば、その人を信じようと信じまいと大したことはありません。どんなに偉大な教師であっても、ヨハネが言うように「地から出る者は地に属し、地に属する者として語る」に過ぎないのです。しかし、イエスはそのような存在ではないのだ、とヨハネは言っているのです。彼は天から来られた方であり、神から遣わされ、神を語り、神の言葉を語るのです。そのような方が来られた。そのようにヨハネが見ていたのは、およそこの世の比較や競争が入り込む余地のない出来事なのです。

 ですから、今日お読みした箇所の最後にもこのようなことが書かれていました。「御父は御子を愛して、その手にすべてをゆだねられた。御子を信じる人は永遠の命を得ているが、御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる」(35‐36節)。ここで全く対照的な二つの言葉がでてきます。「永遠の命を得る」という言葉と「神の怒りがとどまる」という言葉です。

 「永遠の命を得る」とは、「救いを得る」と言い換えてもよいですし、「永遠なる神との交わりを得る」と言い換えてもよいでしょう。要するに、そこに語られているのは神との関係の話です。神に背いて生きてきた人が、神によって赦していただいて、神との交わりに生きるようになるのか。それとも、神に背いて生きてきた人の上に、神の怒りが留まるのか。これは180度異なる神との関わりです。

 人間にとって決定的に重要なことは、神との関係がどうなっているのか、ということなのでしょう。私たちにイエス・キリストが伝えられているということは、この最大の問いの前に立たされているということでもあるのです。私たちと神との関係はどうなっているのか。神に背いてきた私たちは本当に赦されるのか。神に顔を上げて、平安の内に神との交わりの中に生きることができるのか。それとも神の怒りがとどまるのか。そして、その問いの前に立つ私たちに対して、「御子を信じる者は永遠の命を得ている」と語られているのです。

 御子を信じる者として私たちはここに集められ、御子を信じる教会として今私たちは礼拝を捧げているのです。罪を赦され、永遠の命を与えられ、永遠なる御方をほめたたえ、永遠なる神との交わりの中に生かされているのです。

 そのように既に決定的に重要なことが起こっていることに目を向ける時、重要でないものが重要でないものとして認識されるようになるのです。比較や競争が問題になる相対的な事柄とそうでない絶対的な事柄がはっきりと分かれるのです。天との関わりにおいて決定的に重要なことが起こっていることを知っていたヨハネは、さらりと言ってのけているではありませんか。「天から与えられなければ、人は何も受けることができない」と。

 永遠の命を得ているとは、神との交わりが与えられているとは、いわば天そのものが与えられているということです。天そのものが与えられているならば、この地上において天から何かが与えられていないことは少なくとも最も重要なことではありません。与えられているものをしっかり受け止めて、与えられている役割を見出してしっかり果たしたらそれでよいのです。天から与えられたのが介添え人の役割なら、花婿と競うことも争うことも必要ありません。妬む必要もありません。妬みに喜びを締め出させてはなりません。「花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている」。

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